沖縄はじっこ旅U

@ウミガメを見て,ショートケーキを食べる
具志堅用高記念館(以下「記念館」)を後にする。帰り際,受付はオジイに変わっていたが,何と実父の用敬氏だそうだ。メガネをかけていた以外はいまいち輪郭を忘れてしまった。それにしても,具志堅氏の現役時代というのは,今の私よりも年齢が若いときだ。そのころの彼が,アフロヘアーだったからなのかは分からないが,妙に老けて見えるのは私だけだろうか。
そういや,この間エキシビジョン・マッチをやったときは,そのアフロがいささかしぼんでいた……ま,それはいいとして,失礼ながら私はもっと年齢が行っていると思った。正直,49歳は「え,そんなに若かったの?」って感じである。ちなみに,同い年だと明石家さんま氏,江川卓氏などがいるが,うーん,比べてみてもやっぱり老けて見える。
さて,もう一つの八重山平和祈念館は記念館の前。その記念館の前に停まっていたタクシーは,もしかして自分が乗ってきた……なわけないか。ま,中心部からも空港からも遠いから,それを見越して停まっているのだろう。私も今日多良間島に行くはずだったら,利用したかもしれないが,今回は黙って通り過ぎる。
その八重山平和祈念館は,第2次世界大戦中に起こった“戦争マラリア”の資料を展示している。パネルやら年表やら,はたまたマラリアの特効薬・キニーナの原料木として重宝されたアカキナノキという樹木も展示されている。通路の最後にはパソコンがあり,そこでこの戦争マラリアに関するビデオを観ることもできる。記念館の何倍もある広さだが,入場料は100円。記念館もそうだったが,時間帯なのか人はほとんどいない。結局,パソコンの前で30分近く時間をつぶしてしまった。
マラリアとは,ご存知だろうが熱帯性の伝染病である。ハマダラカの媒介により感染する。寒気・震え・高熱が主症状で,この三つが交互にやってくるということで知られている。言い伝えでは,16世紀に西表島に上陸したオランダ船によって最初持ち込まれたとされている。明治時代に入ってから本格的な調査が始まり,病原体やハマダラカの存在が確認されて,改めて八重山の風土病として認識されるようになる。調査後は,マラリア感染地域の全住民に対し1〜2カ月に1回定期採血を行ったり,原虫保有者に対して化学療法剤の投与で治療したり,はたまた蚊帳の使用とか除草,排水溝の整備などの対策を取ったが,完全根絶には至らなかった。
とはいえ,八重山のすべてがマラリア感染地域かというとそうではなく,パネルに出ていたが,西表島・与那国島・小浜島全域が感染地域。よって,黒島・竹富島・波照間島は感染地域ではなかったりする。また,石垣島については,現在の市街地と白保集落(第3回参照)のみが非感染地域。そこから北が感染地域とされている。
戦争マラリアとは,第2次世界大戦時にこの感染地域へ強制避難をさせられたことによって発病したものである。石垣島内での無病地域から感染地域の移動はもちろん,波照間島の学生が感染地域である西表島へ疎開させられるケースもあった。1945年に入ってから連合軍の攻撃が激しくなってきた中,島民を疎開させることにしたためだったのだが,これが悲劇の始まりだった。1945年の統計では,全島民3万1671人中,マラリア罹患者は1万6684人と,実に半数以上。うち亡くなったのは男性1475人,女性2172人,合計3647人と死亡率2割余という惨状になった。特に身体の弱い子どもや年寄りの犠牲者が多かったそうだ。
ところで,祈念館内にも展示されている特効薬・キニーナの原料木であるアカキナノキは,面白いことにその感染地域の山林の中によく生えているものだという。病原のそばに特効薬というのは面白いものだが,どこか遠くから調達ということではなく,その辺に生えているものなのだ。なので,そこから抽出したキニーナが手に入れば当然助かった人もいるわけであるが,哀しいかな絶対数が不足し,またあったとしても軍部が先になってしまった。よって,民間療法なんかに頼らざるを得ず,こういったこともまた死者を増やした要因になっている。
