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為朝は琉球南部の領主、大里按司の妹を妻として2人の子供をもうけました。その子に為朝は為敦(ためのり)と名づけました。
その後、ホームシックにかかった為朝は、妻子を伴って日本本土へ船出します。しかし、船が港を出たとたんに嵐が起こりました。いったん港に戻って別の日に再び出港しましたが、やはり嵐に遭ってしまいます。船の船頭は「女性を船に乗せたために、竜宮の神様がお怒りなのです」と為朝に進言しました。やむなく為朝は妻子を港に残して1人本土へ出港しました。残された妻は港の近くに庵を結び、子供の為敦といっしょに夫の帰りを待ちました。しかし、為朝はついに帰ってきませんでした。妻子が為朝の帰りを待ちわびて暮らしたので、以来その地を「待港」と人々は呼んだそうです。現在の「牧港」の名前の由来です。
琉球を発した為朝はその後どうなったのか。為朝伝説関連の本を読んでみましたが、はっきり言って、よく分かりません。為朝が本土に向かって出港した後、主役は子供の為敦に移っていったからです。それに、その後の現実の日本史には、為朝の名も、為朝もどきの名も、全く出てこないから、伝説の作りようが無かったのかもしれません。為朝は子供を作るためだけに沖縄に来たみたいで、ちょっとかわいそうな感じもします。いっそのこと、義経みたいに台湾や中国のような海外へ逃がしてやれば、為朝伝説も発展させられたのでしょうが。
為朝のその後らしい話を、インターネットでみつけました。岡山県井原市門田町に、石造美術の市指定文化財として、為朝の墓と伝えられるものが残されているようです。
この墓は、土塀をめぐらせた墓域内に須弥壇状の一段高い石垣をもうけ、その上に9基の五輪塔が立てられている。そのなかでも、為朝の墓と伝えられているものは、右端の最大のもので、高さ1.35m、石質は豊島石である。時代はその形状から鎌倉時代と思われる。(中略)地元では、伊豆大島より琉球にわたり、その後金剛福寺の僧をたよって当地で亡くなったと伝えられている。
ちなみに、琉球王朝の正史『中山世鑑』では、私が紹介した話の流れとは異なる為朝伝説を記載しています。『中山世鑑』によると、為朝が琉球に流れ着いたのは、工藤茂光率いる為朝討伐軍が伊豆大島を攻める前のことだそうです。為朝が伊豆諸島を制圧している途中、海上で遭難して琉球まで流され、為敦を大里按司の妹との間にもうけた後、再び伊豆諸島へ帰っていったことになっています。
源為朝がどうなったかは分かりませんが、彼が出港した後、息子の為敦は琉球の伝説に大きな足跡を残すことになりました。