ザシキワラシは実在の人物だった(ザシキワラシの生きた時代3)
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ザシキワラシは実在の人物だった(ザシキワラシの生きた時代3)

ザシキワラシの生きた時代3(ザシキワラシの父、南朝軍に参加し戦死する)
南朝の大将である後醍醐天皇の死後、苦戦が続く南朝。四条畷の戦いで、ザシキワラシの父も戦死してしまう。かくしてザシキワラシの一族は、南部氏のもとに疎開する。

 後醍醐天皇は、北畠顕家の死後、東北地方の南朝勢力を強化するために、顕家の弟顕信を鎮守府将軍として奥州に派遣しました。なかなかめげない天皇後醍醐でしたが、その後間もなく崩御してしまいます。随分長い前置きでした。座敷ワラシ様こと亀麻呂君が産まれたのは、おそらくこの頃と思われます。後醍醐天皇の後を、後村上天皇が即位しますが、この天皇は、まだ義良親王と呼ばれていた幼年の頃、北畠顕家の鎮守府将軍就任にともなって多賀城に下向し、奥州で育った天皇です。100%想像ですが、ひょっとすると亀麻呂君の父も義良親王の護衛として一緒に東北に下向していたのかもしれません。

 この頃の近畿地方の南朝勢力を支えたのは、北畠顕家の父北畠親房と、楠木正成の長男、楠木正行でした。正行は、紀州の隅田、堺の浦、天王寺、藤井寺等各地で足利氏の北朝軍を破っています。事態を重く見た北朝軍は、高師直を大将にして大軍を南朝殲滅のために派遣します。かくして1349年正月、楠木正行と南朝軍は、北朝軍と四条畷で激突します。この戦いで楠木正行は戦死しました。亀麻呂君の父、藤原何某も戦死したそうです。勝った北朝軍はそのまま、南朝の本拠地である吉野へ進軍、吉野を焼き払いました。この前後、亀麻呂君の一族は南部氏を頼って奥州に落ち延びます。

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