奄美の旅ファイナル

 @加計呂麻人情バスに乗る
「瀬相7km」――目の前に入った青い看板にはこう書かれていた。やれやれ,あわよくば瀬相まで歩こうかと思ったが,地図を見れば呑の浦はその中間辺り。ということは……こりゃ呑の浦までだってシャレにならないのか。とはいえ,このまま(失礼ながら)見所があるかないか分からない押角で1時間ボーッとするよりは,少しでも先に行ったほうがよさげである。バスの中では“雰囲気”を楽しもうと思ってウォークマンを聴かなかったが,ここは確実に聴きながら行ったほうがよさそうだ。
そして,押角のバス停のそばにある自販機で,500ml入りの飲み物を買ったのだが,少し肩に重みがかかる。実は生間でノドを潤すために飲み物を買ったのだが,ホントは先に歩くことを考えてペットボトルを買い,バスの中と歩きながらとで,少しずつ飲んでいきたかったのだ。そうすりゃ少しずつ軽くなっていくだろうし,金もかからないし,ちょぃとした拍子にバッグに入れられるし,押角に自販機がある保証も持てなかったからだ。
ところが,ちと早合点して190ml入りの缶コーヒーなんかを買ってしまった。この先を考えると,バスの中ではまず飲めないと思ったが,この後も歩きながら何やかやで汗をかくし,水分大好きな私ゆえにあっという間に飲み干してしまいそう……となれば,呑の浦でノドがカラカラになるかもしれない。しかし,押角で自販機があった。ここで缶の飲み物をまた買えば,一度栓を開けるとバッグには入れられない。かといって持って歩くのもどこか鬱陶しい。しょーもないところで長くなってしまったが,私みたいないい加減なヤツは,こういう“作戦失敗”が後々響いたりするから怖くてしょうがないのだ。
ま,とにかく坂を登っていくことにする。下に押角の集落を見ながら,道は森の中に入っていく。途中で巨大なバッタとすれ違い,ややビビる。10cmほどはあろうか。南の島の昆虫は,温暖な気候ゆえにやたらとデカく育つと聞くが,早速それの洗礼だ。前にも書いたが,私は昆虫がつくづく苦手だ。昆虫を見ないで一生過ごせるものならば,そうしたいとマジで思っているくらいだ(「サニーサイド・ダークサイドU」第1回参照)。
やがて,坂のてっぺんに来ると,周りは崖と緑のみ。少し崩れ加減に見えるのは錯覚だろうか。そんな中,道端に小さな石柱を見つける。ホントに数十cmというくらいの小さなものだが,月桃の葉が生けられている。誰かの名前が彫られていたようだが,苗字の辺りがなぜか削られている。はっきり見えるのは「殉」の文字だけ。誰かがここで亡くなったのだろうか。一応,生けられたものがあるということは,奉るもしくは弔うべきものとして成立しているのだろうが,こんなところに建てるとは謎である。そして,車だったら99%見逃していたかもしれない。こういうささやかながら不思議な発見ができるのが,徒歩の醍醐味であるとつくづく思う。
そして,左下に大きな白地の看板。見れば,入江になった海岸も見える。ひょっとして……そう思えば足取りは軽くなる。クネクネした道を数分かけて下り,看板が目の前に来ると,そこには「→島尾敏雄文学碑」「→震洋艇格納壕」の看板が二つ。私が見たかったのはこれである。思ったほど歩いた距離はなかったと思う。よっしゃ,やっぱり歩いたのは正しかった。時間は16時半。ここをできるだけ見て,後は時間がなくてバス停に辿りつけなければ,“フリー乗降”を利用して拾ってもらえばいい。

坂を下って駐車場を越えると,入江が見えてきた。こちらもジャリ浜である。その端っこの遊歩道を進むと,史跡群がある。人気はまったくなく,波の音すらない…と言いたいところだが,上からはセミの大合唱。何のセミかは知りたいとも思わないが,この時期にセミの鳴き声というのは,それだけ南国に来ているということだろう。東京じゃ台風に紛れて,いつのまにか夏はどこかに消えてしまったというのに,こちらではいつまでも夏を惜しんでいられるのだ。
