沖縄はじっこ旅V

@“ホテル”という名の民宿
次に向かうのは今日一番見たいと思うメイン,宜野湾市にある沖縄国際大学と嘉数高台公園である。金武インターから,一路高速にて最寄りのインターとなる西原インターへ。所要時間20分ほど。ネズミ獲りがいたら,間違いなく違反切符を切られるスピードで,次々とよけてもらいながらほぼ走行車線を走り続ける。いよいよ,いつものすっ飛ばしドライブの始まり(?)である。
西原インターからは,接続する国道330号線で北に戻る形となる。そして,数分で六差路にもなる長田(ながた)交差点を“斜め左後ろ”に入り,片道2車線の広い道路を走ること数分,右手に黒く煤けた3階建ての校舎が見えた。その校舎だけを見る限りは,どこかの出来の悪い公立の高校か中学のようなイメージを持つが,ここが私が見たたかった沖縄国際大学である。厳密には「沖縄国際大学1号館」。こんな広い通り沿いにあるとは正直驚いた。
私が走っていたのは校舎側からは反対車線になるので,正月休みでチェーンが張られている中古車ショップの前の開いているスペースに車を入れる。私が車を停めている間にも,反対車線を走る車の数台は,1回その校舎の前でスピードを落としていく。やはり感心はそれなりにあるのだろう。校舎の前には土台の上に長くフェンスが張り巡らされているが,校舎との距離はわずか2〜3mしかない。これまたこんなに間近に校舎を見られるとは驚いた。
さて,その黒く焦げているのは,もうお分かりかもしれないが,昨2004年8月13日,この地点に米軍普天間基地所属のヘリコプターが接触して墜落・炎上したためのものだ。縦長になった側面には,一生かかっても消えない心の傷のごとく,“\”の形に黒い筋がくっきりと残っている。それこそ改修するか,あるいはペンキでも塗れば跡形もなくキレイになるかもしれないが,「あの出来事を絶対に忘れない」と衷心にこれでもかと刻むがごとく,その筋は我々の目に否応無しにアピールしてくる。事実,そのまさに真ん前のフェンスには,いくつかの詩が書かれた紙も貼られている。内容は見なかったが,タイトルは「黒焦げの赤木は指す」「黒煙から白煙へ」とあった。
そして,上部の辺りは建物を補強するためと思われる針金が無残に露出して,部分的に砕かれたような跡もある。ここにヘリコプターが激突したのだ。そして,そのままバランスを失い落っこちた辺りは,どうやら松が植えられていたようだが,それらは皆,根元の1mほどを残して上がもぎ取られたようになり,所々が煤けていた。また,一緒に倒されたままになっていた鉄パイプは学校のものなのか。はたまたヘリコプターのどっかの部品なのか。
操縦していた米軍兵士3人は重軽傷を追ったが,奇跡的に一般住民などにケガはなかった。ただし,周囲にはヘリコプターの部品やコンクリート片が散らばり,それによって家屋やその家屋の私有物に被害が出たりもした。この家屋の映像が頭に残っていて,それがわりと路地を入った住宅地の映像っぽく見えたので,あるいは現場はもっと奥まったところだと思い込んでいたのだ。
いまさら書いてナンだが,改めて書くならば,ヘリがもう少しこの広い道路寄りに墜落していたら,そして激突した校舎に授業中の教師や学生がいたならば,もしかして一般住民側に死者が出る惨事になったかもしれない。あるいは,部品やコンクリート片が当たっても同様のケースがあり得る。事実,ヘリコプターの部品が飛び込んだ,とあるマンションの一室では直前まで赤ん坊が寝ていて,タイミングがズレていたら,どうなったか分からない。
このような状況であるにもかかわらず,米軍側は日米地位協定をタテにして地元警察の立ち入りを許さなかった。何もできずに完全にお手上げで,マスコミももちろんシャットアウト。部品や破片が飛び込んだ家では,たしか家主がそれを勝手にどかしたりもできなかったのではなかったか。こんな状況に日本国側の対応は,お世辞にも迅速とは言えなかった。小泉首相はちょうど夏休みの最中。実際にアクションを起こしたのはその休み明けで,事件から数日が経過していたはずだ。
