琉球キントリ

(4)400年王朝のお膝元へ
@命名「だびんちゅ」いよいよ上陸
「ニューいぜな」はすでに乗船を開始しているようで,長いスロープから中に乗り込む。渡名喜島に行ったときの「ニューなは」に比べると(「沖縄惰性旅V」中編参照),内装はかなり豪華でしかも3階構造。1階は駐車スペースとかになっているが,2階は前半分が両サイド3人,真ん中4人がけのシートで,後ろ半分が床の2等船席。そして外部のデッキに座椅子となっている。
2等船席は数人しかいなかった。上記渡名喜島行きとは天と地との差…というのは大げさかもしれないが,かなりゆったりしすぎるくらいに隙間があった。初めはそこに座って毛布とか枕とかを確実に手に入れようかと考えたが,所要時間は55分。他に選択肢がないならまだしも,前のほうのシートはほとんど誰もいない状態。1列まるごと独占できる余裕があった。これもまたシーズンを外しているからなのだろうか。あるいは宮里駐車場の夫婦(前回参照)が言っていたように,ここのところ欠航がほとんどないという状況から,まとまってドッと客が押し寄せることもないのだろう。観光客も,那覇から車で2時間,フェリーで1時間かけてまで離島に行く発想がないかもしれない。
しっかし,前方のシートは空調がまったく効いておらず,蒸し風呂状態である。窓が開いているところは風が適度に入っていいのだが,シートのところはまったく風が来ない。かといって,外に出るのも億劫だし……と思って,結局2階に行くことにした。2階はラウンジになっていて,まだ誰もいない。テレビがついていて,ちょうどリモコンがあった一角を独占。目の前にはテレビがあって,勝手に日テレの番組に変えてしまった。ただし,ここも蒸し風呂。やむを得ず,ここはTシャツ1枚になって,ついでに雨に濡れた傘を広げておく。1時間もすれば乾くかもしれないからだ。
それと,もう一つ。1階の前方シートの各列の窓側すべてにティッシュの箱が置かれてあったのだ。これは2階も同じで,至るところに置かれてある。スッカラカンのもあったりするが,ほぼどの箱にも十分な量が入っている。「はて,こんなにティッシュって必要なものか?」という疑問はこの際,あの2度と近寄りたくない佐敷城跡のトイレ(第1回参照)で使った分を取り戻すことにかき消されていた。ティッシュというヤツは何気に軽視していると,意外と後でしっぺ返しを食らうケースがある。誰も見ていないし,ケチくさいことではあるが,こーゆーところでの補充が後で役だったりするものではなかろうか。
15時半をちょっと過ぎて,ようやく出発と相成る。結局,2階には人が何度か通りかかったが,こちらがすっかりリラックスしているのを気遣ってくれたのか,誰も同じ空気をシェアすることは…厳密に言うと,男性が1人しばらく別のところに座ってはいたが,特段こちらを干渉するわけでもなく,たまーにデッキに出て潮風を浴びているような感じだった。外はそれこそ長袖シャツか,あるいは結局車に置いてこずに持ってきてしまったジャケットでもいいくらいなのだが,この中だけが異様に暑いのである。しまいには靴下まで脱いで,完全にダラーッとした格好になってしまった。
しまいには,途中でどうにも眠くなってきて,ソファに横になってしまった。外洋に出て2.5mの予報通りなのか少し揺れているが,この揺れがまた気持ちよかったりする。足を伸ばせるほど大きくないのは,ちょいと残念だが,テキトーに足を組んだりひざを立てたりしてしばし仮眠をとることにする。冷たいソファが蒸し暑い船内でなぜか気持ちがいい。
テレビは日テレからNHKあたりにでも替えたのか。自分で替えときながらすっかり覚えちゃいないが,夏川りみ嬢が出演している番組だったことはたしかだ。途中で八重山民謡のシーンがあって(彼女が歌うわけではなくて,地元のご老人が歌っていた),こちらは子守唄代わりに三線の音を聴きながらまどろむ。次に目覚めた時には陽が再び差しこんできていた。単ににわか雨のような感じだったのか。一事が万事,沖縄の天気はこんな調子だから,雨だからといって悲観的になってはいかんのだ。上がらない雨はない。ま,3日ずーっととか降られたらさすがにイヤだけど,3時間くらいだったらば自然の流れに身を委ねて待っていればいいのである。
