沖縄はじっこ旅V
@“ホテル”という名の民宿
国道331号線のバイパスに出る。先ほど,轟の壕(前回参照)を探していたときに,もう一つガマに関する看板を見つけていたのだ。時間もたっぷりあるし,そこへ寄ろうと思う。その看板とはたしか,「第24師団山第2野戦病院糸洲分院壕跡/積徳高等女学校看護隊終焉の地」だっただろうか。ちょっと細かい内容を忘れてしまったが,エッセンスはこういう感じで間違いない。ちなみに,2002年5月,この壕にいて助かった人たちが取り付けたものとのことだ。
こういう看板が,どうして轟の壕のそばになかったか。あえて失礼を承知で言えば,どっちのほうが有名なのか……ま,そんなくだらないことはヤメにしようか。こちらの壕は,場所が糸洲(いとす)集落にあるので「糸洲壕」と呼ばれている。おそらくはこれが正式…というかノーマルな(?)名称なのだろうが,出入口が2箇所あって,それぞれ“ウンジャーガマ”“ウッカー(大川?)ガマ”と呼ばれていたともいう。いま私が立っているのは後者の“ウッカーガマ”のほうだ。よって,以下では便宜上“ウッカーガマ”と呼ばせていただくことにしたい。
このウッカーガマは,国道331号線の入口から少し路地を入り,さらに周囲を畑地で囲まれたジャリ道をこれまた少し入った中にひっそりと佇んでいる。ふと,これを書いていて思ったのだが,さっきの轟の壕にしてもここにしても,正月2日に修学旅行で“ガマ訪問・戦争追体験”なんてのは,今の“ゆとり教育”の観点からしてまずあり得ない……ってのはちょっと論点がズレたが,要するに,正月2日からこういう“ガマ巡り”をするヤツなんざ,私しかいないってことなのだ。
入口には先の細い角すいの碑があり,ここで起こった経緯が書かれている。詳細は後述するとして,その碑が整備された敷地と,どこかの家の畑地との間に,幅50cmほどの細い道が設けられていて,奥に続いている。この幅が,どこか行政チックな気もするが……ま,いいや。それがウッカーガマの開口部へつながっているのだ。こちらもまた下っていく形のガマだ。付近は樹木に囲まれているがかなり広く,石の階段もついていて,轟の壕に比べれば楽に下へ降りることができる。
ウッカーガマの開口部は,高さ10m×幅5〜6mほどと,轟の壕に比べればコンパクトだ。下はジャリ状だが,ほぼ平坦。上部の岩からは常に水滴が落ち,奥のほうからはやはり川のせせらぎが聞こえてくる。脇にはブロック塀を積み上げて造ったような即席の碑があって,ここにも千羽鶴がかかっていた。無論,奥は真っ暗。懐中電灯なんてものは持っていないので,この場ですぐ引き返すことにする。かなり奥のほうまで続いていく壕のようで,奥に行くほど水が豊富になるそうだ。ただし,その付近は現在では相当な悪臭がたちこめている模様。
さて,この糸洲壕で起こった経緯であるが,まず1944年10月に起こった那覇での空襲後,糸洲住民の多くは,ウンジャーガマに避難した。やがて,翌1945年3月,米軍からの“上陸前艦砲射撃”が始まると,ウッカーガマにも避難するようになった。どうやら,ウッカーガマについては事前に地面に戸板を敷いて,避難のための準備がされていたようだ。そして,昼は壕内に隠れて,夕方から芋を掘って家で煮炊きをするという生活が2カ月続いた。しかし,同年5月下旬になると,双方のガマに避難していた住民はみな,日本軍が使用するという理由により,相次いで追い出されることになってしまった。
その“追い出した側”である日本軍が,壕の名前にもなった第24師団。師団については,通称“山(やま)部隊”と呼ばれ,1939年に結成。概略としては,旭川・山形・松山・熊本の各出身者で編成され,一部は中国大陸出身者や地元沖縄県民も入っていたとされる混成集団。当初は満州警護に当たっていたが,一部がサイパンへ,そして残りが沖縄へ配置換えをされる。前者はそのサイパンで玉砕,後者もこれまたこの付近で無念にも全滅したようである。