祈念館のパネルの中には,10代と思われる息子を看病する母親の写真が飾られている。熱に冒されて寝込んでいる息子の頭には,水枕の代わりに芭蕉の幹で編んだという枕。加えて少しでも熱を下げようと,身体に直接水をかけるのだという。マラリアの種類によって症状は違うらしいが,当然このまま水をかけつづけるわけには行かず,今度は激しい悪寒に苦しむ。その繰り返しで体力はどんどん奪われていく。亡くなった遺体は,むしろや雨戸に乗せられて山に埋められたという。

1945年9月,米軍が石垣島に上陸する。組織的な沖縄戦が終了した6月23日から,実に2カ月余りたったからのことだ。この上陸で日本軍が武装解除。その年の暮れから,アテプリンと呼ばれる錠剤が米軍から配られ,衛生部や診療所が設置されたりするなど,八重山のマラリア防圧が再スタートする。翌年には離島でもマラリア治療が始められたという。
しかし,それらと時期を同じくして,他の島々からの移住が始まった。海外移住からの引き揚げ,壊滅的なダメージを受けてしまって土地を耕せない,仕事もままならない,あるいは米軍に土地を接収されたなどの理由などによる沖縄本島や宮古島からの移住である。あるいは上記・強制移住からの帰還もあったであろう。アテプリンやキニーナなどを医者の前で飲ませるなど,地道な対策は取るものの,これらによって再びマラリアの罹患者が増えていってしまう。
誰だって,行く先がマラリア感染地区と分かって移住する人間はいない。それは,昨今のSARSにおける国民の反応を見ればよく分かるだろう。かといって,戻る場所が保証されているわけではないから,目の前にある土地を耕すしかない。ほとんどが苦悩の毎日であったであろうことは想像に難くない。この最中にもし,移住した大多数が移住先から引き揚げてしまっていたら,今の八重山の観光や農業も,あるいはそれらから派生して出てきた様々なブランドも,もしかしたらなかったかもしれない。私がこうやって旅に来ることもできなかったかもしれないのである。
やがて,マラリアの根絶は戦後10年以上経った1957年,米軍医学総合研究所の昆虫学者チャールズ・M・ウイラー博士が石垣島や宮古島などに来島し,1955年のWHOによる地球的な規模でのマラリア撲滅計画に基づいた「ウイラー・プラン」を実行するところから本格化する。地道な住民の身体検査や治療薬投与に始まり,DDTの屋内撒布などを繰り返した結果,来島から5年でマラリア罹患者ゼロとなったという。
――こう見ると,罪のないまた病原体すら持っていなかった島民をマラリア地獄に追い込んだのが日本軍であり,その地獄から解放したのが米軍(厳密には米国琉球政府だが)となる。ここにもまた,沖縄戦の“もう一つの現実”を垣間見ることができよう。もっとも,米軍統治下で日本政府が手出しできなかったというのもあるのだろうが。
それからしばらく経ち,時代は平成に入って間もない1989年5月。この戦争マラリアで犠牲になった遺族らが「沖縄戦強制疎開マラリア犠牲者援護会」を結成。国による強制疎開ゆえの罹患ということで,国家賠償を求める活動が始まる。翌年から県による聞き取り調査などが始まり,1992年には当時の与党三党による戦後50年問題プロジェクトチームが,この戦争マラリアを優先課題と位置付けて検討を開始する。そして,まさに戦後50年の1995年12月,1996年国家予算において「マラリア慰藉事業経費」として3億円が承認されることになる。事実上の謝罪である。
この祈念館は,その慰藉事業の一環として,3億円の中から拠出されて1999年に建てられたものである。これには1億5521万1000円という具体的な額も出ている。その他には,@郊外のバンナ公園に慰霊碑建立および植栽による整備(4479万1000円),A遺品収集および祈念誌の作成(8000万円),B追悼式典(1682万9000円)という内訳。いずれも,1997年3月に相次いで実現する運びとなった。援護会はその後1999年に発展的解散をし,2001年には「八重山戦争マラリア遺族会」という団体に変わっている。

