沖縄卒業旅(第2回)

きしもと食堂(前回参照)を出て,そのまま運天港に行こうかと思ったが,まだ時間は12時前であるから,もう少し周辺をブラブラしてみよう。大きなアーチ橋がかかる国道から1本入った道を走ってみる。おそらくはこれが旧道であろう。前回書いたように昔ながらの個人商店が立ち並ぶ中を通り抜ける。寄ってみたいぜんざい屋「新垣ぜんざい屋」を探すためというのもある。
とはいえ,方角としては南下しているわけで,いい加減建物もなくなってきた。そろそろ折り返しておかないと…と思ったら,水納(みんな)島行きの高速船が出る埠頭への看板が出ている。とりあえずは,ここで1回転回しようと思うが,その前にせっかくなので突き当たりにある海べりに車を停めることにしよう。周囲にはちらほらとスナックらしき建物が見える。
ここは渡久地(とくち)港という港。たくさんの漁船が停泊している。ちなみに,水納島とは本部半島と橋でつながっている瀬底(せそこ)島(「沖縄標準旅」第3回参照)の向こうにある小島。次の出航の時間は13時半。だから静かである。夏場は1日10便近く出る船も,冬の現在では朝・昼・夕方の1日3便。ビーチが唯一にして最大の観光場所である島だからやむを得ないか。
この辺りの集落名は,そのまま渡久地集落。本部町最大の繁華街である。沖縄の離島でよく見る「あまりに何もない」という感はなく,他の町や村に比べて思いのほか開けているとは思う。本州から来る船が停泊する町でもあるから,人や物の流通が他の町に比べて発達しているのか。もっとも,幹線道路が交差する角にあるレストランが閉店になっているなど,閉まっている店もちらほらとあるから,たかが知れているのではあるのだが。
結局,港で数分たたずんだ後,素直に運天港に向かうことにした。新垣ぜんざい店は,後で調べたらバカバカしくも,きしもと食堂のすぐそばにあったらしい。食堂ばかりに目が行っていたので,他には目もくれていなかったのだ。とはいえ,営業時間は13時からというから,どっちみち食べられなかったのだが,その代わり別の“甘味処”がまだこの先にあるのだ。
その甘味処とは,特定の店ではないのだが「伊豆味(いずみ)」という地区にある。同じ本部町の山の中。運天港に行く道中にあるのだが,どーゆーわけかカフェが多くある地区なのだ。さしずめ“カフェストリート”と言うべきだろうか。ぜんざいの代わりというとヘンではあるが,そのどっかの1軒に入ってテキトーに時間をつぶそうというわけだ。
とはいえ,いざ行ってみると,軒並み路地を入って山の中に入る看板があるのみ。私はすっかり通りっ端に点在しているのかと思ったが,どうやら狭い路地を上っていって,そのどんづまりにあるような感じである。なるほど,そうでないと自然をバックに優雅にティータイムとは行かないからな。でも,こちらはそこまでして“お茶”したいわけではないから,そのまま通り過ぎることにした。
すると,とある交差点のそばに行列が。はて,そんなに有名なカフェがあったかいなと思いながら,その前を通り過ぎると,きしもと食堂と似たような作りの,白壁ながら少し古ぼけたような平屋の建物があった。「本場山原そば」と縦に手書きと思われる看板…というか,ダイレクトに壁に書いたと思われる店。ここもまた,沖縄そばで有名な店であり,テレビや雑誌への露出度は高い。周囲が森しかないから,きしもと食堂に比べると広く見える。メニューもこれまた「三枚肉そば」「ソーキそば」「子供そば」「ごはん」の四つのみ。そして,前二つは(大)(小)という感じ。次はここに機会があれば食いに来ようか。でも「子供そば」って,どーゆーそばだろうか。単純に量が小さいだけか。
伊豆味に行く道は県道84号線。そのまま行くと名護市に行ってしまうので,途中で左に折れて走ること数分で,国道505号線にぶつかる。先月伊平屋島に行くときに通った道だ(「沖縄はじっこ旅V」第2回参照)。そうとなれば,後はそのときに行った道をなぞるのみである。

(3)運を天に任せた場所,もうすぐ消える光景
12時20分過ぎ,伊平屋島行きのフェリー乗り場に辿りつく…その手前にフェンスがあるのだが,そこから港の構内に入っていかずに,さらに左へカーブして続いている道を行く。もう完全にどんづまり,その先は崖しかないっていう手前200mのところにあるプレハブの小さい小屋。これが古宇利島行きのフェリーの切符売り場だ。周囲には数十台の車が停まっていて,どうにも停められそうな場所はなく,結局は船着場から50mほど離れた一角に停めることにした。
