沖縄はじっこ旅U

(1)ハートアイランドへ
時間は14時前。昨日(第6回参照)と同様に,このまま日航八重山に帰るのはあまりに芸がなさすぎる。もうここは近場でかつ2度行った場所であるが,竹富島に行ってコンドイビーチでまったりしようかと思う。八重山観光フェリーの建物に行って,往復乗船券(1100円)を購入する。すぐそばの桟橋から乗船し,14時出発。乗船率は半分程度だろうか。
一昨日の黒島との往復(第1回第3回参照)に比べれば,波は大分和らいでいる感じだ。あっという間に
島影が近づき,竹富島桟橋には,14時15分到着。目の前には前回訪問時にはなかった巨大な待合室。中は冷房が効いていて,100人は入れる広さがある。トイレも自販機も完備され,加えて観光案内所もある。さらには,海に突き出していただけの桟橋に,これまた雑然と停まっていただけのマイクロバスは,「→集落方面」「←コンドイビーチ」という分かりやすい看板の指示の下,駐車場の隅にあるバス乗り場に分かれて停まっている。
いやいや,2003年1月の前回訪問時から1年8カ月経っているが,わずかしか経っていないと思われる時間で,この島はかなり変わってしまったようだ。はなはだ僭越ながら,この島にはあまりに似つかわしくない便利さになったと思う。とはいっても,どっかのマイクロバスに便乗するよりは,堂々と言わば“路線バス”に乗れるわけだから,楽っちゃ楽であるのも事実だ。とりあえずはコンドイビーチを目指す。なので,左に折れることにする。
……なーんだ,おじさん寝てるじゃん。「コンドイビーチ」と書かれたプレートが見えるマイクロバス…というか8人乗りのワゴンは,限りなくオジイに近い,メガネをかけて髪が少しボサ加減のボサおじさんが運ちゃんであるが,シートを倒して眠りこけているのである。少し離れたところには集落行きのワゴンに乗ったお姉さんが「ありゃ〜」って感じでこっちを見守っている。
とはいえ,ここは連れて行ってもらわにゃ困る。当然ながら有償であり,300円も取られるのだ。助手席の窓が開いていたので,「すいませーん」と声をかけると,「…あ,はいー,すいません」と起き上がる。ドアは……普通,こういうときはおじさんが開けてくれるか,はたまた自動ドアなんて機能がついているのもあるのだが,別にそんなサービスや恩恵などハナっから受ける気がなかった私は,手動でドアを開ける。結局,ワゴンには私1人しか乗らずに出発。
桟橋からはコンクリートの整備された道。これは前回訪問時にはすでにあった。それを200m程度進むと,ワゴンは右に折れる。これまたコンクリートの整備された外周道路である。桟橋と集落との道ほどではないが,こちらも新たにできた道であろう。周囲ははじめ畑しかなかったのが,そのうち海岸に近づくにつれて,左右は草むらになる。往来では2〜3人のグループを何度か見たが,いずれも観光客であろう。
彼ら・彼女らのうちで,10年前の素朴な限りの島を知っている人はどれくらいいるのだろうか。きっと,「竹富島は小さいのに,船は多く出ているし,桟橋に大きな待合室もあるし,マイクロバスが走っていて便利だよねー」とみんなで会話しているんじゃないか。嗚呼,素朴な限りの竹富島を知らない彼ら・彼女らは,気の毒っちゃ気の毒である……うーん,ちょっと“オヤジ”が入って,昔を懐かしんでしまった。

さて,ワゴンは間もなく道路を右折。目の前に再び“Simple is beautiful”な海岸が拓けた。1年8カ月ぶり。入口脇のスペースにはワゴンが1台。どうやら,ここがバス停のようだ。おそらく,ビーチと集落を結ぶバスもあるのだろう。人はそこそこ出ているようだ。とはいえ,時期が9月だから,そこそこで済んでいるのか。あるいは立地が集落から離れているのもあろうか。7月の阿波連ビーチ(「サニーサイド・ダークサイドU」第5回参照)ほどのゴミゴミ感はない。ここでは……もちろん私が手動で開ける。ま,いいか。
