沖縄はじっこ旅U

まったく,ソングダー対策がやっと終わったと思ったら19号か。後で確認したら,名前は「サリカー」というらしい。「ま,18号も発生してからこっちに来るまで1週間かかりましたから,多分大丈夫でしょうけど」とフォローはしてくれたが,決して楽観視してはなるまい。ひょっとして,やっぱりキャンセル待ちにした方がよかったのか。
「泊まるのは延ばしたんですか?」
「ええ,とりあえずは今日1泊は」
「そりゃよかった。ま,向こうからも来られないとな
れば,次に泊まる人間自体が来ないんですから,
部屋は確保できるでしょ」
なるほど,理屈から言うとそうである。でも,1泊1万500円だから,4日も泊まれば単純に4万円以上だ。まあ,こればかりは仕方ないが,あるいは別のところに変えるか。でも,他が空いていなければどうしようもないし。さっきフロントでやりとりを聞いていたら,そのまま延ばす分には台風による割引が適用されるようだが,1回チェックアウトすると正規料金になるという。
10分ほどで,日航八重山に到着。あ,8日まで延ばしたのだから,後でさらに延泊しなくてはいかんのか。ま,多分大丈夫だろうけれど,今日中にはやっとかないと。ひとまず,休憩がてら部屋に戻ってテレビをつける。「サンデーモーニング」の前に観るべきは「お天気チャンネル」だ。なるほど「サリカー」がサイパンのあたりに発生しているが,中心付近の気圧は980ヘクトパスカルだそうだから,それほどでもない。コースも速度も悲観するほどではない。ただ,油断は禁物だろう。
そして「サンデーモーニング」を観る。もちろん「喝!」のコーナーだ。何と言ってもプロ野球選手会のストの話。8日がオーナー会議だというから,帰ってきてから夜のニュースが興味深い……ま,多分帰れるであろうけど,「普段の行いがいい」だけにどこかやっぱり不安もよぎる。

@ウミガメを見て,ショートケーキを食べる
9時半,外に出て西進する形で散策する。天気はまずまずだが,やはり風はある。でも,昨日の夜から風速は10mちょいあるとはいえ,こんな風は本土だってたまには吹く風である。何も特段変わった気配はない。すぐの十字路を左折して南下。向かった先は宮鳥御嶽(めーとぅるorみやどりおん)。60〜70m四方はある敷地の入口には白い鳥居が。隣には「みやどり幼稚園」という幼稚園がある。本土でも神社や寺に隣接する幼稚園があるが,それと同じであろう。
20mほどのアプローチで,6〜7m四方の少し大きい木造・赤瓦の拝殿。パッと見,古民家の拝殿はドア大の大きさの空間があって通り抜けができる構造であり,その奥に5段のステップがあって(サイドにもステップあり),上は15m四方の壇上となる。ここからが本格的な聖域なのだろう。まず2m四方の山門があって,壇上は腰ぐらいの高さの石垣で囲われている。そして,その向こうにこれまた門があり,その先樹木の下に石造の拝所という配置。少し記憶が曖昧であるが,だいたいこんな感じである。
宮鳥御嶽を西進すると,今度は真乙姥(まいつば)御嶽という御嶽。腐るほど書いているが,入口にある鳥居からアプローチ10mほどのところに,これまた腐るほど書いているが,5〜6m四方×高さ3mほどの赤瓦に白壁で木造の拝殿がある。下はフローリングっぽい板張りで,左右一対と思われる香炉が祭壇に置かれている。これまた奥はドア大の空間があって通り抜けができ,その奥は石門があって,数m四方ほ背の低い石垣が囲っている。その中にもまた拝殿らしき石造物がある。ここがホントの意味での拝所であろう。
周囲は10m以上の高さの樹木に囲まれており,なかには,看板に書かれていたのであるが,樹齢200年とも300年とも言われるアコウの木があるそうだ。このアコウや,また沖縄でよく見るガジュマルも,あるいは首里の金城の石畳道途中にあるアカギ(「サニーサイド・ダークサイドU」第4回参照)も,その下には御嶽があるという共通項がある。いずれも実にたくさんの気根なり枝葉を出していて,その様がある種グロテスクでもあるのだが,それがまた神聖さを醸しだし,人々の信仰心の分かりやすい対象となるのだろう。