早速,フェリーの切符を買うべくプレハブの建物に行く。脇にはいくつかのホームページにあったフェリーの時刻表。見てみれば,13時15分ではなくて25分だった。はて,電話だったから聞き違えたのだろうか……ま,いいや。建物の中に入ると,ちょうど地元のオジさんらしき作業着を着た人が,カウンター越しに何やら話をしているところだった。たしか,もうすぐ開通する古宇利大橋(以下「大橋」とする)のことを話していたと思う。岸壁近くでは小学生らしき子ども4人が,地べたに座って会話している。その前には「離島苦の解消 古宇利島への架橋実現」という看板が掲げてあった。もっとも,その看板は開通と同時に取り外されるのだろうが。
やがてオジさんは,私の存在に気がつくと,そそくさとどいてくれた。カウンターでは,女優・深浦加奈子氏似の女性が,オジさんが去って「やれやれ」とばかりにアンニュイな表情でほお杖をつこうとした瞬間だった。途端に「おおー,びっくりしたー」という彼女の表情。でも,粛々と切符を切ってくれた。日々淡々と来た人間にチケットを売るという彼女の役割(というか,彼女だけでなくいろんな人がやっているのだろうが)も,間もなく終了ということになる。
フェリーの運賃は片道で230円,往復で440円。当然,私は往復で買う。コインカウンターがあったのでちらっと見たところ,100円玉はまったくなくて,500円玉と10円玉のみ。島に行ったらば戻ってくるのがほとんどなわけで,すなわちここでチケットを買う人間のほとんどが往復で買うってことの現れだ。ちなみに古宇利島からの往復だと380円だが,それは古宇利島のほうで買わないといけないのだろう。なお,大橋ができたらフェリーは廃止となる。大橋のことについては後述するが,よって,フェリーで行って橋で帰るという手段は原則不可である。片道で買って100円玉で釣りをもらおうとするヤツは,よほどのひねくれ者であろう。
周辺は古くからの住宅街に,小さい商店が1軒あるのみ。古宇利島で獲れたウニを売っているという張り紙が貼られていた。商店は大きな樹木の木陰となっていて,その下で地元民らしき人たちが,アンニュイな午後に“ゆんたく”をしている。あるいは,彼らもフェリーを待っているのか。商店は建物の半分が小さいながら食堂となっているが,メニューなんて飾られていない。昼飯として決して遅すぎる時間帯ではないが,1人テーブルに座っているのみ。はて,何を食わせるのか怪しい限りである。
まだ時間があるので,とりあえず突端まで歩いていってみる。実に無風の穏やかな海岸線。何度となく書いている源為朝の“運に天を任せた”上陸伝説(「沖縄標準旅」第3回および「奄美の旅ファイナル」第5回第6回参照),1600年代初頭の島津藩による琉球侵攻の上陸港,19世紀半ばの日本開国時にはフランスの軍艦がやってきて開国通商を求められたり,第2次世界大戦のときは軍港になったり――天然の良港であり,沖縄にとっても貴重な港として重宝されてきたこの港は,入江ゆえのその穏やかさとは裏腹に,何度となく歴史の重要な舞台となった由緒ある場所なのだ。
伊平屋島行きのそっけないターミナル(「沖縄はじっこ旅V」第2回参照),それ以上にそっけない古宇利島行きのターミナルを見る。何じゃ,このターミナルは。単なる“田舎の港”じゃん。離島へ行くための中継点。どうして那覇から高速をかっ飛ばして来なくてはいけないのか。那覇空港や泊港から飛行機か船でダイレクトに行けないのか――時にそう思えてならなかったこの今帰仁村の一集落に,実はそういう歴史があったとなると,これまた“価値観”は変わるものだ。自分に都合よく解釈しているだけだろうが,この場所がわざわざ苦労して来るだけの価値がある場所のように思えてくる。
話を戻す。海に向かって突き出た崖の突端の向こうには,大橋がくっきりと見える。その向こうに間違いなく古宇利島があるのだ。大橋はやんばる寄りの島・屋我地島につながっているのだが,こちら側の出っ張った崖の向こうに見えるから,どうしてこちら運天側(今帰仁村側)に橋をつながなかったのだろうと思ってしまう。さっき,上記の「離島苦解消」の看板を外すなどと書いてはみたが,はて外していい状況なのか分からなくなってくる。それくらいにとても近い場所に感じるわけだが,古宇利島はそれでも立派に離島なのだ。どこかで聞いたことがあるが「近くて遠い島」ってところだろう。

