沖縄はじっこ旅U

@ウミガメを見て,ショートケーキを食べる
さて,後は島の北部を見るのみだ。このまま伊古に真っ直ぐ行っても構わないが,ジャリ道を入ったところに北神山御嶽(“きたかみやまおん”とは多分読まないだろう)なんてのもあるようだ。たま商店(前回参照)の時計で確認したら,まだ14時になっていなかった。あと見るべきは2〜3箇所だろうから,少し遠回りしてもいいだろう。ここはジャリ道を入っていくことにする。
初めはひらけていた景色は,やがて御嶽があることを示すように,鬱蒼としてきた。やがて,右側に「北神山御嶽」という看板が出てきたが,どうやらその鬱蒼とした中をさらに入っていく感じだ。御嶽は他のところでもいくつか見ているし,ムリしてまで見たいとは思わない……というか,ちと面倒臭くなってきたのだ。ここは通過していく。ちなみに,もう少し先に行くと阿名泊御嶽(こっちも“あなどまりおん”とは読まないだろうな)というのもあるようだが,ジャリ道のさらに奥のようである。
チャリはそのまま次の目的地である伊古桟橋に向かうことにする。地面は,人が踏み入れてこないのだろう,かなりのガタガタ道である。で,ちょっとした拍子に前カゴからさんぴん茶のペットボトルが落ちてしまい,ボトルについた結露にドロが絡みついていかんともしがたくなったりしたが,何とか耐え忍んで進むと,目の前に海がひらけてくる。
あいも変わらず,遠くでは白波が立っている。ここから道は左にカーブしていくが,左にある藪には,大量に自動車のスクラップが積まれている。その中に山羊が2頭ひもでつながれていた。こんなところに人はまず来ないだろうから,見られたくないものはここにすべて隠してしまえということだろうか。でも,こんなところにわざわざ山羊をつないでおくメリットって何なのだろうか。何かの拍子にスクラップの下敷きになり“不慮の事故”で死んでしまった山羊を“つぶした山羊”とみなして食べられるわけでもないだろうに。少なくとも私にはみなせない。
そのまま道を進むと,森の端っこをかすって右に,長ーいコンクリートの桟橋が海に向かって突き出している。ここが伊古桟橋である。この伊古という集落は,沖縄本島の糸満から移り住んだ漁師の村だったようだ。で,桟橋は1935年にできたもので,長さは350mとのこと。幅は2mほどか。当初はここが島の玄関口として栄えたようだが,今は現・保里集落の黒島港に譲っている。
ちょうど桟橋の起点にチャリが1台置かれていて,見ればアロハシャツを着たお兄さんが桟橋の突端に向かって歩き続けていて,何か写真を撮っているようである。どうもみた限りでは,崩れている場所が何箇所かあるようだが,わざわざチャリを置いて歩いて行くのももったいないからチャリで行けるところまで行くことにする。でも,風が強くなっているから,進むのは大変そうだ。
周囲は潮が引いているようで,100m近く進んでも岩場がかなり露出している。戦後に延長していまの長さになったというから,戦前,ここに昼時に船をつけるのはかなり難しかったのではないかと想像する。そして,いま走らせている地面は,役目を終えて忘れ去られ,その間に雨風にかなりさらされたことを示すようにボロボロに剥げ上がっている。剥げ上がるのを通り越して陥没しているところもあり,そこではペダルが慎重にならざるを得ない。
50mほど進んだところで“ガタン”という音。何かと思ったら,アロハシャツのお兄さんが置いていたチャリが,風に煽られて倒れてしまったのである。私はといえば,スタートから半分ないし6割ほどのところで,完全に崩れてしまっているのでそこで引き返すことにするが,アロハシャツのお兄さんは軽やかに突端まで行こうとしているようだ。私は思わずここ言いたくなった。「あなたは身が軽いようだから,そのまま突端まで行けて嬉しいでしょうけど,そんなあなたとは裏腹に,あなたが入口で停めている自転車は風に煽られて虚しく倒れていますから。残念!」
桟橋を後にして,森の中をチャリは走る。さぞ,これが桟橋に向かって走らせていれば気持ちいいであろうルートだが,まあ仕方ない。1分ほどで再び周回道路に戻る。一応,伊古集落ということだろうが,牛舎そして牛以外に民家らしきものは見られない。あと,たしかこの辺りでも孔雀を1羽見たような記憶がある。無論,ヒモなんかついていない野生である。