で,この第24師団に従軍看護婦として,1945年3月末に配属されたのが,当時那覇市松山にあった積徳(せきとく)高等女学校の生徒25人だったのだ(学徒名「積徳学徒」。全体では56人だったが,入隊直前に31人が除隊)。ちなみに“第2”であるからには,当然というか“第1”があるのだが,この“第1野戦病院”に配属されたのが,県立第2高等女学校の生徒たち,通称「白梅学徒」である。当初,東風平(こちんだ)町にあったのが,後に現在のウッカーガマの位置よりもう少し北の国吉(くによし)地区に移動している(「サニーサイド・ダークサイドU」第3回参照)。
話を戻して,その「第24師団山第2野戦病院」は当初豊見城にあった(いまの豊見城城址公園内)のだが,やはり戦況の悪化に伴って,このウッカーガマやウンジャーガマに元気な者が中心となって移動することになった。無論,繰り返すがすでにいた住民を追い出してのことである。そして,ウッカーガマの開口部付近は,野戦病院の炊事場になったようだ。
しかし,このガマも米軍の“馬乗り攻撃”にさらされることになった(前回参照)。開口部付近は,当然危険になるので,そこには衛生兵が配置された。さらに,中央部には隊長と軍医,そして最深部には積徳学徒という配置になった。奥は既述のように深くて豊かな川の流れがある。そこで自然にできた“土手”を利用したり,近くから戸板を持ってきたりして,自らの避難場所を造ったようだ。ただし,いいことばかりではない。日々の移動のために彼女たちの履いていた足袋は常に水浸しの状態。足が激しくふやけてしまい,歩くことが困難になるほどだったという。
そして,最終的には同年6月26日に病院の解散命令が出る。沖縄の軍隊が組織的戦闘を終了したとされる6月23日から3日後のことだった。「決して死んではいけない。必ず生きて家族の元に帰りなさい」――これが,隊長から積徳学徒に対する最後のメッセージとなった。やがて,隊長はガマの奥で1人自刃してしまう。
その一方,積徳学徒の死者は25人……ただし,この二つの壕での積徳学徒の死者はわずか3人だったという。これは解散日時がいわば“終戦後”だったことが大きいだろう。無論,3人でも死は死であるが,他の学徒に比べると少ないほうではある(詳しくは後述)。とはいえ,一応は隊長の遺言にほぼ近い形になったのかもしれない。
なお,残りの22人はすでに除隊になっていた女学生であったとされている。野戦病院で過酷な体験をしなかった代わりに,別のガマに避難していてそこで命を落としたのか。はたまた,どこかへ逃げる途中に砲撃にさらされたか。この数の違いを考えると,除隊になったことがよかったのかどうか……ちなみに,積徳学徒の慰霊碑は,学校の母体ともなった那覇市松山の大典寺(だいてんじ)という寺にある。今度2月に行ってみようか。

国道331号線を戻り,次に向かうのは,いまさらだが「ひめゆりの塔」である(以下「ひめゆり」とする)。沖縄によく来るようになってから,2度来て2度とも目の前を通り過ぎてきた場所だ(「沖縄・8の字旅行」後編「サニーサイド・ダークサイドU」第3回参照)。他の高等女学校生の慰霊碑とは明らかに別格とも言える扱い,周辺の大きな土産街と客引きの存在,典型的な観光スポット,そしてホントはキョーミなんてまるでないくせに,いつも立ち止まっていく…いや「実は観光コースに組み込まれているから,立ち止まらざるを得ない」大勢の観光客の波――天邪鬼ゆえに,そんな状況に私の車が立ち止まることがなかったのだが,今回は少し素直になって立ち止まることにした。
ただし…というか,あくまでメインは他の女学生慰霊碑である。それはこのひめゆりのそばにあるという「梯梧(でいご)の塔」だ。ついでにひめゆりは“見てやる”のである。あくまで,ひめゆりに来たのはそれだ――ちなみに,1994年3月の初沖縄旅行のときに一度訪問している。この時は大阪から36時間の船旅の後,10時過ぎに路線バスを乗り継いでやってきた。
そして,朝飯を食べていなかったので,見学の後でどっかのレストランに寄って,多分何かの定食を食べたと思う。その定食のメインが何だったか忘れたが,そのメインの量もさることながら,サイドメニューでついてきた刺身も,それだけで刺身定食として成立するくらいの量だったのだ。この時に,沖縄の食堂の量のすごさに目覚めたといっても……さすがにこれは“過言”すぎるかな。