先に進む。左にはしっかりした建物のトイレとシャワー施設がある。これは前回訪問時にはなかったと思われる。壁には衣服がいくつかかけられていたりしている。それに連なるように防風林と思われる低い緑が植えられており,そこに集まるように人々がシートを敷いて連なる。そして,Tシャツを着た若い男性が,台車みたいなのを持ってあちこちで何か拾っている。おそらくはゴミであったり,海草であったりするのだろう。美観を保つためのボランティアだと思われる。彼は一定の量を拾い上げると,ビーチの端っこにある集積場にそれらを捨てている。
私がかつてこのビーチに来たときは1月と3月。3月は東京でいう梅雨の晴れ間くらいの暑さがあったが,いずれにせよオフシーズンだったから,このそこそこの人を見ることすら新鮮である。“プライベートビーチ”と言うにはあまりに傲慢だろうが,ホントはまったく人がいないコンドイビーチを望んでいた私としては,ちょっと俗っぽくなっていい気がしない。
波打ち際に近づく。と,沖合いに何か白く浮かんでいるのが見える。奥行きは見えないが,左右は50〜60mくらいあるのだろうか。その向こうには白波があるにはあるが,昨日までの激しさはなく,普通の波くらいにはなっているようだ。さらにはぼんやりと島影が見える。何だか遠近法チックな感じ。手前に濃くスミアミ70%くらいに映っているのが小浜島で,遠くにスミアミ20%ほどに映っているのが西表島であろうか。陽射しはほとんどなく,空がいささか曇り加減になっており,また少しガスっているのだろう。肌をなぜる風は涼しくて気持ちいい。
そして,白く浮かんでいるところには,乗っかって動いているような人の姿も見える。数えられる限りでは,20人くらいはいよう。砂州でもできているのだろうか。初めて見る光景である。そこへ行く人を見ている限り,深さは太ももかお尻くらいしかなさそうだ。とはいえ,ここへ来るのは予定外だったし,そもそも海水浴をするつもりがないから,水着とかは用意していない。無論,ボートで行くような距離も深さもない。黙って人の往来を見ているしかない。
ふと,足元を見つめると灰白色の石ころみたい物体がうごめいている。よく見ると,やどかりのようだ。それも数匹いるよう。ま,生物学者じゃないから厳密な種類とかは分からないが,小指のツメの大きさもないかもしれない。私がちょうど目をつけたヤツは,上から影になるような感じで近づくと,出していた手足を引っ込めて動かなくなった。多分,何か危険でも察知したのかもしれない。1分ほど経過しても動かないから,試しにペン先でツンツン(キャップはしていた)してみたが,それでもなお動かない。ま,ツンツンやったからかえって動かなかったのかもしれないが,それからまた1〜2分すると,再び手足を出して動き出した。
別のところを見てみると,マーブル色をしたヤツと白いヤツが,ちょうど身体を離したところだった。一体,何をしていたのだろうか。それぞれ別の方向に行ったまま,ついぞ再び一緒になることはなかった……かどうかは知らない。また,別のところでは白いヤツが淡々と我が道を歩いていく。あるいは,親指のツメくらいの大きさのヤツもいたりと,見ているとなかなかハマってしまうものだ――実は日航八重山のロビーの一角に,木箱に入れられた「ヤドカリの家」なんてのがあり,そこでは何匹ものヤドカリがゴソゴソと音を立てて箱の中を動いていた。それを見て以来,どうやらハマってしまったらしく,毎朝あるいはどこかに行った帰りなんかに見てしまったりしていた。下にはおがくずやら砂やらが敷かれていて,生意気に赤瓦の家なんかもついている。
話を戻そう。再びさっき私が目をつけたヤツ。砂が滑らかでフラットになっているところでは順調に進むのだが,たまに“ラフ”になっているところだと,ヨッコラヨッコラしながら身体を上下左右に揺らして進んでいく。はたまた身の丈の倍くらいの窪みにも,脇道することなく愚直なまでに入り込んで抜けていく。人生…もとい“カリ生”とは,このようなものなり。これまた身の丈の倍はあるサンゴの硬い石にぶち当たったときも,これまたそれをよけて歩くことなく,身体を傾けながらも前進していく。