この伊古にも御嶽がある。仲盛御嶽(これまた“なかもりおん”とは読まないんだろう)である。ここは簡単に入れそうだ。入口の鳥居からアプローチ25mほど。高さ2〜3m×幅5m四方ほどの赤瓦にコンクリートの拝所。中に香炉が置かれており,そのさらに奥の石垣がある向こうに,これを一回り小さくしたような拝所と香炉。加えて箒やゴザも置かれていた。多分,一番目の拝所から通りぬけできるようになっているのだろう。奥の拝所こそがホントの神様の場所といえよう。

こうして,スタートの黒島港には14時25分に到着。台風からの煽りであろう。風が海から“ヒュ〜”と不気味な高音を立ててこちらに吹き始めている。島にやってきたときにあれだけたくさん置かれていたチャリは,数台しかない。とりあえず,置いてあったであろう辺りにチャリを置くが,肝心のオバチャンはいない。4時間乗っているからたしか800円のはず。ということは,あと300円精算しなくてはならないが,実は彼女の顔なんざはっきり覚えちゃいない。そもそもタオルをかぶっていたから,分かるはずもないのだ。でも,いいのだろう,これで。名前だって書いていないし。
待合室でしばし休憩。他の離島に比べてちっぽけな休憩室。売店があるようだが,シャッターが降りている。まだ船の時間まで30分以上あるからか,中年カップルをはじめ数人しかいない。ふと外を見ると,先に戻ってきていたと思われる別の若いカップルが,ターミナルの裏にある小屋に上がって行く。さっき帰ってくるときに目に入っていたが,「ハートランド」という土産屋のようだ。多分,あの手の店は小物類が売っていたりするのだろう。そのうち,一緒にいた中年カップルの旦那のほうが様子見にやはり店に向かっていた。となれば,ここでヒマを持て余すのもバカらしくなってきた。ヒマつぶしにちょうどいいかもしれないから,行ってみることにする。
店内は5m四方くらいの狭い店。パッと見で食堂っぽかったので,入るのをためらわれたが,何となく入ってしまった。店は若い女性が1人で切り盛りしている。入って右側のCDラックにはたくさんのCDが。渡辺美里と東京スカパラダイスオーケストラとEGO‐WRAPPIN'のCDなどが目に入る。EGO‐WRAPPIN'の『チェリーにくちづけ』が聞こえてきた……と思ったら何のことはない電子音。女性店員の携帯の音だった。
テーブルは4人席と3人席が一つずつ,それと角に2人席が二つ。若いカップルが4人席で何か水でも飲んでいる。さっきの中年カップルの旦那が2人席の一つに座り,私はもう一つの2人席に座る。肝心のお土産は……というと,Tシャツは見当たるが他には見当たらない。後で確認したら,この女性手作りの絵葉書とか黒島地図があったようだ。
そのうち,中年カップルの女性のほうが入ってきた。実は入口のドアサッシがちと曲者。左右にアコーディオン型に開くもので,二つをつなぐドアの真ん中にポッチがあり,それを下に下げるとパッと左右に開く(詳細は忘れてしまったので,こんな拙い説明になってしまう)。だが,このドアを閉めるときが難しいのだ。若い店員に気を遣ってか,中年女性は自分でドアを閉めようとトライするが,要領を得ず,閉めるどころかレーンにひっかかっていた片方のドアを外したりする始末。「あ,そのままでいいですよ」と今度は若い女性が気を遣い,自分で適当に閉めていた。
さて,冷やかしのつもりがテーブルについてしまった私。「水ください」だけでは失礼だから,何か頼まなくてはならない。壁に掛けられたメニューにはコーヒーとかアイスとかかき氷と書かれている。アイスは天ぷらなんてのもあるが,とりあえず私は普通のアイス(300円)を注文する。一方,中年カップルは「食事は何かあります?」と聞くと,若い女性は「八重山そばですね」。「やきそばとかはないのかしら?」「やきそばはないです」ともう1回“キャッチボール”をすると,中年女性は「じゃ,八重山そばとコーヒーぜんざい一つずつ」――え,“コーヒーぜんざい”って,「コーヒー」と「ぜんざい」は別の行にそれぞれ書かれていますけど,その食べ物って成り立つのかしら……しかし,注文を聞くと,若い女性は厨房に消えていった。
