沖縄惰性旅

(4)惰性で北へ
高速に乗ったしMDはアップテンポな曲調になったし,いよいよ追越車線で一気に加速……をしたいのであるが,ムーブは軽自動車。後で確認したら,実は間違って軽自動車クラスをセレクトしていたらしい。カーオーディオがMDになったのはよかったが,もっとホントは重要なはずの「加速」がなかなかできない。一生懸命踏ん張っても,100km/h程度までしか上がらない。そのくせ「こんなに一生懸命モーター回しています」とでも言いたげに“ウイーン!”と大きな音を出している。
これで東京ならば,あっという間に後続に追い付かれ,イラッとした感じで左に入ってから右に追い越されしまうスピードだが,どういうわけか沖縄は,“3ケタ”でやってくる車が少ないらしく,わりと追越車線を“キープ”できる。でも,緩やかな上り坂では,どんなに踏ん張ってもスピードの針は虚しく左へと押し戻されていく。「軽自動車のペーソス,たっぷりと!」って,いささか自嘲的な気分である。
さらにはそこに天気雨が加わって,いよいよスピードは減速していく。ちょうど,沖縄市に入った辺りだろうか。青空がのぞいていたエリアを通過するやいなや,上空には分かりやすいぐらいの黒い雲。そして出始めた「ポツポツ…」という音は,やがて「パンパンパン!」「ザー!」「ガー!」という音へと激しさを増していき,見る見るうちに道路には水がたまり,目の前の景色はガスってきて,視界がどんどんと狭まっていく。そして,クーラーの影響だけでなく,少しばかり背筋までが凍っていく。
「沖縄的土砂降り」での走行は,昨年9月の石垣島以来であるが(「沖縄はじっこ旅U」第7回参照),高速でのそれはもちろん初めて。いや,沖縄だけでなく人生で初めてだ。もちろん,高速は途中で止まれないことぐらいは分かっているが,70km/h台をキープするのが精一杯。もっとも,後続の車たちも同程度のスピードとか出せていないようだったが,よもや「逆の意味で法定速度を守れないこと」を初体験するとは思いもよらなかった。ま,これもまた「貴重な経験」だと,プラス志向に解釈しよう。
それでも,石川市辺りからは再び雨が止み出して,いくらもしないうちに青空がのぞきはじめた。まったく,こんなところで沖縄の天気の“洗礼”を受けるとは。まあ,これが沖縄の天気予報の「傘マーク」の正体といったところである。いちいち天候の激しい変化にビビっていては,「沖縄を楽しむ気持ち」も半減してしまうというものである。
それはそうと,高速に乗り始めてから気になることが一つあった。何と,尻のポケットに入れていた財布が運転席付近に見当たらないのだ。たしか,尻から出した覚えは間違いなくあるのだが……土砂降りのときから探していたのだが,どうにも見当たらない。なので,一旦伊芸サービスエリアで休憩。もちろん,メインは財布探しのためだが,前の二つの座席やダッシュボードや収納スペースをどう探しても見つからず,結局は後部座席の隙間にて発見。どこをどうやってここまで落ち延びていったのか謎っちゃ謎だったが,何はともあれ高速を降りられなくなる不安が払拭され,思わずホッとする。
そんなこんなのハプニングには見舞われたが,14時50分には許田インターを無事降りて,国道58号線に合流する。上空は,15〜20分前にはあり得なかったようなくらいの青空が広がってきて,再びサンサンと輝き出した午後の太陽がまぶしい。左にはひたすら続いていく海がとても美しい。その情景に乗っかってくる山下達郎の『LIGHTNING BOY』のメロディもポッブで美しい。それにしても,この“ルート58”はあいかわらず車両が多い。