そして,米軍側は数日後に早くもヘリコプターの飛行を再開。さらに事故に関するコメントとして,在日米軍司令官トーマス・ワスコー中将から出た「乗員は墜落すると分かった段階で,被害を最小限にしようと努力した。3人の乗員が制御不能な状況下で,人のいないところに(ヘリを)もっていったという素晴らしい功績があったことを申し上げたい」という発言――そもそも,被害というヤツはまったく出さないのが当たり前であって,大きかろうが小さかろうが出したらば被害は被害。たしか,墜落の原因はヘリコプターの整備だか装備だかの不良だったと思うが,そこからして完全なる“人災”である。
こんな状況下で,日本の要人はといえば,さらに町村外相が「被害が重大にならなかったのは,(パイロットの)操縦技術が上手だったのかもしれないが,よく最小限の被害にとどまった」とトドメを重ねてしまった――ワスコー中将の発言については,「管理人のひとりごと」Part19に自身の感想を書いたので,改めて書くのは止めよう。また,町村外相も奇跡的に人命に危険が及ばなかったことを言いたかったようだが,過去の経緯を考えれば,呆れて思わず笑いすらしてしまう事態ではある。
多分,この校舎はこれからも保存され続けていくのだろうし,そうすることで「反基地」としてのシンボルとしてあり続けることにもなる。もっとも,これを見て地元住民が当時の状況を思い出し,身体に何らかの悪影響が出るケースも少なからずあるようだから,一長一短で複雑な話ではある。あるいは現実的な話,タダで維持できるものでもないだろう。学校にしてみれば,校舎一つが使えないという経済的・物理的負担もあるだろう。その“維持料”をどこがどのように負担するのか。はたまた,時間が経って建物が老朽化したために壁が崩れて,下を歩いていた人が…ってなことになるのも当然マズい。そもそも悪いのは米軍なわけだし,米軍による負担が先立つのが筋だろうし……。
あれから5カ月が経過したが,当時少し盛り上がった日米地位協定見直しや国内の米軍基地移転などの話は,その後の台風襲来や新潟県中部地震,はたまたスマトラ沖大地震・大津波などの大事件もあってか,風化しつつあるのは間違いない。この文章を書いている私自身も,当時のように“思い”が強いかと言われれば,肯定できる自信はない。やはり,自分の周囲に米軍基地がなければ,どうしたってピンと来ている時間は短いと思う。残念ながら,いつも基地のことに敏感であるには,その基地のそばに身を置くことでしかできないと思う。
それに,何より根が深いと思うのが,基地経済・基地雇用という沖縄の現実……なんだかんだ言っても,沖縄は基地に依存せざるを得ない部分がある。これについては,古いデータしか見つからなかったので,とりあえずは「沖縄標準旅」第2回を参照いただきたい。現在でも米軍基地は大勢の沖縄県民を受け入れ,一方,米軍を相手にする日本側の商店も存在しつづける。まさか,後者は「米軍お断り」と締め出すこともできないだろう。これで少なからぬ“円”なり“ドル”が落ちているのも事実だ。
だからこそ,今日もまた沖縄の基地からは,戦闘機なりヘリコプターなりが何事もなかったかのように飛んでいけるのである。「お前ら,悔しかったら米軍がいなくてもいい体制を作ってみろよ」と言われているような気がならないのだ。現在のアメリカと日本の関係を,あまりに象徴する出来事であり光景ではないだろうか。「単なるヘリコプターの事故」では,済まされない事故なのである。今までも何度となく地位協定を改定するチャンスはあったはずだが,ことごとくそれは闇に消えていった。いつになったら,この国は本腰を入れて日米関係を見つめ直せることになるのだろうか。

再びマーチを走らせ向かったのは,嘉数高台公園。沖縄国際大学からは数分の距離だ。大通りには「→嘉数高台公園」という看板が出ているから,市民にとって身近な公園ということだろう。もっとも名所・旧跡というほどではないけれど,このくらいの親切さを金武町は見習ってほしい(前回参照)。そこを右折すると,密集した住宅街に入る。道はかろうじてすれ違える程度までどんどん狭くなっていく。
