沖縄はじっこ旅U

(1)ハートアイランドへ
最終日。やっぱり6時前に起床する。天気はまずまず。風はほとんどない。いつものようにシャワーを浴びて,これまた定時に「AQUARIUS」へ。店を開ける店員の女性も見慣れてしまった。向こうも「あ,またこいつか」と思っていたに違いない。そして,定時に店は開き,いつもの場所に座る。
さあ,今日こそは食事制限をしなくてはならない。その意思は固く,食べたのは@アーサ入り八重山かまぼこ,A野沢菜,Bキムチ,C焼魚(さば?),Dスクランブルエッグ,Eゴーヤチャンプルー,Fサーモンとタラコのサラダスパゲッティ,G生野菜,H島豆腐の味噌汁,I白飯,と一気に種類・量とも減らして,かつ肉類をEに入っている豚肉の細かいヤツのみに控える。カリカリに焼かれていそうなベーコンに一瞬惹かれるが,ここはガマンする。12〜13分ほどで食して外に出て,すっかり日課になった「やどかりの家」の訪問(前回参照)。朝もはよからゴソゴソと音はしている。
部屋に戻る。今日こそは波照間島に行きたい。昨日,竹富島から帰ってきたとき,ちらっと安栄観光の運航状況を確認したら,15時台の船は出たようだ。昨日よりも今日のほうがより天候は穏やかになるであろう。とはいえ,いつも何やかやと見てしまう「お天気チャンネル」では,2〜3mの波でうねりを伴うようで,あいかわらず波浪注意報も出ている。一応,前もっての確認はしておこう。
早速,7時過ぎに安栄観光に電話を入れると,7時半ごろに結論が出るとのことだ。もしも,これで波照間島行きがダメならば,平田観光に行って西表島の舟浮ツアー(第5回第6回参照)に切り替えるか。そして,それがダメでも西表島には行くことにして,レンタカーでも借りて島巡りをすることにしたい。どっちみち,港へは早めに行っておいたほうがよかろう。無論,港への路線バスはまだ出ていない。7時半ちょい前,またもタクって港へ向かうことにする。
タクシーの中はラジオで台風の話題が流れる。大分落ちついてきてはいるようだが,おそらく,多少はまだ混乱しているのだろう。昨日とほぼ同じルートを辿って,7時40分港に到着する。早速,安栄観光のカウンターに行く。愛想のいい中年男性が応対する。
「すいません。波照間島行きのツアーって出ます?」
「はい,今日は出ますよ」
よっしゃ。これにて今日の予定は確定。波照間島行きツアーに参加である。早速,8500円を支払う。カードはどうやら不可らしい。でもって,行きは8時半,帰りは12時50分か16時40分。私はすっかり前者で帰らなくてはならないのかと思っていたが,後者でもOKだという。一応,両方で帰れるようにしてもらう。そして,「よろしければ…」ということで,男性は自分のデスクをゴソゴソして,ぺラ1枚の地図をもらう。楕円形の島に胞子状に道が広がっているのが分かるが,残念ながらこれでは役立ちそうにない。まあ『やえやま』を持ってきているから,これで十分である。
行きの船の時間は8時半。まだ時間があるので,交差点角のコンビニで缶コーヒー(115円)と黄色いフェイスタオルを購入する。フェイスタオルは,最終日でいまさらって感じであるが,バンダナ代わりである。あるいは帽子を旅行前に100円ショップだとかユニクロで購入しようかと考えたが,面倒になって止めた。さらにここ石垣島でも100円ショップで見てみたが,やっぱり止めた。そして今回も,気に入ったのがなくあきらめる。クバ笠みたいにバカでかいのもあり,たまーにソイツをリュックにひっかけているヤツを見るが,そこまでしてかぶりたいものか。私にはとても鬱陶しそうでできない。