進路はこのまま北へ向かう。次に行きたいのは,北部は大宜味村である。3年前の年末に一度通りすぎてはいるが(「沖縄標準旅」第3回参照),ちゃんと寄ってみるのはこれが初めてだ。この大宜味村を選択した理由とは,実は「何となくここも行ってみたい」というだけのものである。まったく,これこそ「“沖縄惰性旅”の醍醐味」と言えやしないだろうか。たとえ,確実に自己満足の域に留まったまま出られないことにはなろうとも。
名護市内のバイパスを抜けると,羽地内海の穏やかな海。少し進むと,屋我地島と古宇利島への道と分かれる。屋我地島はこれまた3年前の年末,ぐるっと1周しただけだが通っている(「沖縄標準旅」第3回参照)。ここもまた“惰性旅の醍醐味”で明日入り込んでみたい。あるいは,帰り際に寄るのもいいだろう。いずれにせよ,今回必ず寄ってみたい場所でもある。あとは,開通した古宇利大橋を記念で渡ってみることにしようか。
その二つの島への道を通り過ぎて数分後,いよいよ大宜味村に入る。左はひたすら青い海が続いている。眠くなりそうなくらいに青い。東に入り組んだ塩屋湾を橋で渡り,間もなく右手には「笑味(えみ)の店」という看板。なるほど,道路沿いだったのか。地元の食材をふんだんに使った食事を出す店で,何度となくメディアには,主人の金城笑子氏(きんじょう・えみこ,1948〜)とともに出てくる。「長寿の村宣言」をした村らしい「長寿膳」という名前の食事が有名である。1500円というリーズナブルな値段で,15〜16種類もの料理が供される。

やがて,一つの看板が目に入った。「→芭蕉布会館」――かなり前の話だが,会社の上司に連れてってもらったスナックで,沖縄が好きで何度も行っているという女性と話す機会があり,そのとき彼女の口から「あそこはいいわよ」と言われた一つが,ここの名前だったのだ。ま,それだけが行く理由ってのもヘンっちゃヘンかもしれないが,何度となく芭蕉布会館の名前は聞いているし,それがある集落「喜如嘉(きじょか)」の“響き”にも,どこか惹かれたのもあった。これだけ条件があれば,訪れる動機としちゃ立派なほうだろう。旧道らしき道に入ってから,狭い路地へ滑り込む。
“やんばる”の語源である山の麓に佇む喜如嘉集落。国道から車で入ること数分,芭蕉布会館……の入口に着く。区画整理がそこだけ甘かったのかどうかは分からないが,ちょっと広くなっているスペースで,家の壁に沿うように車を停める。目の前には公民館らしき建物があり,傍にはこじゃれた小物を売っている店もある。でも,ほとんどは昔ながらの家が身を寄せ合うように建っているようだ。車から降りると,人の声はまったくなく,蛙と蝉がアンサンブルしているような“高音の激しい響き”が集落を包む。山が近くにあることの何よりの好例であろう。
上り坂の路地を少し入ると,駐車場らしきスペース。なーんだ,ここにも停められたのか……その壁には,沖縄県出身の詩人・山之口獏氏(やまのぐち・ばく,1903-63)による詩「芭蕉布」の碑が掲げられている。その向こう,道のどんづまり右手に「芭蕉布会館」はあった。裏手は鬱蒼とした森。少しは洒落た感じがするものかと思っていたが,まったく素っ気無い古ぼけたコンクリートの2階建てだ。何だか「私たちにはこれで十分さ」と,あっさりこちらの“意図”を却下されたような気分になる。
とりあえず,無料ということもあって中に入ることにすると,受付らしき場所に女性が1人いる。女性「こんにちは」―私「こんにちは」,以上。それ以外は,あいかわらず蛙と蝉の高音アンサンブルが聞こえるのみ。展示もいろいろとあり,ガラスケースには芭蕉布で作られた財布やケータイストラップなどの小物が売られている。ストラップはさすがに安いが,他はやはり“それなりの値段”がしていた。
その奥には階段がある。手前に張り紙があって,何やら英語に訳されてまでいるが,要するに「興味がある方は,2階に作業場があるのでご自由にどうぞ」ということらしい。ま,ここまで来て何も見ずに引き返すのもアホな話だから,とりあえず2階へ上がることにする。昔から建っている公団住宅の階段みたいな階段を上がっていく。