多分,私の記憶に間違いがなければ1.5m進むのに,5〜6分かかったのではないか。すなわち時速15m。そのまま行ってしまえばいくらもかからないのに,途中でおもむろに身体を丸め込んでしまう。別にそこには私の影は覆っていないから,今度は彼なりのペースなのかもしれない。穏やかに打ち寄せる波打ち際まで約60〜70cm。あるいはもう少し待っていれば,見事に波打ち際まで到達するかもしれないが,ひょっとして彼の目的地はそこじゃないかもしれない。ま,こちらも“時間”が限られていることだし,立ち去ることとしよう。
ふと,入口まで戻って左を見ると,忘れ去られたようにすっかり古ぼけたコンクリートのベンチがある。で,15m×8mほどの低く積まれた石垣で囲われたスペースに5〜6基あった。周囲にはフクギだろうか。樹木が高く立っていて,それが天然の木陰を作り出している。あるいは,昔はここが休憩スペースだったのだろうか。反対側はワゴンが停まる停留所であるが,脇には来たときにはなかったチャリ数十台。そうか,ひょっとしてこれからが海水浴タイムになるのか。

さあ,せっかく竹富島に来たからには,このままビーチから港へ直行して石垣に帰ってしまうのはもったいない。集落へも寄っておきたくなったので,外周道路を越えて,ジャリの小道を入っていく。すれ違う人は結構いるが,圧倒的に自転車である。さぞ,車輪を取られて走りにくいだろうに。
個人的には,なぜかこの島に来ると歩きたくなってしまう…というか,「歩いてナンボの島」というこだわりが私にはある。特に集落の砂道は,直に踏みしめて歩くことによって,竹富島に来ていることを実感でき,竹富島に対して一種の“愛おしさ”すら生まれてくるというもの。自転車じゃせっかくキレイに馴らした道が痛んでしまうのではと思ってしまう。いわんや,バイクをや,車をやって感じだ。
やがて,コンクリートの立派な舗装道路。集落の周回道路だ。前回訪問時は,まだ工事中で一部がコンクリート,一部がジャリ道といった状況だったが,見事にキレイな舗装である。無論,道路の舗装に見事も何もないのだろうが,この島にとっては上等ではないか。むしろ“やり過ぎ感”すら感じる。そこを颯爽と走り抜けるサイクリングの人々……つくづく愚かな光景と思ってしまう。
この周回道路を北に行ったところに,竹富島ビジターセンターというのがあるという。集落の端っこに位置しているが,ここは行ったことがない。なのでぜひ行ってみたいが,ふとあることを思い出して途中から集落へ入り込むことにする。入って間もなく「民宿小浜荘」というのが見えたので,入った道は間違いない。とはいえ,割と込み入っているので,しっかり持参した『やえやま』などを見ていないと,迷ってしまいそうである。
その行ってみたい場所は,途中で右に折れて間もなく右側に見えたが,まずはその向かいにある清明御嶽(せいめいうたき)を見る。竹富島創造の神と於茂登岳(前回参照)の神をまつったものだという。鳥居からアプローチ10m,赤瓦に幅・高さ2〜3m四方のコンクリートの社。建物の奥には拝所があって砂が盛られている。奥の壁は通り抜けができ,小さな石が置かれている。
……お待たせ。上記「行ってみたい場所」であるが,それは「竹富診療所」である。その名の通り,竹富島で唯一の診療所だ。平屋立ての横長の建物と,その前には同じくらいの大きさの庭。ちょうど,主らしきTシャツ・短パン姿の白髪の男性が軽自動車を洗車していて,隣では赤いシャツを着た女性が何か作業をしていた。奥さんだろうか。はたまた,地元で懇意にしている人なのだろうか。無論,診療所に入る“しかるべき用事”はないので,遠くから眺めるのみである。
ここになぜ来たかったのかといえば,何のことはない。テレビ東京の特番――どんなタイトルだったかド忘れしてしまった――で,ここの主,すなわち医師がテレビに出たのである。指田勢郎(さしだせいろう,1932〜)氏。熊本県出身。東京で開業医をしていたが,数年前に息子にゆずってリタイア。しかし,かねてから好きで行っていた竹富島で,知人を通じて島に医者がいないことを知り,渡航して常駐医になる決意を固めたのだそうだ。任期は今年2月から1年とのこと。