外はあいもかわらず“ヒュ〜”と不気味な高音を立てている。さすがに船は動くのだろうが,帰りはこりゃ揺れそうだ。さっき海を見ていたら,大分波立っていたし。いよいよヤフーの天気予報通り,5〜6mの波になってくるんだろうか――そうこうしているうちに,若いカップルのところにそばが2杯出てきた。美味そうにすすっているが,こんな時間に食事なんて何してたんだろ。もう一方の中年カップルは,どうやらもう少し黒島に残ってサンセットが見たかったと女性のほうが話している。そりゃ,人の勝手だけど,石垣に帰れなくなったらどうするのだろうか。
そして,次は私のアイスが出てきた。直径10cm×深さ4cmほどのガラスの器に,私はてっきりバニラアイスが直径5cmほどのドーム型に盛られて上品に出てくるものと思っていたら,おそらくは業務用と思われるカップからカレースプーンで力を入れて一回ししてこそぎとったと思われる形で出てきた。しかも,バニラとストロベリーとチョコレートの3種類。量はいずれも同じくらいだ。このアイスの上にはラズベリーの丸い実が二つ乗っかっている。うーん,このかなりのボリュームで300円ならば上等だろう。ただし,晩飯は少し控えなくてはならないかもしれないが。

15時,高速船が港に入船してくる。舳先には大量のダンボールと発泡スチロールの箱。そうそう,離島への観光高速船はまた,物資運搬船も兼ねているのだ。観光客がスーツケースやリュックサックを背負って降りてくる脇で,そば,ビール,さんぴん茶,トイレットペーパー,洗濯セットなんて書かれたそれらが積み上げられていく。
島側は民宿あたりで働いていると思われる男性が6人,プラス八重山観光フェリーの男性2人の計8人が,バケツリレー方式で次から次へと物資を上陸させていく。その中にはなぜか大量の“綿袋”と書かれたものも。ちょうど,運動会の玉入れ競技に使うような袋のオバケみたいなやつだ。中にホントに綿が入っているのかは分からないが,テキトーに放り投げているから,少なくとも壊れ物なんかは入っていないのだろう。
おそらく,今日なんかは普段運ぶ量よりも多いのであろう。これからやってくる台風の影響を考慮しているのだろうか。ひょっとして,最悪明日は欠航かもしれない。あるいは明日・明後日もどうなるか分からない。そうとなれば,船が動くうちに持ってこられるだけ持ってきたいと思うのは当然である。そんな男性人の脇で,オバチャンが両手にビニールの買い物を持っていた。中身は車麩。一袋数本入った車麩を,多分1ダース近く持っているのだろうが,重さ自体はさしてないだろう。彼女も黒島の人間なのだろうか,男性陣の荷揚げの様子を見守っていた。
15時5分,予定通り高速船は黒島港を出発。船内は,行きよりも人数が少なくなっている。黒島港の波のわりには途中まではさして揺れなかったが,竹富島を左に見た辺りから石垣の港内に入るまでは,うねりに何度か煽られていた。

(1)ハートアイランドへ
石垣港には15時半過ぎに到着。このまま宿に向かうのは何だかもったいない。ということで,少し足を伸ばして島の東南にある白保(しらほ)集落に行くことにする。ここは,昨年あたりにテレビで観た白百合クラブというバンドの出身地であり,また『涙そうそう』で有名な夏川りみ嬢もここ出身。ついでと言っては失礼だが,BEGINの誰かもこの場所の出身地である。ま,早い話がまたミーハー根性で行きたくなったわけだ。ちなみに,素通りという意味では2003年の元旦に訪れてはいる(「沖縄標準旅」第7回参照)が,集落を散策するという意味では初めてである。
第1回で書いたように,バスターミナル発白保行きのバスは30分に1本。しかし,『やえやま』で調べていた15時半発というやつは行った後だった。次は16時発…と思い,とりあえずバスターミナルに行くと,15時40分発の平野行きというやつが停まっていた。このバスは白保をはじめとして,国道390号線沿いの集落をひた走って,島の最北の集落・平野まで1時間半以上かけてのんびり行く。ちょうどよかった。これに乗って行くことにしよう。