間もなく右側奥に,四角に真ん中に空洞の石碑。周囲は草が生い茂って,碑への小道はそれに少し紛れている。近づいてみると,直径5mほどの円形スペースに,高さと幅が2mほどで,真ん中は直径1mほどの丸い空洞がある石碑。奥行きは数十cmほどで,さながらフロッピーディスクの“イラスト”みたいな形。これが島尾敏雄氏(1917-86)の文学碑だ。円に沿うように,いろいろな氏の著作の一部が刻まれたレリーフがある。草地の中には記念植樹がいくつかあり,福島県小高町の議会研修植樹なんてのもある。小高町には島尾氏が眠っている墓がある。
再び小道に戻る。陸の方を見上げると,山の稜線にはオレンジと少しの紫が混ざった夕暮れ空がかかる。電灯なんてのはこの辺りはまったくない。なので時間が17時ちょい前となれば,自然にほの暗い。そこにこれでもかというくらいに穏やかで静かな海。青空はやや雲に隠れてしまい,陽が当たっていればクリームソーダ色であろう遠浅な海岸は,どうやら色でいうと“アクアマリン”という色らしい。上手いことが言えないが,これらがすべて溶けこんで独特の趣があっていい。清少納言『枕草子』の「秋は夕暮れ」とは,あるいはこのような景色を言うのではなかろうか。
さらに進む。陸の突端まではかなり距離がありそうだ。崖に沿うように道はつけられているが,これがまたクネクネとして,いつまで経っても終端には行けそうにない。それだけリアス式で複雑に入り組んでいるということだろう。そして,遊歩道といっても,舗装はされているが落ち葉や砂がかなりある。誰か定期的に訪れたりしないのだろうか。上ではあいかわらずセミの大合唱,そしてふと足元には茶色い数cmの物体がマイペースで幅1mほどの道を横断する。何かと思ったら,カニであった。虫もそうだが,動物にもあまり興味がないゆえ,種類なんざ分からないが,バカじゃないので形だけは明らかに分かる。成長したらデカくなるようなヤツなのか。
間もなく右に小さいトンネル。沖縄のガマとは違って,漆喰かコンクリートかできっちりと整えられている。幅と高さは2mほどか。奥行きは真っ暗で分からない。というのも,そこには緑地に底がオレンジのボートが置いてあるからである。これが震洋艇である。全長は5.1m,幅は1.7m,重量1.4tという小型ボート。近くにある案内板には銅製か木製とあるが,叩いてみると木の“ポクポク”という音がする。おそらくはベニヤ板ではなかろうか。もっとも,ホンモノではないのだろうが。
さらに先にも進んでみたが,下は次第に土の道になっていくし,途中で拉致があかないと思って引き返した。その道中にも似たような壕があった。こういった壕が全部でこの呑の浦には12もあるという。震洋艇が収められていたのは一つの壕だけであったが,地形的にも入り組んでいるし,大きさもコンパクトなので,船を隠したりするには格好のロケーションだったのだろう。
これが造られたのは1944年。すなわち第2次世界大戦時で,日本は戦争の真っ只中にいた。海軍の第一線にいる部隊からは「魚雷艇を1隻でも多く,1秒でも早く」という要望が軍に殺到していた。様々に小型軽量化された船が造られたが,性能が発揮できないまま消えてしまったものもあったとのこと。そんな中,モーターボートに爆薬を積んで敵に体当たりを敢行するという考えが現れてきた。
そこで登場するのが「震洋」である。その役割は“海上特攻艇”である。海軍部内では“C兵器”と呼ばれていた。乗員1人のと,乗員2人のと,2種類の型があった。船には250kgの爆弾を搭載。数を量産するために,エンジンは自動車エンジンだったという。極力軽量にして小回りを効かせるのもあろう。敵の上陸部隊が上陸点に進入する前後に,暗さに乗じて集団をもって奇襲,体当たり攻撃により船舶を撃沈する,というものである。名称は明治維新の軍艦の名から採用。また一説には「敵艦を撃沈して太平洋を震撼させる」という意味もあったとのことだ。
この呑の浦で海上特攻隊員184人の隊長に命ぜられたのが,島尾敏雄氏なのだ。「奄美の旅」第3回では,彼が1955年から20年間,奄美大島は名瀬市に住み,図書館勤務の傍らで執筆活動をし,1960年代前半に「ヤポネシア思想」という思想を打ち出したことを書いた。元々は横浜出身の島尾氏が名瀬市に移ったきっかけは,妻・島尾ミホ氏(1919‐)の病気療養がきっかけだったが,一番大元の奄美との出会いは,この特攻隊での呑の浦配置となる。
