沖縄はじっこ旅V
(1)金武の街
那覇空港,9時55分着。羽田で,まだ夜もあけきらない6時台の出発にもかかわらず,飛行機の準備だかが遅れたために,結局35分の遅れである。冬でも晴天ならばムワッとすることがある沖縄だが,今回は少し曇り空なのと,寒気が流れているだかで,ほのかに暖かい程度だ。東京から着てきたジャンパーは邪魔者にならずに済む。はて,いいのか悪いのか。
今日はオリックスレンタカーでレンタカーを借りて,一路伊平屋島に向かうことになる。早速,1階ロビーにあるレンタカーカウンターに向かう……ことは今回はしない。実は行く前日になって,連絡先をチェックしようとオリックスレンタカーのホームページを見たところ,空港の外になると思われる“ゾーン11”というところに,営業所への送迎バス乗り場が移ったようなのである。でもって,その営業所の場所が,空港そばの田原地区(「沖縄・8の字旅行」前編参照)から,何と南部の豊見城市にある「あしびなーアウトレットモール」の中に変わっているではないか。どうやらこの7月に移転したようだが,何を気にするともなくネットから予約を入れちゃうと,得てしてこういう目に遭うのだ。営業所まで送迎バスで15分かかるそうだが,やれやれ,これじゃスムーズにレンタカーへ,とは行かなくなりそうだ。
で,そのゾーン11とは,2本の道路の間にある分離帯であった。ホームページの地図では何か建物かと思ったのだが,たしかに,プラットホームでも建物でもない“ゾーン”って感じがする。そして,オリックスレンタカーだけではなく,すべてのレンタカー会社の送迎バス乗り場が移ったようなのだ。会社に関係なく,那覇空港近くのレンタカー店は何度か利用しているが,空港の1階ロビーの隅っこがよく観光客で混雑していたし,送迎バスを停められる場所だって限られているから,現在の場所に移動したということなのだろう。これはこれで正しい判断だろう。
横断歩道を探したが,左右を見て両端で人が渡っているあたりは,いずれも私のいる場所からはかなり離れている。とりあえずは左に向かって進んでいくと,オリックスレンタカーの旗がかかったエリアがあった。横断歩道はなく,目の前の看板には「横断禁止」と書かれてはいるが,いままさにその近くでこちらに横断している集団がいたので,こちらもその場所から横断してしまう。
ガードレールをまたいで,リストを持った男性係員に声をかける。マイクロバスを見ると,誰も乗っていない。私がどうやら一番のようだ。あるいは場所が変わったことを知らずに,前のように空港の隅にあるロビーで待っているのか。「何組か同じ飛行機でいらっしゃる方がいるので,5〜6分お待ちください」と言われ,しばし待つことになる。
しかし,5〜6分どころか,10分経っても誰も来そうにない。この待ち時間の間に契約書にサインなんぞしていたりしたのだが,誰1人として乗り込んで来ず,結局私1人を乗せて出発という“一番不経済な形”になる。バスは空港の入口になる赤嶺交差点までは他の会社と同じ。この移動時間を利用して,一緒に乗り込んだ若い女性が「この間に説明しましょうね。ご協力ください」と,すかさずノンオペレーション・チャージなどの説明をする。この説明をもって,1人乗せて出発という不経済さはチャラに…なるかどうかは知らないが,1人だからできる技というのは間違いないだろう。
そして,このバスに乗っている間に,もう一つ確認することがある。それは今日向かう伊平屋島へのフェリーが動くかどうかの確認である。何たって,昨日は東京でも初雪が降る悪天候だったのだが,この伊平屋フェリーもおそらくは同根であろう低気圧の影響で丸々欠航になったのである。今日伊平屋島で泊まることになる「ホテルにしえ」のホームページによれば,当日の9時ころに確認の電話を入れると分かるみたいなことが書いてあったのである。早速,ケータイから電話をかける。