その狭い道がいくつかに分かれる右の角にある,緑が豊かで広い公園が嘉数高台公園である。時間がいいからなのか,正月気分から早くも覚めてしまって暇だからか,20台ほど入れる駐車場は,ほぼ満車である。近くの芝地ではサッカーに興じる父子もいる。かろうじて道路に面した端っこにスペースがあって,そこに停めることにした。比較的小さい車ではあるが,少し路上にはみ出てしまった。はて,入れ方が下手なのかもしれないが,まあホンのちょっとだけだし,ここにわざわざぶつかるスレスレで走ってくるヤツもいないだろう。スピードだってこの道の狭さじゃそれほど出せないだろうし。
ここは,上記のタイトルにもあるように,沖縄米軍基地の“象徴”ともいえる普天間基地が見える場所とされている。そもそもは,昨年1月に友人2人と沖縄を旅したときに,その1人のH氏がテレビでよく見る「普天間基地を俯瞰する構図」がぜひ見てみたいと言ったことから,とりあえず基地の南西部に位置する森川公園に行ったが,ここからは東側の基地はまったく見えず,西側の市街地から海岸線を見下ろすことになった(「沖縄“任務完了”への道」第6回参照)。
翌2月には,それが頭にひっかかってミョーに気になった私が1人で,北東側にある個人美術館・佐喜真美術館に行き,建物の上にある展望台から見下ろしたが,こちらからはコンテナしか見えなかった(「沖縄・8の字旅行」後編参照)。そして,佐喜真美術館を見た直後,この嘉数高台公園がその場所だという情報を仕入れたことで「また行かなくてはならなくなった」のであるが,今回“アクシデント”により,それを履行する(?)ことになったというわけである。
入口からメインの公園部分へは,幅広くて長い『蒲田行進曲』とかの“段落ち”にも出てきそうな階段が,60〜70段ほど続いていく。それを上がると青く塗られた,皮をむいている途中のリンゴみたいな形をした展望台……の下に着く。後で宜野湾市のホームページで確認したら,壁には茶色いペイントで北海道・本州・四国・九州の四つと沖縄が,別々のところに同じ大きさで描かれていたが,それは上のほうだったようなので下からは見えなかった。ということは,リンゴではなくて地球儀をイメージして作られているのだ。なるほどね。
ここから展望台の中にあるらせん階段を,これまた40段ほど上がっていくと,なぜだかAMラジオがかかっている。そして,ようやく展望台の頂上に着くと,70歳前後でグレーのジャージにグレーのスラックス姿のオジイと,40代くらいのシャツにチノパンを履いた男性が会話をしていた。ラジオは,40代くらいの男性が持ってきたものであろう。そばには望遠鏡もあった。さらに,その近くには俳句が数句書かれた碑。テーマは第2次世界大戦時の嘉数に関するものであった。
さて,肝心の基地はというと,北側は住宅街をはさんでやや遠くに,平べったい平行四辺形状に滑走路と周囲の敷地が見えた。少し遠巻きであるが,上記H氏がお目当ての場所は,ここで間違いないようだ。私もその構図は見たような気がするが,もっと大きくズームして見えたのは,多分単純にカメラマンがズームしていたからであろう。テレビというのはつくづく恐ろしい……って大げさだが,実際見てみると大したことはないってのはよくあることである。ということは……ま,その程度の景色ということだ。期待はあまりしすぎないほうがいい。ただし,西側の市街地や遠くの海岸線はそれなりの光景であるとさりげなくフォローしておこう。ちなみに,標高は100.7m。
ちょうど,ラジオの音と同時に“ブーン”というエンジンの音がしていたが,見れば灰色の戦闘機が滑走路に停まっている。もっとも,見ている限りはそれが離陸することはなかった。上述の2人は細かく聞いてはいなかったが,普天間基地や軍事に関する会話をしている感じだった。そのそばには案内板がついていて,見てみると,やや東側には先ほど寄った沖縄国際大学も見えたはずだが,いろんな建物に紛れてよく分からなかった。
ここ嘉数高台公園はまた,その名の通り,元からの高台であることを利用して,第2次世界大戦時には作戦名称「第70高地」として計2000人の将兵と防衛隊が配備され,陣地が構築された場所でもある――1945年4月1日,いまの読谷付近より沖縄に上陸した米軍(「沖縄“任務完了”への道」第4回参照)は,日本側からの抵抗がほとんどないまま“順調に南下”していったのだが,1週間後の4月8日,ここ嘉数の地で日本軍から激しい抵抗に遭う。