――1944年10月,いわゆる特攻隊長として任務を命ぜられた彼は,呑の浦で基地を設営して“来るべき時”に備えることになった。“その時”が来たときはどうなるか……島尾氏に限らず,また海上だけでなく飛行機による特攻にも言えるだろうが,隊員の精神は極限状態にあったと言えよう。ただでさえ,こんな場所に飲み屋も風俗もあるわけがない。今回訪れたときもそうだったが,壕の周囲はジャングルのような森。食べ物すらままならないだろうし,何しろ男ばかり184人という状況である。
そんな中,翌1945年2月,島尾氏はこの地である女性との運命的な出会いをする。名前は大平ミホ。私が先ほどバスを降りた押角集落の出身で,そこの国民学校の先生だったという。あるいは,さっき見た学校が彼女の職場だったのだろうか。そもそもは,特攻隊慰問のための大演芸会がその押角の集落で催され,そこで大平文一郎という男性と知りあったのがきっかけ。それから中国関係の書物を借りに大平氏を訪ねるようになったのだが,その娘がミホ氏だったのだ。当時2人とも20代半ばから後半。一番“お盛ん”な時期であろうし,恋に落ちたのは必然だったのかもしれない。
貧困,衛生的な問題,特攻隊長としての任務,いつやってくるか分からない“その時”に怯える毎日……そんなストレスフルな中でのつかの間のやすらぎも,わずか半年で終わることになる。1945年8月13日,いよいよ「特攻隊出撃用意」の命令が呑の浦の部隊にも下ったのだ。「どうせあなたが死ぬならば私も」――そう思ったのだろう。このとき,ミホ氏も自ら殉死すべく,基地近くの海岸に向かったという。後は発進の合図が出れば……しかし,その合図が出ることはなく,出撃待機のままで8月15日の終戦を迎える。助かったのだ。
ともに死を覚悟したそのときから7カ月後。1946年3月,2人ははれて神戸で結婚する。その神戸で,1948年には長男・伸三氏,1950年には長女・マヤ氏が誕生。その後,東京・小岩に居を移したが,家族はこのまま順調に……とはいかない。1954年の夏の終わりに妻・ミホ氏が精神に発病。千葉県佐倉市,同市川市,東京都豊島区と転々としたのち,1955年10月に名瀬市で居を構えることになるのだ。それでも2人が別れることがないのは,夫婦という“ユニット”の不思議というものか。
この発病からの1年近くの出来事が書かれたのが,島尾氏の長編小説『死の棘』とされている。女性の影がある主人公の男性を執拗に問い詰めていく妻の姿,それをただ眺めるだけの子ども――あるいはそれは私生活そのものだったのだろう。1960年から書き続けて,完結まで16年かかったという長編だ。1990年には,松坂慶子氏と岸部一徳氏を主演に映画化もされている(カンヌ映画祭・審査員特別グランプリを受賞)。また,当時小学校に入るか入らないかという年齢だった伸三氏も,今年3月に出版された著書『東京〜奄美 損なわれた時を求めて』で,この時期のころに触れている(ともに「参考文献一覧」参照)。ちなみに,母娘2人がその後も名瀬に住んでいたが,マヤ氏は2002年に亡くなり,ミホ氏1人が今も名瀬で暮らしているという。

さて,静かな入江を後にして,バス停を探すことにする。とりあえず再びクネクネ&勾配&カーブの道を行く。途中,またも茶色い物体。今度はキリギリスかと思ったら,またもカニの横断だ。都会じゃまず見ない光景だろう。そのまま進んでいくと,坂の下,巨大な岩の向こうに家が数軒ある集落っぽい姿が見える。近くはこれまた入江である。進行方向に「匚」の形の入江は,さらに奥にも続いているようで,かなり入り組んだ場所にあることがうかがえる。
集落が見えてから10分ほどで,下り坂は終わって標高数十cmほどの集落。ちょうど,上記「匚」の字でいくと,下の棒を右から左に進んできて,縦棒から上の横棒にさしかかる辺りに時刻が書かれた白い鉄板がある。おお,ここがバス停か。これで一安心。時間は17時5分。通過時刻は17時26分なので,あとは大人しく待つのみである。
上を見れば,バス停名が書かれていたと思われる円形の部分は,台風によるものなのか,豪快にもげてしまっている。そして近くを見れば,大きく「呑ノ浦」と筆文字で書かれた白く小さいプレートが掛けられ,手書きでバスの通過時刻が書かれていた。脇には2人座れる木のベンチ。でも,その上には思いっきり薪に使えそうな木が数本置かれている。いかにも地方のバス停である。そして「バス停には余裕をもってお越しください」とも書かれている。