あるいは,今日フェリーが欠航になるようであれば,伊平屋島へのフェリーが出る本部半島北部の運天(うんてん)港から,すぐそばにある離島の古宇利島(こうりじま)に渡って島内を見て回り,名護あたりに宿を取ろうと思ったのだ。位置的には古宇利島は本部半島と“目と鼻の先”だし,これまた目と鼻の先に屋我地島(やがちじま,「沖縄標準旅」第3回参照)という島もあったりするので,航路は思いっきり内海である。波はまず穏やかだろうし,欠航はないだろう。名護の宿も2〜3ヶ所チェックしてある。ま,それらがすべてダメであっても,どこがしかの宿には泊まれるだろう。
数回のコールの後で,オバちゃんらしき少し高い声の女性が出た。「はい,西江です」――これでも,実は初めての宿の人間との会話なのである。つくづく,ネットというのは恐ろしいというかキミョーなものである。ホームページから申し込み,3日経っても何も返事が来なかったので,念のため再度申し込み,それでもまだ何も応答がなく,そろそろ電話で連絡を思ったころにメールで「返事遅れてすいません。ご来島お待ちしています」と返信されてきた。最初の申し込みから1週間が経っていたが,まあ忙しかったのだろうと解釈しておいた。
話を戻せば,そのネットでのやりとりだけで今日まで何も会話しなくても,泊まれるのかと一瞬不安になったが,
「すいません,今日1泊予約しているんですけど,
フェリーは出ますか?」
「……ええ,出ますよ」
この遅れ加減が,いかにも素朴な田舎の…って,それは偏見か。あるいは忘れられていたのだろうか。ま,いいや。
「あのー…予定通り午後3時のフェリーで行きま
すので」
「あー,はい,分かりました」
これにて,今日の伊平屋島行きは決定である。そして,明日午後一で島を後にして,来た道を戻って那覇に戻る。そのまま空港から石垣に渡って,2年前と同様に大晦日の石垣泊(「沖縄標準旅」第5回参照)。でもって,明後日は西表島の舟浮へ。北の端に秘境……まさに「沖縄はじっこ旅V」の真骨頂。我ながら感動な旅である。これから幸先のいい旅となりそう……だったのだ。

その後は国道331号線のバイパスを南下して,臨海の何もないエリアをひた走る。そして,途中から海寄りの路地に入り,さらに何もなく,時折整備が行き届かないと言わんばかりに草木が茂った箇所がいくつもある,いかにも埋立地なエリアに入っていく。その端にあしびなーアウトレットモールがあって,手前のただっ広い駐車場の奥にあるのがオリックスレンタカーの沖縄空港南店である。時間がまだ10時ちょい過ぎということもあり,アウトレットモールの駐車場はガラガラだ。
営業所は2階建て。真新しい白亜の建物だ。従業員は10人以上はいる。言わずもがなだが,現時点では1人の客を全員で見る状態。建物の1階は休憩ロビー,事務所は2階となる。肝心の精算であるが,1泊2日で明日の17時半までの返却。しめて1万4700円。JALのマイレージの対象にもなり,女性のほうから「マイレージのカードありますか?」と言われる。前回利用時(「沖縄・8の字旅行」前編参照),マイレージを積算したことがきっちり管理されているようだった。
そして,あてがわれる車は日産「マーチ」。黄土色のワゴン型のヤツである。日産といえば,最近のCMでMDとCDとラジオが一体となったカーオーディオを装備どうこうなんてのをやっている。はて,この車も…と思ったら,CDしかないヤツだ。そして,車検証の装備も確認する。今回伊平屋島にフェリーで渡るに当たり,車検証を用意する旨言われていたのである。