この真乙姥とは女性の名前。彼女がまつられている墓ということだ。彼女は「宮古島の旅アゲイン」後編などで紹介している1500年のオヤケアカハチの乱に出てくる人物。この乱に政府軍,すなわちアカハチの敵陣についた1人が彼女なのだ。それには,同じく政府軍について討伐に貢献したとされる陰の殊勲者・長田大主(なーだふーず)の存在が大きいのだが,彼女と長田大主とは兄妹なのである(父娘という説もあるが,とりあえず多数を占める“兄妹”とする)。
なるほど,だったら当然のことかもしれない……と思ったら,面白いのはこの真乙姥の妹の古乙姥(こいつば)が,何とオヤケアカハチの妻だったりするのだ。すなわち,兄妹で仇関係なのだが,昔の戦国時代だったら日常茶飯事なのだろう。当時は“天下統一”で,そして戦争のない穏やかな現在は“財産相続”で――兄弟が仇関係になるというのは,いつの時代もあるものなのだろう。歴史は形を変えてでも繰り返すものなのかもしれない。
その真乙姥御嶽のそばには,その名も真乙姥井戸(まいつばかー)がある。十字路の近く,道路の真ん中にあってそこだけが大きく外側に道がふくらんでいる。直径1.2mほどの丸い石造物があり,フタがされている。桶を吊り上げられていたと思われる針金が,その吊り上がった形のまま残っていることが,実際に使われていたことを物語る。周囲はだ円系にガーデニングされており,パパイヤの樹が植えられていた。真乙姥御嶽を深く信仰していた宇根通事(うーにとぅーじ)という地元の名船頭が掘ったとされ,いまでも神事にこの水は使われているそうだ。
これら二つの御嶽は,毎年この一帯で8月に行われる豊年祭の会場とされているが,中でもこの真乙姥御嶽はメイン会場のようだ。今年は8月1日から3日にかけて開催されている。中でも,クライマックスは多数の市民や観光客が参加して,この真乙姥御嶽の前で行われる大綱引きだという。その綱引きに使われる綱は“アヒャーマ綱”と呼ばれているが,綱引きに当たって女性だけによる綱結びが行われる。この綱結びの由来で出てくるのが,上記の宇根通事という人物である。
それによれば,その宇根通事が航海に出たまま戻ってこないのを,心配した妻ともう1人の女が真乙姥御嶽で祈願していた。すると,何と宇根通事が戻ってきたのだ。それを喜んだ女性2人が井戸の綱で綱引きをしたのが,アヒャーマ綱の由来だという。あるいは,綱引きそのものにもつながっていくのであろう。井戸というのは言わずもがな,真乙姥御嶽である。
言い伝えとは実に面白いものだ。喜んで綱引きをするというのは,今の我々の感覚ではあり得ないだろう。どんなに優れた作家も,喜びのあまり綱引きをするというシナリオはなかなか書けないのではないか。せいぜい綱を××にこすりつけて……いかんいかん,神事に余りに失礼なことを想像してしまったので,ここで終わりにしよう。

さて,次はどっちに行こうか。一方は具志堅用高記念館。で,もう一つは港である。なぜこの後に及んで…と自分自身も思うのだが,「もしかしたら,もしかするかもしれない」と思ったのである。ここ真乙姥御嶽からそれぞれの場所への距離はほぼ一緒。一方に行けば,もう一方はかなり遠くなってしまうが,航路がダメならば港近くのレンタカー屋で車を借りて,記念館に行けばいい。
なので,とりあえずは港に向かうべく,南下する。1本大通りを横切ると,どこかで見たことのある光景。町の電気屋と,その壁に埋め込まれた宮良長包生誕地の記念碑である。ひょっとして,この先は……あれ,ないぞ「森の賢者」が。たしかに5月にここに来たはずである(「沖縄はじっこ旅」第3回参照)。ガラーンと空家になっている。丸裸になったようなその様子は,右奥にキッチンがあるのみというシンプルさ。なるほど,こういう業界は浮き沈みがあって厳しいのだな……と思っていたら,どうやら営業しているようだったのである。