港は風がそれなりに心地いいが,どういうわけかかなりむさ苦しい。作業服を着た男性がかなり多いのだ。よく見ると,クーラーボックスやつり竿を持っているから,おそらく“そういう関係”の人たちなのだろう。彼らは西表島や黒島行きの船にどんどん乗っていく。彼らが船に乗って去っていくと,一気に港が静まり返る。そして缶コーヒーを飲む。気分がいい。
8時10分,ターミナルの端にある乗船場から乗船。安栄観光のホームページなどでは,12人乗りの船であり,人数が増えた場合には船も増やすというように書いてあったが,後ろのデッキだけで12人は乗れるし,船室内の座席は通路をはさんで左右に分かれ,一番前が2人席で,あとは3人席が5列。都合34人乗りである。他の船よりは少し小さいかもしれないが,さすがに12人というわけには行かないのだろう。ましてや,欠航明けの2便目である。
目の前には「気分が悪い方はビニール袋をお使いください」というプレートがあり,黄色いビニール袋が装備されているが,なぜかその黄色いビニール袋は,いずれの3人席も真ん中に一つしかない。用意が悪いのか,あるいは何やかやでも酔いやすい人は少ないからってことか。ちなみに,他の路線にはなかったと記憶する。おそらくは一番外洋を走っていくこの船に無事に乗船できれば,どこの離島への船もOKだろうと思われるが。
そして,船内にはかなりの乗客が乗り込んでくる。私のように「3度目の正直」みたいな人間はどれくらいいるのか。中年夫婦も1組いるが,それ以外は多分私より若いであろう。そして,ほとんどが2人以上。1人旅は数人だ。海水浴もしくはキャンプ用と思われるデカいシートを持つ人,大きなリュックを持つ人,作業着の人など“人種”はさまざま。おしなべれば,平均年齢は低くなると思う。

8時半,定時に出発。中は乗船率7割以上。私の隣には,真ん中の席をはさんでEXILEのヴォーカルそっくりの男性が座った。薄いブルーの作業着を着ている。船は淡々と進んでいくが,いかんせん台風明けである。まったく不安がないといったらウソになる。そして,それを見透かしたかのように,横波に煽られる。竹富島の東岸あたりだろうか。
8時50分,右に小浜島がくっきりと見える。真ん中に盛り上がっているのは大岳であろう。そして,その向こうにぼんやりしながらも巨大な島影。昨日と同様,おそらく少しガスっているのかもしれない。もちろん,これは西表島である。「あんな小島とはレベルが違う」といわんがごとく,島の隆起はその数倍にも及び,そしてしばらく右手にぼんやりしたその島影を見ていくことになる。さらに南下していくと,左には一面フラットな黒島,そして二つに分かれた新城島も見えてくる。
この辺りになると,遠浅のエメラルドブルーだった海の色は藍色に近くなってくる。そして,いよいよ揺れ方も大きくなる。中は寝ている人間と起きている人間が半々。起きている人間の中には,ずーっとケータイと“格闘”している女性の姿も。集中していれば酔わないってことか。そして,さっきまで寝ていたEXILE野郎は,起きて『代紋TAKE2』を読み出した。へー,まだあるんだ……黒島に行くときと同様,最後部に乗ってはいるが,そんなのは関係ないだろう。たまに“バッバッ”と音を立てて立て揺れし,波を思いっきりかぶるのは慣れっこであるが,回数はやっぱり多いし,揺れも大きい。日本最南端の有人島は簡単には行けないような“システム”になっているのである。
それに第一,船というヤツは元から揺れる代物なのである。揺れを大きく感じるか小さく感じるかの差だけであって,揺れない船なんざ,まずあり得ない。土曜日は黒島に行く若い女どもがキャーキャー言っていたが(第1回参照),だったら船なんかに乗るなよって感じだ。もっとも,これは私が船酔いしないから強気に言える部分もあるのだが,むしろこういう揺れは楽しむくらいでないといけない――そういや,10年前に石垣から那覇にフェリーで帰ったとき,時間は20時過ぎと夜はまだこれからって時間なのに,船内はとても静か…どころか重苦しいムードが流れたことがある。低気圧が来ていて波がかなりあり,船酔い客が続出したのである。ほとんどが眠りたくなくても眠らざるを得ない。ああいう状況に1人でもなってしまったら,連鎖反応でTHE ENDである。