指田氏は中でも,この竹富島で亡くなった場合,死亡診断書を書く医師がいないために変死扱いにされ,検視のために石垣島に運ばれて解剖されて,再び島に戻されることになるとの話に衝撃を受けたのだという。その後,医師を紹介してくれるよう頼まれ,適任者選任に苦労していたため,「ならば自分が」と決意したそうだ。
もちろん,元々から医者がいなかったのではない。島にはかつて“医介輔(いかいほ)”と呼ばれる男性がいて,1993年から島民の診察に当たっていた。親盛長明氏(おやもりちょうめい,1915〜)。こちらは生粋の竹富島出身。小学校時代に事故で右手を失った過去を持つ。元々は1942年,竹富診療所の書記として入った。すなわち,医者ではなかったのだ。しかし,時代は第2次世界大戦のどさくさの中。彼も日本兵の負傷者治療を手伝うことになった。あるいは補給路が断たれて薬品が届かなくなると,自ら医学書をめくって注射薬を調合したこともあったという。
このときの経験が,親盛氏のその後を決定づけることになる。壊滅状態に陥った沖縄の医療体制を立て直すために,琉球アメリカ国民政府は1945年,戦時中の衛生兵,医師の手伝いをしていた者,医療学校中退者など医療の経験を有する者に「医師助手」という資格を与え,医療に従事させることになった。その後1951年,資格試験によって奄美を含め126人が「医介輔」として登録され,親盛氏もその1人となった。これにより「医師助手制度」は発展的に廃止され,彼ら医介輔は,その後地域の第一線(特に離島・僻地)で医療機関の要として活動することになる。その当時の医師登録者が64人。医介輔の半数だ。いかに医療に携わる人間が急募されていたかが分かるだろう。
さて,親盛氏が医介輔になってからの仕事は,まず八重山保健所出張所長との兼務で西表島は大原への赴任。当時の西表島といえば,マラリア感染地域(第6回参照)で,その撲滅に向けての過渡期であった。そのマラリア撲滅と寄生虫駆除に取り組みながら,患者の治療に当たった。出産で赤ん坊を取り上げたことも,イリオモテヤマネコの治療に当たったこともあったという。しかも,交通事情は最悪で,集落同士を結ぶ道も,また橋なんかもなかったそうだ。
1975年に保健所を退職した後も西表島にとどまり,診療所を開設して診療を継続。そして1993年,生まれ故郷の竹富島に帰ってからは,上述のように竹富診療所での診察の日々が続いた。50年にわたる医介輔としての精力的な活動が認められて,2000年には「吉川英治文化賞」を受賞。それから2年後の2002年3月,高齢と腰痛によりリタイアすることになったという。
それからしばらくは,週1回石垣島の診療所の人間が来島して診察をする状態が続いたが,上述のように東京から指田氏がやってくることが決まったというわけだ。親盛氏は指田氏と会って,指田氏の決断を大変喜んだそうだ。そして,それまで竹富島に来ていた石垣島の診療所の人間は,やはり数カ月もの間無医状態になっていた黒島診療所に行くことになったそうである。
ちなみに,この医介輔制度は本土復帰を目の前にしてにわかに存続が危ぶまれた。ネックは,「医師以外は医療行為をしてはならない」という日本国医師法第17条。1969年に「医師助手廃止」の廃止の法令が出され,医介輔制度は法的根拠を失うことになる。しかし慢性的な医者不足と,地元住民から厚い信頼を受け地域医療の要となっていた医介輔の廃止は現実的に不可能であった。そこで,沖縄医介輔会等の働きにより琉球政府は「限定した地域における一代限りの診療」を条件に介輔の存在を認めることになった。しかも,1971年には日本国でも医師法とは別個に,医介輔の医療業務が認められるようになったのである。
とはいえ,沖縄での医介輔の数は年を追うごとに減り続けていて,いまや数人。しかも,年齢は80歳を越えるという。よって,指田氏のように自ら手を挙げて島に来てくれる例というのは,おそらくきわめて稀な恵まれたものなのだろう。昨年のフジテレビドラマ「Dr.コトー診療所」では,僻地医療が取り上げられて話題になったし,はたまたTBSの「ブラック・ジャックによろしく」も高視聴率を上げ,医療の在り方についてかなりの関心が集まった。沖縄に限らず,地方に行けば行くほど,医療の在り方はより“原点”に近い姿を見せるという。物語での感動話が現実になる時はいつになるのだろうか。