2階は部屋がいくつかあるが,廊下も含めてどこか雑然としている。そして,16時過ぎということもあってか,明かりがないために薄暗い。そして素っ気無い。廊下の一番奥にあるのが作業場である。ドアにはこれまた張り紙があった。いわく「後継者育成目的のための場所」という特殊な場所なので,何かに触ったり写真を撮ったりするのはやめてくれ,ということだ。
作業場は入って左右に細長い部屋。小学校の教室1.5個分程度の広さだろうか。目に入るのは,ベージュ色の糸がこれでもかと稲藁のように積まれているのと,その向こうで私と同世代くらいの男性と女性が,たまに会話をしながらも,機織り機に向かってに向かってほとんど黙々と作業をしている光景だ。たしかスチームが焚かれていたと思う。でも,ピーンと張り詰めた緊張感みたいなものも,何だかイヤーな気分で空気が澱んでいるってこともない。どこかゆったりとした時間だけが流れている。
右手を見れば,下の名前だけが書かれたタイムカードが12〜13人分刺さっていた。こんなことをするってことは,それほど年齢は行っていない連中ばかりかもしれない。あるいは本土から来ているヤツもいるかもしれない。その向こうでは別の女性2人の見学客が眺めていて,その向こうではメガネをかけた白髪混じりのオバアが,一段高くなった座敷でこちらに背を向けて,黙々と正座で何やら織り物をしている。ちょうど男性と女性が作業を止めていたこともあったのか,ここでも蛙と蝉のアンサンブルが作業場の中にまで聞こえてくる。
ま,これ以外は特に見るものはない……というか,そもそも「見物客に説明するためのブース」とかいうコンセプトで,この会館は造られていないのである。あくまで「こうして我々は芭蕉布織りの作業をしているのですよ」というのを見るための場所なのだ。作業場と通路との間には棒で1本仕切られているだけだが,この向こうは彼らの“聖なる仕事場”である。ま,多分話しかければ何がしかは答えてくれるのかもしれないが,少なくとも私からは彼らに聞きたいことはない。興味云々もあるのかもしれないが,こちらが「中途半端に聞いた」がために彼らが仕事に集中できなくなって,作れるものも作れなくなっては申し訳ないというのもある。とっとと出ることにした。
さっきの駐車スペースに戻る。そばに大きな集落内地図があったので見てみると,さらに奥のほうに神アサギと「七滝御嶽」というのがあるようだ。とりあえず,入り組んだ集落内の道を進むこと2分ほどで,まずは神アサギらしき建物に辿りついた。四つ角の右手,これまたそこだけが広くなった感じの区画で駐車場もあった。高さ・幅とも3〜4m程度の社。格子戸が閉ざされていたが,中には「上世」「中世」「今世」「火神」「根屋」などと書かれた札が置かれてあった。香炉の代わりだろうか,砂が入ったプレートが札の前に置かれてあったと思う。
そして,七滝のほうはそこから山のほうに伸びていく道の奥にあるようだ。歩いて行くにはしんどいから,もちろん車で行く。道幅は乗用車1台分程度。集落の端っこの家を抜けると,川のせせらぎが聞こえ,辺りはバナナの葉っぱに似たような長細くて大きな葉をつけた植物が生い茂ったエリアとなる。これこそが,この集落の“生命線”とも言える芭蕉である。もっとも,バナナに喩えたのは決して間違いでもなく,芭蕉には「糸芭蕉」「花芭蕉」「実芭蕉」と3種類あるという。芭蕉布の原料糸となるのが最初の「糸芭蕉」だ。そして最後の「実芭蕉」とはズバリ,バナナのことを指すそうだ。なるほど。