話を戻す。9時10分,いよいよ西表島の島影は見えなくなった。四方は完全に藍色の海である。こうなったら,まな板の鯉。今までは島が周囲にあって少しは「護られていた」のであろうが,ここからは翻弄されるがままである。そして,これは波照間島からのささやかな“洗礼”なのだろう。たまに島影が見えたかと思っても,周囲は地平線のまま。さっきまでは「楽しもう」と思っていても,どうしたって時計に目が行ってしまう。もちろん,その心は「早く着かないかな」「あと何分くらいかな」である。
9時半前,ようやく左に今度こそ濃い島影が見え出した。心なしかホッとするのは,誰しもホンネではありはしないか。見れば起伏はそれなりにあるようだ。それから数分すると,白いコンクリートの桟橋が見え出した。9時35分,いよいよ日本最南端の有人島・波照間島到着。冷房が効いた船室からデッキに出ると,モワっとした空気。メガネが思わず曇ってしまう。たくさんの荷物が積まれている。

(1)ハートアイランドへ
桟橋からは「みのる荘」という民宿の車でサイクリング乗り場まで送迎してもらう。早速,その「みのる荘」のプレートを持った人を見つけると,どうやら宿泊者用と日帰りサイクリング用で車が分かれるようだ。私はもちろん後者だ。早速向かうと,それは8人乗りのワゴンであった。一方,隣に停まっている宿泊者用はマイクロバス。でも,よく見れば「有償運送」とある。この差って一体……いまいち,よく分からない。ま,とりあえず待つことにしよう。
このワゴンを運転するのは,「ウォーターボーイズ」とかに出てくる日焼けした若いアンちゃん。ちょっとハンサムである。背も高くて,肌の色も浅黒い。緑のTシャツに赤い短パン。紺色のエプロンをかけている。やがて,若い女性2人組が乗り込んできたが,一向に発車する気配がない。アンちゃんいわく「もう1台来るので,しばらくお待ちください」とのこと。はて,2隻に分乗か? そんなにも今日は混んでいるのか。ムリもないか。数日ぶりの運航である。自分が乗ってきた船は,脇のほうにどけ出している。とはいえ,なかなか来ないから,アンちゃんも暑さ対策で一度車に乗り込んだ。
すると5分ほどして,もう1隻が港に入り込んできた。あ,そうだった。もう1台とは波照間海運の船である。すっかり忘れていた。でも,波照間海運のほうも私が乗ってきたのと同じくらいの人数が乗っている。いや,あるいはそれよりも多いかもしれない。何はともあれ,これですべて上陸である。アンちゃんも車を降りる。そして,これから来る人のために再びワゴンのドアを開ける。中はクーラーが効いていて気持ちよかったのだが,また暖かい空気が入り込んでしまう。でも,まさかお客にドアを開けさせるわけにもいかないのだろう。そして彼は桟橋のほうに向かっていく。
2〜3分ほどして,私と同世代か少し上くらいのカップルが1組乗り込んできた。そして再びアンちゃんも。どうやら,この2人のために待っていた感じだが,まあいい。日帰り客は合計5人のよう。隣を見ると,宿泊客のほうが多いようである。宿泊者はまず直接宿へ向かい,日帰り者はサイクリング乗り場へ。この二つはどうやら離れた位置にあるようだ。そのために乗り分けさせるのである。
ようやく出発。港から集落へは少し急な坂を上っていく。とはいえ,一気にスピードを上げて上り切れそうだが,たまにアンちゃんはスピードを落とす。「何だろ?」と思うが,すると“ガタン”という音を立てて,車が少し揺れる。何のことはない。道路に何箇所か溝が走っていて,それをふさぐ鉄の格子状のフタに乗っかったときに揺れるのである。その揺れを少しでも和らげるという気遣いである。
