鎮西八郎為朝琉球渡り(琉球王朝が源為朝を先祖に採用した理由1)
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琉球王朝が源為朝を先祖に採用した理由1

為朝伝説が偽造だとすると、たくさんいる源氏のなかでなぜ為朝を選んだのか。
為朝が流された伊豆大島と琉球が、意外に近かったというのがあるかもしれない。

 もしも為朝琉球渡りが、琉球王朝による偽造だとすると、なぜ、よりによって為朝だったのかという疑問が残ります。
 日本地図をちょっと見てみます。保元の乱に敗れた源為朝が流されたのは伊豆大島。沖縄からエライ離れてます。そんな離れたところの英雄をワザワザ担ぎ出したのはなぜなのでしょう。『中山世鑑』の編者、羽地朝秀がなぜ為朝を選んだか、私なりに2つばかり想像してみました。

@伊豆大島と琉球は地図で見るよりも近い感じなの
Aマジでなんかあった

@は前にも紹介した通り、海流の関係で伊豆・小笠原から沖縄へは、そんなに苦労せずに行けるのです。繰り返しになりますが、かつて三宅島で大噴火があったとき、たった24時間で大量の軽石が沖縄に流れ着いたそうです。また、明治時代の話ですが、南大東島を開拓したのは沖縄の人たちではなく八丈島の人々でした。八丈島は、太平洋交通の交差点だった形跡があります。例えば、八丈島の特産織物である黄八丈は、中国の南、雲南省の少数民族の織物にそっくりだといいます。八丈島の町長がそれに興味をもって、中国との交流を考えていたといいますから、結構似てたのでしょう。

 八丈島と琉球とは、実は近かったわけです。

 『中山世鑑』が編纂される50年ほど前に僧侶の袋中(たいちゅう)によって書かれた『琉球神道記』には、既に為朝琉球渡りが登場しています。ここからも、八丈島と琉球との間に交流があったことを想像させます。交流があったからこそ伊豆大島の為朝の話も、身近に聞くことができたのでしょう。また、この理屈で行くと、伊豆大島に流された源為朝は、一部で言うような乱暴者ではなく、伊豆・小笠原ではなかなかの人気者だった可能性が高いといえるでしょう。いかに必要があるといっても、ただの乱暴者を自分たちの王の先祖に祭り上げるのは、いやなことでしょうから。

 では、Aはどうでしょうか。

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