実は,旅行前に日航八重山の掲示板に書き込みをする機会があって,それからチョコチョコと書き込んでいるのだが,そこにたまたま「森の賢者」のことを書き込んだ方がいたのだ。早速,上記のことを書き込むと,何と店自体もあって後日行ったというのだ。しかも,別の書き込みをした人まで。行ったと言うから当然あるのだろう。……うーん,勘違いだったのか。はたまた改装中だったのか。それにしちゃ,見事にすっからかんだったし,店のホームページ上の地図は前の位置のままだし。たしかにあの場所で間違いないような気がするのだが,謎である。でも,いずれにせよ店はあるというのだから,次回機会があったらまた行ってみたい気がする。
その森の賢者を通り過ぎ,市役所通りを左折。赤レンガで5階建ての「かみやーき小かまぼこ店」というかまぼこ屋のビルを通り過ぎ,港へは10時半ちょい前に到着。もしかしたらもしか……することはなかった。安栄観光の波照間島行きはすべて欠航。当たり前だ,外洋に出るんだから。実は,安栄観光ともう一つ波照間海運という会社も船を出しているのだが,こちらも今日の便は欠航である。ただし,黒島・竹富島・小浜島および西表島の大原行きは動いている。実際,高速船が港から出て行こうとしているのが見える。おそらくは,昨日と同じくらいの気象条件だろう。となれば,昨日動けたのだから今日も動く。それだけのことであろうと思う。
ふと,ツアー会社群の中で平田観光の建物に入ってみる。八重山観光フェリーと安栄観光はすでに入っているから,もう一つの平田観光の建物に入ってみたというのもある。しかし,この平田観光にはもう一つ,魅力的なツアーがあるのだ。実は昨日『やえやま』を読んでいて気づいていたのだが,それは西表島の舟浮(ふなうき)という集落と,内離島(うちぱなりじま)へのツアーである。
「沖縄標準旅」第8回に書いているように,西表島には島を東西に結ぶ県道があるのだが,この舟浮はその県道の西側終点・白浜集落から船で行く集落なのだ。まだ“幻の集落”にはなっちゃいないのだが,それでも“秘境”であることには変わりない。ちなみに,最近この舟浮出身の池田卓(いけだすぐる)という若い男性歌手が,深田恭子嬢とオセロと小池栄子嬢らが沖縄を旅する番組に出演していたと記憶する。
どうせならば,急にできたこの機会に行ければ面白い。ただし時間が10時間近いツアーのようなので,多分,今日はもう行ってしまっているかもしれないし,それ以前に欠航で中止かもしれない。明日もどうなることやら。でも,もしかして明日ならば……せっかく来たのだからとカウンターで確認すると,1人でも当日予約で大丈夫のようだ。時間を聞いたら8時半の出発だそうで,「8時過ぎにここに来てくれればいい」という。もしかしたら,明日このツアーに……そう考えると,少しばかりブルーになっていた気持ちが元気になる。
でも,これだったらば昨日リスクを犯してでも波照間島に行くべきだったのかとも思ってしまう。昨日行けていれば,今日は黒島でサイクリングして,都合沖縄の島を二つ“塗りつぶす”ことができたのだ……ま,いずれにせよ今日はまず石垣空港に行くのが先決だったのだし,考えるとキリがない。
次に行くべきはレンタカー屋。昨年元旦に借りた(「沖縄標準旅」第7回参照)に石垣島レンタカーに行く。ちょうど事務所の前にはオレンジのヴィッツが置いてあったが,
「あのー,予約とか入れてないんですが,車1台
空いていますか?」
「すいません。6時からでないと……」
嗚呼,あっさりダメであった。皆,昨日のうちに…というか,島に来たら即刻で借りてしまったか。あるいは欠航が決まってからでも遅くはないか。いずれにせよ,考えることは同じってことだろうか。もう一つ,バスターミナル近くに日産レンタカーがあるので行ってみたが,こっちもダメ。もっと探そうかと思ったが,何やかや日航八重山からかなり歩いているので,もはやこれ以上歩く気力が湧かなかった。
仕方なく,再び市役所通りに出てからタクシーを拾うことにする。向かうは当然,具志堅用高記念館だ。歩いて2kmほどだろうが,とても今の私には歩いちゃ行けない距離である。気温も少しずつ上がってきているし,陽射しも出てきている。まったく,恨めしいくらいにいい感じじゃないか。