バスに乗ろうとすると,運ちゃんから「どこまでです?」と聞かれる。「白保です」「じゃ,350円です。そこの窓口で券を買ってください」――空港からのバスもそうだったが,この東バスは両替機能がついていない。ま,前金で払ってしまえばお互いに安心っちゃ安心だし,そもそも利用する人間は,ほとんど地元民でかつ日常での移動手段であるから,このシステムでいいのだろう。でも,ふいに降りたくなったときには不便だ。間違っても“途中下車の旅”は成り立ちにくい。運転の際,運ちゃんは一様に金属でできた箱を持って出入りするが,そいつは両替用の箱じゃないのか。プラスチックでできた運賃を入れる備え付けの箱だけが,まさに運賃を入れるためだけに機能するのみだ。
15時40分出発。港沿いの広い道を少し進むと,おもむろに左に狭い道を入っていく。地図で確認したが,多分これから通っていく国道390号線の旧道を通っていっているのだろう。しかし,運ちゃんはシャレじゃなくてウンともスンとも言わない。普通,路線バスはテープで女性の声が流れるか,あるいは運ちゃん自身がアナウンスするはずだが,それがまったくない。もっとも,乗っている人間が少ないし,皆の行き先を聞いているようだったから,やる必要がないとも言えるか。ある意味“合理的”かもしれぬ。
と,これまたおもむろに座席の下から何かを取り出した。ガサガサ音が響くので何かと思ったら,黒いヘッドマイク。で「次は,平得(ひらえ),平得です」とのこと。もしかして,忘れてたとか? 後で東運輸のホームページで路線を確認したら,二つくらい停留所を飛ばしていた。別に平得バス停までバス停がなかったわけじゃなかった。あるいはやっぱり“合理的手段”を取ったのだろうか。
平得バス停を通過すると,道が再び開けてくる。それと同時に車両の量が一気に増える。このあたりは郊外型の大きな店舗が立ち並んでおり,それらに入っていく,あるいはそこから出て行く車が多い。中でも“イオンタウン”と呼ばれるショッピングモールはかなりの大きさがあって,その一角には100円ショップのダイソーもある。今回もまた下着類は現地調達するつもりだったので,これは都合がいい…というか実は知っていたのだが,まあいいや。ちょうど車内では「サンエー前」とアナウンスがあり,間もなく乗る人がいてバス停で停まった。肝心のサンエーもきちんと存在感をアピールしているが,帰りはここで降りてダイソーに行くことにしよう。
この辺りを境に,周囲は建物が少なくなっていく。間もなく,前回の石垣島ドライブで寄ったホットスパーがある磯辺(いそべ)バス停を通過(「沖縄標準旅」第7回参照)し,次いでマングローブがある宮良川を渡る。付近には「エコツアー宮良川観光」と書かれた看板。バスから眺めると,大量の赤やら青やらのカヌーが川に浮かんでいる。
最近,この“エコツアー”という言葉をよく聞く。どうにも私には胡散臭い言葉に響いてならないのだが,それは私のアタマが確実におかしいのだろう。元々は“エコツーリズム”という言葉から来ている。いわく「自然環境や歴史文化を対象とし,それらを体験し学ぶとともに,対象となる地域の自然環境や歴史文化の保全に責任を持つ観光のあり方」という意味だそうだ。
日本では,昨年11月に小池百合子環境大臣を議長に「エコツーリズム推進会議」が設置され,エコツーリズムの普及・定着のための検討会議が数回行われたそうだ。会議のメンバーは,関係業界・省庁および有識者などから構成されており,作家のC・W・ニコル氏,アルピニストの野口健氏,歌手の加藤登紀子氏も名前を連ねている。
そして,今年6月には「エコツーリズム憲章」「エコツアー総覧」「エコツーリズム大賞」「エコツーリズム推進マニュアル」「エコツーリズムモデル事業」という五つの推進方策をとりまとめている。詳細は環境省のホームページでも参考いただきたいが,そもそもこのエコツーリズムは,発展途上国における自然保護のための資金調達方法として考えられたものという。やがて,それがテーマ的にも流行り廃りがないものであることから,持続可能な観光スタイルとして先進国でも導入されるようになったそうだ。
ふーん。でも,結局は「捉えようでは何にでも金や商売になる」ってことを言いたいだけじゃないのか。「自然を売りにする」と言った時点ですでに自然に対する冒涜であり,利害の原因以外の何物でもないことにどうして気がつかないのだろうか。「客が集まらないから,工夫しなければ」「じゃあ,どうする?」「ここはこう改造して,あそこはこうして……」と,多少なりとも対象物をいじくるところから始まって,それには金がかかるし許可も必要だからといろんな利権者に頭を下げて……まあ,これは一例にすぎないが,結局は普通の観光ビジネスと何ら変わらないのであるまいか。