ま,客商売だから当然っちゃ当然かもしれない。ホントに,その溝が来るたびに,愚直なまでに減速する。あるいは女性が乗っていたからか。でもって,ここに私1人だけだったらば,オフロードとはいかないまでも,スピードを落とさずにガタンガタンやりまくったり……うーん,アンちゃんの顔を見る限り,それはないと信じたい。
数分でワゴンはサイクリング乗り場に到着。昨日の竹富島のワゴンは,私が手動で開け閉めしたが(前回参照),今回はアンちゃんが開けてくれる。ツアーのサイクリング乗り場といっても,ちっぽけな小屋が二つあるのみだ。そしてサイクリング乗り場からは,白い2階建ての建物が見える。上のほうに赤い文字で「みのる荘」と書かれている。なるほど,あそこがあの「みのる荘」か――実は会社の大先輩がここに泊まられたことがあるようで,「波照間島に住むんだったら,あそこのじーさんならいい人だから保証人になってくれるよ」とか言っていた。話を戻して,まあ離れているといっても,距離は数十mほど。一緒に1台に乗せて,途中でサイクリング客を別に下ろしたほうが効率的だと思うのは私だけだろうか。
ジャリが敷かれた敷地には,手前にたくさんの自転車。奥がテラスみたいになっているようだ。坊主っくりのアンちゃんが女性と座りながらしゃべっているので「すいません」と声をかける。すると,アンちゃんは戸惑った顔をしながらも,小屋のほうに行って中に声をかける。
「すいませーん。お客さん来はりましたよ」
「すいませーん」はこっちのほうだ。あなた方,お客さんだったのね。でも,しっくりこのスペースになじんでましたよ……そして,小屋の中からはオバチャンが出てきた。早速,ツアーであることを言うと,名前と乗る自転車の名前を書かされる。電話番号の欄もあるが,あいかわらずケータイはウンともスンとも言わない。なので,空欄のままである。時間を聞かれたので「16時40分のほうの船にします」というと,「じゃあ,16時15分までに戻って来られてください」とのこと。ま,急ぎ足で帰ってきてせっかく来たのにどこか見られないとなってはバカらしい。今日は,今までの鬱憤を晴らす意味でも,トコトン波照間島を満喫しておきたい。
で,肝心のチャリは……どいつもこいつも,どこがしかが錆びついている。その中で何となくマシそうなやつを選ぶ。番号は50番。「なーに,どれも錆びてるじゃん……」とは,先ほどのカップルの女性のほう。まあ,走れればいいじゃん。とりあえず近くで少し走らせてみると,まあ普通に走れるではないか。いまさらだが,頭には黄色のフェイスタオルをバンダナ風に巻いて日射病防止と汗止めである。まずは集落に向かって出発することにしよう。

@ウミガメを見て,ショートケーキを食べる
早速,右手には波照間駐在所。どこにでもある普通の交番だが,壁には青く縦長に描かれた日本列島の絵に,赤く塗られた島がポツンと下のほうにある。もちろん,ここ波照間島である。おそらくはここが日本最南端の駐在所であろう。中には誰もいなかったので,あるいは巡回にでも回っているのだろう。引き続き数十m進むと,道は突き当たりとなる。目の前には大きな建物が。
ここにあるのは波照間小・中学校だ。これまた日本最南端の小・中学校である。集落側に小学校,その北側に中学校が建っている。ともに結構立派な建物だ。小学校では子どもの姿を見ないなと思ったが,考えてみれば平日の午前中だから,授業中だったのだろう。一方,中学校では数人の姿を見かけた。教室から教室に移動していたようだ。男子は白のワイシャツに黒のスラックス,いわゆる“学ラン”なのだろう。女子も白のブラウスに黒のスカート。見た目はごくごくどこにでもいる中学生っぽい格好だ。中学校ではヤギを5頭飼っていて,ジャングルっぽい茂みの中に小屋があった。ちょうど位置的には,さっき自転車を借りた小屋の裏側あたりであろう。