女性係員と別れ,粛々とMDを胸ポケに装備する。そうそう,今まではたしかネットからの申し込みの場合,オリックスレンタカーについては最後に“要望欄”がついていたと思う。でもって,大抵はそこに「カーオーディオはカセットかMDだと有り難い」と書いて,その希望はカセットのほうにて確実に通っていたのであるが,今回の申し込み時はその欄はついていなかったと記憶する。「ま,大丈夫かな」と軽く考えていたらこういう結果になったのだから,はて,これはこちらの落ち度なのか。あるいは「要望には一切お応えしません」という,会社側のサービスの低下ととらえるべきか。
何はともあれ,出発である。時刻は10時半になっていた。女性係員からは「二つ先の信号が県道です」とか聞いていたが,はっきりとは聞いていなかったので,とりあえず南のほうに進んでいく。まず向かう先は豊見城インター。ここからスタートする「豊見城道路」なる県道が,そのまま沖縄自動車道につながっていくのだ(「沖縄・8の字旅行」前編参照)。いくつかもらった地図の中に,近くのガソリンスタンドの案内図があったが,それによれば南側から県道82号線に入って,途中から県道7号線との交差点を左折するのが混雑しなくていいと書かれていたのだが,見事にその県道82号線に入ることができた。なるほど混雑はなく,そのまま定石通り県道7号線から豊見城道路へ入る。
初めは随分那覇から離れた場所で,何で“空港”という冠をつけるのかと思ったが,考えてみれば那覇市内の慢性的な渋滞――最近は渋滞も少なくて,わりとスムーズに走れていたと記憶するが,それでもある程度渋滞は計算しないとやっぱり痛い目に遭う――の中をくぐりぬけてくるよりは,ずっとスムーズに高速に入れたと思う。まあ,那覇市内を散策移動するには適していないだろうが,例えば今回のように北部に高速を使って行くなんてときは,案外この豊見城から高速を使って一気に走るほうが効率がいいかもしれない。当然,南部方面にはこの“南店”のほうが向いていよう。
そして,車は一気に島の中部にある金武(きん)町を目指す。2年前に一度バスで通過したことがある町だ。このときのことを書いた「沖縄標準旅」第2回では,1994年春の初沖縄旅行時,大阪から那覇にフェリーで渡った時に相部屋になった男性から,「金武は治安が悪い」と言われたことも書いた。とはいえ,町のホームページによれば,結構見所がありそう。治安云々も,夜間でなければまずは大丈夫だろう。伊平屋島へのフェリーが本部半島北部の運天(うんてん)港から出る時刻は15時。乗船手続云々で1時間前到着のつもりではいるが,いくら何でもこのまままっすぐ行くのはバカらしい。なので,高速道路が通ってインターチェンジもあるこの町に寄ろうとした次第である。

(1)金武の街
高速に乗ること15分。自慢してもしょーがないが,ひたすら出口まで走行車線を時速120km前後で走って,金武町に入る。右手には遠浅の海が見える好眺望区間である。金武町のホームページによれば,町に入ってすぐの屋嘉(やか)インター付近にも見所はあるようだが,この町で必ず寄っておきたい@金武観音寺鍾乳洞A金武大川(きんうっかがー)Bキングターコースの三つは,いずれも次の金武インターからすぐの中心部にあるようだ。なので,金武インターまで行く。事前におおまかに場所は確認してあるが,プリントアウトしているわけではないので,現地で迷うことが予想されるから,節約できる時間は節約しといたほうがいいだろう。
金武インターを下りて,接続している国道329号線を北上する。海岸線を登っていくと左に道はカーブして街中に入る。といっても,進行方向左には「キャンプ・ハンセン」という米軍基地が鎮座している。商店の類いの建物は右手に転々としていく感じだ。時々軍所有と思われるジープとすれ違ったりもする。まさしく「ハンセン門前町」である。それを象徴するかのごとく,間もなく現れる信号のある交差点の左には基地へのゲート,右には“社交街”のゲートという光景を見る。