もっとも,それは日本軍側が兵士に爆弾を抱えて戦車に体当たりさせるというもので,米軍戦車30台のうち22台の撃破という“戦績”に対する代償は,日本軍側最大の犠牲と,嘉数地区住民655人のうち,374人(58.3%)が亡くなるという多数の地元住民の犠牲であった。戦いは16日にも及び,結果的には米軍が同年4月24日に占領することになった。それでも,「恐ろしい丘」「いまわしい丘」などと米軍を恐れさせた場所であるという。
その激戦地であることを示すように,慰霊碑がいくつか建っている。展望台に一番近いところにあるのは「青丘(せいきゅう)之塔」。デイゴに覆われている中に建つナイフの先っぽみたいな形の塔で,韓国から連行されて犠牲になった386人を弔うもので,1971年に建立された。“青丘”とは朝鮮半島のこと。昔中国で半島を中国側から見た様子からそう呼んだそうだ。説明板には心無いことに,墨で落書きされたような跡があった。誰がやったか分からないし,“よその国”のことではあるのだが,誠に残念で不愉快なことである。
そして,その樹木の裏には一段上がった芝地には「京都の塔」「嘉数の塔」が立つ。前者は1964年に建てられ,1997年に改修されている。ここ嘉数で散った日本軍の兵士には京都府出身者が多く,それで造られることになった(ちなみに,県全体での京都府民の犠牲者は2500人余りである)。一方の後者は,そのまま上述の地元住民の犠牲者を弔うためのものである。
そばにある京都の碑の説明板の文面には,「沖縄住民も運命を共にした」という文面がある。後で調べたら,このように地元住民被害に触れている都道府県設立の碑は,この碑を含めて2基しかないという。また,「○○柱」「英霊」「玉砕」「御霊」などのような語句がないのも珍しいという。後者はともかくとして,前者は軍人よりも実は地元住民の犠牲のほうが多かったとされる沖縄戦での,まさしく“沖縄の位置付け”を否応無しに突きつけられるエピソードであると言えよう。

@“ホテル”という名の民宿
嘉数高台公園から再び西原インターへ戻る。どっかでオイルを入れようかと思ったが,タイミングを逸して,そのまま高速へ入る。でもって,一気に豊見城インターまで行ってしまうことにした。豊見城インターに着いた時点で,時間はまだ13時半。オリックスレンタカーまでは車で10分ほどであるが,真っ直ぐ帰るのはいくら何でも虚しい。飛行機については座席の指定がまだであるが,急遽変更だからいい席はどっちみちムリであろう。3人席の真ん中でなければまずヨシである。
ということで,豊見城インターからは接続する県道7号線で一路南下する。次に目指すのは糸満の戦跡公園群……と,その前に途中のJAのガソリンスタンドで給油することにする。オイルのメーターは,中間とその下のラインの中央辺りを指している。あるいは糸満までそれほど距離もないし,最後の最後に返却する直前でも間に合うかもしれないが,どこでどう気が変わるか分からないのが私。あと4時間でどっか遠くに行くことになってもいいように,今のうちに入れておく。
とりあえず,給油機を左にして係員のアンちゃんが手で指示するままに入っていったが,途中からアンちゃんの様子が変わってきた。窓を閉めていることもあり,よく状況が分からない。そのうち,2列ある給油機を通り過ぎて,今度はバックする指示になったので,そのままアタマから左折しようとすると制止するジェスチャー。はて,何だろうと窓を開けるとアンちゃんが寄ってきた。
「すいません,給油部分が右なので…」。ありゃま,そいつは気がつかなかった。すっかり左にあるものと思い込んでいた。なので,一度転回してからバックして給油機を右後ろに停車する。ここでまたバックするようになるとは。しかも,座席下にある“はず”のボタンがなく,アンちゃんと探す始末。別の男性があわててやってきて,ハンドル下にあるレバーを引いていた。
まったく,3日間ともにしたヤツなのに,何にも分かっちゃいなかったのだ……結局,ガソリンについては,レギュラーガソリンが23.7リットル入って税込2564円。で,リットル単価が103円。昨年11月に関東でレンタカーを乗ったときは,リットル単価が122円だったから,間違いなく今回は安い店には入れたほうだろうと勝手に解釈する(「管理人のひとりごと」Part28参照)。