目覚めてからは東京でもやっているバラエティ番組を観たり,気まぐれに外に出たりしてウダウダしていたら,女性のアナウンスで「まもなく本船は仲田(なかた)港に入港致します」とのこと。55分は意外に早くやってくるものであるし,フェリーはこのくらいの時間乗っているのが,ちょうどいいような気がする。そして“ファーン”という大きな汽笛が1回鳴る。うーん,いいね,この汽笛の音。離島行きのムードがようやく出てきたぜ。左手奥に岩場が連なる島影が見え出して,やがて手前に人造の無機質な岸壁が連なり出したら,いよいよ伊是名島は仲田港に入港である。

港に降り立つ。軽自動車が1台,女性が運転席に乗っかって停まっていたが,たしか電話でした予約では,迎えに来るなんてこと言っていなかったよな……それというのも,ニューいぜなからすでに見えていたのだが,ターミナルを抜けると,港湾区域の殺風景な感じのと端っこにポツンと,今回泊まるコンクリート2階建ての民宿「美島(みしま)」があるからだ。徒歩にして1分くらいか。こんな近くなのに,わざわざ送迎ということもあるまい。
その隣にある小屋はレンタカー屋「伊是名レンタカー」である。那覇―伊是名の飛行機のことで問い合わせたところである(第1回も参照)。ここで明日レンタカーを借りる予定だ。数台「わ」ナンバーの車が停まっている。問い合わせとは別に,後日改めて予約を入れておいたのだ。「建物が隣り合わせで事がすべて済む」というのは,都会モンにしてみると“何て効率的!”ってフレーズで片づけたくてしょうがないのだ。別に「ただそれだけのこと」なのにもかかわらず。
すでに何泊か泊まっていると思われる男女数人の脇を抜けて中に入る。そのまま土足で上がれるようで,左手奥がフロントとなる。ところで,上記で送迎の話をした理由というのは,フロントにあった呼び鈴で出てきたのが,どう見ても電話に出てきた愛想のいいお母さん風の女性ではなくて,高校…は伊是名島にはないから中学生だろう。明らかに未成年と思われる女の子が出てきたのだ。あるいは港で待っている……まさか。よしんばそうだったとしても,彼女がケータイでテキトーに連絡を取れば,それで済むだけのこと。中学生(ぐらい)なんだし,それくらいできるだろう。そう思っておく。
それに彼女だって,名前を名乗ったら何を慌てふためくこともなく帳簿を確認して……ん,2人? そんな文字が見えた。こちらは確実に電話で「大人1人ですが,空いていますか?」と問い合わせたはずだが,何か勘違いさせるようなことを言ったのだろうか。そんなつもりは毛頭ないのだが,とりあえず,半分ムダとは分かりつつも彼女に「あ,ボク1人ですので」というと,案の定分かったような分かっていないような反応ではあった。「ま,お母さん(と思われる女将さん)に伝えといてもらえれば…」なんて,これまた半分ムダと思われる期待を寄せつつ,カギをもらう。
203号室が今回泊まる部屋。2階に部屋が九つほどあって,うち一つはシングルルームであるはずだが,入った部屋はツインルームだった。いいのだろうかと思いつつも,とりあえず入り込んでしまおう。一応はもう一方のベッドはいじくらないつもりではいるが,ハンガーはクローゼットにかなりの本数入っているので,これはぜーたくに使わせていただこう。もっとも,ジャケットにシャツにジーンズと,服については3本あれば足りてしまうのではあるが。
2001年築ということもあって,内装は清潔である。加えて,どこの部屋にも飾ってあるようだが,伊是名島出身の名嘉睦稔氏の絵画がポツンと飾ってあった……そう,ポツンという言葉がピッタリなくらいに,実にシンプルである。それでも“素っ気無い”という言葉になるには,築年数が少なすぎる。まだまだ「シンプル・清潔」のほうがしっくり来る。ま,もちろんそのほうがいいに決まってはいるが。