人気というのは,お世辞にもあるとは言えない。年末であるのと昼の時間であるのが何よりも大きいだろうが,あるいは不況なのも多少影響しているだろうし,今時らしく“個人尊重”の風土が根ざしつつもあるのかもしれない。それでも「沖縄・8の字旅行」後編の,名護は辺野古の項でも書いたが,かつてベトナム戦争のころにこういった基地前の社交街が特に賑わったという話を思い浮かべずにはいられない。無論,どんなことが基地内はたまた“現地”で繰り広げられたかは私には知る由もない。“左のゲート”と“右のゲート”との距離,わずか10mほど。この10mが,当時の米軍関係者にとっての「非現実と現実の境目」だったのではないかと勝手に想像してしまうのだ。
さて,その右のゲートで右折しようと思ったが,道が狭くて入りそびれてしまった。その代わりというのか,すぐ先に大きな右折する道があったので,とりあえず入っていく。なるほど,こう言っては失礼だが,うらぶれた飲み屋が転々している。その奥に行くと住宅街。路駐している車のせいもあるが,道がとても狭い。奥に入り込むほどそれが顕著で,かなり道も入り組んでいる。坂も多いしカーブも多いから,いよいよ迷路感覚に陥ってくる。
さて,そろそろ今回見たいうち,この社交街側にあるABを探さなくてはならない。@はキャンプハンセンの側,すなわち国道の左側になるので後で探すことにしよう。うろ覚えでは,二つとも国道からあまり離れていなかったと記憶するが,さすがにうろ覚えでもこれはあり得ないってくらいに奥まで行ってしまったので,テキトーに引き返して一旦国道へ出てから,再度同じ道を入り直す。
そして,おもむろに最初の十字路で右折して,2〜3階建ての古ぼけた商店の間を少し進むと,景色がひらけて左手に公園と駐車場が見えた。20台くらい入れられる少し大きいものだが,結構隙間が開いている。この駐車場にとりあえず車を停めることにする。明らかに建物ばかりなのでAはあり得ないかもしれないが,Bは見つかるかもしれない。時間も11時半になったことだし,何たって朝飯はバナナロールとコーヒーゼリーだけなので,いい加減空腹を満たしたいところだ。
外はやや雲が多い青空。でもって,少しヒンヤリする。公園を突っ切って,1本南側の道に入る。やってきた方向に少し戻ると,角にスロット屋のある十字路。ふと,右手を見れば,10mほど先の右に赤いそで看板に「キングターコース」と書いてある店があった。停めた駐車場から近いし“ビンゴ”である。名前から想像がつくと思われるがタコス…ではなくて,沖縄風アレンジの賜物であるタコライスの“元祖”と言われる店だ。この店の600円の「タコライス・チーズ野菜」というのがオススメらしい。
早速,店に向かうと,いかにも老舗って感じの小さく古いコンクリの建物。しかし,小さい明かりがついているものの,看板は店の中に入ったままだし,その他はほぼ真っ暗である。開店する気配がまったくない。あるいは来るタイミングを間違えてしまったのか。車が1台停まっていて,中に人がいるが,あるいはこのキングターコースに来た人なのか。うーん,せっかく来たのに。かといって,店に入って聞くほどの勇気もなく,あっさりあきらめることにした。ま,タコライスは何度も食べたことあるし。
そのキングターコースの真向かいに,「新開地食堂」という看板と食堂らしいのぼりと,紅型の黄色い暖簾が見えた。プレハブの小さい平屋建ての建物だ。有料駐車場の一角を間借りしたような感じである。外に貼られたメニューを見れば,足テビチだとか天ぶらに加えて,チャンプルー系の定食があるようだ。正面の玄関っぽいサッシは閉ざされているが,脇のサッシが開いている。どうやら,この脇から入るようだ。間違いなく営業しているようだし,キングターコースの開店を待てるほど,今の私の胃は残念ながら寛大ではない。値段も安そうだし,この新開地食堂に入ることにする。