この辺りは,まだ来たことがない場所である。近くには学校の建物があったが,竹富小・中学校である。前回旅行時は正面から見ていたから,この辺りに来ることがなかったわけだ。時間は15時過ぎ。しかも平日だから,学校からは先生と生徒の声が聞こえてくる。校庭があいもかわらずだだっ広いのは地方ならではだ。見える範囲にはブランコと鉄棒が置かれていた。
さて,今度向かう先は竹富島ビジターセンターである。集落を北上していくと,道は次第に砂だけになっていく。毎朝の掃除が日課と聞いているが,それだけのことはあるキレイさである。いよいよ「竹富島 of 竹富島」って風景である。ふと,左上に人の姿が見えると,そこは「なごみの塔」である。今回は上らなかったが,ここは竹富島に来たら,やっぱり1回は上っておきたい場所であろう。
そのまま進むと右手に水牛数頭の休憩場。地元・新田観光の水牛観光用である。上に樹があって木陰になっているから,場所として都合がいいだろう。ちょうど1台が出発するところだった。テーマは「牛に引かれて竹富島巡り」。人間よりもスピードは遅くてゆったりしていいだろうけれど,うーん,やっぱりこの島は「歩いてナンボ」である。
さらに進むと,右手には「竹の子」という食堂。赤瓦に木造の小屋っぽい建物。時間は15時半と半端なのにもかかわらず,中から出てくる人がいた。八重山そばが美味い店であるが,それよりも有名なのは「ピーヤシ」という調味料。八重山に自生するヒハツモドキというコショウ科の植物の赤く熟した実を乾燥して粉末にしたもので,香りも味もコショウとは似て非なるものだという。赤い実というから,唐辛子っぽい感じなのだろうか。
そして,竹富島ビジターセンターである。フクギの下に赤瓦の家よりちょっと大きめな資料館。マイクロバスが3台も停まっているし,チャリもそれなりに停まっているから,さぞメジャーな場所なのだろう。でも,中に飾られていたのはサンゴばっか。大して興味湧かず。入館料が無料だったのが救いか。土産屋が隣接しており,思わずオレンジのシーサーのマスコットを買う。300円。
あと,もう一つ見ておきたい場所。それは「喜宝院蒐集館」(きほういんきしゅうかん)である。ここも見そびれている。なーんだ,結構見ていないんじゃーん……パッと見,普通の民家っぽい建物だが,門の左に大きな壷があって,そこに「蒐集館」と書かれている。一方の右側には石垣に「喜宝院」と書かれたプレートがはめ込まれている。
館内に入ると,館主らしき中年の男性が誰かに説明をしているところだった。入場料が300円なのだが,ドア脇の館主が座っている机の上にお金が入ったカゴが置かれていて,脇に「ここに入れてください」という貼り紙。はて,目の前に館主がいるのにいいのかな。しかも1000円札だし……たまたまカゴの中に500円玉と100玉が2枚あったので,1000円札と引き換えにそのままゲットしてしまう。ちょうど向こうも私に気づいたようで,「すいません,お金入れときました」と言うと,「あ,はい。いいですよ」とのこと。うーん,ビミョーな空気が流れているような気がするのだが,よかったのだろうか。
この館主が実に愛想がよく,ユーモアたっぷりに展示物を説明してくれる。私も数人とともにガイドしてもらう。その中でやっぱり印象に残るのが“藁算”と呼ばれる道具。見た目は藁にムカデみたいな枝がついているようなものだが,文字を持たなかった当時の島民の知恵がそこにはある。その名の通り,藁にはいろいろな結び目を作られている。結び目の形,結び目の大きさ,結び目の位置,結び目の数によって,それぞれ意味は異なるようになっている。そして,その結び目の下には各家の“屋号”を書き入れる。この屋号も文字ではなく,完全に記号(厳密には“象形文字”と言うべきだろうか)である。これによって,「いつ誰から何をいくつもらった」という記録をしたのだそうだ。