それはそうと,道はいよいよ急勾配・急カーブとなってきた。退避スペースは所々あるが,折り返せる場所はなかなか見当たらない。“七滝”というからには滝があるはずだが,さっき聞こえた水の音はまったく聞こえなくなってきた。このまままっすぐ行くと,多分最終的には隣の東村に出るだろう。別に出たところで帰る道はある程度検討はつくだろうが,どうにも滝らしきものは見つからない。やむなく,たまたまあったスペースで引き返すことにした。後で地図などで確認したら,もうちょっと奥まで入っていけばあったらしい。小さめの滝の前にちゃんと鳥居があって拝所になっているという。

ところで,後になって分かったことがある。上述した中の,芭蕉布会館でこちらに背を向けて正座で作業していたオバアが,どうやら“人間国宝”の平良敏子氏(たいら・としこ,1920-)ではなかったかということだ。もはや,オバアなんて“親しみを込めた”(一部では“侮蔑”に近いとする説もある)ことが恥ずかしくなってくる――この旅行記を書くに当たり「そういえば…」と思って,澤地久枝氏著『琉球布紀行』や先日(注・2005年10月12日)買った雑誌『Wit』(ともに「参考文献一覧」参照)のエッセイを見て分かった次第である。彼女の後ろ姿を写した1枚のショットが,私がたまたま見たものとズバリ一緒だったのである。
彼女の家は元から一家全員が芭蕉布織りという家庭だったが,とはいえ,素直に彼女もその流れに入っていったわけではなく,県外での憧れが強い積極的な女性だった。10代のころは東京で社内食堂の賄い役をやり,20代になった戦時中には女子挺進隊員に応募し,岡山県倉敷市の軍事工場で海軍機の翼の製造組み立てに従事する経歴を持つ。その最中,18歳のときに幼なじみと仮祝言を挙げていたが,式に出ることはなかった。それだけ彼女の心は外へ向いていたのだ。一方,幼なじみは兵隊となって,中国へ渡ることになった。
しかし戦後,彼女は思わぬ形で織物と再会する。混乱でしばらく地元に帰れなかった沖縄の女性たちは,当時・倉敷紡績(クラボウ)社長だった大原総一郎氏(おおはらそういちろう,1909-68)の庇護を受ける。上述の軍事工場となったのが,倉敷紡績の工場だったのだ。彼女もそんな1人だった。そして,大原氏の勧めで当時倉敷民藝館館長の外村吉之介氏(とのむら・きちのすけ,1898-1993)に師事。ここで改めて織りと染めの指導を受けることになる。織物との再会の第一歩である。また,同時期に,1943年に書かれた民藝運動者の柳宗悦氏(やなぎ・むねよし,1889-1961)による私家本『芭蕉布物語』を初めて読み,芭蕉布が高く評価されていることに感銘を受けた。
1946年10月,彼女ははれて沖縄に帰ることになった。大原氏は「沖縄に帰ったら,沖縄の織物を守り抜いてほしい」と別れの言葉を述べたという。同年8月に戦地から無事帰還した幼なじみが倉敷に来て,2人で生活を始めてから2カ月後のこと。さらに,彼女は新しい命を宿していた……にもかかわらず,さまざまな要因が重なって,2人の“新婚生活”は終わりを告げる。離婚だ。
失意の彼女が喜如嘉に帰ってきたとき,そこは一面の野原になっていた。芭蕉布の唯一にして最大の原料である芭蕉の木を,米軍がマラリアの蔓延と媒介蚊の発生をおそれて軒並み切らせていたのだ。残った株から芽が出たとしても,糸が取れるような状態まで成長するまでに,2〜3年はかかる。山中に辛うじて隠していた糸で織るくらいが精一杯な状況。芭蕉布はもはや過去のもの――「芭蕉布冬の時代」の1947年5月,彼女は1人の男の子を産む。いわゆる“シングルマザー”の走りだ。
そんな彼女に父(=男の子の祖父)は,1台の織機を作って送った。それが何を意味するかは,もちろん彼女にも分かっていた。恩師・大原氏の言葉もしっかりと焼きついていた。しかし,彼女はそれでも芭蕉布を織らず,米軍払い下げの毛布やテントをほどいた糸を織って金に替えていたという。頑なとも言えるくらい芭蕉布やはたまた喜如嘉そのものから距離を置こうとしていた彼女だが,「決定的な出来事」が起こったのは,1人息子が5歳のときの出来事だった。