中に入ると,左右に細長い(駐車場の入口から見ると,タテに細長い)店である。左右が10mほど,幅が2.5mほどか。右半分がキッチン,左半分が客席。営業はしているが,入ってすぐ左の4人席にオバちゃんがいるのみで,他に客はいない。オバちゃんの前には水しか置かれていない。時間がまだ12時前だし,やっぱり休みに入ったからだろう。テーブル席はオバちゃんのいる4人席と,その奥の2人席だけで,あとは狭い通路をはさんで向こうはカウンター。イスが7席のみ。どうやら若い女性1人で切り盛りしているようだ。とりあえずカウンター席にテキトーに座ろうか。
カウンター席の前は…思いっきり“壁状態”である。厳密に言うと,窓らしきものはあるのだが,いろいろとメニューが貼られていたり,また隣の建物の壁があったりして,機能を果たしていない状態だ。その貼られた紙の中には地元のタウン誌だろうか,店を紹介するものがあった。どうやら,この10月に始めたばかりの店のようだ。あるいは,まだ地元でも知られていない店なのか。
女性が水を持ってきたので,600円の「麩チャンプルー定食」を注文する。多分,これならば“当たり外れ”がないだろう。後ろのオバちゃんは,座席に座ったまま一言もしゃべらない。明らかに地元の人間っぽいし,女性が2人いれば話に花が咲いて,私が立ち入れないくらいになりそうなものだが,人間はシーンとしていて,聞こえてくるのはキッチンの火力の音や換気扇の音くらいである。外の曇天や休みであることと比例するように,店内も実にまったりして気だるい雰囲気だ。
そのうち,オバちゃんが正面のサッシをおもむろに開けて外に出ていった。ということは,2人は母娘なのか……そのオバちゃんが閉めたサッシを見ると,営業時間が12〜21時とある。一方でタウン誌では11時半〜21時とある。この30分の違いって,店として気にしなくて…いいんだな,別に。しばらくすると,オバちゃんが食堂に戻ってきて「じゃ,どうもね」と若い女性に声をかけた。「ありがとうございます」と若い女性が返していたから,客だったのだ。ウーン,私はメシを食ったらとっとと店を出たいクチだから,この感覚はあまり理解できない。飲み屋にいるのならまだ分かるが。
一方,キッチンではずーっと炒め物の音がしているが,10分経ってもメシが出てこない。野菜を炒めるのに10分もかかるのか。あるいは具材ごとに分けて炒めているのか。はたまた先客がいて,その料理をしているのか。いずれにせよ,思いのほか時間がかかったが,15分ほどしてようやくメシが出てくる。よっぽと私がせっかちなのかもしれないが,まあ,空腹という“調味料の味”がいかんなく発揮されて,それはそれでいいかもしれぬ。
さて,ここの麩チャンプルーは……ま,どこの料理店でも出てくる感じの麩チャンプルーである。直径20cmほどの器に,こんもりを丘を描く。具はキャベツ・もやし・玉ねぎ・ポークランチョンミート・卵(卵とじ)である。まずまずの味である。味噌汁はキャベツ・玉ねぎ・にんじんで,あさつきがパラパラッとかかる。メシはごはん茶碗にこれまたこんもりと盛られている。漬物は…ついたかどうか忘れた。何しろ腹は減っているから,黙々と食べ続けるのみだ。
メシを食い終わって金を払い,外に出る。すると,やっぱりというか,目の前のキングターコースは営業していた。時間が早かったのだ。ドアが黒いフィルムがかかったような感じなので,はっきりではないが,数人の客が中にいるのは見える。来月また本島でレンタカーを借りて回るから,あるいはその時に来ることにしようか。
少しだけ新開地社交街を見てみる。キングターコースと新開地食堂の前の道をそのまま奥に進むと,一昔前の栄華を物語りたいかのような,錆びついて年季の入った洋館が見える。下は崖のように低くなっている。高台のスレスレに建っているのだろう。昼だから閉ざしているだけで,おそらく現在も現役で営業しているのだろうが,ネオン看板には「ROCK&DANCE SHANGRILA」と描かれていた。当時でいう“ディスコ”,現在の“クラブ”であろう――いずれも私には未知の世界になってしまうが,いまどきROCKで踊るのだろうか。きっと,エルビス・プレスリー氏が現役バリバリで,日本では平尾昌晃氏やミッキー・カーチス氏がそれを真似ていたロカビリー時代からの営業だろうと想像する。