とりあえず,土産物屋街の一番西端にある駐車場に停める。いまは空家となった売店跡の駐車場だった。当然というか,駐車場は無料である。もっとも,他の客引きをしている駐車場(兼土産屋)も無料なのだが,後で何かを買わされて,駐車料金以上の額を取られないとも限らない。だから,ひめゆりに隣接する売店の裏手にあったここに停めることにしたのだ。とはいえ,普通車が30台は停められる広さがある。よって土産物街トータルでは,100台レベルで停められる容量があると思われた。
外はすっかり暖かくなって,ジャンパーはいらなくなった。そしていよいよ,ひめゆりだ。入口には花が置かれた小屋がある。「皆さん,ここで慰霊碑に奉げる花を必ず買われてください」というオバちゃんの声が聞こえた。そばを通り過ぎたカップルをよそに,私はといえばその声に素直に乗って,素朴な花束を一つ購入してしまった。価格は1束200円で,いくつかの花が束ねられたものだった。私はこれが敷地内への入場料と思ってしまったのだ。
ん?……そう思ったときは既に遅し。そう,入場料なんて慰霊碑自体にはないのだ。これ,すなわち,オバちゃんの”手”だったのだ。完全にハメられてしまった。別に花を慰霊碑に手向けるかどうかは,個人の自由なのだ。うーん,「仕方なく」ひめゆりに来た人間には早速の“カウンターパンチ”である。もっとも,そのオバちゃんにハメられて花束を買っていく人間はかなり多いのだが,かといって彼女のやっていることは100%正当な商売。私のココロには,「ダマされるな,その手に!」と誰にも言う立場にないという“もどかしさ”だけが残ったのであった。
ま,このひめゆりも“別の見方”があるってものだ。それは「今上天皇が皇太子時代に沖縄初訪問をしたときに,火炎瓶を投げられたガマを見る」という視点である。うーん,何て天邪鬼なんだろうか。もっとも,そのガマこそ柵で囲われたエリア内にあって,巨大でピカピカでシンボリックな慰霊碑が建てられたその下に大きく開いている,誰もが必ず立ち止まって見るであろうガマなのだ。
そして,その前の拝所は,たくさんの花束がうず高く積まれている。そう,オバちゃんの手にひっかけられた観光客どもが,花束を置いて手を合わせるという「“定番のパフォーマンス”を強要させられる場所」でもあるのだ――今から30年前の1975年7月17日,その“定番のパフォーマンス”を今上天皇と皇后陛下がされたまさにその瞬間,記念碑周辺は過激派が放った火炎瓶の炎に包まれた。お2人はご無事だったが,あっという間に事態はパニックと陥ったのである。その時の映像は何度となくテレビで流されているから,ご存知の方も多いであろう。
県警側の初歩的な落ち度で起こったとされるこの事件。普通はこれですべての日程が中止になるところだったが,その後も日程はすべて滞りなく遂行されることになった。もっとも,私みたいなクズ野郎とは違って,お2人は“しかるべき覚悟”を持たれての参拝。事件自体はもちろん残念であったが,この事件以後の一連のお2人の行動によって,終戦から30年,少なからぬ“複雑な気持ち”を天皇家に持っていたに違いない沖縄県民のココロが,少しだけ氷解した……というのは,あまりに都合がよすぎる“本土側の解釈”だろうか。お下品な言い方にはなるが,私はそれを聞く限りでは「やるじゃん,天皇」という率直な感想を持ったものだ。さすが「開かれた天皇家」を標榜するだけはあるぞ,と。
いろいろと長くなってしまった。まさしくひめゆりの“すべて”を象徴するかのごとき,何人もの人名が刻まれた巨大な碑。だが,事前に知っていた(「サニーサイド・ダークサイドU」第3回参照)から,ちゃんと見逃さなかったぞ,ホントの“オリジナル碑”を――それは,巨大碑の右手前に,高さ1mくらいの石碑で,いかにもオリジナルって感じで「ひめゆりの塔」と書かれた実に素朴なものである。これが,ひめゆりを「ひねくれて嫌う」私の,唯一だろうと言える“救い”かもしれない。
私が見ていた限りでは,それに気づいている観光客はいなかったと思う。そして,私が離れた後にも続々と巨大碑の前で手を合わせる無数の観光客。私は“せめてもの天邪鬼の最後の抵抗”として,声を挙げて言いたくなる。「その巨大な碑はホントに手を合わせる碑ではありません。合わせるならばこっちの小さい石碑に身をかがめてご参拝ください」と。