車内ではこれまた台風の話だ。かかっているラジオも台風の話。運ちゃんは私より少し上くらいの男性である。とりあえず,私が前回書いたようなことを話したりする。向こうも「そりゃ大変ですね」なんて同情してくれた。
「あー,でも早めに行かれてよかったですね。全
日空のほうは今,かなりの列ができてますよ。
建物の外までいますからね」
「へー,そうなんですか」
「JTAは沖縄だからすぐに決定ができるけども,
全日空は東京だから,距離があってなかなか決
まらなかったんじゃないですかねぇ」

@ウミガメを見て,ショートケーキを食べる
具志堅用高記念館には,10時50分に到着。赤瓦に木造っぽい壁。2階建てで,1階入口の軒上には赤とオレンジの鳥。氏の代名詞であるカンムリワシだ。実は10年前の旅行時に来たことがある。敷地内にケーキ屋「シュクレ」というこじゃれた店舗があるが,これは多分10年前にはなかったと思う。別々の建物といえど,ケーキ屋と具志堅用高とはなかなかミスマッチだ。
さて,中に入り,受付の女性に入館料300円を払う。1階は売店で,Tシャツ・帽子・パネルや,中には泡盛なんかも売っている。そのフロアの中からは,どこかで聞いたボクシングの実況中継。思わず見入ってしまったが,つい最近,フジテレビの「27時間テレビ」の企画で,ナインティナインの岡村隆史氏と行ったエキシビジョン・マッチだ。この試合に備えて,具志堅氏は石垣島でトレーニングを積み,マジモードで闘って岡村氏からボディブローで2度ダウンを奪った。
一方の岡村氏も,1年前からトレーニングを積んで,当日は徹夜で疲労のピークの中で,たかが9分とはいえ3ラウンドを闘うにはあまりに厳しい条件であったが,それでも何とか持ちこたえた。そして,観客からのスタンディング・オベーションの中,なぜかエクストララウンド……そういや,この間の「めちゃイケ」でそのときの裏話みたいなのをやっていたが,そのエクストララウンドは,試合のレフェリーをやっていた,これまた元・世界チャンピオンの平仲明信氏が岡村氏に「やろうよ」とか持ちかけたものと暴露されていた。岡村氏はおろか,具志堅氏も「え,やるの? ムリだよ」と不思議がっていたが,ホントだとしたら,ものすごい話である。
話を戻す。1階にはれっきとした世界タイトル戦のDVDなんてのもある。ボクシング界では伝説の「タイトルマッチV13」という輝かしい歴史の持ち主だが,現役時代をあまり知らない私には,そういう真剣なものよりも,彼の印象は個性的なアフロヘアーと「ちょっちゅねー」という言葉だったりしてしまう。そんなある意味失礼な私がやっぱり目に行ってしまったのは,彼の語録がプリントされたTシャツである。ここですべてを書くのは避けるが,例えばこういうものである。
聞き手「具志堅さんの家紋は何ですか?」
具志堅「ブロック塀です」
聞き手「……。それでは母校・興南高校の伝統は
何ですか?」
具志堅「ちょっちゅねー,蛍光灯ですねー」
さて,2階である。ここからは真剣な彼の闘いの歴史である……と書く前に,もう一つ。2階に行く階段の壁には,彼のタイトルマッチの宣伝ポスターが額に入れられて掲げられている。東京では見なくなった格闘技の宣伝ポスター。個人的にはボクシングよりもプロレスの地方巡業のポスターを見る機会が多かったが,こういうのを見てダサさよりも妙なノスタルジーを感じるのは,年をとったってことなのだろうか。
……話をいい加減に戻して,そのポスターの下には,試合の協力会社の広告がだいたいあるのだが,中でも1978年10月15日の対鄭相一戦のポスターに出ていたのは,いまやヤクルト・スワローズの監督としておなじみの若松勉氏である。親会社のヤクルトが協力していたからだが,野菜ジュースの広告。腕立て伏せをしている写真だが,実に凛々しい面構えである。