来た道を戻って,辺りを見回す。原色のペイントが施された店には「喫茶&プールバー」だ。うーん,プールバーって,平成初頭じゃないか……全体的に派手なペイントの店の中に交じって,日本の地味ーな彩りの小料理屋が軒を並べるのも,どことなく“チャンプルー文化”の一端を垣間見られる気がする。まるで,30年前の映画のセットみたいな通りである。でもって,さっきの十字路の角にあったスロット屋が唯一にして最大に賑やかなのが,何ともうら寂しい感じがした。
車に戻ろうとさっきの駐車場に向かうと,バリバリ…と黒づくめのバイク5台の集団がこちらに乗り込んできた。うち女性が1人いたが,みな日本人。列を作って行儀よくコーナーを曲がっていたのが何とも可笑しかった。多分ツーリングでもしているのだろう。でもって,キングターコースの前で停めていた。やっぱりそれなりに有名な店なのだろう。もっとも,これで全員が新開地食堂に入っていったら,失礼ながらギャグのように思えてしまうのだが。
車に戻り,今度は@金武観音寺鍾乳洞を目指す。国道に出て少し北進。町役場の入口にて左折して直進すること1分,右手の低くなったところに鬱蒼と木々に囲まれた寺が見えた。これが観音寺だ。観光客も結構いるようである。ちょうど十字路の右角に寺があって,左には出しっぱなしの出店の向こうに,車が数台停まっている。はて,正月の参拝客用の出店だろうか。
しかし,駐車場を指し示す看板によれば,その十字路を右折する指示。なので,とりあえず右折してみたが,それらしきスペースは見つからない。駐車場はあるにはあるが,明らかに隣接するマンションのもののよう。仕方なく来た道を戻り,出店の裏の車が停まっているあたりを見回すと,何のことはなくそこが寺の駐車場だった。あいにく普通車用のスペースらしき場所は全部埋まっていて,空いているところは大きめに線で区切られているので,観光バス用の場所だろうか。でも,別に構わないだろう。こう言っちゃ失礼になるが,この寺に観光バスで乗り込むなんてまず考えにくいし。

観音寺は,まあ見た感じはどこにでもある古い寺って感じだ。宗派は真言宗。門を入ってすぐ左には,天然記念物で樹齢350年・樹高12mというフクギがある。1522年,和歌山県は根来山の真言宗新義派知積院(現在は「智山派智積院」として,京都東山にある)の僧侶である日秀上人(にっしゅうしょうにん,1495-1573)が建立したものだ。赤瓦で木造という“琉球スタンダード”な建物だが,1942年に再建されたものという。奥には種類はよく分からないが,観音像が三体奉られている。
金武町の公式ホームページでの紹介文によれば,はっきりした年は分からないが,16世紀初頭の永正年間(1504-20)に,中国に行こうとしていた1艘の船が金武町の海岸に漂着。たまたま通りかかった地元の若い男が「何の箱だろう?」と思ったそうだから,小さい船だったのだろうか。そして,その船にへばりつくような格好で倒れていたのが,この日秀上人(以下「上人」とする)だったそうだ。若い男は「これは大変だ」と思って,一生懸命上人を介抱することになった。その甲斐があって,上人は無事快復。恩義を感じて村のために役に立ちたいと思い,博識だった農業に関する指導を村民に施し,「白砂が米に化けた」とまで言われるようになり,村民から高い尊敬を集めたそうだ。