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これで観るべきものは観た。後は石垣島の泡盛製造会社・請福酒造の泡盛記念館なるものがあるので観に行ったが,道に迷ったあげくに着いたら着いたで休館だった。大きな工場かと思っていたが,ちょっとした会社の建物という感じである。築年数はそれなりであろう。軒はレンガ,白壁の建物に,壁にはシーサー面の四角いレリーフが18個かかっている。
道路をはさんで反対側には大きなタンクが数基あり,周囲からは泡盛の匂いがしてくる。ちなみに,うちの近くのスーパーでは,ここ請福酒造のその名も「請福」という銘柄の泡盛350ml入りビン(615円)が売られており,旅行前に家でチビチビ飲んだ記憶がある。また,5月に夕飯を食べた「森の賢者」(「沖縄はじっこ旅」第3回参照)は,ここの泡盛を使っているそうだ。
さあ,ここからどうしようか…といっても,あとやることといったら,昼ごはんを食べることとダイソーで下着類を買うくらいだ。朝食である程度腹持ちはいいから,とりあえずはダイソーまでタクって行って,ダイソーからはバスで市街地に戻るとする。請福酒造の前の通りも一応幹線道路だが,おばちゃんが乗った青いタクシーをタッチの差でつかまえ損ねてから,15分つかまらない。おばちゃんと私,一瞬目が合ったよう感じで,向こうも何か反応を示したようだが,多分どっかで折り返して戻ってきていたら乗っていたと思う。残念。
やむなく,1本南のやはり幹線道路でフツーのおじさんのタクシーをつかまえることにして,一路ダイソーへ。幹線道路と裏道を走りつづけて,ダイソーには10分ほどで到着。870円。市街地の端から端だから,かなりの距離。まして初乗り390円だから,結構な距離を乗ったと思う。車内はラジオから「NHKのど自慢」が流れてきていたが,運ちゃんと会話することはなかった。
さて,早速昨日買いそびれた5個入りのパンツ(第3回参照)と,Tシャツ3枚,くつした3足を購入。プラス,あれば買いたいと思っていたものも合わせて購入。時計である。315円。水に浸けても平気なヤツだという。店の端っこに置いてあった。都合1050円の買い物だが,時計は街の時計屋で買わなきゃいけないか,あるいはこのまま時計ナシで過ごすかと思っていただけに,正直助かった。早速,時間を合わせてみたい。
ところがこの時計。何だか造りは頑丈そうだが,説明書に時間の合わせ方が書いてあっても,なかなか要領が分かりにくい。とりあえず「リセット」「モード」「スタート」の三つのボタンを交互に押してはみるが,どうにも時間が合わず,デジタル画面は虚しく点滅するのみ。それでも,何とか時間を「9月5日日曜日,13時10分」に合わせる。改めて,これで安心して行動ができるというもの。このままバス停に向かう。昨日(第3回参照)と同じく「サンエー前」である。通過時刻は13時18分だから,数分の待ちである。目の前を行き交う車はかなり多いし,加えてサンエーの駐車場も車がビッシリである。日曜の昼時の郊外って感じの光景である。
ふと,駐車場の中にボックスの公衆電話を見つける。ケータイが普及した昨今では,心なしか見なくなったと思うアイテムだ。実は今朝,自宅に電話をしたら父親から留守電が入っていた。別に用事ではなかったようだが,万が一のことがあるといけないと思い,電話しようと思ったのだ。時間は13時13分。まだバスは来ないだろう。