このとき若松氏,31歳。前年に首位打者のタイトルを獲り,この年は,その後選手としてセ・リーグ優勝と日本一を経験することになる。心身ともに充実しているのがよく分かる写真だが,これから23年後に監督として日本一になり,そのインタビューの際「あ,あの……おめでとうございますぅ」と,人柄の良さがにじみ出たコメントを出して,世間の爆笑を誘うとは誰が想像しただろうか。ま,いずれにせよ「人に歴史あり」なのだ。
いかん,今度こそ具志堅氏の輝かしい歴史である。2階に飾られているグラブ・トロフィー・カップ・写真パネル……その数は壁にびっしりという感じで,数え切れない。また,中には具志堅氏が1981年3月に結婚したときの祝電なんかが飾られているが,いずれも文言はオールカタカナ。23年の時を経て,いい加減セピア色に変色しているが,そのカタカナの多さに時代を感じたりもする。
そして,ある一角に飾られたパネルにはたくさんのスタンプ。記念館のスタンプだが,パネルの下には「スタンプを押さないでください」と紙が貼られているにもかかわらず,その紙にもスタンプが押されていたりして,この辺りが何だか具志堅氏の人柄を想像させてしまったりもする……って,いかんいかん,また話がズレてしまう。
こちらもフロアの隅にある小さなテレビから試合の実況が聞こえてくる。正真正銘のタイトルマッチの試合である。その下にはミニリングとサンドバッグ。マット地もサンドバッグも触り心地がかなり硬いが,無論そこでホントにスパーリングしたわけではなかろうが,色のくすみ具合が輝かしい歴史の陰に隠れた苦労を物語る。

具志堅氏は1955年6月26日,石垣島生まれ。さっき,語録のところで母校が興南高校と書いたが,実はこれご存知かもしれないが,沖縄本島は那覇の高校である。この石垣島にも高校はあるが,彼は受験に失敗してしまったために,本島に渡って叔母の家に下宿して通うことになったのだ。本人は高校が野球で名門ということもあってか,野球をやりたかったようだが,当時160cmほどの彼の身長ではレギュラー獲りは到底難しく,何をすべきか悩んでいたという。
そこに声をかけてきたのは,現・沖縄ボクシングジム会長の仲井真重次(なかいましげじ,1952〜)氏という人物。実は仲井真氏も石垣島出身で,具志堅氏は幼なじみの仲。7〜8人のガキ大将グループで,米軍機に入り込んで――たまたま停まっていたということだろう――戦利品を得たりもしたという。仲井真氏はその中のリーダー格で,3歳下の具志堅氏はいわば子分。その“子分”は背がひときわ小さいが,足は滅法速かったという。仲井真氏を「兄貴」と呼んで慕ったそうだ。
さて,ここからはしばらく仲井真氏に話を移すが,その仲井真氏は中学校を卒業すると同時に,本土は大阪の有名な電気メーカーに就職する。無論,このころは本土に復帰する前のこと。パスポートを持っての集団就職だったそうだ。しかし,そこで味わったのは「沖縄って,英語しゃべっているの?」という本土の人間からの偏見と,中卒ゆえの賃金格差。「高校くらい絶対卒業してやる」と再び沖縄に戻り,入学した高校が,何と具志堅氏と同じく那覇の興南高校なのだ。
仲井真氏もまた,実は野球をやりたくて,電気メーカーに就職する前にプロテストを受けたというくらいなのだ。そのテストに落ちたため就職浪人していて,興南高校はその野球をするための入学だったのである。しかし,那覇で下宿するとなれば当然“先立つもの”がなくてはならない。「3食つきでタダの下宿がないものか」――そんな虫のいい条件の下宿が,那覇市にあったのだ。
その名前は「上原湯」という銭湯。沖縄共栄ジム会長をやった上原勝栄(うえはらかつえい)氏の実家である。勝栄氏自身は,経験がないとはいえ大のボクシング好きで,また2人の弟がボクシングをやっていた(その後,世界チャンピオンにもなっている)こともあり,自身でささやかながらボクシングジムを開くことになり,やがて自分の弟以外にも門戸を広げることになる。それが,風呂掃除・薪割り・薪運びの仕事と,勝栄氏自身が納得する練習をする代わりに,3食つきで下宿代がタダになるという,ボクシング練習生専門下宿「上原湯」の誕生となる。