前回も書いたが,人がいなければバンバン通過していく。あるいは,どこかのバス停で余計な時間がかかるとなれば,古仁屋からの船との接続もあるから,終点の港でバスが遅れることは都合がよくない。それがこの島のバスだ。1分早く来ても,それより先にバスに行かれてしまったら,それは「余裕を持たない客が悪い」――ま,それは言い過ぎだろうし,どこででもバスに乗れるから,そんなトラブルは皆無だろう。はたまたヒッチハイクしてもらったっていいし。
ちとヒマを持て余し,集落…というか入江に沿って建つ民家を見る。平屋の小さい建物で,玄関には……あった,あの筒が。水道管とかのパイプを適当な大きさにカットしたものだが,これはボストだという。これまた前回書いた「めざましテレビ」でやっていたが,バスは運搬役も兼ねており,その中には新聞も含まれる。その新聞を運ちゃんがバスに乗ったままで入れられるように,車高に合わせた高さに備えつけられているそうだ。ちなみに,朝というと瀬相から来るバスがここを通過するのが7時半過ぎだ。おそらくはこのバスか次の11時ちょい前に通過するバスが新聞を運んでくるのではないかと勝手に想像する。瀬相から来るバスのほうが,進行方向でパイプ…もといポストは右側。これならばバスから降りずに済むからである。
そして,敷地の脇には「急斜地崩壊危険箇所」と書かれた看板。すぐ裏には,これまた山が迫っている。格子状にコンクリートで保護はされているが,全体を見渡すと,なるほど看板の意味が理解できる。だいたいどこでも谷間に集落があるので,危険とは常に隣合わせだろう。前方からは波,後方からは土砂……もっとも,前方には諸鈍ではあった防波堤(前回参照)がない。ガードレールが海岸線に沿ってあるのみだ。まあ,これだけ入江で,かつ大きな島と島の間にあるのだから,想像するよりも波なんてないのかもしれないが……ちなみに,その看板の脇に畑があり,その隣に墓石。見れば,件の民家と苗字が一致する。本土みたいにどこかの寺の墓地に赴いて…なんてヤボったいことはしないのだろう。「自分の身内は死んでもそばにいる」――ある意味,当然なシステムである。
さあ,これでもまだバスの時刻まで10分ほどある。車がたまーに通過していくが,皆一様に私を見ていく。珍しいのだろうか……そんな中,ワゴンが1台通り過ぎたが,ドアがなぜか開け放たれていた。中にいるのは工事関係者っぽい格好の男性4人。こんなとこじゃ,さすがにケーサツも取り締まりなんかしないだろうから,それこそ自己責任で気をつければいいってことか。
それともう一つ,5人乗りの車が私の前でスピードを落として停まった。中には人が5人。運転するのは地元民にしか見えないオジイ。助手席にはその奥さんらしきオバア。そして,後ろには多分観光客と思われる若い女性が3人。手元を見れば,カラフルな表紙のハンディな本。もしかしてガイドブックだろうか。何事だろうと思っていると,オジイが「ゲンバはこっち?」と,海側を見て右の方向を指差す。「……現場?」と聞くと,「いけんま」と返してきた。「あー,はい,そうです。こっちです」。すると,そそくさと走り去っていった。地元民なのに分からないのか。はたまた,ヒマつぶしの相手だろうか……そうこうしているうちに,風が次第に強くなり少し寒くなってきた。バッグに入れていたセーターをここで着ることにする。あるいは,台風の影響だろうか。
しばらくすると,入江の向こうの岩のさらに向こうから,黄色と赤のマイクロバスがやってくる。あるときはその岩に隠れ,はたまたあるときはその姿が一瞬消える。これもまた,呑の浦が入江地形であることの証である。そして17時26分,バス到着。予定通りの到着である。
中に乗っているのは私1人だ。そして運ちゃんは生間から押角まで乗せてくれた細面の運ちゃん(前回参照)。「呑の浦まで歩いたんですかー?」と聞いてきたので,「そうです,見たいものがあったので」と答える。そして,NHK大阪だったラジオのチャンネルは,どこかのFM局にチューンされていた。Crystal Kay loves m-flo「I LIKE IT」なんかかかっていた。ホントは運ちゃん,こっちのいまどきのほうが聴きたかったのだろうか。