窓から見える景色は,ごくごく平凡なものだった。平屋の家が1軒見えたである。後で備えつけの案内で確認したところ,夕飯は6〜9時からと書いてあった。この時間を利用して集落を見て回ろうかと思ったが,そこまでして観るものもないかもしれない。明日は8時ごろから13時ちょい前――フェリーが出るのが13時なので――までレンタカーを借りられるのだし,それで十分観られるだろう。ここは持ってきたLet's noteで駄文でも書きながら時間をつぶすか……。

時間は18時(一気に飛ぶ)。1階のフロントそばにある食堂は明かりがついているが,「ただいま準備中」という札が下がっている。ドアもカギがかかっているため開かない。ま,ブランチでカロリー過多になった身(第1回参照)としては,惰性で食事開始時刻に降りてきてしまったようなもので,正直それほど腹が空いていない。時間が経てば経つほど空腹になっていくだろうから,待つのは全然構わないところである。ここは再び部屋に戻ることにする。あるいは呼び出しがかかるかもしれない。
テレビでしばし「巨人―阪神」を観つつ,一方では呼び出しがかからないときのために,時々1階に足を運び,そのたびに「準備中」の札がかかっている。民宿もそう言えるが,個人でやっている旅館というのは,得てして主人のペースにこちらが合わせる場所である。たとえ「18時から」といっても,あくまで目安と考えるべきだろう。しかも,呼び出しがあるかも…とはいっても,こちらはさほど期待していない。多分,知らない間に開いていて,何となくに食べて何となく出ていく――そんなものだろう。それにいちいち不満や怒りを持つくらいならば,小さい宿には泊まらないことである。抜群のホスピタリティを誇るホテルに,いくらでも金をつぎ込むしかないのだ。
そして,結局期待しなかった通り,19時に再び勝手に行ったらば「準備はできています」という札が。食堂の戸もちゃんと開いた。一事が万事,こんなものである……奥にカウンター席があって,テーブルは2列で合計ざっと30人くらいは座れると思われる。1人分だけ置いてあるところに着席しようかと思ったら,「あ,そちらです」と2人分置いてあるところを指示された。
見れば中年の女性。多分,この人が女将さんであろう。ほーら,伝わっていない。だから,こちらは1人しかいなんだっつーの……別にそうやってぶっきらぼうに言ったわけではないが,「すいません,私1人なんです」というと,女将さんは何ともよく分からない表情で,もう一方のお盆を片づけた。「あー,何か今日急にキャンセルが入ってね……だから混乱してたのかも」だそうだが,それにしてはどーゆー混乱っぷりなんだろうかというツッコミは,もはやする気すらない。
泊まり客は男性2人に女性1人のグループ,そして中年以上の男女6人のグループ,そして私と,もう1組1人用が置かれているということは,誰かがいるということだろう。はて,この人数が多いのかどうかは分からないが,観光客っぽい姿をターミナルで見かけなかったわりには,そこそこの入りのような気がした。みな美味そうにビールで乾杯なんかしていたが,こちらはビールなんか入れたら内臓に悲鳴を挙げられそうなので,ミネラルウォーターにとどめておく。無論,すべてセルフサービスだ。
とはいえ,メシはかなり豪華だった。@マグロと貝の刺身Aサザエの塩焼きB島らっきょうの梅和えC天ぷら3種(川エビ,インゲン,スパムとアーサとにんじんのかき揚げ),Dもずく酢E白菜の漬物にごはん,そして味噌汁はネギと何か青菜に,こんにゃく・ニンジン・大根などが入ったFけんちん汁…と思ったら,脂が少し浮いていたので豚肉でも入っていたのかもしれない。そしてデザートとしてなのか,G葛餅と豆のぜんざいみたいなものもあった。
@Eは言うまでもなくメシのおかずに最適だし,Cはかき揚げが「へ〜,スパムってこういう使い方もあるんだ」ってアイデアに関心したし,味ももちろんよかった。加えてDは辛味と酸味が絶妙でこれまたメシが進む……結局,いかんいかんと思いつつもメシを2杯,ジャーから盛ってしまった。おかずをたいらげるのに力を使い果たして,Gは少し残してしまった。味がよく分からなかったのもあるが。