そんな中で,上人が本領を発揮場面が現れる――とある晩,めったに村で見かけないという若い美男子が,これまた村で一番の美少女の家の戸口に立って誘いをかけていた。美少女はその美男子に誘われるがままついていった。ちょうど,この様子を別の若い男性――この美少女に惚れていたという――が目撃していて,2人の後をついていくと,ある洞窟の前に辿りついた。そのとき,つけてきていた若い男性は一瞬ハッとしたが,時既に遅し。美男子は突如大蛇に化け,美少女ごと洞窟の中にあっという間に消えてしまったという。
実はこの洞窟には,若くて美しい女性の生きた肝を食べるという恐ろしい大蛇が棲んでいるという言い伝えが,すでに村人の間で周知されていた。かつて,この洞窟あるいは洞窟とつながっているとされている金武大川では,水を汲みに来た村の女性が襲われたり,はたまた農作物が荒らされる事件があり,これがその大蛇によるものだと村人の間では信じられていたのだ。その後,事態が鎮静化したため「大蛇は死んだ」ものとされたが,それでも村民はこの付近には住まなかったという。そんな状況で,逆に大蛇がシビレを切らして,集落にまで出てきて上述の騒動を起こしたとされたのだ。
村民はこの事態を「次は我が家か?」とひどく怖れて,外に出かけることもなくなり,集落はいつしか静まりかえってしまった。上人が心配して集落を歩き回ると,どこの家庭も一様に親子で嘆き悲しむ姿ばかりだったという。そこで上人はこの洞窟の前で呪文を唱え,二度と表に出られないように大蛇を洞窟に封じ込めた。そして,この洞窟のそばに立てたお堂こそが,この観音寺だとされている。洞窟とは…もう言わずもがなであろう。
――さて,そんないわれもある鍾乳洞は庭園の端にある。入洞料400円は,奥の立派な茶屋兼土産屋で払う。「あとで“龍茶”を用意しておきますので」と言われた。なるほど,入口にはちょっとした喫茶スペースがあり,洞窟から戻った後で冷たい“龍茶”(ホットもある)を飲んだが,ウコン茶のような,いかにも薬草茶的な苦味がある飲み物だった。お茶請けには黒糖とかりんとう。私は後者を食べたが,甘いものに飢えていたのか,あるいは苦味にマッチしたのか,とても美味かった。なお,袋詰めでお茶は販売されているのを見たら,20種類ほどの薬草が入っているという説明書きがあった。
洞窟の入口は1m幅くらいの石の階段があるが,うち半分はレールが占めている。少なからぬ不安定な足元に気をつけながら降りていくと,ムワッとする。外が少し寒いからなおさらだ。入場券に書かれた説明書きによれば,年間18℃だという……で,中はというと,まあたしかに鍾乳石がいろいろとあったが,覚えているのは「こけし観音」「仏天閣」という札があったヤツくらいか。それよりも目立ったのは,これでもかというくらいの大きさの大蛇…ではなくて,泡盛を貯蔵する巨大な棚である。ワインキーパーのような木造の棚だ。また,豆腐ようの棚とか味噌を入れるバケツもあった。
なるほど,入口の看板には泡盛が貯蔵されている旨書かれていたが,これでは鍾乳洞なのか酒蔵なのか分かりゃしない。ただでさえ細い通路の両端には高さ2.5mほどの棚がピッシリと連なって,それがどんづまりまで続いている。レールは中にある泡盛を引き上げるためのものだったわけだ。そして,上述の茶屋兼土産屋にもたくさんの泡盛が並んでいる。1988年に完成したこの酒蔵は「永酒堂」と名づけられ,しっかりした貯蔵システムが認められて,1992年には酒類の振興に貢献のあった者に財団法人・日本醸造協会から贈られる「石川弥八郎賞」を受賞している。
まったく,結局は最後まで鍾乳洞を見に来ていたのか,酒蔵を眺めに来ていたのか分からなかった。事実,鍾乳洞の所々に「鍾乳洞の説明を聞きたい方はこのボタンを押してください」というボタンがあって,何度か押してみたものの,最初から最後までひたすら酒蔵のシステムを説明する女性の声が流れていたのであった。(第2回につづく)

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