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温泉宿のご主人によると、座敷ワラシ様ことご先祖の亀麻呂は、南北朝時代に生きた人物ということになります。
平家の落ち武者伝説のように、オイラは都の貴族の末裔だという話は珍しくありません。こういった貴主流離譚(京都に住んでいた高貴な感じの人が、流れ流れて田舎に暮らすみたいな話のことです。ただし、『田舎暮らしの本 9月号』とかを読んで田舎にあこがれて暮らしているわけではなく、都での政争に敗れたとか、悲しい理由を背負って田舎に隠れ住むというのが平均的ですね)は、歴史的にちょっと微妙ですね、と思える話もあります(例えば、東北の山里に平家の隠れ里があるというような)。
亀麻呂様伝説は、時代背景的におかしなところはないのか、そう思って東北の南北朝時代を調べてみました。
南北朝時代、金田一温泉の辺りは、南部氏が治めていました。南部氏は、平泉の中尊寺金色堂で有名な奥州藤原氏を源頼朝が滅ぼした際、戦功があったので恩賞として糠部(青森東部と岩手北部の県境辺りでしょう)を与えられたといいます。糠部は名馬の産地だったので、牧場経営の技術に優れていた南部氏をこの地に派遣したという話もあります。他にも、南部氏がやって来た理由については色々とりざたされていますが、ここでは直接関係無いし、だいいち面倒くさいので(!)省きます。
南北朝時代の南部氏は東北地方を中心にして、後醍醐天皇の南朝方として活躍していました。
南部氏は、後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒の兵を募ったとき、鎌倉幕府方と後醍醐天皇方に分かれました。幕府方には宗家にあたる三戸の南部氏が、天皇方には八戸の南部氏が、それぞれ参戦しました。後醍醐天皇方の新田義貞が関東で挙兵し、鎌倉を攻撃したとき、八戸の南部政長はこれに参加しています。三戸の南部氏は鎌倉幕府軍に加わり、南部茂時が戦死しました。(八戸南部氏は倒幕後三戸南部氏の当主信長を助け、彼らを滅亡の危機から救いました。)
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は、東北の政治拠点多賀城(仙台とかがある宮城県のあたりです)に、鎮守府将軍として公家の北畠顕家を派遣しました。北畠顕家は、天皇の側近、北畠親房の長男です。これを見ても天皇の東北への力の入れようがわかります。鎮守府将軍となった顕家は、東北の豪族を自分の代官として各地域を治めさせました。
この時、鎌倉幕府軍討伐に功績のあった南部政長の兄、南部師行も、代官として糠部郡と周辺を治め、今の八戸に城を築いています。この城は、奥州統治の根の城である、ということで、北畠顕家が根城と命名したそうです。