沖縄A to Z

観音堂を後にして,ここからは西進してマハナ展望台に向かうこととする。そして,ついでにどこかで昼飯を食したい。実は「美ら島物語」で目につけていた食べ物があるのだ。近辺は,港が近いからか民宿の建物をよく見る。そして,売店のような店も一瞬目に入った。大きそうな感じだが,詳しく見ていなかったし,路地を入っていくようだし,先のことを考えてあきらめることにした。
観音堂の斜向かいには,平屋ながらなかなか立派な建物があった。近くに漁船が何隻か停泊していたこともあって,これがターミナルかと勘違いしたが,単なる集会所だった。地図で確認したら,ターミナルはもうちょっと西側にあるみたいだ。海側に面した部屋は10m四方くらいの大きさ。舞台があってピアノもあるから,島の人間の余興などに使うのだろう。そして,壁にはああなつかしや,折り紙で作ったわっかのチェーンが,ビミョーなドレープ感を出してかかっている。これを見ていると,多分近いうちに子どもたちの学芸会でもある,あるいは最近あったのではないかと思った。
そして,さらに西進すると,一段低くなったところに岸壁と2階建ての建物。ここが粟国港であり,建物はフェリーターミナルだ。人はまったくいない。岸壁やテトラポットにはしばしば大波がかぶる。この勢いだと,確実にフェリーは欠航だろう。脇には公園っぽく整備された庭があったり,古ぼけたダイビングショップや,こちらは新しくできたと思われるが,素朴な民宿もあった。

さて,フェリーターミナルの2階には,「みなと食堂」という食堂があるようだ。時間は11時35分だから,メシにはジャスト・タイミングである。この先にどんな店があるか分からないし,目当ての食べ物がここでやっていれば,ホントに行きたい店の名前はいちいち覚えてはいなかったし,とっとと食事を済ませてもよかろう。かかっていた看板によれば,営業時間は8時から18時までということだが,はたしてこの荒天で営業なんぞしているのか。
おそるおそる古ぼけた階段を上がっていくと,中は明かりがついてはいるが客はゼロだ。実に閑散としている。ホントに「活気がない」とはこのことを言うのかと思うほど,活気がない。あえてよく言えば「達観」なのだろうけど,そう考えられるには相当にラリッているか,かなりの人格者でないとムリそうなくらいに,どんよりと澱んだ空気が漂っている。
広さは10m四方くらいはあるのだろうか。右手にフェリーのチケットを売っている事務所があり,中にいたおじさんと目が合ってしまい,ドキンとする。たしか,那覇からのフェリーは12時ごろ粟国に到着し,14時に折り返しで那覇に戻るはずだから,ホントは賑わっていなければならないのだろう。それがないということは間違いなく欠航なわけだが,にもかかわらずいるということは,やっぱり「何をしに来たのか」って感じかもしれない。ま,いつもの自意識過剰なだけかもしれないが。
左の手前半分は,木の長いベンチが5〜6基あってとりあえずは待合室の様相を呈しているようだ。そして,病院か会議室にありそうな紺色の折り畳み式の仕切りみたいなものがあって,向こう半分は「みなと食堂」の“エリア”のようだ。そして,一番奥の少し暗がりのキッチンではオバアが1人で黙って作業をしている。ということは,一応営業はしているのだろう。でも,いかんせん事務所のおじさんも,このオバアも無口である。暖かい南国に来ているはずなのに,極寒の津軽海峡に来ているような,ピーンと張り詰めた排他的緊張感すら感じてくる。
カウンターには年季が入った短冊型の紙がぶらさがっている。仕切りの向こうに行ってしまうと,捕まえられそうな気がしたので,とりあえず仕切りの手前から短冊に書かれた文字を読んでみる。すると,お目当ての食べ物が書かれていた。あるいは,ここの店が目当ての店だったのかもしれない。よっしゃ,ここに入ることにしよう。おそるおそるオバアに「ここ,やっていますか?」と,ぎこちない口調で聞いてみると,「あ,やってますよ」と,どんな感情なのか分からない,抑揚がないというかオバア独特の覇気がない返答をしてきた。