別に川をカヌーで下ることが悪いと言わないし,山をトレッキングすることも否定はしない。それはそれでやったらいい。ただ,それを“エコツーリズム”だなんて名前で呼ぶなって言いたいのだ。別にいいじゃないか,単なる「観光ビジネス」で。恥ずかしくも何ともない。それで堂々と金をもらってメシを食っていますと,宣言すればいいのだ。

いよいよ,白保集落である。といっても,バス停はいくつかある。「白保中学校」「白保小学校」そして「白保」である。なんのこっちゃ。運ちゃんが淡々とアナウンスしてくれる中で,結局は単純に「白保」というバス停で降りることにする。海岸へは路地を入っていくが,どこでもいいから適当に路地を入って,海岸にぶつかった辺りで北上していくというのがmy散策ルートである。
街並みは,1.2mほどの低い琉球石灰岩の石垣と,赤瓦屋根の古民家,そこに効果的な彩りを添える豊かな緑はフクギだそうだ。防風林も兼ねている。ごくごく昔の街並みといったところだが,これでもだんだん少なくなってきているらしい。そして,ほとんどの家の窓が開いている。空は快晴で,気温も結構あるにはあるけど,夕暮れで少しずつ涼しくなってきているとなれば当然の光景であろうと思う。でもって,割と多くの家にヒンプンがない。すなわち,家の中がホントにまる見えなのである。中には仏壇まで見えたりして,逆にこちらが「見ちゃいけない」と思ってしまうくらいだ。
沖縄では「施錠をしていると,留守ということが分かってしまい,かえって泥棒がねらってくる」という考えがあると聞いたことがある。なるほど理に適っているが,そんな考えがまた,これだけ窓が開け放たれている理由の一つかもしれない。あるいは,隣近所との交際も当たり前のように行われているのではなかろうか。それならば自らを必要以上にプロテクトすることもない。
でも,都会では間違ってもそんなことはできまい。例えば自分の住んでいる辺りでは……と思って,普段からずっと閉ざしている部屋のカーテンを開けてみると,長屋のようなマンションの2階の部屋はいくつか窓が開いていたが,ちょっとした住宅街なんかだと,ほとんどドアというドアが閉ざされているだろう。仮に自然があったとしても,例えば玄関からのアプローチがかなり長かったり,あるいは階段で数段上に上がってみたり,家を仕切る壁が無機質な直線を描いて高さが高かったりと,それはここ白保の街並みとは真逆のことではなかろうか。
先に進む。間もなく民宿っぽい建物が右に見えて,正面には防波堤らしきコンクリートの物体。左を見ると森が。ジャリ道がそこに通じているので入っていく。上に大量に飛び交うトンボをよけながら歩くと鳥居があった。石垣島であるが,名前は「波照間御嶽」。無論,読み方は“はてるま”である。樹木の下,葉っぱがたくさん落ちていたり,植え込みになっている箇所もあり,そこで“ガサッ”と音がしたと思ったら,猫が2匹飛び出してきた…なんてことはどーでもいいとして,そこは50m四方ほどの土の広場である。社へのアプローチは20mほど。社は赤瓦屋根で高さ・幅とも5mほどのごくありきたりなもの。四方がオープンエアーで,台があり香炉が置かれていた。
さて,いよいよ白保海岸である。この海岸のサンゴ礁は世界的に有名で美しいとのことだが,それは潜ってみるか,はたまた民宿でグラスボートを出してもらわないと分からない。あるいは,潮が引くと沖合い1kmくらいまで歩いて行けるそうだから,それを見るほかない。今の外観をみた限りは,ごくごく素朴な海岸である。
相変わらず,沖合いは白波が立っているが,波打ち際は実に穏やか。サラサラというせせらぎのような音だけだ。風もなぜか凪いでいる。若い女性2人が下半身を海に浸けながら,何やらダベっている。その隣の一角では石で三方を囲んでいて,25mプールくらいの潮溜まりとなっている。私はこれを天然のプールかと思っていたが,どうやらここは船着場のようである。すなわち,漁港とかいった桟橋の類いがなく,この潮溜まりからグラスボートはもちろん,漁船だって出ているということだ。美しい自然を保護するための結果なのだろう。