ところが,コインを入れようとすると,どこをどう見ても東運輸の路線バスっぽいバスがこちらに近づいてくる。公衆電話からバス停の距離は30mくらいか。あわててダッシュするが,タッチの差で行かれてしまう。「米原キャンプ場」というヘッドの文字は見えたが……ちなみに,石垣と白保の間のバスは30分に1本。これを逃したら,30分待ちぼうけだが,違うバスとみなして再びピーカンの空の下でバスを待つ。駐車場の中の「和食亭」は盛況のようだ。バイキングである程度腹は満たしているが,そろそろどっかでメシが食いたくなってきた。でも,こういうファミレスに入るよりはとりあえず港近くの食堂に入りたい。その根拠は……まるでナシ。
すると,反対車線に見たことのあるタクシー。青の車体にオバチャン。そう,請福酒造の前でつかまえ損ねたヤツだ。なるほど世間は狭いというか…まあ,運ちゃんも仕事でお金を稼ぐためには市街地のほうが人がいるから,何度かすれ違ったって不思議じゃない。その青い車が何と途中で転回してこっちに向かってきた。はて,私を乗せたいのか。いやいやオバチャン,ここは申し訳ないがバスで行かせてもらうよ……何だか目が合うのがイヤだったりして,思わず道路から目をそらしてやり過ごす。タクシーはそのまま素通り。ふと,それでも気になってタクシーのほうを見やると,オバチャンは別に意識していないような表情だった。ウソつけ,だったら転回するわけねーだろーが。
バスはやがて数分でやってくる。間違いなく「白保線」と書かれていた。乗車して170円を払う。車内は数人がパラパラ。いつもこんな感じなのだろう。これが満員だったら…という構図はとても想像しにくい。ちなみに,昨日白保に行ったときもそうだったが,バスの車内でもラジオのニュースがかかっている。沖縄市で行われるオリオンビールのイベントが中止になると昨日は言っていた。

石垣バスターミナルには13時半に到着する。近くで昼飯の店を探すことにしたい。2003年の元旦に入った「ゆうな」(「沖縄標準旅」第7回参照)も営業中。外に置かれている写真入りのメニューを見ると,改めてさまざまな定食類があることが分かるが,朝食バイキングのこともあるから,あっさりしたいものが食べたい。ここの石垣牛セット(5000円)なんてのは,腹ぺコだったら,あるいはプラス伊勢えびなんかもつけちゃったりするかもしれないが,そこまで胃袋に余裕はないし,想像すると胃もたれっぽくなってくる。
と,軒続きの隣に「海鮮丼・945円」と書かれたホワイトボードのある店を見つける。こちらは「山海亭」という店だ。こちらはメニューが外の壁に書かれているが,見てみると「イノシシ」「アダン」「やぎ刺し・1575円」なんてことも書かれている。うーん,やぎ刺し1575円とは高いな。それで食えなかったら大損である。イノシシもアダンもあえて食べたいとは思わない。まだあと2日あることだし,今回は海鮮丼だけにしようか。
中に入ると,典型的な和食割烹の店だ。その店内には島唄が流れる。これだけ和風な造りで島唄はいささかミスマッチな気がしなくもない。私が座ったテーブル席は1席しかないが,他は畳の座敷。8席ほどはあるだろうか。端っこにある一つに客がいるが,さすがに14時近いとガラーンとして静かである。注文したのはもちろん海鮮丼のみ。他は明日以降にお預けだ。
若い女性店員が持ってきたキンキンに冷えたおしぼりが有り難い。少し石けんのにおいがする。これを言わずもがな,露出している腕や顔に当ててしまうのだが,一気に生き返った気分になる。それだけ日に焼けたということだ。特に,今回はTシャツが身体にフィットするもののせいか,二の腕の部分で今まで白かったところが所々赤くなっている。まだ日焼け慣れしていないから赤くなって当然だ。そこいら辺は特に気持ちいい。こりゃ,帰ったらまた一皮むけるな。
海鮮丼は直径14〜15cm,深さ7cmほどの器に入って出てくる。サーモン・鯖・まぐろ・イラブチャー・タコ・マグロ・ハマチ・イカ……だいたいどれも東京で見るものだ。ごはんはノリとかいわれが乗っかっていて,さらに直径2cmほどの緑のかぼすっぽい果実。シークワーサーである。これをしぼってかけると,酢の代わりにいいアクセントになるというわけだ。