とりあえずは,カウンターに近い席に座る。水はどうやら,目の前の少し高い位置にあるジャーボットでセルフサービスのようだ。まあ,それは仕方あるまい。テーブルは会議室にある折り畳み式の長机で,イスもこれまたデスク用のものだ。机はこれまた5〜6基ほどあって,イスはトータルで20基ほどが,各机にどっちらけに置かれている。別に一つの机に何人座ろうが,どこをどうやって座ろうが知ったことではないって感じである。
メニューの短冊に目をやると,なぜかポール牧氏による「粟国の塩を勝手に使っている店」という,坊主になった顔入りの短冊がかかっている。“指パッチン”でテレビに出まくっていたころが懐かしい。たしか,粟国島が気に入って島の大使になったとか聞いてはいるが,沖縄出身でもないのに「勝手に使っている」とは大きなお世話だと素直に思うのは,いけないことだろうか。
――相変わらず前置きが長くなったが,肝心の注文である。私が食べたかったものとは,「ちゃんぽん」という食べ物である。無論,沖縄に来て長崎ちゃんぽんが食べたくなったというわけではない。これ,沖縄特有の食べ物である。早い話が肉野菜炒めの卵とじをご飯の上に乗せたもの。肉は沖縄らしく,ポークランチョンミートという。いまから考えれば,東京でも最近行った中華料理屋で「卵たっぷり肉野菜定食」(800円)というのがあって,こやつはメシとおかずが別個になっていて,肉は普通の豚コマだが,それと何ら変わらない食べ物であろうことは間違いあるまい。でも,せっかく来たからにはこのマイナーな響きの食いものをぜひ食べたかったのだ。
「ちゃんぽん,ありますか?」
「いま,野菜の関係で……そばしか作れないです」
「なーんだ,ないのか。せっかく来たのに」って感じだ。“野菜の関係”とは,客観的にこの5文字限りで何が分かるかって感じだが,どうやら台風などによる野菜不足が,こういう食堂のメニューに影響しているのだろう。とても儲かっているとは言えない店だし,オバアもムリしてまで食堂を切り盛りしたい意欲がありそうに見えない。となれば,ホントに野菜不足で作れないのが7割と,残り3割は「面倒臭い」「かったるい」ということになるのかな,と邪推してしまう。
「そばって,“みなとそば”ってヤツですか?」
「は?」
「いや…じゃあ,この“みなとそば”の“大”ってヤツ
はありますか?」
「あ,はい」
「じゃあ,みなとそばの大で」
いやはや,客なのにこっちが緊張しちまうぜ。だって「沖縄そば」ってメニューも短冊に書かれているんだし,どっちができるのか分かんねーじゃねーかよ……と言いたくなるのを我慢する。オバアのいるキッチンでは,カタカタと音はするものの,はてホントにメシを作っているのかギモンに思ってしまうほど静かだ。外から聞こえてくる“ヒョー”という不気味な風の音のほうが,よほど大きく聞こえてくるくらいだ。これがかえって店の緊張感をあおっているのではなかろうか。

数分して食事ができたようだ。彼女がカウンターの端にあるテーブルを上に跳ね上げられるところに差しかかると,なぜか私は席を立ってしまい,そちらに向かってしまった。別にセルフサービスでもないのに,人のよさも甚だし過ぎるが,とりあえずトレイを取りに行く。彼女は「ほれ」って言わんばかりに仏頂面のうえアゴで指示をして,食べ物を置いていった。
彼女にしてみれば,この台風崩れだかの荒天で,いくら天気に関係なく営業しているといえど,誰も来るはずがなく平穏に何もせず過ごせるところを,よく分からない野郎が来てしまったこと自体,運勢としては思いっきり「凶」なのかもしれない。ただでさえ仏頂面っぽい顔をしているのが,輪をかけて仏頂面になっていたのが印象的だ。多分,私がこのまま座席にいても,彼女はその跳ね上がるカウンターを越えてきてはくれなかったに違いない。