で,とりあえずはここを右折すると,右手に「名石売店」……といっても,そういう看板なんかはかかっていない。コンクリートでできた平屋の古い売店。名前は『やえやま』で確認した次第だ。ちょうど,工事関係者っぽいいでたちの男性数人が中に入っていった。私もチャリを停めて中に入る。奥はそれなりにスペースがありそうだが,私に用事があるのは手前右手の冷蔵庫のみ。ここで“必需品”のさんぴん茶(500ml)を購入する。140円。これ1本しか買わなかったからかどうかは知らないが,メガネをかけた40代くらいのオバチャンの応対が,心なしかつっけんどんであった気がする。
ま,いいや。次はどこへ行こうかと,売店の軒下で『やえやま』を見ていると,集落から少し外れるが,道なりに波照間酒造所があるようだ。伝説の泡盛と言われる「泡波」を製造する酒造所である。再び走らせることまたまた数十m。郵便局を越えると左にその建物があった。一部が2階建てだが,おおむね平屋建て。でも,看板は一切ない。たまたま敷地の中にある駐車場に「波照間酒造所」と書かれた軽自動車が停まっていたから分かったというもの。いなかったら,確実に見逃していたであろう。見た感じでは貯蔵タンクらしき物体が見えたが,それ以外は普通の町の工場っぽい。石垣島の請福酒造所みたいに“それっぽい匂い”もない(第6回参照)。
ここは,波照間島民の共同事業として,1953年に創業を開始した。創業当時は5〜6カ所の酒造所が操業を行っていたが,現在ではこの酒造所だけが残って酒造りを行っているそうだ。物資の乏しかった創業当初,原料に粟を用いて酒造りをしていたことから「泡波」と名付けられたという。現在は夫婦での製造のため,大量生産ができないそうだ。そして,それは皮肉にも波照間島民でさえ入手し難い酒になってしまったと言われる。事前情報で,旅客ターミナル内にある売店「イーノー」で味わえることは知っている。後で寄っていこうか。
再び集落の中心部に戻る。周囲の建物のほとんどは,赤瓦に木造の家,琉球石灰岩の低い石垣,木々はフクギといったスタンダードな古民家集落を形成している。そして,さっき立ち寄った名石売店のところを右に折れると,大きな広場がある。東屋があって,野球ができるくらいの広さがある。人はちらほらしかいない。奥には「ENEOS」の看板が見える。一応はガソリンスタンドがあるようだ。そして左には公民館と,「星空荘」と書かれた民宿。南十字星が見えるという島ならではの名前である。道もちょっとしたロータリーっぽい広さはある。道が散り散りに放射線を描いており,ここがまさしく波照間島の中心部である。
中心部から東進していく。途中,サイクリング客とすれ違ったが,相手の自転車はなかなか新しくてキレイであった……それはどーでもいいとして,次に行ったのは「長田御嶽」(なーだおん)。『やえやま』を見ながら行くと,民家の脇にあるジャリ道を入ったどんづまりに小さい林があった。1.2mほどの高さの石垣に囲まれており,入口が二つある。中は高さ・幅とも4〜5mほどの拝殿が。戸は閉まっている。そして,その脇にはもう一つ祠があって,こちらは高さ2m×幅1m×奥行き1.5mほど。向こう側が見える。名前の由来の“長田”とは,何度となく書いている「オヤケアカハチの乱」で政府軍についた長田大主(なーだふーず)のこと。彼の生誕の地なのだそうだ。
ところが,『やえやま』には碑の写真が写っているものの,周囲を探してもそれらしきものはない。後でウロウロと探していたら,さっきのロータリーの角に,背の高い樹木に囲われてひっそりとその碑があった。中には入って行かなかったが,木々の中へ入っていくと休憩できる丸太三つと香炉があるとのこと。碑と御嶽で場所が違うというのは何かヘンである。地図が間違っていたのだろうか。
