ザシキワラシは実在の人物だった(ザシキワラシの生きた時代4)
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ザシキワラシは実在の人物だった(ザシキワラシの生きた時代4)

ザシキワラシの生きた時代4(ザシキワラシ、南部氏のもとに落ち延びる)
主人が戦死した後も、南部氏は南朝の中心として北朝方と戦いを続ける。そんな南部氏のもとにザシキワラシの一族がたどり着く。

 東北では、戦死した南部師行の跡を、弟の政長が継ぎました。北畠顕家死後の鎮守府将軍として北畠顕信も奥州に下向します(もっとも、北朝方の勢いが強く、多賀城には入れませんでした)。北畠顕家−南部師行ラインが終わり、北畠顕信−南部政長ラインが誕生しました。

 苦戦の続くさなか、東北地方における南朝の中心として北畠顕信が鎮守府将軍に就任しました。彼がやろうとしたことは、国府である多賀城の奪取です。奥州下向間もない1341年、顕信が石巻あたりから北進し、八戸の南部政長が南進して多賀城を挟撃しようとしました。ところが政長留守の本拠地根城を、北朝方の曾我氏が包囲してしまいます。政長は自ら槍を取って奮戦。これを撃退しましたが、顕信の挟撃作戦は失敗してしまいます。その後も何度か多賀城を狙いますが、結局多賀城を自らのものにすることはできませんでした。

 ちなみに、根城を包囲した曽我氏は津軽を拠点とする豪族で、南部氏と同様鎌倉時代に当地に派遣されました。当時の青森県の勢力分布は、大まかにいうと

 となっていました。工藤氏は南部氏と縁戚にあり、南部氏と同じく昔からの南朝方。安東氏は内部で南朝方北朝方の対立がありましたが、南部師行や政長の尽力によって一応南朝方でした。多賀城奪還とあわせて、曽我氏対策は政長の重点課題だったと思われます。

 南部師行が死んでから10年ほど経った1349年、跡を継いだ政長も死にます。亀麻呂君のお父さん藤原何某が戦死した四条畷の戦いが1349年ですから、亀麻呂君が金田一温泉の辺りに落ち延びてきたのは、おそらくこの頃と思われます。亀麻呂君は政長と対面したのでしょうか。もし会っていたとすると、生涯朝廷方の勇将として戦った彼の生き方は、亀麻呂君周辺の人々の思考回路に、なんらかの影響を残したに違いありません(て、かなり断定的に言っちゃったけど、いいのかな)。

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