気を取り直して,「みなとそば」を食すことにする。直径16〜17cm×深さ7cmほどの少し大きめな鉢の中に,3mm幅の少し黄味がかった平打ち麺,縦7cm×横3cm×厚さ8mm程度の三枚肉が2枚,かまぼこが2個と,たまねぎっぽいシャキシャキする触感の野菜が,麺の上にトッピングされた紅生姜の食紅がビミョーに溶け出したせいで少しベージュ色になった半透明のスープの中に鎮座する。三枚肉はとても味が染み込んでいて美味く,スープもほどよい塩気。過去の経験にならって,今回はまず何も調味料を入れずに食べていく。オバアの不機嫌さをカバーするくらいの美味さだ。
しかし,「やっぱりコーレクースは入れないとなー」と思って,備え付けのコーレクースのビンに手をかけると,ふと賞味期限が目に入った。「12.10.4」――おい,4年前に賞味期限が切れてるじゃねーかよ。他にもソースと一味唐辛子のビンもあったが,前者は「2003.10.4」,後者は「04.1.8」とある……うーん,かくいう私も賞味期限を2年過ぎた調味料を使いきった経験を持つ身だが,仮にも食べ物を扱う食堂として,これはないだろう。あるいは粟国島の人間は,これでも十分なのだろうか。無論,何も入れずにすべて食べたことは想像に難くあるまい。
そんな私の戸惑いなぞつゆ知らずとばかりに,オバアはカウンターの端にある電話で思いっきり会話しだした。無論,方言丸出しである。こちらがヤマトの人間であることくらい,オバアほどの“ツワモノ”だったら感づいているだろうし,それを分かっての会話だろう……と,また自意識過剰になってしまったが,もちろん単語しか聞き取れない。そして,数分の会話の後で“チン”という音がした。いまどきダイアル式の電話である。まさか,ケータイの着メロではあるまい。
そして,オバアはそそくさとカウンターの外に出て,どこかに消えていった。多分,トイレでも行ったのだろうが,ちょうど食べ終わって勘定しようかと思っていたこちらの事情なんぞ関係ないのだ。やれやれオバアが帰ってくるのを待つしかない。カウンターの向こうが気になったのでのぞいてみると,寸胴鍋から湯気が出ていた。多分,いま食べたそばの出し汁が入っているのだろう。
さて,オバアはひょっとして,そのまま消えちゃうんじゃないかとすら思ったが,2分ほどして何事もなかったかのように戻ってきた。せめてもの救いは,400円の代金に500円玉を出して,きちんと100円の釣銭を返してきたことくらい……って,そこまでじゃないか。味は美味かったが,オバアの顔は最後まで不味いものを食べたような顔をしていた。

外に出ると,あいかわらずの強風と白波。空が明るいのがかえって不気味ですらある。再び足は西に向かっていくが,少しばかり足の裏が痛くなっている。数km歩いたから,さすがにマメでもできたのかもしれない。道は島の西側が高くなっているのを示すように,上り坂となっていく。テクテクと歩いていると,島で唯一と思われるENEOSのガソリンスタンドがあった。この島にふさわしく何ともちっぽけで古ぼけているし,スタンド式の給油だが,明かりがついているので営業しているようだ。
その真向かいには,大きな2階建ての建物。一瞬,役場かと思ったが「離島振興総合センター」と書かれていた。中は誰もいなくてがらんどうだ。さっきの集会所よりはかなり広いが,中はどう見ても体育館って感じ。この場でちょうど正午のアナウンスが聞こえたが,それに前後してハウリングのような音も聞こえたが気のせいか。うーん,ハウリングなのだろうか。建物の中の何もなさに,オバケが出てきてもいいような不気味さすらある。