当時,親戚を頼って那覇で働いていた彼女。ある日,お手伝いさんに連れられて息子が母の元にやってきたが,彼女は忙しくてロクにかまってやれない。仕方なくお手伝いさんと息子は帰っていったのだが,その帰りに道に迷ったのがきっかけで,あちこちでアイスキャンディを振る舞われた。「まぁ,大変だね〜。これかめー(食べなさい)」――かどうかは分からないが,相手が小さい子どもだし,しかもどこかで「わざわざ母親に会いに行ったのに,構ってもらえなかった」という話題も出たかもしれない。“小さい親切”が,いつのまにかどんどん膨らんでいったのだろう。その結果,息子は脱水症状で腸カタルになってしまったのだ。さらに,息子がいた部屋に入って彼女が見た光景は,空腹のあまり蝉を取って食べようとする息子の姿――彼女は泣いて息子に侘びたそうだ。
以後,彼女は喜如嘉で息子と生きる決心を固めた。商店を営む傍ら,芭蕉布を織ることになったのである。そして,織っては積極的にコンテストの類いに出展。数々の賞に輝くとともに,再び「芭蕉布」が世の中で脚光を浴びることになるのだ――1人息子の一件がなかったら,もしかして芭蕉布は完全に“幻”になってしまったかもしれない。そして,先ほど芭蕉布会館で見たような「世代を超えた人間同士が同じ建物の中で働く光景」というのも,まずなかっただろうと思われる。
もっとも,彼女としてもこういう形で芭蕉布に向き合うことになったのは,本意ではなかったはずだ。でも,その息子が大きくなって結婚した本土出身の嫁さんが,現在彼女の創作活動を全面的にバックアップし,芭蕉布の伝統継承のために資料整理などの作業を担っているという。この結婚も,周囲からは「本土の嫁」ということに反対の声があったそうだが,その本土での生活を経験している平良氏には,一切の迷いがなかったという――こういう巡り合わせを見ていくと,「喜如嘉と芭蕉布のために生を受けた人間」と,あらかじめ運命づけられていたと言えはしないか。そして,若かりし頃の「東京―倉敷―那覇」という10年ほどに及んだ“回り道”は,彼女なりの「ホントの答え」に辿りつくまでの,いわば“武者修業”“試練”だったのではないかと。

(5)“惰性旅”が“グルメ旅”の様相?
時間は16時をすでに過ぎている。喜如嘉を後にして,やや傾きかけていながらもまだ強い陽射しに照らされ,再び名護の方向に戻ることにしようか。次に向かいたいのは「嵐山展望台」――ここは「掲示板」(第1回参照)で書き込みの常連となっている“ある方”がしきりに勧めていた場所である。一度写真で見た感じではまずまずの眺望だったので,とりあえず行ってみようと思った次第だ。
その展望台へは国道58号線から国道505号線に右折し,しばし羽地内海を右に見ながら,本部半島を入っていくことになる。この羽地内海を見下ろす好眺望が味わえるのである。やがて,「←嵐山展望台」という看板に従ってその道に左折すると,急勾配のクネクネ道となる。道幅はそこそこあるちゃんとした道だが,行く先は展望台なのだから,ある意味当然のアプローチか。
ある程度坂を登りきると,背の高いサトウキビに加えて,緑色のシャープで長い葉っぱの畑が目につくようになる。パイナップルだ。パイナップルが植えられている姿は,実は生まれて初めて見る。でも,果物が土に植わっているのを見ると,正直興ざめしてしまう。「それって野菜じゃん」みたいな。その瞬間「果物=甘い」は,「野菜=青臭い」のイメージに取って代わられてしまう。別にパイナップルには一切罪はないし,悪いのはすべてこのオレ!――なわけだが,いわゆる“固定観念”というヤツは,時として「いいものを悪く見せる」悪因にもなるのかもしれない。