さて,途中から方向を西に変えて,国道331号線に出る。糸満ロータリーを越えて,旧道とバイパスに分かれる辺りから周囲に気をつける。後者のバイパス側に入って,すぐ右に入る道のそばにあるガマを見るためだ。またもうろ覚えの情報であるが,どっかのホームページの情報では,「USA〜」という看板が目印になるとあった。その看板がたしかに見えたが,右に入る道はギリギリ車が通れる程度。道の入口には「沖縄偕生園」という看板と,名前は忘れたが寺の案内板もあった。
ちなみに「USA〜」の看板の正式名(?)は,「USA SHOP/レストランひめゆり」というものだった。とりあえずは一度様子見で通り過ぎたが,以後それらしき道がないまま再び国道は1本になる。多分,この「USA SHOP」の看板で間違いなさそうだが,そのガマを示す看板がいかんせん全くないから,どうにも怪しい。今度はその看板を一旦通り過ぎて,再び旧道との交差点まで戻り,今度は旧道側の入口から入っていくことにする。
地図によれば,旧道が右に直角にカーブしたところで左に入る道が,さっき入りそこなった道とつながっている。でもって,その左に入る道を入っていくと,やっぱり車が1台通れる程度の幅。そして“沖縄偕生園”の建物と,寺っぽい建物が見えた。元々スピードが出せる道ではないが,さらに慎重に進んでいく。はて,ガマの入口は……やはり,まったく看板がない。目の前には早くもバイパスが見えてきた。ただし,緑が生い茂っている付近の手前に,ちょっと広くなったスペースがある。
地図にある点の位置と見比べると,そこがどうやらガマの入口っぽい。ひょっとしてスペースは駐車場だろうか。実はこの壕,修学旅行で結構な訪問があるようで,また観光タクシーのコースなんかにもなっている。そのせいだろうか,奥行きが結構あって車が2〜3台ほどは停まれそうだ。でも,多分観光バスだとバイパス側の入口で停めて,そこから人々を歩かせるのだろう。
……ま,そんなことはどーでもいいとして,とりあえずこのスペースに車を入れることにする。ちょうどマーチから降りると車が1台,目の前を通り過ぎた。はて,それはレンタカーではないかもしれない。あるいは地元民だろうか。こっちを見ていたが,ひょっとして「何だ,こんなとこで?」と思ったのだろうか。でも,ここって結構有名なはずだ。改めて,どうしてこの程度の扱いなのか。上記の修学旅行生の訪問先であるだけでなく,本のタイトルにもなったガマだ。タイトルにはもう一つ,玉城村にあるガマの名前がついているが,そちらは案内板がしっかりあった……そしてスペース脇から続く,通路らしきジャリ道を入っていくこと数分。間違いはなかった。ドンピシャでそのガマに辿りついた。

もういい加減,名前を出すべきだろう……といっても,勝手に自分で伏せていただけだが,そのガマの名前は「伊敷轟洞(いしきとどろきどう)遺跡」。私の頭の中には「轟の壕」という名前で入っていた。そして,上述の“タイトルになった本”とは,石原昌家著『沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕』(集英社新書,「参考文献一覧」参照)である。
ちなみに,この旅行記を書くにあたって少し本を見返していたら,看板があると書いてあったが,んなのは,どこにもなかったぞ。ま,書かれたのは2000年だし,多分誰かが外したか,自然と何処かに行ってしまったか……ま,いいか,そんなこと。ちなみに,地元では“カーブヤーガマ”とも言われているそうだ。“カーブヤー”とはコウモリの意味。その名の通り,コウモリが棲んでいたから呼ばれたらしい。さらにはもう一つ,別の呼び名(?)があるのだが,それは後述していこう。とりあえず,以下ではこのガマは「轟の壕」と書いていくことにする。
さて,その轟の壕は茂みの中にパックリと開いた,下に向かっていくすり鉢状のガマである。何やかやで20m四方はある入口の広さだ。市がつけたという階段を20段ほど降りていくと,ちょっとした自然の踊り場のようになっていて,そこには大きく岩がせり出している。そして,せり出した岩の下には“修学旅行生御用達ガマ”につきものの千羽鶴。この付近は無数のトンガリ石があり,その下に香炉があって拝所になっている。そこからはメインのガマとは別に,10m四方くらいのガマが広がっている。