デイゴ並木の中を通り抜けて,隣接する「ひめゆり平和祈念資料館」に入る。入場料300円。昨年4月に全面的な展示改装がされたということで,建物はかなりキレイである。多分,私は改装前の建物に一度入ったことがあると思う。歴史的経緯,犠牲になった女学生の写真,証言ビデオ……まあ,だいたいこういった感じの展示物である。
中でも印象に残ったものといえば,上述の,今上天皇を襲うために隠れていた…もといひめゆり学徒が隠れていたガマを再現したジオラマだろうか。その名前は「伊原(いはら)第3外科壕」と呼ばれている。なお「ひめゆり学徒」の構成・由来については,「サニーサイド・ダークサイドU」第3回に具体的に書いたので,それを参照いただきたいと思う。
――1945年3月23日,総勢222人のひめゆり学徒が配属されたのは,南風原(はえばる)にある陸軍病院であった。しかし,5月下旬に戦局の悪化に伴って南部のガマへ移動する。その一つが上述の「伊原第3外科壕」だったのである。ちなみに,「第1」はひめゆりの塔から南西に少し奥まったところにあり,「第2」そして「本部壕」というのもそれぞれ近くにあるとされている。しかし,「第3」だけこうして圧倒的に賑やかなのは,たまたま幹線道路沿いであるからに間違いない。
いかん,話を戻す。その避難から半月後の6月18日,病院に解散命令が出た。6月18日といえば,米軍の“馬乗り作戦”が開始になった日だ。解散すなわち事実上の「出て行け」である。たとえ,過酷な病院業務から解放されたとしても,ガマの外は砲弾の嵐である……そして,6月23日終戦までの5日間に,222人のうち123名が犠牲になった。規模・死亡率(?)とも他と比べれば最大である。ちなみに「伊原第3外科壕」は,馬乗り攻撃での犠牲者が多数いたという。
資料館を出て,そのままひめゆりを後にする。たしか,すぐそばに「梯梧の塔」があるはずだ。とりあえず,周囲を見渡すと東隣の土産屋が「レストランでいご」という名前。もしや……客引きをしているおっちゃんに聞いたら,この土産屋の奥にあるようだ。やっぱりな。そして「後で寄っていらしてください」と言われる。やっぱりな――駐車場は数十m四方あって,何十台も車が停まれる広さだが,現在は数台しか停まっておらず,スカスカである。とはいえ,土産屋自体が大きいから,観光シーズンあるいは修学旅行生が来たときは,観光客でごった返すのだろう。
そのスカスカの駐車場のさらに奥に行くと,多少あった道路沿いの賑やかさも騒音も,まったくない。一面アスファルト舗装された地面の果てに,そこだけ土のままのスペース。見上げれば,元からあったのか,ガジュマルの木が大きな傘で木陰を作っている。その向こうに高さ数mの塔がある。これが「梯梧の塔」である。周囲は南国の木々が植えられている。
はて,この塔の存在にひめゆりにいた観光客の何%が気がつくのだろうか。さらに言えば,何%の旅行業者が観光ルートにこの場所を入れるのだろうか。そして,その結果何%の日本人が,「戦時中の沖縄の女性学徒=すべてひめゆり学徒」という“単純な図式”を頭の中に作っているのだろうか。ある案内ガイドには「ひめゆりの塔の喧騒を離れて…」と書かれていたが,その“喧騒”は一体誰がどうやって作ったのか。決して,自然に出来上がったものではないはずだ。「静かなのは“誰も訪れない”ことの裏返しだ」と言いたいのか。これは後述する「ずゐせんの塔」にも言えることだ。
その「梯梧の塔」にまつられている「梯梧学徒」とは,那覇市崇元寺町(現在の安里あたり?)にあった私立昭和高等女学校の学徒17人。1945年3月6日,第62師団野戦病院の従軍看護婦として,南風原町のナゲーラ壕に配属されるが,彼女たちもまた,戦局の悪化とともに点々と南下を余儀なくされる(場所は特定できず)。そして,最終的には同年6月19日に解散命令。その間に学徒9人が戦死する。ちなみに,塔にはこの9人プラス,学徒以外の在校生51人および職員3人の合計63人が合祀されている。
ちなみに,もう一つ同じナゲーラ壕に配属されたのが,首里高等女学校の学徒61人による「瑞泉(ずいせん)学徒」だ。「ひめゆりの塔」「梯梧の塔」から少し東に国道を進んですぐ,信号がある交差点の脇にある「ずゐせんの塔」が,この瑞泉学徒たちの碑である。1945年3月27日,そのナゲーラ壕の前で卒業式が行われた直後,そのまま配属されたという。一度浦添市に移った後,梯梧学徒と似たようなルートで南下して,同年6月19日に解散命令が出る。最終的には33人が戦死している。