こういう料理の献立がまた,民宿の魅力だったりする。公氏でレストランで何度となく食べた創作料理とはまた違う,しかしながらそういった料理と双璧を成すと言っていい魅力がある。伊平屋島で「ホテルにしえ」に3日間泊まったとき(「沖縄はじっこ旅V」参照),毎日手作りのいろんなものが出てきて私を楽しませてくれたが,ここもこの1食だけとはいえ,バランスがいいというのか,家庭の味があるというのか,上手く言えないが実際の味以上のものを感じられる。胃袋をこうつかまれてしまっては,多少民宿側のペースに巻き込まれることぐらいしょうがないって気になってきてしまう。
一方,朝食では至って「国民宿舎レベル」というのか,定番メニューになってしまうのは1泊2食つきで5500円ならば仕方のないことか。それでも,ごはんジャーの脇にアンダンスー佃煮が置いてあったので,バイキングじゃないとはいえ,「取らなきゃ損だ」とばかりに思わず一掴み盛ってしまった。他はスクランブルエッグと納豆と海苔に漬物――何度となく食べてきた「和朝食」の定番である。さすがにメシは1杯にとどめておいた。
そういや,朝食の前に女将さんから「ボランティアで来られたのですか?」と聞かれて「何だろ?」と思った。「いえ,観光です」と返しておいたが,これは前回書いた伊是名島の環境ウィークで島の外からビーチ清掃などにボランティアの方々が来ていたようなのだ。多分,私以外の客にこのボランティアの方たちもいたのかもしれない。あるいはちょっと早めの夏を満喫しに,ビーチへ遊びに来たか。
彼らと話をしていないので分からないが,伊是名島の島民には申し訳ないが,数人で観光にわざわざやってくるような場所ではないと思う。やってくるとすれば,私のように「あそこもあそこも行ったから,あとはここも行かなきゃ」という“惰性旅人”ぐらいだろう。「惰性旅人」と書いて「だせいたびんちゅ」,さらに略して「だびんちゅ」である。いま,勝手に命名しておいた。

A水が逆に流れたから島を出た?
8時にチェックアウト。もしかして2人分取られるんじゃないかと不安になったが,1人分5500円だけしか取られずにホッ。部屋はキレイだし,メシは美味かったし,伊平屋・伊是名は“当たりの宿”に泊まれたと思う。また来る機会があるかどうかは分からないが,ここ「美島」については,また来てみたいと思う宿の一つになった。そのときはどうか人数を間違われないよう。
出てすぐ右手,徒歩1分。歩数にして20歩くらいだったか,伊是名レンタカー到着。「朝8時からやっている」と言っていたので,「じゃあ,そのころから借ります」とは言っといたが,はてこんな小さい小屋が8時ピッタリから……やってるよ。クーラーが効いててこざっぱりしていて,思いのほか内装はしっかりしていた。声をかけたのは,ヒゲ面でグラサンっぽいメガネをかけた恰幅のいい,年にして30代後半くらいの男性。どう考えても,いまはなきあの「ガチンコファイトクラブ」で,竹原慎二氏にガンつけまくるだけつけまくって,その割にはあっさりと落とされそうなチンピラっぽい雰囲気だった。しかし,顔を似合わず発声される声はなかなか優しい。「人は見た目によらない」はこの人には確実にあてはまる。
「じゃ,ここに書いてください」と言われて書かされたのは,名前と住所とケータイの番号。免許証の番号を書いていなかったのに気づいたのは,車を動かしてからである。しかるべき場所に書き終わると,「じゃ,そこにある車ですから」と言われて,これで終わり。「ノン・オペレーションチャージって何?」と,かえって聞き返されそうなくらいにあっさりしている。
あっさりさ,はたまた「これでいいのか?」的離島レンタカー店で行けば,その一つに加計呂麻島でのイケンマレンタカーがあったが(「奄美の旅(勝手に)アンコール」第4回参照),あそこだって免許証番号は書かされたぞ。ここ伊是名レンタカーはそれすら要求されなかった。いいのだろうか,いいんだろうと,勝手にまとめておく。今回あてがわれた車はダイハツの軽自動車「ハイジェットバン」。いかにもレンタカーらしいグレーの鈍い光沢。もっとも,車種はこれしかなかったような気がするが。