ここから先は自然の岩が作り出す階段を下っていく。それまで下ってきた階段にもあったのだが,黒くて太い線が4本,下までひたすら延びていく。はて,その線は一番奥の穴まで入っていっている。どこまで一体続いていくのか。そして,何のための線なのか。まさか,川口浩…ではなくって「藤岡弘探検隊」の撮影だろうか?――って,んなことあるわけがない。
周囲は,少しだけ幹線道路から外れただけなのに,限りなく無音に近い。聞こえるのは,風が吹いて流れる葉のせせらぎと,ガマの奥底から聞こえてくる地下水のせせらぎの音だけである。周囲の気温は,やや上がってきている。ジャンパーを着る必要がないほど暖かい。それにしても,最後の最後だけ帳尻を合わせるように暖かくなってきているようにしか思えない。
その奥の穴の向こうは,真っ暗で狭い。幅は人っ子1人がギリギリで入れる程度しかない。中に入っていけそうな感じだが,間違いなく懐中電灯がないと入っていくのはムリである。もちろん,そんなアイテムなど持っていない。この奥に入っていくことは,もちろんやぶさかではない。中は中で,左右にかなり広くなっているという。でも,アブチラガマのように,しっかりと観光地化していて100円で懐中電灯を貸し出すような,そしてガマの入口に係員小屋があってチケットを切るようなサービスは,ここには全くないのだ(「サニーサイド・ダークサイドU」第2回参照)。よって,私の歩みはここで終わりである。後は来た道を引き返すしかない。
――この轟の壕は,一時期は上述のもう一つの呼び名(?),すなわち「壕の中の沖縄県庁」だったとされている。というのは,1945年4月以降,沖縄県庁は今後の米軍上陸への備えや,すでに前年の1944年10月の米軍による那覇大空襲などでダメージを受けていたこともあったりして,いよいよ“戦場行政”というスタイルを取って,島の各ガマを転々とするようになった。その彼らがやることは,主に壕の整備や食糧支援であるが,それとともに米軍の攻撃の合間に壕の外に出て,住民に「士気高揚」を唱える役割もあった。要するに,壕から壕へと日本軍の“偉業”を伝え回る,メッセンジャーとして住民を鼓舞する意味での後方支援である。
しかし,戦況はますます悪化して島民はどんどん南方へと追いやられ,兼ねてから南で合流しようということになっていた県庁職員は,上述のように緑に覆われて比較的隠れやすく,また中も広いこの轟の壕に自然と集まってきていたようだ。その中には当時の島田叡(しまだあきら)知事(1901-45?)や警察部長などの幹部も入ったことから,さしずめ沖縄県庁のような呈そうだったというわけである。
その知事などの幹部が轟の壕に入ったのは,同年6月上旬。それからいくらも経たないうちに,今度は日本軍の一団14〜15人が入ってきたという。やがて,野戦病院として使用することになったためにその県庁幹部に対しても立ち退き命令が出る。当初は立ち退きを拒んでいた島田知事らだが,正式に軍司令部からの指示が出た6月15日(14日という説もある),轟の壕を出て摩文仁(まぶに)地区に移動することになった(その後の足取り,島田氏の消息はともに不明)。
すると,広い壕の中でも環境のいい場所にいた知事に代わって,日本軍の一団がその場所を占拠することになった――轟の壕は,私がちょうど下ってきた辺りがガマの上層部から中層部,そして人が1人しか入れない穴のその奥が下層部という構造だった。当然,上に行くほど外に近くなって危険であり,下に行くほど安全なわけである。さらに広さは,下層に行くほど広いという構造をしている。その下層部分では既述のように左右に分かれているのだが,右手が比較的乾燥していて,左手に行くほど湿地になっているという。
軍隊が陣取ったのは,一番快適だった下層部の右手。そして,他の県庁職員や地元村民などは,下層部の左手ないしは高・中層部という,より劣悪な環境へ追いやられていくことになった。その劣悪な状況の中で何が起こったかについては,軍による虐待などといったおよそ想像がつくことが起こっていくわけだが,詳細については上記『沖縄の旅〜』を参照いただきたいと思う。