ここの建物は少し高台になっており,駐車場から見下ろす集落の景色は,「何もない」というネガティブな表現よりも,「シンプル」というボジティブな言葉があてはまる好眺望だ。ちなみに隣の離れには,特産品加工センターというのがあったが,ここではおそらく,島の名物である“ソテツ味噌”を生産しているのだろう。中はきれいなキッチンにでかいお釜や鍋があった。
そして,そのままさらに進むと,これまた島で唯一と思われる信号があった。クロスする側には歩行者用の信号しかないが,近くで見ると実にバカバカしい。一方のエンドは学校の校門,もう一方のそれは狭い路地しかない。その間にはいっちょ前に横断歩道が書かれているが,幅は3mほどしかない。これでは信号なんかいらないし,あったところで電気代のムダなような気がしてくる。
車だって,そもそもたまーに通る程度なのである。校門は少し広めに取られているものの,両サイドが壁になっているから,死角による飛び出しの可能性が否定できず,危険っちゃ危険かもしれない。でも,そんなに車はスピードを出さないはずだし……ま,それよりもやはり,島の子どもたちが信号に慣れるようにするためのものと思われるが,こういう離島の信号って,実用的でないものが多いような気がする。それがまた都会の人間には面白く映って,話のネタにしたくなるのである。
その信号の脇にある学校とは,粟国小中学校・幼稚園。もちろん,いずれもこの島で唯一である。校門を入ってすぐ左には「勤勉進取」と書かれた石碑に,鉄琴のオブジェ(叩くバチがあったので,多分叩けば音が出るだろう)と,校歌が書かれたレリーフがあった。そして,その後ろの壁は壁画となっている。これらいずれも,学校の卒業生によるものである。
しかし,いま校舎には誰も生徒がいない。週休2日制で休みなのだろうか。はたまた,半ドンでとっとといなくなったか。よって,時折通りがかりの地元民に見られながらも,図々しく敷地の中に入っていってしまうと,右手には薪を背負った二宮金次郎……ではなくて小さい仏像があった。「琉信石材建設」という会社が造ったものらしい。こういう“まがい物”って,造る人も見る人も含めて好きな人は好きなんだろーなと感心してしまう。無論,私は後者の類いだ。
学校は2階建ての立派な校舎だが,村のホームページで確認したところ,生徒は小中学校あわせて80人しかいないようだ(2003年のデータ。幼稚園児は18人)。無論,各学年1クラスである。にしても,かなりの数の教室があると思う。ということは,かつてはこの教室がすべて埋まるくらいの生徒がいたのであろう――ちなみに,30年前に1300人あった人口は,ここ数年は多少の増減があるが,現在900人と7割程度にまで減っている。世代別人口を見ると,@70歳台前半,A50歳前後およびB中学生以下の3世代で三つの“こぶ”ができている。しかし,中学生以下の“こぶ”は他の二つの世代ほど大きくふくらんでいないから,今後も使われない教室はさらに増えてしまうのではなかろうか。

@集落に向かう
先に進んでいくと,JAがある。ちょうど地元のおじさんが車を停めている。中には客が数人いるようである。いつもならばここで店に入ってしまうところだ。何か用事があるわけじゃなくても入ってしまう私だが,今回はなぜかちょっと気がひけてしまった。またも自意識過剰か,店の人間がずっとこちらを見ているような気がしてならないのだ。たしかに開いているドアから店員の顔がよく見えるし,入ったら何か買わなくてはならない緊張感を感じてしまったのだ。
ということで,ここはあるいは後で気が変わったら来ることにしよう。いま行くべきは西端のマハナ展望台である。このまままっすぐでもOKなのだが,地図で確認したところ,展望台への道は海側を走る道と内陸側の道の二つがあるようだ。両方とも距離は2kmほどはあるようだが,どうせならば行きと帰りを違う道にしたいのが“鉄好き”…もとい“旅好き”の心情というものである。