いざ出発。しかし,軽自動車ということか,はたまた私の気持ちがよほど緩いのか,スピードがあまり出てこない。…いや,出すのがバカらしいというべきか。だって,まず行くべき目的地が近すぎるのだから――テロテロと走らせること3分,少し入り組んだ路地を入る直前に左手に「潮平井(すんじゃがー)」という看板。左手には森のようなものがあって,バックには大きな公園が広がっていた。ここで間違いあるまい。「尚円王御庭(うなー)公園」が最初の目的地である。1470年から約400年続いたロング王朝である第2尚氏の祖・尚円(しょうえん,1415-76)の生誕地とされている場所である。敷地の脇の広くなったところに車を停めておくことにする。
森の脇,一段下がったところにある潮平井。敷地でいえば端っこにある。直径にして3mほどの半月型の井戸。尚円が生まれてすぐに産湯に使ったとされる。いくつかホームページを見ると「つかった」とひらがなであるが,おそらくは「浸かった」のではなくて「使った」のだろう。いくら沖縄でも井戸から湯が出てくるわけがない……ま,そんなことはどーでもいいとして,金網がしてあって中はのぞくことができない。修復されたものらしいが,どおりでボロボロ感がなかったはずである。
そこからちょっとした起伏のある芝地を上がる。芝はしっかりと整備されていて清潔感がある。遊歩道もちゃんとある。ダテに金はかけていない。この整備の元手を取り戻すために「環境協力税」が徴収されるわけである(前回参照)。そんな諸悪の根源…もとい「環境美化の象徴」のど真ん中に天を指差す銅像。フェリー「ニューいぜな」のマーク(前回参照)の素にもなった尚円の像である。
右手には杖のような棒を携え,空を見上げて左手で空を指差している。着物がツンツルテンなのはこの際どーでもいいとして,「前向きに生きていこう」とする姿を想起させる。伊是名島出身の芸術家・名嘉睦稔氏が1995年に作成したものだ。コンセプトは「島を愛しながらも新たな人生を求めて24歳で旅立つ決意」。見た感じは40代のおじさんっぽく見えるが,20代だったのか。
……って,これもまたどーでもいいとして,この「愛しながらも」というところには,実は本人が100%前向きで島を出たのではなかったことが表れていると思う。1415年,百姓の子どもとして生まれた尚円。この伊是名島にいた当時の彼は「松金(まちがに)」と呼ばれていた(「金丸」は島を出てからの名前である)。その才覚と真摯な仕事で,たちまち島の有力者・有名人になったわけであるが,この辺りのことも含め,伊是名島でのことは後述していくことにしようか。
潮平井の脇にある森の方向に歩を進める。遊歩道を歩くと車道まで出てしまったが,その道沿いのちょいとした敷地の中に茅葺きの背の低い建物があった。「諸見(もろみ,この一帯の地名)の神アシャギ」である。屋根を支える柱は石で出来ているらしく,中は5坪程度という。豊年祭など島の様々な祭事ごとに使われており,そばにはコンクリートの社務所があった。
さらにその脇には森の中心に向かって伸びる道が。入っていくと,そこが「みほそ所」と呼ばれる場所だ。「みほそ」とは「へそ」の意味。尚円…ではなくて松金というべきか。彼がここにあった屋敷で生まれて,そのへその緒が埋められているとされる。ホントだったとして“モノ”が出てきたら,それはそれで不気味な気もするが……一段上がったところが拝所になっていて,石の香炉の上になぜか1円玉2枚置かれてあった。周囲はフクギやデイゴなどの背の高い木々が鬱蒼と囲んでいた。

車に戻り,島を半時計回りに外周することにする。畑地だけの茫洋とした中を抜けていくこと5分,十字路が現われた。宮里駐車場(第2回参照)でもらっていた「いぜな島 体験・観光ガイドマップ」(以下「ガイドマップ」とする)によれば,この辺りは内花(うちはな)地区らしい。2軒ほど商店があったが,あとはポツポツと家が建っていたぐらいか。この十字路をとりあえず右折すると,内花港に着いた。
港の隅にある漁協らしき建物のところで,4人ほどの男性が談笑していたが,はてわざわざこの場所で談笑しているとは何だろう。今日は日曜日というのに,漁協――そもそも漁協かどうかも分からないが――が開いているわけでもない。そばに船が1艘停まっていたが,別に釣り舟って感じでもないし,……ま,人のことに首を突っ込む権利はないのでやめとく。