突端までは,てくてく歩いても5分ほどで着く。道も「こっから先はつなげんの面倒くせー。トンネルなんてバカらしい限りだぜ」って感じで途切れている。左にある自然のままに土が露出した断崖には,その形状を利用した墓らしき“オブジェ”が見える。ところどころ見える石のフタがそう思わせる。いや…オブジェではなくてちゃんとした墓であるはず。決して芸術家きどりではなかったろうが,こういう位置に墓を作る感覚というのも本土にはない感覚だろう。周囲にブロック塀みたいな石があるので,あるいは崖が崩れるのを防ぐ工事をしている最中なのか。
おそらく高さは20mくらいあるだろうか。そして,上のほうからは「よくぞもっているな」と思ってしまうくらい,今にも根元からボキッと折れてバサッ落ちてきそうに,背の高い細い樹木が逆さにブラーンとなっている。まさしく“バンジージャンプ状態”という言葉がピッタリである。自然のなすがままなのか,はたまた台風でやられたのか。根がしっかり崖の上で張っているが,それがたくましくも見え,またいじらしく見えてしまう。本土にこんな崖があったならば,確実に「立入禁止」の看板が立つくらいに危うい状況だが,看板が何一つない。大らかと言えばそれまでだろうが,ちょっとスリリング光景である。
後で確認したら,多分これは「百按司墓」(むむじゃなばか)というヤツのようだ。簡単にいえば「たくさんの首長の墓」という意味であるが,いくつかあるホームページの説明には「第一尚氏系統の監守たちの墓」とあった――1429年,尚巴志を初代とする第一尚氏王統が,長く続いた南山・中山・北山による“三山時代”から琉球王朝の統一を成し遂げた。この際,北山の中心城・今帰仁城(現在の今帰仁城跡→「沖縄標準旅」第3回参照)に巴志の次男坊・尚忠(しょうちゅう,1391-1444)を派遣。“北山監守”として北部を統治させることにした。
正確なところは不明でいろんな説はあるが,おそらくはこの尚忠から続く歴代の北山監守を葬ったものと思われる。また,中にあったという木棺には,中国年号での「弘治13年」という記述があったようだ。これは西暦に直せば1500年。木棺が比較的新しいとのことで,墓が造成されたのはそれ以前という算段になる。このことからも,上記の説は説得力が少しは出るかもしれない。
墓の前には砂浜。幅にして30mほどか。海を見る形で右側はマリーナ状になっており,コンクリートで固められている。その上には釣り舟が数隻。“人工”と“天然”の露骨なまでの差である。元々ここいら一体がすべて砂浜だったということだろうが,どうせならすべて護岸したほうがキリがいいと思ってしまうのは,本土の人間の感覚だろうか。これもまた「ま,いいやここまでやっとけば。必要以上にやるこたない」っていう感覚だろうか。これを“中途半端”と捉えるか,“合理的”と捉えるか。
来た道を戻る。今帰仁村漁協のそばに小さい御嶽があった。フクギの下に“龍宮神”と書かれた石碑があるのみ。“龍宮”とは「海の向こうには神の住む世界があって,神様が降伏をもたらしてくれる」という“ニライカナイ思想”のことに置き換えられる。漁協すなわち船に乗って海に出る者たちの場所であるから,こんな石碑があったりするのだろうか。そんな聖域の隣にあるテントからは,“ゴボコボ”という水に空気を送り込む音と,モーターらしき音が聞こえる。海の音以上にはっきり聞こえるが,中を見ることはできなかった。多分,エビでも養殖しているのだろう。たしか,絶えず空気を送っていないとダメになると聞いたことがあるし(「奄美の旅」第2回参照)。
この漁協の裏がどうやら入っていけるようなので入ってみる。あったのは「大北墓(うふにしばか)」という墓。さっきの「百按司墓」とつながっている感じだ。十数段の階段を上がると,前にせり出して天然の軒になっている岩の下,高さ2m×幅1mほどの石室。左隣にも似たような石室がある。これまた岩の上からは樹木が今にも折れそうにブラーンと垂れ下がっている。