よって,JAの前から海側に延びる路地を入っていくことにした。その路地を入っていくと,かなりの確率で「琉球石灰岩の石垣・赤瓦・木造・防風林(主にフクギ)」の“4点セット”を見ることができる。ただし,半分近くは哀しいかな空家である。紛れもなく過疎であることを感じてしまうが,そんな中でさらに別の路地に入って,「レンタルバイク」という看板があるトタン屋根の小屋がある家も見つけた。でも,こんなところでレンタルしても誰も気づかないんじゃないかって感じだ。よっぽど観光客が借りに来るため用に,精巧な地図を作らなくてはなるまい。
さて,この路地で探していたものがある。それは「ナビィの家」である。名前を聞いてピンと来た人も多いだろうが,この粟国島は,2000年にヒットした沖縄を舞台にした映画『ナビィの恋』の舞台なのだ。その主人公であるナビィ(平良とみ)の住む家が,この集落のどこかにあるのだ。もちろん,上記“4点セット”の家である。映画では,家の庭先にたくさんのブーゲンビリアが咲いていて,それをナビィが大事に育てているシーンもある。ただし,村のホームページの掲示板で尋ねたところ,かなり分かりにくいところにあるので地元民に聞いたほうがいいという。しかも,現在は人が住んでおらず,ブルーのシートがかかっているそうだ。
ということで,この路地をしばしウロウロしてみた。それらしき“候補”はいくつもあるのだが,どれもこれも違うようだし,間違いなさそうにも見える。そうやってウロウロしていたから,上述の「レンタルバイク」の看板がある家なんか発見してしまったのだが,そんなのは私にとってはムダ骨にこそなれ,何の得にもならない。あまり探してばかりでも埒があかないし,JAの少し先に見えた村役場のほうも集落がある。またどっちみち集落には戻ってくるのだし,ひとまず家探しはあきらめて,さらに海側に歩いていくことにする。
そして,数分で道は突き当たり。マハナ展望台へ行く“海側の道”に入ったのだ。目の前には,荒地とその向こうに荒れ狂う海があるのみ。その道幅は車が1台通れる程度だが,これでも地図にはバッチリ載るのだから,一応は“ちゃんとした道路”なのだろう。もっとも,これで道を載せる“基準”を設けてしまったら,島の地図は地色のみでツルンツルンになってしまうかもしれないだろうが。
道は崖を縫うようにして,突端の展望台に向かって進んでいく。断崖の灰茶色と,所々にあるソテツの濃い緑と,大量に生えているススキの穂のベージュだけで,何とも色彩に乏しい景色である。その中に時折見える白い筋は,いま進んでいこうとしている道である。それは何とも言えない絶妙な起伏に富んでおり,あたかも,これから黄泉の国にでも行くような気がしてくる。そして,空も次第に雲が出てきている。陸の色彩が乏しくても,晴れていれば何とか映えていた色彩は,完全に色味を失った。ここでカラー写真を撮っても,色が少なすぎてムダな気すらしてくる。セピア色かはたまた白黒にしたほうが,よっぽど絵になってくる。
そして,常に吹き続けていた風は,さらに強くなってきた。何とか歩いていられるが,メモはしっかり握っていないと飛ばされること間違いない。無論,ここを一緒に歩いている人間なんざ,誰もいない。すれ違うこともまったくない。救いなのは,先に白い灯台と白い風車が右上に見えていることで,進んでいる道に間違いがないということだろう。行くだけ行って途中で行き止まりであることほど,体力の消耗が激しいものはないからだ。