仲井真氏は,この上原湯に投宿。そこで彼は野球と決別し,ボクシングの道を歩むことになる。朝6時起床,1時間のランニング後に登校。もちろん,学校でもボクシングを練習し,帰宅後に銭湯の仕事をしながら,ヒマを見てサンドバッグを叩く。夜,青果業の仕事をしている勝栄氏が戻ってくると,そこからが本格的なトレーニング。そして夜中12時に銭湯の営業が終わると,風呂場のたわし掛けをたっぷり1時間。終わって再びトレーニングして就寝は午前2時――少なからず脱落していったであろう仲間を尻目に,仲井真氏はこの下宿時代に力をつけ,やがて興南高校のボクシング部でキャプテンを務め,国体選手になるまでに成長することになる。
具志堅氏をスカウトしたのは,ちょうどこの頃であるようだ。具志堅氏は,本土で就職していると思った仲井真氏が目の前にいることに驚いたという。無論,具志堅氏はこの時点ではボクシングの経験はナシ。さらには性格的に大人しかったという。ただし,幼い頃に見た元気のよさは見逃せない――“ボクシング”という言葉を出したら引いてしまうと感じた仲井真氏は,「3食つきでタダの下宿があるから来ないか?」とだけ言った。すると,具志堅氏はこれに見事に食いついてきたという。
もちろん,具志堅氏には最初からサンドバッグを叩かせたのではない。仲井真氏が勝栄氏と相談の上で,初めは掃除のみをさせ,時々サンドバッグを叩かせる。時間をかけてボクシングに目を向けさせるように仕向けたのだ。実際,そんな仲井真氏を喜ばせるように,具志堅氏は指導をしていないのにもかかわらず,サンドバッグを打つ身体のバランスが素晴らしかったという。
とはいえ,当然だが具志堅氏はいつまで経ってもボクシングに打ち込む意思を見せない。やがて勝栄氏は業を煮やして「ボクシングをやらないのならば出て行くように」と最後通告を出すことになる。ここが具志堅氏の人生の岐路。やむにやまれず,具志堅氏はボクシングに本格的に打ち込むことになったという。
こんなやりとりが,栄光の「V13ロード」のすべての始まりなのである。やがて公私ともに仲井真氏が面倒を見てメキメキと頭角を表し,1974年5月,高校卒業後間もなく東京の協栄ジムからデビューして勝利。2年後の1976年10月にWBA世界ジュニアフライ級チャンピオンを獲得。このとき,具志堅氏若干21歳。それから1981年3月にKO負けして王座を失うまで,4年余り13度のチャンピオン防衛となる。もちろん,日本でこの記録を越えた人間はいない。通算24戦23勝1敗。唯一の1敗が生涯最後の試合というのも,何だかカッコいい。
ちなみに,仲井真氏はV13の中のV1の時点で,具志堅氏から離れることになる。「第2・第3の具志堅を育てたい」――具志堅氏らと東京に出てきていた仲井真氏は,1981年再び那覇に戻る。具志堅氏の引退と時を同じくしているのが因縁深いが,仲井真氏は「5年で日本チャンピオン,10年で世界チャンピオンを出す」と,沖縄ジム(現在・琉球ボクシングジム)を設立する。そしてほぼ公約通り,「5年で日本チャンピオン,11年で世界チャンピオンを出す」ことに成功する。そのチャンピオンこそ平仲明信氏。そう,あのエキシビジョンマッチでのレフェリーである。

もちろん,具志堅氏の想像を絶すると思われる努力が栄光の歴史を作ったのは間違いない。でも,こう見ると人の栄光の歴史とは,改めて偶然の積み重ねが手伝っていると実感する。具志堅氏が石垣島の高校に入学していれば,仲井真氏が「上原湯」を見つけていなければ,勝栄氏が「上原湯」を開いていなければ,具志堅氏が仲井真氏に“だまされて”いなければ,そして具志堅氏が「上原湯」を掃除しただけで出ていっていたら……あの「27時間テレビ」のエキシビジョンマッチは成り立たなかった,っておいおい,そんなんで締めていいのか?――失礼。日本のボクシング界の地図は大きく変わっていたに違いないのである。(第6回につづく)

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