しょうゆをかけて食べると,少しみりんの効いた味がする。少し油っこい食事が続いていたから,ちょうどいいあっさりさである。ここにやぎ刺しは多分ミスマッチであろう。後で底をみたら“つゆだく”になっていたが,ひょっとしてすでに味付けがなされていたのかもしれない。北の大地・北海道は小樽で食べた海鮮丼によく似た味であるが(「白鳥旅行記」第2回参照),2000kmとか距離が離れていても似たような味を食せるというのは,上手く言えないが何だかミョーである。
さあ,これからどうするか。どっちみちこのホームページの書き込みはムリだから,インターネットカフェでも探して,掲示板に書き込みしようか。でも,この島にそんなものはあるのだろうか。レジで聞こうかと思ったが,値段を打つのは50過ぎのオバチャン。失礼だが,そういうITとは無縁な世界で生きていそうな感じだ。何だか聞くのがはばかられる。
とりあえず外に出て,アーケード街に向かう。プラプラ歩いて石垣市営公設市場の2階にある特産品販売センターに入る。まあ,さまざまな土産品がある。目移りして選べないくらいだ。「太陽のお茶」なんてのがあったので試飲したが,ハーブティーを水で薄めたような味。いろいろな野草が入っていて,さぞ健康にいいのだろうが,さしずめ「良薬口に不味し」ということか。
数分で外に出る。アーケード街にインターネットカフェを探すが,オシャレな店はあっても,それらしきものはなさそうだ。「タウンパルやまだ」(「沖縄はじっこ旅」第3回参照)に寄ったりして,結局1本内陸の通りへ。周囲を見る限り,それっぽい店はなさげだ。別に会社に悪いことをしているわけでもないし,わざわざ掲示板に書き込むほど人が自分に注目しているわけでもあるまい。ここはあきらめて,タクって日航八重山へ帰ることにする。ちなみに,後で『やえやま』で確認したら,どうやらインターネットカフェの店の近くまで来ていたようであるが。

部屋に入る前に,延泊を申し出ておかなければならない。他の宿を探すのはいまさら面倒である。背の高い,若いのか若くないのかよく分からないメガネをかけた男性従業員に声をかける。
「すいませーん。一応,今日台風で延ばすことを
お願いしたんですけど,実は飛行機が8日になり
まして,明日と明後日までお願いしたいんです」
「…ということは,8日のチェックアウトですか?」
「そうです」
「少々お待ちください」
そう言うと,彼はカーテンの奥に消えていった。あるいは,空いていないのだろうか。しばしの時間の後,彼は,
「そうなりますと,本日だけでしたら台風による
割引(何か専門用語で言っていたが忘れた)が
できるんですが,8日までとなると正規の料金
になりますが,構いませんか? まあ,明日も台
風で飛行機が止まれば別ですけど」
なるほど。考えてみればその通りだ。ぶっちゃけ,私は台風と有休のどさくさに紛れて宿泊を延ばすのである……って,有休は向こうの知ったことではないのだが,やはりあまりの“ズル”はできないようになっているのだ。ま,別に泊まれるのであれば正規料金でも構わない。念のため「1万500円ですね?」と聞くと,「そうですね」と言う。たしかに4万円が飛ぶのが痛くないというのはウソになるが,部屋は抜群の眺望なのだし(第4回参照),そろそろ設備を自分なりに使いこなせてきたタイミングもある。「いいですよ」――これにて延泊決定。宿は完全に確保である。
それにしても,まだ時間は14時20分だ。でも,たまにはゆったりしたスケジュールだっていいのである。そう言い聞かせよう。自分へのバースデープレゼントをすることにしたい。ささやかな祝杯である。ホテル内のコンビニで,まずはドリンクに泡盛「八重泉」の緑の小ビン(577円)と,銘柄は忘れたが,シークワーサージュース(147円),つまみには八重山菓子セット(420円)とこんぺん(「くんぺん」ともいう。136円)の二つを購入する(後で足りなくなって,スティックサラミも購入。製造所が自宅の近くなのは笑えた)――うーん,実に侘しい。しっかし,シークワーサージュースは280ml入りで147円とは高い。昨日はフロアの自販機にあった350mlのカンのさんぴん茶を買ったが,200円だった。手数料とかなのだろうが,このあたりは何とかならないものだろうか。