@加計呂麻人情バスに乗る
17時半過ぎ,瀬相バス停到着。船の姿はまだない。とりあえず待合室に入る。中の大きさは7〜8m×5mほどだろうか。一角にはきっぷ売場。そしてイスが20席ほどあり,端っこに上がりの畳敷きが2畳分ある。壁のラックには菓子類,飲み物,酒などそこそこの種類はある。地元の特産品もあり,冷凍のきびなご,黒糖焼酎,つぶウニ,きび酢,塩などが並べられている。中には誰もおらず,きっぷ売場のおばちゃんがイスのところまで出てきてテレビを観ている。
畳敷きの上がりには本棚が二つあり,雑誌・文庫・ハードカバーなどがかなりの冊数入っている。見れば「貸し出し文庫」と書かれていた。中身は『失楽園』『坂の上の雲』など,ビミョーに古い。その脇には『ホライズン』という雑誌が。“奄美の情熱情報誌”で1冊420円,年2回発行という。編集長の浜田太氏は,奄美の写真集を数多く出しているカメラマンだ。東京でも大きな書店に行けば,名前を見ることができるだろう。
時間がまだあるので,近くを散策することにする。外に出ると,まず目に入ったのが「加計呂麻に橋をかけよう」という看板。一番奄美大島と近いところでは,わずか1kmだという。それを考えれば橋を掛ければ,もっと多くの人にこの渋い島の魅力が伝わって,どれほどの経済効果やPR効果が期待できるか……もっとも,その橋によって少なからず“失うべきもの”があることも,これまた島民は承知しなくてはならない。そのバランスいかんで,架橋の有無も決まってくるだろう。
外では,軽トラックの拡声器から女性の声でアナウンスが聞こえる。「ただいまソテツの実がたくさんなっております……加計呂麻食産ではソテツの実を買い取っております。1kg90円です」。従業員と思われる男性はというと,観光客らしい若い女性とくっちゃべっていたが,こんな場所でアナウンスする意味は,そもそもあるのだろうか。人がいるにはいるが,いかんせん相手が違うというもの。後でパンフをもらったが,雌株の“モシャモシャ”の中を切り裂くと,赤い実がたくさん出てくる。これが売り物になるようだが,いかんせん90円というのはタダみたいなものだろう。食べ物に困った時代に食されたことで有名だが,今じゃ「珍しいから食べる」「面白そうだから食べてみる」という程度ではないのか。ちなみに,粟国島ではソテツ味噌があると聞くし,奄美では実を粥に入れて食べたりもするという。
近辺を散策する。斜向かいの売店らしき建物の裏では,10匹近い猫が飼われていて,少し気味が悪かったが,それはホントに“ウラ”を見てしまったのか……正面に行くと「美咲商店」と看板があり,きちんとしたコンビニであった。そのそばにはガソリンスタンド。きちんと営業していたが,小さい集落にはもう一つガソリンスタンドがあり,そちらも営業している。考えると二つもあるのはぜいたくだろう。周囲が暗くなっているせいか,2箇所の明かりがものすごく煌煌としていた。
その売店の向こうには,加計呂麻徳洲会病院の2階建ての大きな建物がある。1階にはテラスがある喫茶店があるが,これは一般客にも開放しているようだ。薄暗く明かりがついていて営業しているが,客はまったくいない。時間的にももうそろそろ店じまいだろう。病院自体は,受付に明かりがついている以外,ロビーは真っ暗である。ちなみに,前回港近くに3階建てのアパートっぽい建物があると書いたが,これはこの病院の職員寮のようだ。

その病院の建物の脇には胸像がある。田畑福栄氏(たばたふくえい,1919-2000)という男性のものである。そこに書かれていたものなどを読むと……この加計呂麻徳洲会病院の設置に島の代表として尽力したのが田畑氏ということだ。潮風に当たってしまうからか,建物がいささか古く見えたが,平成元年4月の開業と意外に新しい。
加計呂麻島は現在,瀬戸内町に属しているのだが,そもそもこの瀬戸内町は,大島側の古仁屋村と加計呂麻島側の村落とが合体して,1955年にできた町だ。にもかかわらず,重要な公共施設のほとんどは古仁屋に設置され,今でもそれは変わらない。対等合併というよりは,奄美大島側にある古仁屋村に吸収されたようなものかもしれない。だいたい,そういう公共施設を中心に街は形成されていくから,古仁屋の街の賑やかさは,他の集落の比にならないものとなる。