そんな極楽浄土への道(?)を何分歩いただろうか。右手に不自然ながらもきっちり整備された階段が現れる。崖に向かってかなりの傾斜があることが分かるが,とりあえず上ってみるとあったのはホンモノの極楽浄土……に行く人が納まっている(はずの)墓であった。地図で確認したら「門ミーチィ墓」とあるが,その辺りに間違いない。これが道なりにいくつも点在していたのだ。意味はよく分からないが,「門」とつくからには,ある一家の家系がまとまって納まっていると思われる。
形状は,断崖の岩肌を巨大な墓石に見たてて,そこを横堀してくりぬいた破風墓っぽい体裁である。お骨を入れる部分は石でフタがされていて,墓の前には車が1〜2台が停まれるくらいのスペースがある。無論,墓へ行くには階段を上るしかないのでホントに車を置くことはできないが,墓の前は大抵がきれいに整備されていたと思う。ここで,おそらくはゴザでも敷いて皆で弁当をつついたりするのではないか。中には階段の周囲に,元からあったのか後から植えられたのかは分からないが,松などの樹木が生えていて,それが防風林的な役割を果たしていたり,しっかりブロック塀で囲われている墓もあった。そういうのは,結構金をかけて造ったんじゃないかと思うが,大抵は剥き出しである。何とも原始的というか前近代的な体裁の墓であると思う。

そんな中に,見たことのある墓を見つけた。特徴なのは,崖から手前にせりだした自然の岩。これがベンチのようにも,はたまた物を置く台のようにも見える墓である。やはり車が1台置けるくらいの整備されたスペースがあって,海を背にして階段を覆うように林がある。風は……まあ,どっちみち強いっちゃ強いのだが,幾分は剥き出しよりも和らいでいるように思えた。
それは,既述の映画『ナビィの恋』に出てきた“サンラー家”の墓である。サンラーとは,ちなみに“三郎”を意味するようであるが,そんなことはどーでもいいとして,ナビィが旦那の恵達(けいたつ,登川誠仁)や孫の奈々子(西田尚美)に隠れて1人墓参りに行く墓がこの墓……で多分間違いないのではないか。一度映画をビデオで借りて観たのだが,あらためていまこれを書いている時点で確認しようと思ったら,ビデオのケースごと消えていた。うーん,いつの間にどこに消えたのだろうか。つい2週間前まであったはずなのに。
話を戻して,ナビィが肩に抱えた小さなバッグを置いたのが,上記の特徴的にせり出した岩のはずである。あくまで映画での設定ではあるが,集落からの長い道をテクテクと歩きながら,草の間に紛れそうな小道を辿って,岩と岩の間の険しそうな道も辿ってはるばるこの墓にやってくる。あるときはブーゲンビリアの鉢植えを持って,途中で休みながらも甲斐甲斐しく,まるで愛する人の元に行くように……そう,彼女はこのサンラーという男性(平良進)と,大昔に大恋愛をしたのである。
いまから60年前の話――恵達が奈々子にいきさつを語るとき,そのころのことを“before 1940”と,日本語アクセントながらもいっぱしな英語で話すシーンが面白い――,当時ナビィは10代後半だろうか。対するサンラーは,もう少し年齢が上かもしれないが,島で一番の海人だった。そして,その相思相愛の大恋愛は,いまで言う細木数子氏がやっているよりももーっと原始的な,呪術をあやつる女性“ユタ”が「この男と結婚すると家が崩壊する」と結論づけたことで,はかなくも壊れてしまうのだ。
今では到底考えられない話――といっても,細木数子氏にアドバイスされて芸名を変えた芸人がいるっちゃいるが――ではあるが,当時の沖縄ではユタの権限は映画とかに関係なく,絶対的なものである。当然に家族総出で反対されてしまい,島から一歩も出られないことを余儀なくされる。そして,一方のサンラーはというと,島の疫病神と決めつけられて島外に追放される憂き目に遭う。
彼に合わせまいということか,その追放される当日,ナビィは家の柱に1人くくりつけられてしまった。出来事を聞きつけた近所の子ども数人――もちろん知り合いである――が,何ともなしにナビィの家にやってくる。どこかからナビィが柱にくくりつけられたと聞きつけたのか。この辺りは,映画では白黒のサイレントムービー仕立てになっている。