その先を進んでいくと,右手には今度は正真正銘のねとある別人物の碑があった。ここは間違いなさそうだ。上記・長田大主と仇の関係になった,そのオヤケアカハチ生誕の地である。こっちも背の高い木の下に高台となっている。大きさは3m×6mくらいか。周囲は石垣で縁取られ,その石垣の上に香炉が置かれている。それだけのシンプルさである。何度となくオヤケアカハチについては旅行記で触れているので,波照間島へ来たら必ずここに寄ろうと思ってはいたが,この程度とは正直驚いた。もっと,本格的な石碑があったり公園っぽくなっているかと思っていたのだ。
もっとも,実はこの場所でアカハチは産まれたのではなく,どうも崖に捨てられていたのをこの生誕地がある集落の人間が拾い上げて育てたというのが実情のようだ。なので,厳密には“育ての場所”ということかもしれない。また,崖に捨てられたのではなくて,異国から漂流してきたのだとか,はたまた韓国の同時代の英雄なのではないか,など諸説があるのも事実である。

それはいいとして,実はこの2人。近所なだけでなく,幼い頃には遊び友達だったということである。が,大人につれて“事情”が変わってくるのが,この15世紀ごろの男性の宿命だったと言えるのかもしれない。その後,2人とも石垣島に渡って,武士として勢力を拡大していく。アカハチは現在,フルスト原遺跡(第7回参照)となっている居城跡がある大浜地区で,大主は市の中心部の中にある石垣地区で権力を持つことになったという。なるほど,この石垣地区には大主の妹・真乙姥(まいつば)をまつった真乙姥御嶽(第5回参照)があることからも想像がつく。
ここからは「宮古島の旅アゲイン」後編にも書いていて重複するが,当時の八重山は第一尚氏の首里政府(以下「政府」とする)への過酷な納税や朝貢で苦しめられていた。そんな中,アカハチはついに政府に反抗するべく決起する。まずは朝貢と納税を数年にわたって拒否し続けた。これに対して,政府に従属的だったという大主は,アカハチを説得に行ったとも,はたまた討伐に行ったとも言われる。時期ははっきりしないが,大主(および真乙姥)の妹にあたる古乙姥(こいつば)をオヤケアカハチのところに嫁がせていて(第5回参照),それが大主側の政略結婚という見方が強いことから,討伐の可能性が濃厚だと言えるだろう。無論,全てが大主自身の保守であろうことは想像に難くない。いい悪いはこれまた別として。
ところが,大主は逆にアカハチに敗れてしまい,西表島に逃げ延びることになる。さらに,アカハチは時を前後して周辺地域の豪族を討伐しており,ますますアカハチの石垣島および八重山での勢力は拡大し,さらにその勢いは宮古島にも及ぼうとしていた。一方,その宮古島で権力者となっていたのは,仲宗根豊見親(なかそねとぅみや,「宮古島の旅アゲイン」後編参照)。豊見親は,八重山にも進出を企て影響を及ぼしており,一方では政府に従属的であったことから,アカハチとの対立は必至であった。事実,政府へ忠言するとともに,八重山への派兵に向けて着々と準備していた。
そして,運命の1500年。政府は最大の難関・アカハチ討伐のために,軍船46隻と3000の兵を石垣島に送り込んだ。豊見親はその総大将に,アカハチに敗れて西表島にいた長田大主は,その軍隊の水先案内人になっていた。これに対してアカハチ軍は,海岸を民兵で固め,その傍らには数十人のノロを配置。ノロは政府軍を呪い倒すべく,木の枝を打ち振るって奇声を上げたという。この戦法には当初,政府軍も上陸をはばかられたという。現代の感覚から考えれば“奇妙な光景”であり,「んなの,遠慮しないでバンバン殺っちまえばいいじゃん」と思ってしまうが,当時はこういう思想であり,またこういう戦い方をしたそうだ。