こちらは百按司墓よりも後の時代。第二尚氏時代の一部を除いた歴代北山監守(1470-1665)を葬ったものだという。元は今帰仁城そばにあったのが,1700年代に移築されたとのことだ。また,そばには“按司”“大正十三年六月”のみ読める古ぼけた石碑があったが,これは大正13年=1924年に石碑が作り直されたことが書かれていたらしい。
ちょうどその時,後ろでガラガラという音がした。一瞬ビクったが,見れば民家の小さい窓が開いてすぐ閉じたようだった。ガサガサと音がしていたから,誰がいるのだろうと思ったのか。チラッと見えた限りでは,オジさんの姿が見えた。まあ,好んで入ってくる観光客はまずいないってことだろう。中心部には遺跡の方角を示す小さい看板があったが,そこから先に看板はない。だから,下手をしたら見逃してしまう位置でもある。
そして,その方角を示す看板の位置まで戻って,「神アサギ」と書かれた場所に向かう。軽自動車がギリギリすれ違えるくらいの狭い道を50mほど行くと,右手に御嶽があった。コンクリート製で幅が4〜5m,高さ2.5mほどの社。中には石ころと香炉があるのみ。神女と子どもが儀式の時に今帰仁村内にある各御嶽をめぐり,ここが最終の御嶽になるとのことだ。あるいは,昔は伊平屋島の「神アシャギ」と同様に藁葺き屋根に木造の社だったのだろうか(「沖縄はじっこ旅V」第6回参照)。
再び港に戻る。来た時より人が少し増えていた。さっきいた子どもは,相変わらずその位置のまま。見れば,彼らが背を向けている岸壁の後ろは,幅2〜3mほどのスロープが海に向かって下っている。なるほど,ここにフェリーが接岸することになるのか。伊平屋島に行くときのような赤錆びた大きなスロープではない(「沖縄はじっこ旅V」第2回参照)。写真で見る限りは,それほど大きくないフェリーみたいだったが,こんなにもシンプルな設備だと,それはそれで「いいのかな?」と思ってしまう。
時間は13時。天気だった空は少ししぐれてきている。風は相変わらず無風だが,天気が少し早めに崩れるのか。予報では当初,今日明日とも晴れだったのが,明日は雨マークがついてしまった。ま,沖縄の天気なんて割と変わりやすいから,明日の天気は明日にならないと分からないのが正直なところだけど,明日はできればサイクリングしたいだけに,できればこのまま曇りでもいいから,雨だけは降らないでほしいものである。

13時12分,フェリーが接岸する。「第八古宇利丸」という名前。何だか漁船みたいだ。例えば「フェリー古宇利」「ニュー古宇利」「NEW KOURI」とか,もうちょっと“それなり”の名前になったりしなかったのだろうか。ま,そんなネーミングにして後悔あるいはブーイングしてきた地元民が少なからずいるだろうと勝手に想像しておこう――ちなみに,このフェリーは1984年から運航を開始。その役目は丸20年で終えることになったわけだ。それ以前は“ポンポン船”が走った時期もあったという。
フェリーは前面が水色,客室のあたりが白という色合い。幅20mほど,高さも客室のところで10mもないだろう。定員が90名程度で,車は6台入れるというが,接岸して中から出てきたのを見たら,ワゴン車2台でいっぱいいっぱいな感じであった。接岸直前に“ベロ”みたいな水色の板が前に開いて,スロープの上に乗っかる感じで停泊する。「あ,こんなに簡単に接岸できるんだ」って感じで,仰々しい感じはさらさらない。間違いなく,今まで見た中では一番小さいフェリーであろう。
出てきた2台のワゴンは,いずれも養護学校のものだった。あるいは巡回訪問なのか。離島だといつでも行けるわけではない。中に子どもが乗っていたが,学校に連れて行かれるのか……そして,数段ステップを上がった船体のヘリにはびっしりと人が。幅は人1人がようやっと通れる程度しかない狭さ。車が出ると人が出る仕組みだ。こちらにいる人間のほとんどが降りてきた誰かと知り合いのようで,お互いに声を掛け合っている。人と人が直にすれ違い,時には船が出るまで数分の立ち話――20年見られたこんな“いつもの光景”も,間もなく見納めとなるのだ。車じゃそうそう立ち止まれないだろう。
やがて,こちらからも人間が乗り込んでいく。なるほど,ヘリの通路は狭い。すれ違うにはどっちかがどかなくてはならない。通路の出入口脇はちょっとしたスペースになっており,大きなボストンバッグや買い物袋などを置いていく人もちらほらいる。まあ,よほどのことがない限りは激しく揺れたり,風に煽られて落ちることもないのだろう。それに雨も降っていないし。