そんなようなことを,館主が笑顔たっぷりに説明する。ついでに,話を聞いている若いカップルが横浜の人間だそうで,東京が今年記録的猛暑になったことにも触れていたが,沖縄は海洋性気候によって気温が高止まりで安定していることも話してくれた。34℃を越えることはめったにないのだそう。東京じゃ,下手したら今年は34℃を下回ることのほうが少なかった気もしないでもない。
その他にはサバニ・通貨・農耕具・切手など,民俗関係の資料が多数展示されている。また,館内奥には「喜宝院」の名前の通り,寺院が併設されている。ここが日本最南端の寺院だそうだ。館主いわく,浄土真宗本願寺派。小さい仏像が数体飾られていて,仏壇があるにはあるが,いかんせん資料館の延長上にあるから,寺院っぽい感じはあまりしない。
ちなみに,これらの道具を集め,また喜宝院を建立したのは館主の父上様。この人物こそ,竹富島における重要人物・上勢頭亨氏(うえせどとおる,1910〜85?)である。ここ竹富島出身で,仏門に入って島で寺院を営む一方,いわゆる“ハード”“ソフト”両面から島中の民俗資料を集めることに腐心したという――蛇足ながら,「参考文献一覧」で紹介している司馬遼太郎氏の『沖縄・先島への道』では,司馬氏が実際この上勢頭氏と会っている。そのときの上勢頭氏の姿が“かなり枯れた感じ”で,当時60歳台だったという上勢頭氏を80歳台かと思ったと書かれている。
話を戻す。上勢頭氏の存在の大きさはそれだけではない。沖縄が本土復帰した際,本土資本がこぞって入り込んだために,沖縄の島のあちこちに大型ホテルなどが建ったと言われているが,この島に限っては島民が皆で団結してそれを阻止したというのである。なので,竹富島には現在でも民宿が数軒あるのみなのだが,その中心にいたのが上勢頭氏だそうだ。
今でも島の申し合わせで,旅館やホテルはご法度となっているという。その一方で,つい最近その本土の某有名資本の社長だかが,宮古島からここに引っ越してきて,竹富町の所得高が一気に跳ね上がったとかいう話もあるそうだ。はて,どんな自宅なのだろうか。あるいは上勢頭氏が生きていたら,どんな局面になっていたのかも興味深い。

これにて観たいものは観終わったが,竹富港に戻ろうとすると,左に木造の古い平屋建て。5m四方くらいの大きさで,中は板敷きである。人の姿はまったくないが,実にきれいに整えられている。「こぼし文庫」という名前のこの建物の中は,とあるエッセイストの書物をはじめとして,児童文学の類いの本がいくつもの棚にびっしり入っている。聞けば,そのエッセイストが自ら買い取って,島の子どもに開放するために図書館の形態にしたという。
そのエッセイストとは,岡部伊都子氏(おかべいつこ,1923〜)。私はそれまで存知上げなかったのであるが,つい最近,NHK教育テレビの「ETV特集」に出ていて初めて知った。大阪生まれ。彼女と沖縄とのかかわりは,婚約者を沖縄戦で亡くしたことに端を発する。当時10代だった彼女は,戦地に行くことに不安を吐露した婚約者に「何言ってるの。私だったら喜んで行くわよ」と叱咤して送り出したという。そして……彼女は戦後,自分の取った行動をものすごく後悔したという。1946年には別の男性と結婚するものの,1953年に離婚。翌年より,文筆活動を始めることになる。
本格的な沖縄への渡航は,まだ米国統治下に置かれていた1968年。そこで沖縄戦の真相と,現在置かれている沖縄の現実を目の当たりにし,自身の戦争時に取った行動を公表する。そして,沖縄を“心の故郷”と決め,以来,沖縄と自宅のある京都との往復を続けている。そして,沖縄への深い愛情と非戦の思いを文学作品や講演で発表している。たしかテレビでは,佐喜真美術館(「沖縄・8の字旅行」後編参照)での講演と,竹富島での島民との交流の場面が流れていたと思う。生まれつき身体が弱いとのことだが,御年すでに81歳。彼女をこんなにも長く支えているのは,よくも悪くも,婚約者を死に追いやったという“自責の念”なのだろう。