坂道を上がること5分ほど。右手に2階建てのコンクリートの建物が見えた。建物には「嵐山休憩所」と書いている。これには間違いないのだろうが,いかにも「沖縄らしい素っ気無さ」がそこにはあった。道路をはさんで反対側に舗装された大きな駐車場があるのだが,いまの時間は下が岩のゴツゴツそのまんまとなっている休憩所側の駐車場にすら,車が1台もない。1階は売店になっているようだが,シャッターが半ば閉まっていて薄暗い。奥のほうにはパイナップルが入っていると思われる箱があった。中からはテレビの音が聞こえ,男性がそれをぼんやりと眺めている。いま彼の頭の中には「いつこのシャッターを閉めようか?」という考えが漂っているかもしれぬ。
脇の階段から上がっていくと,箱庭のように静かな内海に緑豊かな島が漂う光景。ちょっと,リアス式海岸っぽい雰囲気もある。先ほど国道を通ったとき,海沿いに数箇所車を停めて見られる場所があったが,“途中下車”しなかったことをちょっと後悔した。遠くと近くとダブルで見て,しっかりとこの羽地内海のよさは感じるべきだと感じたのだ。
そういや,遠くでガタガタと工事の音がしていたが,もしかして,屋我地島と本部半島を結ぶ「ワルミ大橋」の架橋工事だろうか。このことは「沖縄卒業旅」第3回の古宇利島での旅行記でも書いたが,同じ今帰仁村に属するにもかかわらず,本部半島側から古宇利島へ行くのに,羽地内海をぐるっと回って名護市に入ってから,屋我地島を経由して行くことになる。その遠回りを解消するための上述の架橋が,ホントならばとっくのとうになされていなければならないはずだが,いまだ工事中だ。距離にしたら315m(税込じゃない)。もちろん,2km近い古宇利大橋の比にならないほど短い距離のはずだが……機会あらばまた書いてみたいと思う。
嵐山展望台を後にして,あとは「ゆがふいんおきなわ」に向かうことにする。引き続きクネクネした道を進み,ゴルフ場の脇を抜ける。この道は,管轄が「名護市」と「今帰仁村」で混在している。展望台自体は名護市だが,まもなく今帰仁村に入る。ゴルフ場前の通りが二つの市村の境界線となっていて,突き当たった県道84号線は名護市となる。私はここで左折することにしたが,右折して500mほど行くと本部町となる。以上。
さあ,ここいらで晩飯の場所の決め所だ。実は,この県道近くに有名なステーキレストランの「朝日レストラン」がある。これまた上記「掲示板」などで知った店である。毎年2月,今回泊まる「ゆがふいん」に泊まってキャンプを張る北海道日本ハムの選手たちも,こぞってこの店を訪れるという。方角もちょうどいいし,それならばということで行こうかと思ったのだが,時間帯によっては並んで待つこともあるという。予約もできるそうだが,たまたま電話を入れた前々日は定休日。翌日入れようと思って電話をかけたら話し中……そんな中で,もう一つ「掲示板」に出てくる店が私の頭をよぎった。
それは「ふりっぱー」という店だ。こちらは国道449号線沿い。名護市街から本部町に抜ける途中にある店だ。店の前を通りかかったこともある。名前を聞いて最初はピンと来なかったが,地図などを見て「あ,あの店か」と認識した。国道は海沿いに走っており,海側に立地しているとあれば,海を見ながらの食事ということも魅力だ。こちらにもステーキがあるというし,イセエビとステーキの“コンボ”もあるらしい。写真で見たが,食後に食べることになるであろうパイのアラモードも興味深い。さらには,何といってもゆがふいんから徒歩で行ける距離である。
今日は首里で散策をしたこともあり(前回参照),身体が少し火照ってはいる。こういうときは,締めにビールをクーッと行きたいところだ。それが確実にできるのは,ふりっぱーのほう。何たって,私は“運転の身”だ。そりゃ,かりに1杯ビールを飲んで車に乗ったところで,酩酊してどうしようもなくなるってことはないかもしれないが,私の人生は「ちょっと慣れないことをして思わぬ失敗する」パターンが今まで多い。どうにも要領が悪い人間らしい。油断して大事故になってはどうしようもない。
