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海のすごさは、潮の流れにのりさえすれば、簡単な船でどこまでも行けることにあります。
日本の歴史と非農業民の関係を研究しておられる網野善彦さんと、考古学の研究者森浩一さんの対談集『この国のすがたを歴史に読む』のなかで、森さんが八丈島について次のようにおっしゃっています。(カッコ内は私が加えました)
『八丈島で倉輪遺跡が発掘されたときに、非常にみごとな縄文前期終わりごろの埋葬人骨が出た。海で魚釣りをしていた人が不幸にも流されて、一生をそこ(八丈島)で過ごした、というようなものではない。数種類を組み合わせたアクセサリーを持っているのです。その一つは日本海沿岸や長野県などで出ていた「の」の字形の垂飾に似たものでした。八丈島から出たものが遠隔地のものと似ている、むしろ関東平野には出ない、と思っていたら、遼東半島(中国です)の査海遺跡の組み合わせ関係と一緒らしいのです。−中略−そうすると八丈島は、見方を変えれば、島流しの島(流刑地)どころか、アジア全体の一つの拠点のようなところである。』
倉輪遺跡は縄文時代の話ですが、こんなに昔から人間は海上を行き来してたわけです。陸地から遠く離れた島のことを“絶海の孤島”なんて言ったりします。しかし、四方八方を海に囲まれているということは見方を変えると、船さえあれば四方八方からアクセス可能ということです。昔は、四方八方から外来文化が集まる島こそが文化の最先端地域だったのかもしれません。
為朝伝説も、八丈島から沖縄にやって来たいわば外来文化の一つ。ただし現在の沖縄には為朝伝説関連の遺跡は殆ど残っていません。必要なものは取り込み、不要なものは、さながら砂浜に書いた文字のように波間に消し去る。外来文化を巧みに操りきったそのありさまは、島人の、文化に対するしなやかさ、力強さを感じさせます。泉下の羽地朝秀も、王朝復活のために方便として為朝伝説を利用しましたが、安堵の思いで今の沖縄を見ていることでしょう。