さて,そんな加計呂麻島には長い間病院がなく,何かあったときは船でまず対岸に渡ることを余儀なくされた。あるいは,その船で渡る前に“手遅れ”になる悲劇もあったそうだ。しかし,政府による無医地区緊急医療対策事業で,僻地診療所が造られる可能性が出てきた。これによって,加計呂麻島にも医療機関が来るかもしれないという希望が湧いた。1981年のことだ。当然ながら,島を挙げて診療所の招致をやったのだが,結論は「古仁屋に設置する」というものだった。
そこで,当時花富(前回参照)集落の区長であった田畑氏が会長となって,加計呂麻に診療所を設けるための住民集会が発足される。同年8月のことだ。ついで決起集会,署名運動など活発な活動を行い,当時の里肇(さと・はじめ)町長や瀬戸内町議会に陳情書を提出するまで至る。しかし,@議会で決まったことであること,A加計呂麻島に病院を置くと,周囲の離島からの船便がなく不便なこと,B大島側でも古仁屋から遠いところにある集落では不便が生じる,C要員確保・土地の確保が難しい,D採算が合わない……などから,あっさりと却下されてしまう。田畑氏らはこれに対し,南海日日新聞に声明文を出すことに打って出ることになった。
それから1年後,1人の人間が救いの手を差し伸べることになる。前町長の房弘久(ふさ・ひろひさ)氏の紹介で知り合った,特定医療法人徳洲会会長であり,現在は衆議院議員・自由連合代表を務める徳田虎雄氏(とくだとらお,1938-)である。徳田氏は徳之島の貧しい農家の出身で,離島での医療について“辛い経験”を持つ1人だった。小学校3年生のとき,島に病院がなかったために,急病になった弟を医者に診てもらえずに亡くしているのだ。
情報を新聞などから仕入れ,状況を理解していた徳田氏は,議会や町長の言い分をある程度認めながらも,上記の辛い体験などから「命は何よりも替えがたい」と,島に病院が必要であることを十分理解していると田畑氏らに伝える。このことが“一度消えかけた火”をまた明るくさせることになり,「加計呂麻島の医療を考える会」と名称を変更するとともに,行政ではなく徳洲会に僻地診療所を造ってもらうよう陳情する方向に,加計呂麻住民の意見集約をシフトさせていくことにした。
しかし,すぐにというわけにはいかなかった。徳田氏が衆議院議員選挙に立候補することになり,陳情のタイミングが合わなかったのだ。政治というと,過去に加計呂麻島はまさしく“苦い経験”をしているし,診療所が建ったら建ったらで,「政治を利用した」とばかりに叩かれるに違いない……田畑氏らは複雑な気持ちを持ちながらも,徳田氏の理念を信じて選挙運動に協力することにしたようだ。結果は無念の落選だったが,これにめげることなく,1985年7月にはれて陳情書を徳田氏に提出。その半年後に徳田氏から返ってきた返事は,「小さい診療所ではなく総合病院を造るから,そう慌てずに待っていなさい」というものだった。「信じる者は救われる」のである。
それからは,本格的に病院の設置に向けての活動が始まる。まずは土地の確保。当時,田畑氏は町の農業委員を務めていたこともあって,その土地の地主9人にかけあって交渉。快諾を受けて決まった場所こそが,現在建っている場所だ。ここはまた決起集会を行った場所でもあったという。田畑氏はそこに「病院建設予定地」の立て札を立てたのだが,一方ではそれがまた,1986年の徳田氏2度目の選挙活動で格好のネタにされることもあったという。対抗議員を応援する町議会の議員が「あの看板は選挙を有利にするための選挙用の看板である。加計呂麻島に診療所をつくるはずがない。ウソのことだ」と演説・絶叫・宣伝をし,皮肉にも徳田氏が2度目の落選をする結果になってしまうのだ。