どちらにしようか迷いながら南下していたが,最初に目につけたのは朝日レストランのほうだから,これまた直感に従って寄ることにしよう。これで混雑してどうしようもなければ,ふりっぱーに行けばいいだろう。時間が17時と早いし,昼は首里そばとジューシーこそ“腹八分”程度だったが,プラス山城饅頭が1個入って「一定のカロリーはすでに取っている」だろうが(第1回前回参照),沖縄では胃袋までもが大らかになってくる。決めたときは,位置的にすでに通り越していたような感じだったので,道を入り直して,行くだけ行ってみることにしよう。

朝日レストランは,県道からすぐ見える位置にあった。帰り際に確認したら,やっぱり1回通り過ぎていたが,看板とかが出ておらず分からなかったのだ。ピンクベースの高床風の建物で,1階は駐車場となっている。14〜15台停められる感じだが,まだ空きが随分あった。「since 1972」と書かれたプレートが店の壁に掲げられている。道路沿いに入口があって,そこから階段を上がる。
まだ17時だったからということもあるのか,中に入るとまだ客は少なかった。5〜6人は座れる座敷が左手にあって,中央に4〜5人が座れるテーブル席が六つほどある。レストランにしては,少し小さめだろうか。予約するつもりだったら,18時からの予約と思っていたのだが,こういう“前倒し”が得てしてあったりもするから,結果的には予約しなくて正解だったのかもしれない。でも,後からポツポツと人が入ってきていたから,それこそ予定通りに18時に来ていたならば,並んで待つか,はたまた“ふりっぱー行き”の選択を迫られたかもしれない(って,大げさか)。
とりあえず,空いているテーブル席に通される。たまたま目の前にあった座敷の一つに「予約席」というプレートがあったが,考えてみれば私1人で一つのテーブルを「予約席」としてもらうのも,違和感がないといったらウソになる。結局のところ,別にこちらは客だし,間違ったことは一切していなくっても,1人だと何かにつけて心理的には不利になりやすいものなのだろうか……そんなことはどーでもいいとして,各テーブルごとにシェフが配置され,でっかい換気扇の下でテキパキと調理している。そして,傍らでそれを淡々と食していく客の姿がある。店内の壁を見れば,たくさんのサインが飾られている。近くまで行って細かくは見なかったが,多分確実に日本ハムの選手のそれはあるだろう。
今回頼んだのは,150gのステーキにポタージュスープとサラダとライス(ガーリックトーストにも替えられる)がついた「Bセット」。1995円。もっとも,他には肉が200gになっただけの「Aセット」と,牛肉の刺身(1400円)で,計3種類のみ。ちなみに,Aセットは2500円くらいはしたと思うが,50gの差で小さいほうを選択したのは,やっぱり首里である程度食していたことによる“自重”が大きい。あとは,いろんなホームページでの紹介などを総合するに,肉自体は150gでも,脇に添える野菜がかなりのボリュームなので,50gの差だったら少なくても「堪能」自体はしっかりできると思ったのだ。もちろん,少ないほうが500円も安くなるわけだから,なおさらである。
早速注文をすると,あらかじめ係の女性から「ソースにガーリックを入れますが,よろしいですか?」と聞かれる。ガーリックは全然OKなので,もちろん喜んで入れてもらう。ソースはしょうゆベースらしく黒光りして,いかにも食欲をそそりそうなスパイシーな感じだ。それと同時に“道具一式”がテーブルにセットされ,鉄板に火がかけられる。道具の中には調味料の類いに加えて,何やら白く千切りっぽくなったものが金属缶の中に山盛りに入っている。どうやら,モヤシらしい……そうこうしている間に,まずはスープとサラダがやってくる。前者はごく普通にカップに入ったポタージュスープ。後者はバレンシアオレンジ色のサウザンドレッシングがかかった千切りキャベツである。