……しかし,こうやって次々に慰霊塔を見ていったが,ふと自分は何のためにこれらを見ていたのだろうかと思ってしまう。少なからぬ興味本位であったことは認めざるを得ない。あるいは,戦争体験という沖縄の“ダークサイド”な部分を,多少強引な形ででも自分の中に取り込むことで,単純に沖縄へ観光でやってくる人間を,ココロのどこかで区別して侮蔑したかったのだろうか。そもそも,悲惨な出来事が起こった場所を点々と見ていくってのは,考え様によっては尋常なことではあるまい。
そして,私はひめゆりに来るまで,ひめゆりをある意味“否定”して,それ以外の高等女学校を“肯定”してきた。理由は単純。ひめゆりだけがメジャー…すなわち,大多数の人間が集まって知名度が高くなりすぎて,それ以外の学徒があまり取り上げられないからだ。
でも,それってココロのどこかに潜む“メジャーへの嫉妬”が,発言・行動させていると思えてくる。例えば,子どものころにチヤホヤされ持ち上げられてきたのが,大人になるにつれて必ずしもそうはされなくなってきて,やがて自分が“単なる人間”にまで落ちぶれた感覚に陥り,ふとした事柄で周囲と比べて自分に“劣る部分”が少しでも見えてしまった。その途端,底のない闇の中に埋没して死んでしまいそうな気持ちになる――そんなとき,“メジャー(大多数)への嫉妬”という形で発散するしかなくなるのである。でも,これって必ずしも健全だと言えるのだろうか。
ひめゆりだって,別に有名になりたいと思って後世に悲惨な体験を語り継いできたわけではないと思う。そして,それはひめゆり以外についても同様であろう。中にはそれを語りたくないという人間だっている。その体験を語ろうとする人間だって,ウキウキしながら語る人間は決していないだろう。すべては「悲惨なことが二度と起きてほしくない」という切なる願いからに違いない。
ということで(?),その切なる願いの一つ一つに,私が「メジャーな位置付けだから」「マイナーな位置付けだから」と,勝手な判断をつけてはならないのである。別にひめゆりだって,あくまで一つの慰霊碑なのだ。たまたま人が多く集まるようになって,そこに“商業の原則”で店が建つようになっただけと思えばいい。私が,上述したひめゆり以外の高等女学校慰霊碑を知っているというのは,自分の中で単なる知識として覚えておけばいいだけなのである――どーでもいいこと,そもそも自分でも訳の分からないことを書いてしまった。ま,これもまた管理人の“ダークサイドなひとりごと”として,どうかすっ飛ばして無視してもらいたい。

――そして,最後にさらにどーでもいいこと二つ。まず,上記「レストランでいご」に,塔の場所を教えてもらったお礼ではないが,ノドが渇いたので客のほとんどいない店内に入って「シークワーサージュース」(200円)を買う。ビニールのカップに氷を入れて出してきたのを飲み干したが,ほどよい酸っぱさが渇きを潤す。で,応対したオバちゃんが「今日は正月だからおまけ」と,英語しか書かれていないアメリカ製っぽいビスケット菓子を一つをくれた。ウェハース状のヤツでピーナツバターがはさんであった。味はパサパサしてあまり美味くなかった。在庫処理でもしたかったのか。
そして,もう一つ。ひめゆりの西隣には,轟の壕(前回参照)に入る“目安”となる看板「USA SHOP/ひめゆり会館」がある。そのうち後者に寄ってみたが,中は米軍関係物の払い下げだの,ジーパンやTシャツの類いが多数あった。少し奥まったところにあるせいか……ってことはないか。客は私以外にいなかったことは想像に難くあるまい。

(1)金武の街
これにてドライブは終了。15時45分,オリックスレンタカーへ戻る。あるいは近くのスタンドでもう1回オイルを入れようかと思ったが,メーターは満タンの少し上にある。このまま誤魔化そうか……ホントは,満タンにしたときはもうちょっと上まで振り切っていたのであるが,無論,戦跡公園をさまよっている間に幾分か“ロス”したのである。はて,一瞬このままで大丈夫かと思ったが,何事もなくオリックスの係員はそのまま車をどこかへ持っていった。