それでも,1987年6月に地鎮祭,翌1988年6月に着工式,10月に落成式が開催される。設備も本格的なものがそろった総合病院の誕生だ。いずれの式にもかなりの町民が参集したそうだが,そこに里肇町長の姿はなかった。代わりに来たのは関係部署の課長ただ1人。一番喜ばなくてはいけない立場の町長からの祝辞は,その課長が代読する形になったそうだ。さらには,祝電や花輪が奄美の各市町村から続々と贈られてきたそうだが,肝心の瀬戸内町からはこれまたナシだった。田畑氏はそれに怒りを覚え,また同時に哀しみも覚えたというが,そんな田畑氏らをねぎらってか,参集者の中からは「僻地診療所が古仁屋に行ってよかった。そうでなかったら,加計呂麻にはこんな立派な病院ができなかった」という声が多かったそうだ。
さあ,これで後は開業を待つのみ。島出身者がこの病院のために帰島し,地元雇用も行った。設備も整って11月から悲願の開業……といかないのが,離島の哀しさというのか。いや,今度は完全に“役所体質の怠慢”というほうが正しいであろう。次に立ちはだかったのは「(当時)厚生省の定款変更がいつなされるか」という問題だった。またも,恒例とも言うべき“政治・行政の壁”である。
当然ながら,島の住民は請願書を出すことになるのだが,それには“しかるべきルート”を通さないとならない。となれば,瀬戸内町を経由して厚生省へ…となるわけだが,その肝心の町が厚生省に申請した内容はというと,@ベッドの数を一定数以下にする,A医療目的以外に使用させない,B僻地診療所の経営悪化につながらないように……そんな中,診療所がある瀬相集落で脳梗塞で倒れた人を担架に乗せ,落成している診療所を目前にしながらフェリー乗り場に運んできて,貸切船で古仁屋の僻地診療所へ,さらに車に乗せて名瀬市の病院まで運ぶという出来事もあったそうだ。
――こんな経緯を経て,1989年すなわち平成の元年の4月が,加計呂麻の病院の元年ともなったのだ。翌1990年には,徳田氏が3度目の正直で衆議院議員に当選する。さらに4年後には“診療所”から“病院”への格上げとなって,現在に至るのであるが,ちなみに“格上げ”の運動の開始は,病院が開業して早々とのこと。里町長いわく「まだ,開業したばかりだし,他の病院のこともあるので……最後までしつこく立ちはだかる政治・行政の壁。こんな散々な扱いを受けながらも,田畑氏の努力はきちっと実を結んだのである。詳細は病院のホームページを参照いただきたいが,何につけ“末端”という場所は,面白いくらいに“中央の虚構”が見えてくるものだとつくづく思わせる。

さて,時間を戻そう。18時5分前だ。そんな田畑氏の銅像を見ていると,にわかに港の辺りが騒がしくなる。そして,バスが1台港を後にしていった。ひょっとして……その通りだった。海上タクシーが到着して,すでに古仁屋行きの乗客を乗せ始めていたのだ。急いで駆け込み,船に無事乗船。ホントは18時5分発のはずだが,私が乗っていくらもしないうちに,接岸用のロープが外されて出発と相成る。5分早いぞ。行きに混雑した船内も,帰りはまばらであった。
帰りもやっぱり出たくなって,縁に出る。あいかわらずエンジンの音はやかましく,しぶきをボディブローのように地味ーに浴びる。それでも,気温はそこそこあって,風がやっぱり気持ちいい。島の森の稜線には,ほのかにオレンジの明かりが残っているが,さすがに陽は短くなっているようだ。しだいに瀬相の集落が遠ざかっていくのを眺めていると,白くはっきりとした灯りが二つ,いつまでも輝き続ける。いずれもガソリンスタンドの灯りだ。そして数分すると,左にはその数倍もある古仁屋の街のオレンジと白の灯り,右にはポツンと二つの瀬相の灯りが同時に見えた。そして海上にはいくつもの灯りが点在する。あるいは鹿児島あたりから来たフェリーだろうか。はたまた貨物船だろうか。何だか幻想的な光景にすら思えてくる。
やっぱり二つの島は近い場所にあるのだ。現在の日本の土木建築技術を駆使すれば,大島海峡に橋を掛けることなんざ楽勝なことかもしれない。でも,現実は多くの利用者があるこの船の存在が,二つの島……いや,同じ町の二つの“集落”に様々な差を作り出していると言えるだろう。橋を掛けることによって,“本土並み”とはいかなくてもせめて“古仁屋並み”にはなりたいというのが,加計呂麻島の願いということだろうか。たとえ,その古仁屋にある僻地診療所の,数倍も立派な設備であろうと思われる病院を持っているとしても。(第4回へつづく)

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