鎮西八郎為朝琉球渡り(為朝の子、琉球王となる)
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為朝の子、琉球王となる

為朝の子が琉球王となった話。
その後、沖縄には色々な王朝が現れ、最後に尚巴志が沖縄を統一するが、彼も為朝の子孫だった。

 琉球王朝によって編纂された最古の歴史書『中山世鑑』によると、琉球は、沖縄に天帝の子男女二神が天降りしてきて、女神が風ではらみ、3男2女を生み落としたことから始まります。このあたりは神話風です。これらの子供たちが、各階層に分化して沖縄人の始祖を形成することになります。長男が天孫氏で、国王のはじめとなり、二男が諸侯(按司といいます)のはじめとなり、三男が百姓のはじめとなりました。源為朝が流れてきた頃の琉球は、天孫氏が国王をやっていた頃みたいです。

 為朝が日本本土へ去った後、子の為敦(ためのり)は器量骨格ともに並外れた偉丈夫に育ち、15歳の頃には人々に望まれて浦添按司(浦添の領主)となりました。ちなみに「為敦」のことですが、後に「為」の字の草書を「尊」と読み違えられて、「尊敦」と誤称されてしまったそうです。琉球関係の本にも、通常は為敦ではなく、尊敦と書かれているので、ここからは尊敦(そんとん)で統一することにします。

 尊敦が22歳のとき、天孫氏の家臣利勇が天孫氏を滅ぼし、自ら王位につきました。尊敦は兵を起こして首里城を攻め、利勇を滅ぼします。その後、各地の按司たちは尊敦を王に推戴しました。尊敦はこれを辞退しますが3度推されてついに王位につき、舜天と号しました。

 舜天の王統は、その実在を実証しうる最初の王統だそうで、3代73年続いて絶えました。その後、英祖・察度の各王統が交代してあらわれ、察度王統を滅ぼした尚巴志が、尚氏王朝を開きました。また、尚氏も、もとは源為朝の血をひいており、名前の頭に「朝」という字をつけるのは、為朝から一字をもらったからだといいます。

 尚巴志の琉球統一から200年後、琉球では王朝の正当な歴史書『中山世鑑』が編纂され、源為朝が琉球にやって来たことも、琉球王朝の歴史に事実として記録されました。

ちょっと困った話*

 うわ〜、疲れるなぁ〜。あっちこっちの本をつまみ食いしながら得た私の知識だけでは、沖縄の王統はなんだかよく分かりませんでした。上に書いたように、舜天−英祖−察度と続く各王朝の後に尚王朝ができたという話がある一方で、舜天の王朝が入る余地のなさそうな琉球歴史もあります。

 それによると、長い石器時代が終り、10から12世紀の間に始まった定住農耕生活(グスク時代)により力をつけた按司(日本の大名とか豪族みたいなものですね)たちが、勢力拡張争いをはじめ(琉球版戦国時代ですな)たのが13世紀。14世紀にはいると按司たちが相互に安全保障のための同盟関係を結びながら、やがて3つのグループができあがりました。すなわち、山北・中山・山南の三山時代です。この中山の王が察度です。三山は、それまでの相互同盟が進化してグループのようにまとまったにすぎないものですから、3つの王国とよべるほど強固な団結があったわけではなく、内部でも熾烈な権力闘争がありました。山南グループにいた尚巴志が、中山王武寧(察度の王統)を滅ぼしたのも、権力闘争の一環だったのでしょう。尚巴志はやがて山北・山南も滅ぼして琉球を統一します。日本本土の歴史から、弥生時代(グスク時代)と戦国時代(グスク時代と三山時代)と徳川時代(尚王朝)だけを引っ張り出したみたいな印象をもちました・・・って、あれ?じゃぁ、舜天や英祖はどこにいるの?っていうのが気になるんです。これでいくと、舜天も英祖も、グスク時代から琉球版戦国時代にかけて存在した優秀な按司の話を誇張して書いただけということになりそうな気がするんですけど。

 本当にいたのかよ?オイ。という困惑が残りました。

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