ちょうど営業所の目の前には那覇空港行きの送迎バスが待っていたのであるが,何しろ私は初めての“延泊”をしてしまった身である。ズラかっても……ま,後でどうなるか分からないから,素直に「すいません,精算をしないといけないんですが」と申告して,1本バスを見送る。そして,2階のカウンターで弾き出された額は,税込1万3650円だった。ちなみに,正規の料金だと1万4700円。延長した時間は当初の時間数よりも明らかに長いだろうが,どーゆー計算だったのだろうか。
少し待って,那覇空港行きのバスが来たので乗車。ちょうど本土へ帰る時間帯だったのか,行きは私1人だった送迎バス(第1回参照)は10人ほどの人間と,重量は軽いのになぜか人間以上のスペースを取ってしまう荷物が乗っかって,16時に出発。来たときはガラガラだった「アウトレットモールあしびなー」の駐車場は,セールでもやっているのか,かなりの車で埋まっている。
バスは行きと同じルートを辿って,16時20分に那覇空港に到着。早速,チケットを購入がてら搭乗手続まで一気に済ませる。そして,いざ座席指定……画面には「前方窓側」という文字が出ている。ってことはまだ空いているのか?……とりあえず,指定ボタンを押したところ,出てきた座席は「3K」。前から2番目の窓側だ。ちなみに当初は「7A」だったから,それよりも前になったのだ。この時期・このタイミングでこんないい席とは驚いた。あるいは,もう1日後ろにズレていたらどうなっていたのか。天候といい気温といいこの座席といい,最後の最後に“幸運の帳尻合わせ”になったような気がする。

さて,羽田行きの飛行機は20時50分だから,3時間半は有に時間ができた。なので,荷物を少しコインロッカーに預け,先月発見したインターネットスペースでウダウダした後,16時40分発のゆいレールに乗車する。今回は,いつも降りている美栄橋駅はやめにして,二つ手前の旭橋駅で降りることにしようか。そのままプラプラと歩きながら国際通りに入っていって,先月夕飯を食べた平和通りの「花笠食堂」(「前線と台風のあいだ」後編参照)で今回もまた夕飯を食べたい。
決して上品ではないけれど,ほどよく清潔感があっていつも賑わっているこの店が,先月初めて行ってかなり気に入った。メシもバリエーション&ヴォリュームがあり,それでいて価格はリーズナブルだ。その直後だったか,父親に会ったときに「どこか“いつでも寄る場所”というのがあったほうがいい」と言われたのがアタマにひっかかっていて,だったらここを“定宿”ならぬ“定食”(と書いて“じょうしょく”と読ませる)にしようかと思ったのである。
車内は満席でドアのそばに立つ。高くなったレールの上からは,あるいは今回の旅で“2番”かもしれない夕景が見えた。無論,ナンバーワンは昨日の伊平屋島の海岸線に沈んだ“初日の入り”であると思っておく(第6回参照)。車内も車外もすっかり暖かくなっていたが,乗客の中にはダウンジャケットの娘と冬ものコートの母親の姿を見つけた。本土である程度の寒さに慣れている身からしてみれば,そこまでじゃないだろって思ってしまうが,沖縄にいると自然と寒さには敏感になるものかもしれない。
予定通り,旭橋駅にて下車。まずは駅に接続する那覇バスターミナルを見る。いまいち閑散としているのは,正月2日だからか。実は,直接このバスターミナルに降り立つのは11年ぶりである。三角型のターミナルの格好はあいかわらずだ。そして,ターミナルの建物の古ぼけ加減と暗さ加減も……この建物の中の食堂では夕飯を食べた記憶がある。食べたものはカレーだっただろうか。はっきり覚えてはいないが,沖縄料理ではなくてごくごくフツーの,「そんなのわざわざ沖縄に来て食べるものじゃない」ってものを食べたと思う。
そして,その旭橋駅から連絡階段を降りてすぐのところに,これは初めて見たのであるが,「仲島の大石(なかしまのうふいし)」という巨大な岩があった。ゆいレールの旭橋駅の支柱も,ここを上手く避けるように立っている。岩は高さ6mで,周囲が25mほどという。真ん中よりやや下には,侵食によってできたとされる窪み(専門用語では“ノッチ”というそうだ)がある。これによって,この付近が昔は海岸だったというのが立証できる,と近くの案内板に書かれていた。岩の上には樹木が根を張って生えており,トータルでは高さは10m近いかもしれない。そばには一対のシーサーと赤い鳥居,そして祠があるから御嶽として存在しているようだ。ちょうど時節柄か,泡盛と果物がお供えされていた。