目指す先は,この海岸をひたすら北上したところにある。歩き続けること数分,モンパノキなどの防風林の中,突如大きな石碑が出現する。民俗学者・柳田國男氏(1875-1962)の歌碑である。別に柳田氏が好きというわけじゃなく,何となく寄ってみたかっただけだが。幅が数mはある石碑にはこう書かれている。「あらはまの まさごにまじる たから貝 むなしき名さへ なほうもれつつ」――柳田氏は官僚として順調に出世する一方で,方々の土地を歩いて回っていた。そして1922年1月下旬,東京朝日新聞の客員記者として,彼はこの石垣島を訪れた(他の島にも行っているようだ)。
この歌は彼が石垣島を去るときに残し,地元で創刊した八重山新聞に掲載された。で,石碑は来島80年を記念して,2001年12月に建てられた。なお,この旅行については『海南小記』と題して,東京朝日新聞に連載されたという。この旅行も含めた地道なフィールドワークが,日本民族の由来が南方にあるとする考え方と,海外に渡って日本の文化を伝えた名もなき人たちに思いをはせるという彼なりの民俗学スタンスを確立させていったようである。

再び集落に戻る。次に行ったのは,嘉手苅御嶽(かでかるおん)と真謝井戸(まーじゃんがー)。前者はこれまた樹木の下に巨大な広場があり,でもって敷地と道路の境に白い鳥居。アプローチは十数mほどで,高さ2〜3m×6〜7m四方の赤瓦の社。中には香炉が置かれている。その脇には「真謝翁之墓」という高さ50cm程度の石碑がある。
でもって,この社は通り抜けができ(無論,儀式があったときのみ通り抜けるということだが),奥にさらに囲いがある。幅は2〜3mで奥行きは10mほど。その中にも大小二つの祭壇がある。また,その囲いの脇には飾場(かざりば)御嶽というのもあり,こちらは1971年建立と書かれていた。2〜3m四方の囲いの中に拝所といった感じだ。もっと詳しく見ようと思ったら,目の前には手足を広げると大きさ10cmほどの巨大な蜘蛛が。思わずビビって退散してしまった。ここは毎年夏に行われる豊年祭のメイン会場で,地元民はもちろんのこと,白保出身の島外の人間もわざわざ休暇を取って遠路はるばる訪れてくるほど盛況のようである。
後者は,嘉手苅御嶽の前に位置する下り井戸である。幅は5〜6m四方,深さは十数mはあろうか。緑の中に琉球石灰岩が露出して,見ようによってはガマのようにも見える。中をのぞくことは危険過ぎてできないし,第一柵がしてあるのでいかんともしがたいが,よく見ると道路側から下に降りていけるような階段っぽい跡がある。
ここは長らく地元の飲料水として利用されていたが,1771年に起こった明和の大津波(「沖縄はじっこ旅」第3回参照)で一度埋まってしまったそうだ。その後,馬術の名人であった馬真謝(何て読むんでしょ?)という人物が首里王府から派遣され,彼と村人の尽力で復元されたそうだ。年に2回,井戸の神様への祈願が行われたり,後に民謡のモチーフになったりと,地元密着の井戸のようだ。ちなみに,上記嘉手苅御嶽内の「真謝翁之墓」とは,この馬真謝氏のことであるという。
さあ,これでとりあえずは白保集落は見たという感じでバス停に戻るが,最後に白百合クラブについて触れたい……といっても,この旅行記に入れるにはいささか強引すぎるか。別に何か記念碑を見たわけでもないし。……ま,簡単に触れておくと,ここ白保の人間で結成された,いまで言う“コピーバンド”というか,はたまた“パフォーマンス隊”といった感じである。終戦の翌年,1946年に結成され,その後メンバーチェンジを繰り返しつつも,いまだに活動が行われているという。島唄はもちろん,昔の日本の歌謡曲も交え,楽器を持ったり歌を歌ったり踊りをしたりと,レパートリーはかなり膨大のようだ。もちろん,1人1人はちゃんとした仕事を持っており,その傍らでバンド活動・パフォーマンス活動をしているようである。
さて,国道390号線…というかバス通りに戻ると,いいタイミングで石垣バスターミナル行きのバスがやってきた。車内にかかっている時計で時間を見たら,17時5分。例の「サンエー前」までの運賃は290円。もちろん前払いである。これで後はダイソーに寄ってホテルに向かうことにしようか。(第4回につづく)

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