もうこれで十分だ。てくてく歩くと,再びコンクリートの“らしくない”立派な舗装道路。でもって,行きには気がつかなかったが,「ゆがふ館」というこれまた立派なデカい建物が。今年6月に開館した,竹富島の自然と伝統文化・芸能などを伝える施設だそうだ。こんなハコモノ,はなはだ失礼ながらこの島に必要なのだろうか。ただでさえ天邪鬼な私は,こんな建物には見向きもしなかった。
その代わりと言ってはなんだが,入口にある小さい石垣の囲いを見ることにする。石垣の高さ自体は1.5mほどの低さ。「フナヤー跡」という名前のここは,船待ち小屋だったそうだ。小屋といっても,囲い自体は5m×3mほど。トイレくらいの大きさしかない小ささだ。中は草ボウボウである。
16時35分,竹富港到着。西表・舟浮ツアーがポシャった代わりというには失礼かもしれないが,予想外に竹富島では楽しめた。やっぱり,ヤドカリ観察に限るだろう。また,どっかの海岸に行ったときは,見入ってしまうかもしれない。それと,この島の変わりようが見られたのも,あるいはよかったってことなのかもしれない。今度来たときは,集落の中もすべて舗装されてしまうのだろうか。いや,まさかそこまでは行かないだろうが,着実にこの島は「観光客の島」になりつつあることはたしかだ。ちょっと複雑な思いをしつつ,16時50分竹富島出発。

石垣港には17時10分に到着。晩飯をどこかで食そうと思うが,いかんせん半端なので港近くで見ていなかった「美崎御嶽」(みさきおん,みしゃぎおん)を見ることにする。住宅街の中,空地の端っこに祭壇があるだけ。なーんだ,名前はよく聞くけどこんなものか……なんて思っていたら違ったようで,少し歩いたところに大きな広場。入口にはいつもの通り鳥居があり,アプローチ15m,立派な樹木の下に鎮座する赤瓦の社。軒にしめ縄もされていた。その土台におじさんが腰掛けて足元にツバを吐いていたが,はてバチは当たらないのだろうか。
ここは,1500年のオヤケアカハチの乱で勝利した政府軍に加担した真乙姥(第5回参照)が,帰りの無事の渡航を祈願し,それが叶ったために建てられたという。以来,政府役人の利着任時,農耕儀礼などで神女や高官が祈願したという。私は見損ねたが,拝殿のところに石門があるそうで,それが首里城下にある世界遺産・園比屋武御嶽石門(「沖縄“任務完了”への道」第2回参照)に類似するそうだ。鳥居脇にある文化財保護の碑の日付が1936年2月であったから,いかにこの石垣島で重要な位置付けであったことがうかがえる。
さて夕飯。結局行ったのは,前にも行った「ゆうな」である(「沖縄標準旅」第7回参照)。隣接する「山海亭」は休業。あるいはここで勇気を出してヤギ刺しを食おうかと思っていたが残念(第6回参照)。中に入ると時間が早いのか,まだガラーンとして人がいない。1人なのでカウンターに座る。魅力的な石垣牛,前回食した10品以上つく「ゆうな特定食」もあるし,一品料理もいろいろあったが,迷いに迷って今回食べたのは「牛肉とナスのチャンプルー」(525円)と白飯(105円)のみ。随分,シンプルな食事だ。いくら胃袋を現実に戻さなくてはならないといえど,一瞬寂しい気もした。
そして出てきたのは,17〜18cmの少し大きめな器に盛られたこげ茶色の物体。色の原因は味噌である。厚めに切られた牛肉は石垣牛……であることを願いたい。そして,ナスもいい感じに炒められている。濃い味付けが私にはとても美味い。どんどん白飯が進んでいく。白飯には小鉢でたくわんがつくが,都合三つの器はトレイに乗せるには十分な大きさである。器と器の間にできた隙間がどこか侘しい気もする。まだまだ何皿か乗るに違いないが,別にひがみとか寂しさ紛れでも何でもなく,ホントの私の胃袋はこんなにシンプルでも十分なのである。そして,これまたひがみとか寂しさ紛れでも何でもなく,十分に私の空腹を満たしてくれたのであった。(第9回につづく)

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