話を戻して,対する政府軍も君南風(ちんぺー)という久米島のノロで対抗。君南風の忠言により,政府軍は竹の筏をいくつも造り,それに火をつけて流したという。その火の流れにアカハチ軍もつられて動くだろうということだが,これが作戦成功。政府軍は二手に分かれて石垣島に上陸し,アカハチ軍を挟み撃ちして討伐することになる。その結果,政府軍について戦った豊見親や長田大主,そして大主の妹・真乙姥は各自要職に就くことになり,片やアカハチと,その妻であり大主のもう1人の妹である古乙姥は処刑されることになった。これが「オヤケアカハチの乱」の顛末である。
――振り返って,この2人それぞれの史跡を見て思うこと。それは,ここ波照間島において2人の位置付け・取り扱いが,何となく長田大主に“寄っている”のではないかということだ。片や御嶽としてまつられ,片や観光課あたりが建てた碑があるのみである。もっとも,2人とも波照間島出身なだけであって,本格的な拠点は石垣島とは言える。でも,アカハチについては,周辺地域を討伐した中に,波照間島を統治していた明宇底獅子嘉殿(みうすくししがどぅん)が含まれている。明宇底獅子嘉殿は,アカハチへの協力を拒絶したために殺害されたというが,これが波照間島においてマイナス評価になっているのだろうか。
もっとも,少なからず波照間島の武士や農民がアカハチ軍に殺される悲劇もあったかもしれない。そのころの波照間島が平穏だったかどうかは分からないが,もしその平穏をアカハチが打ち砕いたのであれば,結局“賎軍”となったアカハチはマイナスであり,どーでもいい存在となり,そのアカハチを討つほうに加担して,結果的には“官軍”となった長田大主は,それなりにまつられるべき存在になるのだろうと思われる。
それでも,アカハチについては銅像と石碑まで建てられているから,“総合点”では長田大主に比べれば評価されているのだろうと思う。評価するからこそ,銅像なんかを建てるはずだろうからだ。ただし,いずれも建っている場所は石垣島なのである。アカハチは八重山にとっては,過酷な納税に反発した人間なのだから,高く評価されてしかるべきなのだし,石垣島以外でも彼が何らかの関係した場所は,もっと整備されたりしてしかるべきだと思うのだ。
あるいは,アカハチが政府軍に勝っていたら,しかるべき高い評価が八重山各地でなされたのであろうか。実際,アカハチ討伐後の八重山は,それ以前と変わらずに納税に苦しめられている。政府に従順であった武将は,八重山での住民の苦労をどう感じていたのだろうか。結局は「勝てば官軍」であり,結果的には琉球王朝統一が実現したのだから,評価されるのは統一にかかわった人間だけなのだ――でも,これだとあまりにアカハチにシンパしすぎであろうか。あるいは“中立的立場”に立った評価結果が,今の史跡のある姿ということもできる……ま,いずれにせよ,こんなに大げさに語るほどでもないのは確かだ。このあたりでそろそろ締めようか。
と,ここまで書いといて何だが,もう1人忘れちゃならない人物がいる。アカハチの妻・古乙姥である。彼女はどこにもまつられていないのである。あるいは私が知らないだけかもしれないが,政略結婚といわれる形でいわば“賎軍の将”の妻にならされたあげく,殺されたのである。もちろん,アカハチが勝っていれば運命が逆転しただろうが,歴史はいまさら逆回転はしてくれないのである。ならば,せめてこの古乙姥をまつる何かを建ててやってもいいものだが,これもまたアカハチにシンパしすぎなのだろうか。(第10回につづく)

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