ザシキワラシは実在の人物だった(ザシキワラシの生きた時代2)
いちばん最初に開くページへ 国内サッカーに関するトップページへ 旅行や登山に関するトップページへ 伝説や歴史ミステリーに関するトップページへ 書籍紹介やリンク集。千葉県白井市の紹介
TOP |  ザシキワラシ |  為朝琉球渡り |  義経=ジンギスカン |  津軽十三湖伝説 |
@ザシキワラシで有名な温泉宿 >>  Aザシキワラシで幸運になった話 >>  Bザシキワラシの一生ダイジェスト >>  Cザシキワラシの生きた時代1 >>  Dザシキワラシの生きた時代2 >>  Eザシキワラシの生きた時代3 >>  Fザシキワラシの生きた時代4 >>  Gザシキワラシの生きた時代5 >>  H同時代を生きた人の逸話 >>

ザシキワラシは実在の人物だった(ザシキワラシの生きた時代2)

ザシキワラシの生きた時代2(南部氏、足利氏の北朝と戦い主人を失う)
南部氏が北朝の軍と激闘を繰り返し、遂には主人が戦死してしまった話。

 後醍醐天皇の政治が始まってまもなく、足利尊氏は鎌倉で後醍醐天皇に反旗をひるがえします。朝廷は、新田義貞を大将に足利討伐の軍を差し向けますが、箱根竹の下の合戦で敗れてしまいました。勢いにのる足利軍は兵を率いて京に上り、ここでも朝廷軍を破り、後醍醐天皇は、比叡山に逃れます。このとき北畠顕家は、東北の軍を率い、足利軍の後を追う形になって京へ向かっています。東北軍には、南部政長の子南部信政が参加し、師行は顕家のいない東北の守りを任されていました(吉川英治の私本太平記6巻に、師行の名前がチラリと登場しています)。足利軍が京で朝廷軍を破った直後、北畠顕家の東北軍は京都に到着し、楠木正成や新田義貞と協力して足利軍を大破。足利尊氏は再起を目指して九州に落ち延びました。

 尊氏が落ち延びて間もなく、自分が留守している間の奥州を心配した北畠顕家は、軍を率いて奥州に帰還しました。後醍醐天皇の側の人たちは、「これで足利尊氏もおしまいダネ、ホッホッホッ…(爆笑?)」というような感じだったのでしょうが、これは大間違いでした。北畠顕家軍が帰還して2ヵ月後の5月、足利軍は早くも反撃の態勢を整えて、京都へ進軍します。途中、湊川で新田義貞・楠木正成軍を破り、義貞敗走後も執拗に足利軍に食い下がった楠木正成は結局、自害してしまいます。形勢不利とみて、いったん尊氏と和睦した後醍醐天皇は、三種の神器(天皇の証拠みたいなものです)を持って素早く吉野へ逃れ、吉野朝廷を開きました。南北朝時代の始まりです。

 こんなとき奥州の北畠顕家は、再び東北軍を率いて、足利軍討伐戦を開始しました。南部師行も、この軍に参加しています。顕家率いる東北軍は再び東海道の各所で足利軍を破り、伊勢から奈良に入ります。奈良から河内に転戦し、連勝する北畠軍でしたが、東北から休まず戦いを続けてきた兵には疲労がたまっていました。足利尊氏の家宰、高師直の大軍と阿倍野で激突した北畠軍は敗北し、顕家も、南部師行も戦死してしまいました。それとほぼ同じ頃、北陸の新田義貞も藤島の戦いで討ち死にしています。

前へ<<(ザシキワラシの生きた時代1)
>>次へ(ザシキワラシの生きた時代3)