![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
|
TOP | ザシキワラシ | 為朝琉球渡り | 義経=ジンギスカン | 津軽十三湖伝説 | |
琉球が為朝を選んだのは、マジでそれに似たことがあったのかもしれません。
沖縄最古の古歌集『おもろさうし』には、為朝が琉球に上陸した港といわれる運天港に、日本本土の鎧武者(為朝かどうかは分かりませんが)が上陸した様子を歌ったと推察されるうたがあります。
せりかくの のろの
あけしの のろの
あまぐれ おろちへ
よるい ぬらちへ
うむてん つけて
こみなと つけて
かつおだけ さがる
あまぐれ おろちへ
よるい ぬらちへ
やまとの いくさ
やしろの いくさ
私は『おもろさうし』のことは、つい最近知っただけなのでよく分かりませんが、運天港に上陸した鎧武者はずぶ濡れの将兵(しかも少人数)っぽい感じがしました。
彼らは、九州(’やしろ’ってどこでしょう?山城?)で戦して負けて逃げてきた連中なのか、それとも琉球へ攻めてきた連中なのか、それは分かりません。ただ、日本本土で勢力交代が激しくなると、敗軍の将兵が沖縄へ逃げてきたであろうことは、充分考えられることです。また、沖縄本島とまではいかなくても、薩南諸島くらいは九州の勢力が攻略したこともあり得る話です。鎌倉時代、源頼朝は平氏掃討のために鹿児島の南、鬼界ヶ島にまで兵をやったといいます。
父に勘当された源為朝が九州へやってきた後、彼は現地で妻を得ました。舅は阿多忠景という薩摩の豪族でした。九州を統一した為朝が、鬼界ヶ島に兵を進めたことも、あったかもしれません。『保元物語』の、為朝が鬼が島へ行った話も、実は鬼界ヶ島のことかもしれません。だとすると、為朝はそのとき本当に琉球まで足をのばしたのかもしれません。そうではない、為朝ではないとすると、為朝が都へ向かった後に『俺は為朝だぞ、コンニャロォ』てな具合で、いきがった鎧武者(彼の名を、仮に石野地蔵としましょう)が地元の按司をビビらせて、接待をしてもらったのかもしれません。石野地蔵って、結構やくざなやつかもしれません。
以上から、琉球へ日本本土の武士が時折やって来たという事実が、伊豆・小笠原の人気者である源為朝の話と結びついて、為朝渡来伝説のもとになったと考えることもできます。もっと考えると、琉球へ来た武士の中には按司の妹と夫婦になったものもいるのではないでしょうか。彼の子が有力按司として三山時代の一翼を担い、その記憶が、舜天誕生時の伝説につながったと、考えられないこともないこともないです。