ここからは右手にはっきりと無人島の具志川(ぐしかわ)島,奥にはややぼんやりと野甫島と伊平屋島(「沖縄はじっこ旅V」参照)らしき島が見える。野甫島へはここから渡船が出ているが,1隻3人までは片道で5000円という。奄美は請島で1万円以上払って海上タクシーを頼んだ者としては,5000円など大して…なんて思ったりしてしまうところだが(「奄美の旅(勝手に)アンコール」第3回参照),伊是名島と伊平屋島は,船で行けば20分くらいで行けるというのに,直接結ぶ公共交通機関は今のところないのだ。頼りは個人で運営しているこの渡船だけである(「沖縄はじっこ旅V」第2回参照)。
たしか,運営しているのがお1人なので,競争相手がいなければ金は否が応にも高くなるものだ…って,別に渡船してくれる人を非難する権利など私にはないが,二つの島…というか村が合併すれば何か動きがあったかもしれない。そして,まさか渡船だけでメシを食っているわけじゃないだろうし,公共の船ができて渡船がなくなっても,ご本人は何とも思わなかったかもしれない(と勝手に思う)けど,残念ながら,合併そのものもご破算になってしまった。架橋の話が当時は出ていたようだが,それらしき光景も雰囲気もまったく見られない(「管理人のひとりごと」Part34参照)。最近では,伊平屋村との合同で「伊平屋空港協議会」なんてのができて活動しているようだが,これがもしかして,何らかの形で前進して最終的に空港ができ上がったりすれば,両島の間にあるいは具志川島・野甫島などを経由しつつ,両島同士の架橋が実現するのだろうか。
内花集落からは内陸に進路を取る。小高い山はガイドマップでいうところの「メンナー山」か。その近くで悠々と回っている風力発電の白い風車が,どこかのどかでいい雰囲気だ――次に目指すのは,松金にとってある意味“因縁の場所”となる「逆田(さーた)」と呼ばれる場所。周辺では草刈りの光景が至る所で見られた。これも「伊是名村環境ウィーク」の一環だったのであろう(前回参照)。わざわざ交通整理までしている大掛かりなものもあった。道中,御嶽らしきものに出くわしたが,ここも草が刈られてキレイにされていた。ま,「御嶽だから清潔にしとかないと」というのもあろうが,やっぱり環境整備に力を注いでいる島だから,目の届くところはキレイにしなきゃという意識が働いているのだろう。
主要な道路は白,農道のような道は緑で描かれているガイドマップだが,はて逆田に行くのに“白い道”はすぐ分かったが,“緑の道”が分からずに一度通り過ぎてしまったらしい。緑のほうは本数が細かく描かれていて,これはおそらく正確な数だ(ないしはそれに限りなく近い)と思われたが,どれがどれだかパズルみたいでこんがらがりそうだったが,林をバックにしたある一角にたまたま見かけた「逆田」と書かれていると思われる看板が目に入った。一応は有名な史跡なのだろうし,入口に看板がほしいところである。さもないと,見逃すこと間違いあるまい。
車道から100mほど中に入ったところにあったそこは,紛れもなく田んぼであった。稲作がされている数少ない島の一つではあるが,すぐそばにサトウキビ畑があるというのに「なぜこの一角だけ?」という謎があるっちゃある。水はけがよかったのだろうか。ま,それはいいとして,丘っぽく小高くになっているところの裾野あたりに,上から5段の緩やかな段々になっている田んぼがある。全体では奥行き30m×幅10m程度と,それほど大きい感じではなく,脇には狭い泥のままのあぜ道がついている。1段1段の高さは1mもないだろうと思う。それぞれ,田んぼでは脇のほうに小さい流れが下に向かって続いていた。水がほどほどに張られてあって,まだ田植えしたばかりの苗が青々と揺れている。ちゃんと稲作がされているようだ。田んぼの脇には彼を称える石碑が建立されてあった。
