鎮西八郎為朝琉球渡り(琉球王朝再生に為朝伝説を用いる)
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琉球王朝再生に為朝伝説を用いる

島津の支配を受け苦しむ琉球王朝は、為朝伝説を利用して、島津と琉球が同じ祖先を持っていると主張した話

 為朝の琉球渡りを琉球王朝の正史として扱った『中山世鑑』は、鹿児島の島津氏が琉球を侵攻した後の1650年、琉球王国摂政の羽地朝秀によって編纂したものです。
 信憑性の薄い為朝伝説を、彼はなぜ正しい歴史と認めたのでしょうか。
 この時期、琉球は薩摩藩の政治的支配下に置かれていました。編者の羽地朝秀は「ひそかに惟うにこの国、人生の初めは日本より渡りたる儀、疑ござなく候。然れば末瀬の今に天地、山川、五形、五倫、鳥獣、草木の名に至るまで皆通達せり。然りといえども、至尊の末の相違するは、遠国の上、久しく通隔絶えたる故なり」と、琉球の王族は、日本の天皇の末裔である清和源氏の出であると強調しています。

 為朝琉球渡り伝説への批判は、ここに集中しました。この伝説は、薩摩支配下にあった琉球と日本が祖先を同じくすること(日琉同祖論)を主張するために、羽地朝秀が行った政治工作であるというのが、正統派歴史学者の見解です。

 かつて、沖縄の歴史を研究し続けた、東恩納寛惇(ひがしおんな かんじゅん)氏は『中山世鑑』の為朝渡来説について研究しました。そして、前半は『保元物語』(源為朝を主役に、保元の乱を描いた鎌倉初期の軍記物語。ただし、江戸時代に流布していたのは室町時代中期以後の成立。為朝が鬼が島に渡ったという話が載っており、鬼が島とは沖縄諸島のどれかではないかとも言われています)から、後半は『討琉球詩序』(島津が琉球を攻めた際、島津軍の士気を高めるために書かれた)をよりどころにして書かれた物であると考えたそうです。『保元物語』は史実の記録とは異なるところがあるし、『討琉球詩序』は兵の士気を高めるために誇張して書かれたものですから、為朝伝説に関する限り、『中山世鑑』の信憑性は極めて薄いといえるでしょう。

 羽地朝秀が琉球の摂政に就任した時代、島津の支配下に置かれて傀儡政権下した琉球は、王朝の財政が破滅的状況にあり、人心も乱れていました。羽地朝秀は摂政にあった10年間に徹底的な財政合理化と制度改革を断行してめざましい成果をあげていましたが、同時に人心の安定と高揚をはかる必要も痛感していました。そのための要は、島津支配下の現実を前向きに受け止め、島津(ならびにヤマト)への同化を推進してしまうところにありました。島津の支配を正当化するために羽地朝秀が用いたのが、日琉同祖論です。

 琉球の王と薩摩の島津氏(これも清和源氏の末裔を称していました)は同じ先祖であるとすることで、薩摩支配を認めようとしたわけです。

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