ところで,いまこれを書いている2月12日現在,「美ら島物語」というホームページの“美ら島風景”という写真のコーナーでは,まさにこれから行く古宇利島を紹介しているところだ。その中で,この「第八古宇利丸」の客室の写真があったが,それが何ともノスタルジックで風情のある様子だった。一応は2階建ての船なのだが,潮風を浴びるのも悪くないとはいえ,それを見るべく1階(厳密には車を入れるスペースが1階だから,2階になるのか)の船室に入ることにした。
ほ〜,こりゃまるで昭和40年代くらいを舞台にした映画の“セット”みたいだ。濃いグリーンのカーペットが敷かれた上がりの間とベンチシート。上がりの間は周囲が板張りで3畳程度しかない。人が5人も入れるかどうか。ちょうどストーブが置かれてあった。そして,緑に白を混ぜたような色のベンチは3〜4人がけ。これが真ん中の狭い通路をはさんで左右に四つずつある。上がりの間だけかと思ったら,船室全体がこれまた板張りである。上を見上げると,4箇所に扇風機。私が座った出入口そばにスイッチがあった。ま,片道10分程度ならばクーラーは取り付けるだけ,コスト的にもムダなのだろう。船室内は不思議な甘い匂いがしたが,はて何の匂いだったのか。
結局,船室内は10人もいなかったと思う。そんな中,ジャンパー姿の中年オジさんがテレビカメラを持って,船室に入ってきた。セーター姿に,ずり下がり気味にジーパンを履いた若い女性と一緒である。カメラを見たら「NHK」のロゴが。NHK那覇だか沖縄の取材クルーか。2人の後にはワイシャツ・チノパンの30代後半くらいの男性が,青いファイルを抱えて乗り込んできた。3人で,来る大橋開通&フェリー廃止に向けて“ネタ”でもゲットしてこようということだろう。
13時25分,定時出航。無論,私は今日が初めて(で最後)の乗船であるわけだが,淡々と“いつも”のように岸を離れていく感じである。そこには紙テープを港に向かって投げるような“別れのドラマ”なんてものは間違いなく成立しない。どっちみち日帰りで帰るからというのもあるだろうし,何より,繰り返しになるが乗っているのは10分程度。だから,フェリー独特の“寂寞感”みたいなものがまるでない。「これからしばし船旅」と言うには,船は小さいし時間は少ないのである。
屋我地島と本部半島に挟まれた,その名も“運古(うんこ)海峡”を抜けると,少しだけ波があったようで揺れる。そんな中,ジャンパーを着たオジさんたちがカメラを持って外に出る。何か撮るべきものでもあったのか……のどかに流れる景色を眺めているうちに,古宇利島に到着する。どういうわけかクルーの3人は早めに降りたかったようで,「すいません。通してください」と言いながら,人をかき分ける。丸見えの車両置場を見ると,奥に大きめのタクシーとワゴン,出入口側に大型トラックが1台と合計3台が停まっていたが,タクシーとワゴンは船室の壁まであと数cmという位置で停められていた。両車の隙間自体もほとんどない。一体,6台ってのは何を基準にしているのか。軽自動車やミゼットとかじゃないのだろうか。

古宇利港に接岸すると,まずは車から先に出ていく。そういえば,タクシーは何のために上陸するのだろうか。地名を見ると本島の会社だし,島は周囲7kmほどの小さい島というから,タクシー会社が営業できるような場所ではない。何人かの客が「なんで,タクシーが?」と話しをしていたが,何のことはない,NHKのクルーが手配したヤツだったのだ。タクシーで島をめぐりながら,取材をしていこうっていうことか。歩いて回るにはカメラが重いだろうし。
さて,当然だが私を迎え入れる人はいない。ほとんどは島の人間であり,彼らはだいたい迎えの車に乗せられていく。ターミナルというよりは単なる“接岸場所”の前には,民宿兼商店が1軒と,他には単なる住宅があるだけ。サイクリングをやっている店もなさそうだ。民宿兼商店ではオバアが1人,庭からこちらを凝視するように見つめている。ドリンク類を買おうと思ったが,その視線に“敗北”して立ち去ることにする。まあ,自販機くらいならどこかに置いてあるだろう。帰りのフェリーは17時。時間は3時間余りある。とりあえず,島を半時計回りに歩いていくことにしようか。(第3回につづく)

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