そして,3日後の6月18日から,轟の壕は米軍の執拗な攻撃を受けるようになった。その戦法は“馬乗り”と言われる,ガマの上にある穴という穴から中に向かって攻撃を加えるやり方である。当然ながら外には出られない。中は,ただでさえ衛生状態が悪く,食糧もほとほと尽きて病死者や餓死者も多数出てくるようになっていたが,そこに爆弾などが落ちてくるようになった。それらが炸裂して,さらに多数の死傷者が出る。「このままではヤバい」――中にいた県庁職員らは,軍部に外に出るよう説得するが,壕の中や作戦そのものが相手方に分かってしまう可能性がある以上,その策は決して取れないと,初めは態度を硬くしていた。
それでも,県庁職員らは外に出られるよう軍部に懸命に説得を続け,やがて「出たい人間は壕の“通常出入口”から出なければ,勝手に出ていけばいい」という形で,外に出られることになったのだ。県庁職員はじめ大勢の人間が,ガマの中を,時折置き去りにされたままの死体をよけながら,あるいは大きな水たまりに阻まれながらもさまよい続けると,外から差し込んでくるような光を見つけた。
中から外に向かって助けを求めようと動き出したその瞬間,逆に外部から中をこじあけようとするアクションがあった。この壕の人間についても例外なく,「投降したら辱めを受けて虐殺される。それならば自分で死んだほうがマシだ」という考えにとらわれていて,中には「それでもいいから,中よりは外で死にたい」という気持ちにまで追い込まれた者もいたようだ。しかし,たまたま米軍に通じていた宮城嗣吉(みやぎしきち,1912-2001?)という男性がいたために,無事に外へ出ることに成功する。ずっと暗い中にいたせいで,みな目が鳥目のようになっており,思わず失神してしまう者もいたという。
ちなみに,この米軍に通じていた宮城氏とは,後に米軍に接収される那覇の小禄(おろく)飛行場に勤務する海軍兵曹長。筋合いとしては,米軍とは仇であるわけだが,決して“スパイ”ではなかった。当初は轟の壕にいたのだが,一足早く妻とともに別の出入口を求めて脱出しようとしていた。すると,上手いこと集落の共同井戸から外に出ることができた。そこに待機していた米軍に妻が英語で話したところ,とりあえず2人とも収容所行きになった。そして,その収容所で米軍に轟の壕の事情を説明したら,米軍から誘導して外に連れ出すように言われて,再度轟の壕に戻ってきたということだった。

いずれにせよ,無事脱出に成功できた壕の中の人間たち。何と米軍は,その脱出した彼らに,この後の壕の扱いについて尋ねてきたという。それは,上記の宮城氏に中の事情を聞いていたからだとされている。無論,その扱いとは「“トドメ”をさしてよいか?」ということである。うず高く積まれたいくつものダイナマイト。そして,いま中にいるのは,自分たちをさんざん苦しめてきた日本軍の兵隊くらいだ。「くるせー(殺せ)」――沖縄では単純に“痛めつける”の意味でも使われるというこの言葉が,壕から出てきた人間の中から相次いで出てきた。そして,住民が次から次へ収容所に移されていく中で,轟の壕では名前のように爆音が轟いたという。
先ほど,奥に行く穴が人っ子1人が通れる程度しかないと書いたが,それは,この米軍の“トドメさし”で周囲の岩が崩れて穴をふさぐ格好になったからとされている。元々はかなりという広かった轟の壕の出入口。なるほど,その穴の周囲を改めて思い返してみると,複雑に窪んでいてそこだけが小さい穴のようになっているように見えた。昔はもっと広かったというのも納得できる。
しかし,ホントならば“同胞”であったはずの日本軍と地元民。現実はあまりに残酷極まりなかった。そして,その結末が「くるせー」……ちなみに,中で生き埋めになったはずだった日本軍。実は別の出入口から抜け出して捕虜になっていたという“オチ”がある。「御国のために」という“高い志”の下,若い男性が戦地に散っていったという,切なくて胸が熱くなる美談が語られるのも戦争ならば,「これでもか」とまでに,誰彼関係なく人間同士が野生動物以下の“醜い姿”をさらけだしていくのも,そして敵・味方が時として入れ替わったりしてしまうのもまた,戦争なのである。(第9回につづく)

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