さあ,しばし“マッタリタイム”である。これから何をするわけでもない。部屋に備え付けの金属のポットには,キンキンに冷えた水が入っている。「八重泉」をこいつで割ったり,はたまたシークワーサージュースで割って飲むが,水割りがとても美味い。はたまた自己流の“調合”が上手く行ったのか……後でいろいろ調べていたら「美ら島物語」でここの水が触れられていたが,やはり美味い水のようで,某ソムリエが絶賛したそうな。某ソムリエって,この石垣島で8万いくらでアパートを借りて,昨今六本木の居酒屋を引き継いだあの人だろうか。
一方,つまみのうち「こんぺん」は,直径7cm×標高3cmほどの円盤型のパン菓子っぽいお菓子。袋を見たら「宮城菓子店」という地元・石垣で創業80年という伝統のある店の製造。後で調べたら,現オーナーは30代後半の若い男性。祖父の代から始まる店で,祖父は丁稚などで苦労の末に独立。一方,現オーナー自身は,両親が離婚して母親が店で苦労しているのを見ていたという。石垣で高校卒業後,那覇の菓子屋で修行して,21歳で本格的に店を継いでいる。
肝心のブツは,原料は「小麦粉・砂糖・ごま・落花生・全卵・ピーナツ・バター・ふくらし粉」と書かれていた。で,食べてみると,ものすごくパサパサする。味はパン菓子の中に黒ゴマのペーストが練り込まれている感じで,プラスピーナツの味もする。このパサパサ感が,素朴ながら少しノスタルジックな味を醸し出している。悪くない。石垣島ではポピュラーでトラディショナルな菓子のようだ。
そして「八重山菓子セット」は,パイナップル味のチェルシー,同じくパインクリームのコロン,紅芋パイとぺコちゃんの形をしたペロペロキャンディーに,おまけで琉球衣装を着たぺコちゃんのシール。まったく,完全に子どものお菓子であるが,この中ではチェルシーを舐めながら水割りが意外と合った。微妙なパイナップルカクテル……うーん,やっぱり実に虚しい限りである。

さて,水割りやらシークワーサージュース割りなんてのを飲んだせいか,気が大きくでもなったようで,おそらく相手には潮焼けで区別なんてつかなかっただろうが,ホテル内のツアーデスクなんかにほろ酔い加減で足を運んじゃったりする。午前中に平田観光に入ったときに手に入れた“舟浮ツアー”のパンフ(前回参照)がここ日航八重山にもあって,送迎もありツアーデスクで申し込みも可能のようだ。明日でも間に合うとは言われたが,前もって予約したほうがいいに越したことはないからだ。波照間島は日が経つほど天候がよくなるかもしれんし――ま,気が大きくなった反面“チムワサワサー”になったのも事実だ。酒を飲んだところで,小心者の性格が一変することもないのだ。いや,かえって心拍数が上がって血圧が上がって,不安が増進されちゃったりして。
ツアーデスクで話をしたところ,応対した少し年代が上くらいの女性が電話をかける。無論,平田観光にだ。「一応,平田観光さんの話ではまだお客さん1人のようなんですよ。2人以上からツアーをやるとのことですが,明日までに予約がなければ中止です。ま,まだ他のホテルさんから予約が入る可能性もありますけど,ここは仮予約ということでよろしいですか?」――淡々と言われてしまったが,とりあえずその通り仮予約だけはしておく。ツアー料金は1万7500円と高めだが,なかなか行けるものではないし,お金は当然だが催行が決まってからでいいという。あとは,タイムリミットの明日8時ころまでに,もう1人“救世主”が現れるかどうか。