そのままバスターミナルから県庁の前を通り,国際通りへ入っていく。特に真新しさを感じないのは,渋谷や新宿よりもよっぽど回数多く来ているからかもしれない……そんな中でこれまた初めて見たものが「ベロタクシー」というヤツ。ちょうどその1台が,「国映館」という那覇で老舗だった映画館(どうやら現在は休館中)の前からカップルを乗せて出るところだった。なぜか「“鳥人間コンテスト”で見たことがある」と思い込んでしまう形状。環境配慮型の屋根つき三輪チャリタクだ。初乗り500mまで250円,以降200mごとに200円という料金体系。とはいえ,那覇以外にも京都や青山でも走っているらしい。へ〜,青山ってここ最近行ってないけど,今度行ったらもしかして見ることができるだろうか。
ウロウロしているうちに,時間は17時半になった。ちょっとメシの時間には早いかもしれないが,そろそろ「花笠食堂」へ――そう思って食堂の前まで行ってみたが,何とほぼ満席。少し離れた平和通り商店街のアーケード下にあるディスプレイの前で,それなりに人が群がっていたのだが,これではメシが出てくるまで時間がかかりそうだ。もっとも,その時間によってちょうどいい具合に腹が減ってくると,今となっては思ったりもするのだが,元来待たされるのはあまり好かない人間なので,今回は残念ながらここでの夕飯はあきらめよう。
――その後,結局国際通りを端から端まで1時間近く歩いて,入ったのは昨年2月にも入った「沖縄料理 結」という食堂(「沖縄・8の字旅行」後編参照)。昨年7月に1泊して(「サニーサイド・ダークサイド」第3回第4回参照),先月は残念ながら天候の関係でキャンセルして泊まり損ね(「前線と台風のあいだ」および「管理人のひとりごと」Part29参照),その代わりと言ってはナンだが来月泊まる予定の「ホテルシーサーイン那覇」の建物内にある食堂だ。多分,来月はこの食堂で朝食を取ることになるだろう。そのときはどうぞよろしく。そして,先月はドタキャンすいません。
決め手になったのは,メニューにあった“チャンポン”の文字。先月,粟国島の食堂で食べ損なった食い物である(「前線と台風のあいだ」中編参照)。転んでもタダでは起きないのが私……というか,ただ単に懲りないだけなのか。店内はそこそこ人が入っていたが,余裕で窓側の眺望がいい4人席に座り,早速注文する。味噌汁に漬物がついて650円。
うーん,この値段からしたら……そして,10分ほど待って出てきたのはやっぱりというか,そこそこの量の「野菜炒めの卵とじ オン・ザ・ライス」であった。直径15cmほどの皿に標高6〜7cmくらいの量。野菜炒めの具は,卵・ニンジン・キャベツ・もやし・玉ねぎ・豚コマ。上にパラパラッとあさつきがかかって,ほどよく上品に見せている。肝心の味は……うーん,卵でとじているからか少し薄味で,途中から備え付けのしょうゆをかけて食べてしまった。あるいは,どうしても塩気が足りない人のために,一緒についてきた味噌汁が赤だしだったり,漬物が野沢菜やしば漬けになっていたのだろうか。
もっとも,関東人が「塩気が足りない」って思うくらいの塩気が,沖縄ではスタンダードなのかもしれない。沖縄そばだって,そもそもは薄味の出汁である。それによって「沖縄の食べ物は健康食」との“伝統足り得ている”のかもしれない。にもかかわらず,そこにあっさりとしょうゆをかけてしまう私は,自ら進んで健康を害しているだけでなく,沖縄の文化・伝統を思いっきり侮辱しているのかもしれない。はて,こういうのを「百害あって一利なし」というのだろうか。そして,実はホントに沖縄を好きじゃないんじゃないかって思ってしまうのである……って,正月から相変わらず自意識過剰だ。(「沖縄はじっこ旅V」おわり)

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