「お願いだから,このヒモをほどいて!」
「そんなことしたら,怒られちゃうよ」
ほとんどの子どもたちは,事情は何となくしか分かっていないだろう。少なくとも,そのヒモをほどいたらこっぴどく怒られることくらいしか。しかし,そんな中で1人の少年が勇気をふりしぼった。
「ボクがそのヒモをほどいてあげるよ」
ナビィの顔がそのときどんなだったかは想像に難くない。
「恵達,あなたがほどいてくれるの?」
そう,その少年こそが恵達だったのだ。そして,すかさずというのか,彼はこう言ったのだ。
「その代わり,このヒモをほどいたら,ボクと結婚して
くれる?」
無論,ナビィにしてみれば本気だったかどうかは分からない。あるいは恵達はまた,評価によってはバーターをした男と言われるかもしれない。かといって,いまの現状を打破するには,彼女がその申し出に「いいよ」と答えるしかなかったのである――何はともあれ,勇気を出した恵達によってヒモをほどかれたナビィは,急いで浜に向かったものの,時既に遅し。サンラーを乗せたくり船は,沖に出てしまった後であった。2人が粟国の隅っこで最後の愛を叫びあったことは言うまでもない。ちなみに,この浜とはどうやら行きそびれた東部のウーグ浜(前回参照)のようである。
その後,ナビィは恵達と結婚。子宝にもさらには孫にも恵まれて平和に暮らしたとさ……となっていたはずのある日のこと。ちょうど,その日は東京に働きに出ていた奈々子が久しぶりの帰島。そんな彼女と一緒の便で,1人の白いスーツを着た,一見島には場違いそうないでたちの老紳士がフェリーに乗ってこの粟国島に上陸する――そもそも映画のオープニングはこのシーンから始まるのであるが,その老紳士こそ,サンラーだったのである。そして,上記のブーゲンビリアの鉢植えを持って墓に行くシーン。ナビィがいつものように墓の掃除をしていたとき,再び2人はそこで落ち合ってしまうのだ。
「ナビィ…お前が墓を掃除してくれてたのか…」
そこにいるのは,紛れもない1人の男性と1人の女性である。何かを呼び起こされたナビィの心は再び大きく揺れ,すべての事情を知って結婚した恵達の心も,顛末を恵達から聞かされた奈々子の心もまた穏やかではない。ついでに島の住民もまた,かつての疫病神の来島に大きく揺れ……この後のストーリーおよび結末については,映画(というかビデオまたはDVD)を見ていただきたい。

そのナビィの,1人の女性として最も印象的なシーンがある。繰り返し書くことになるが,ブーゲンビリアの鉢植えを持ってはるばるサンラー家の墓に行くシーンだ。実はナビィは腰痛持ちである。島に戻ってきた奈々子との会話で,酪農をいまもやっている恵達から,ムリをせずにできるときだけ牧場に来てくれればいいと気を遣ってもらっている身なのだ。さらに,肝心のブーゲンビリアはというと,オバアが庭先で大事に育てたものであるが,これまた奈々子が鉢植えを持って帰りたいと言うと,「これは奈々子には育てられないさ〜」と,やんわりと断りを入れるのである。
しかし,一方では愛するサンラーのためには,歩くのにも難儀に違いない腰痛を我慢するだけでなく,それなりに重いはずのブーゲンビリアの鉢植えまで抱えてしまうのだ。そのブーゲンビリアは何のために育てたかといえば……もう容易に想像はつくであろう。このエピソードがいかにも女性らしく,また何ともいじらしく映ったのである。これを「不倫の恋」だの「老いらくの恋は危険なり」という莫れ。結局は……おっと,これは各自映画にてご確認あれ。(後編につづく)

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