5分ほどすると,白装束…もといスタンダードな白のコックスタイルの男性が来た。そして,道具の中から白い塊のラードが置かれ,いよいよ調理開始だ。「肉は最後にお出まし…」ではなく,のっけから子どものゲンコツ大くらいの肉の塊が鉄板の上に置かれる。フォークとナイフでテキパキとサイコロサイズにカットされ,その中のいくつかがまずは私の前に供される。「まずは生で食べてみてください。生でも十分食べられるものですから」とのこと。ホントに,鉄板の端っこの余熱でほんのり周りに焼き目がついた程度のものを食すと,すんなりと身体に入っていく。クセとかいうものは一切ない。
やがて,そのまま残りの肉は,細かく砕かれたガーリックやごま塩・コショウと一緒にテキパキと炒められる。その手際のよさは,まずもって家庭の主婦には出せない“スパイス”に違いない。もちろん「家庭の主婦には家庭の主婦のスパイスがある」としっかりフォローはしておくことにするが……でも,こんなこと言っちゃ失礼だが,たとえ肉の“レベル”が不味くたって,こうしてちゃんと調理が施され,味付けがこうと来れば,まずもって不味いわけがないのだ。もちろん,ここの肉はちゃんとしているものに違いないだろうが,実際に食べればほら,柔かくてスパイシーで美味いではないか。しょうゆベースのソースの味もいい。ちなみに,ソースと肉にたっぷりとガーリックが効いているから,翌朝まで口の中いっぱいに思いっきり「ガーリックワールド」が広がったことは,感想として付け加えたい。
そして,これが何気にメインに迫る美味さなんじゃないかっていうのが,添え物の野菜である「ジャガイモ・ピーマン・たまねぎ with ごま塩・コショウ」。「お肉は温かいうちにお召し上がりください」と言われてはいたが,こうなると肉と一緒に食べる喜びも味わいたくなり,肉が冷めていくことなど,気にしていられなくなってくる。当然,この辺りで出てきたライスとの“競演”も楽しみである。
途中,別のテーブルと掛け持ちだったようで,そちらに行ったりしながらも,5分ほどで仕上がったそれが,肉の隣のスペースにヘラとフォークで乗っけられる。それを食らうと,具材はもちろんどこにでもあるものだし,一見誰にでも作れそうなものでも,素人が作るのよりは格段に美味い。それでメシを食っているのだから当たり前な話ではあるのだが,この一連のパフォーマンス料…いや,“ホスピタリティ料”と言っていいかもしれないが,それが出てくるメニューにしては少し高めの値段設定に含まれているとすれば,たとえ「質より量」の私でも納得のできる食べ物だと思う。
そして,最後にはさっきの金属缶に入ったたっぷりのモヤシも,同様に炒められて供される。最後の最後までソースにからめて食し,早々とライスがなくなった後でも,最後まで味わい尽くしていざ終演。トータルだと,肉が150gであっても結構なボリュームになった。今回のこの選択肢は間違いなかった。そして,こうも幸先がよいと,この旅を最初の予定だった「グルメ旅」に,コンセプトを勝手に変更したくなってきた。欲をあんまりかいてはいけないかもしれないが,ますます貪欲になっていく私がいる。
それにしても,こちらは何分ムサい男が1人だ。ちゃんと調理後には「ありがとうございました」とお辞儀までしてテーブルを去っていくのだが,かえって申し訳ないことしたような気がした。やっぱり,彼らの料理人のプライドとしては,大変ではあるだろうが大勢に対して一気に作ったほうが,“作り甲斐”があるものかもしれない。あとは,つくづく冷たいビールでクーッと行けなかったのが,どうにも惜しい限りである。(第4回につづく)
 
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