再び部屋に戻って,マッタリタイム。時間は刻々と過ぎて行く。しかし,また“チムワサワサー”になってきた。ヒマでつけていたテレビのほとんどを「お天気チャンネル」なんかに合わせていたのがそもそものケチのつけ始めだが,やっぱりサリカーの行方が気にかからないと言ってはウソになる。それ以前にソングダーの威力は相変わらずだし,速度もめっちゃ遅い。予想進路図では,帰り際にソングダーが本州は関東辺りにひっかかりそうな雰囲気だ。沖縄がよくなって飛べるのはいいが,今度は到着地が台風でダメ……よせばいいのに,17時過ぎにタクって石垣空港に行ってしまった。
ロビーに人はほとんどいない。午前中にあった混雑ぶりはウソのように静かだ。カウンターにいた女性をつかまえて,7日の便に空きがないか確認する。私はすっかりここ石垣から直行(厳密には宮古経由だが)ということに固執してしまったが,冷静に考えれば那覇経由でもいいのだ。そのころには那覇空港も飛行機は動くはずなのだ。
「すいません。7日の石垣―那覇―羽田ってのはどう
ですか?」
カチャカチャとキーボードを叩く音。しかし,
「あー,今は全便予約できないことになっています。
明日も7日も,席が全部押さえられてしまっていまし
て……」
「それならば,石垣―多良間―宮古―羽田ってのは
どうですか?」
半ばこっちも酒でテンションが上がり,こんなルートも挙げてしまう。石垣以南がダメならば,当初の通り多良間島に行って「溜飲を下げたい」のだ。再びカチャカチャとキーボードを叩く音。しかし,
「あー,石垣―多良間―宮古はOKですけど,宮古か
ら羽田に行くのが満席ですねー」
虚しい静けさ。目の前の机の下には台風の進路予想図。どうしても不安感に駆られるが,
「分かりました。当初のままにします。台風の行方が
分からないもので。ご迷惑かけてすいません」
ま,後で部屋に帰って冷静に考えれば,当然の結果である。カウンターの女性の顔が心なしか「今ごろとやかく言ったって遅いんだよ,バーカ」って感じに見えてしまうのは,今日1日があまりにもブルーな1日だったからか。しかも,あきらめてロビーを出たら,タッチの差でターミナル行きのバスに行かれてしまった。
脇ではタクシーの運ちゃんら数人から「あー,もうバスは来ないよ」と言われる。仕方なく愛想笑いを浮かべながら乗ろうとすると,「今,ちょうど歌でも歌おうかと思ってたんだ。ガハハ」なんてことまで言われる始末。別に向こうは軽くからかっているだけで,悪気はないのだろうけど,微妙に神経を逆撫でされる。それでも,帰りのタクシーの中では「ま,天気はこれからよくなるでしょうし,今の台風(ソングダー)ったってもしかしたらあと2日あれば日本海に抜けるかもしれないから,分からないよ」と言ってもらった。また少し心が和らぐ。早い話が単純な人間なのだ,私は。まったく,それにしても今日1日訳の分からない1日だったなー。

部屋に帰ってくつろいでいると,18時前に電話が。ツアーデスクの女性からで,「実はご予約されている舟浮ツアーの件なんですが,もうお1人別のホテルから予約が入ったそうです。平田観光さんからですね,明日急にキャンセルされちゃうと,相手の方も行けなくなってしまいますし,できれば今のうちに行くか行かないか決められないかって連絡が入ったんですけど」とのこと。「それならば喜んで…ってわけじゃないですが,ええ,いいですよ」と快諾する。当然である。断る理由はない。向こうの声も心なしか弾んで聞こえる。
さて,これで明日の日程は決まった。でも,もう1人って一体何者なのだろうか。まさか女性とか? ま,性別なんかは男だろうが女だろうが,また若かろうが年寄りだろうがどーでもいい。いずれにせよ,これはケガの功名である。この旅がかえって充実したものになりそうな予感。やっぱり日ごろからの行いがいいからだろうか。(第7回につづく)

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