なお,さっき見えた看板には「逆田」ではなく「仲田」と書かれてあった。どうやら地域ごとに割り当てられているらしく,各田んぼには看板がついていた。一番上から「諸見→勢理客→伊是名→内花→仲田」という順番。金丸は諸見の出であるので,一番上の田んぼを割り当てられていたということになろうか。もっとも,この田んぼは復元されたものらしい。ホントのところはどうなっていたのかというのは,推測の域を出ないのではあろう。

この一番上の田んぼで金丸は,日頃からとても真面目に農作業をしていたという。そして,その真摯な仕事がたちまち島の女性たちの憧れの的になったという。人気があった背景にはもう一つ,「沖縄の人間にはない端正な顔立ちだった」という説,「いや,実は元々は内地の人間だった」「日本語ができた」「数学が抜群にできた」などなど……上述の名嘉氏が作成した像の顔は,俳優の唐沢寿明氏に似ている感じがするし,一方では王様になった彼の肖像画は,造作が真ん中によってボテッとした印象である。仮に年をとって太ったとしても,同一人物には思えないのだが……なので,私は顔がどうこうというよりも,やはり「真面目に農作業ができたこと」と「才覚」を採ることにしたい。
若くして結婚した松金は,両親や妻や弟(妻は後に王朝に絶大な影響力を与えるオギヤカ,弟は第2尚氏の2代目国王・尚宣威(しょうせんい,1430-77)となる。2人のその後も含めて,「沖縄“任務完了”への道」第2回も参照されたい)と幸せに過ごしていたが,父親を二十歳そこそこで亡くしてしまう。父が持っていた田んぼを家族を養うために金丸が継いだのは,ごくごく自然の成り行きだろう。どちらかといえば「苦労人」と言える人物であるかもしれない。それから間もなくして,その田んぼで名前の由来ともなった“運命の出来事”が起こるのだ。
ある年のことである。日照りが続いたために,島を干ばつが襲った。段々の下の田んぼはすっかり干上がってしまっていたが,上にあった松金の田んぼだけは水を満々たたえていた。「きっと松金が水を盗んでいるに違いない」――下の田んぼの持ち主たちは,ある晩のこと,下の田んぼに水が流れるようにと,こっそりと松金の田んぼの畔を切ったのだ。この背景には,松金が島の女性の憧れを一身に受けていたことに対する嫉妬心があったことは想像に難くないところだ。
翌朝,田んぼの様子を見に行った下の田んぼの持ち主たちが見たもの――それは,前日と変わらず水が満々と湛えられている松金の田んぼに対し,カラカラに干上がったままの自分たちの田んぼの姿だった。「さては水が逆に流れたのだろうか?」「いや,自分たちの企みに気づいた松金が夜中に水を汲み上げたに違いない」――こうして,松金の田んぼにはいつの頃からか「逆田」という名前がついたのである。心なしか見た感じでは,一番上の「諸見」の田んぼには水が余計に張っていて,植わった苗の数も多かったような気がする。
……話を戻そう。一度火がついたらば,もはや収拾がつかなくなったのか。村の男子どもの嫉妬心はさらにメラメラと燃え上がり,今度は松金に「水盗み」の罪をかぶせて殺害しようと計画されることになってしまったのである。そのことを知った松金は,家族とともに島を追われることになったのである。時に松金,24歳。御庭公園に凛として建っていた銅像の天を指差す姿が「100%前向きでなかった」背景は,こういうことであったという“自分勝手な分析”はほぼ間違いあるまい。
無論,ホントのことは誰も分からない。松金本人だって何が何だか分からなかったに違いない。「天は二物を与えず」とはいっても,松金については「四物」も「五物」もいろんなものが備わっていたのかもしれない。あるいは,この“噂”がたちまち広がりやすい小島に渦巻く嫉妬心にホトホトあきれ果て,島を出るキッカケを探していたのかもしれない。「渡りに船」というには不謹慎かもしれないが,そのタイミングを外さなかったことに,彼が一国の王に昇りつめた才覚の一端を垣間見ることもできよう(その後のことは,「沖縄・遺産をめぐる旅」第1回「沖縄“任務完了”への道」第2回を参照いただきたい)。
彼は島にとどまっていたら確実に殺されていたに違いない。そして,第1尚氏が築いた琉球王国(前回参照)は,THE ENDとなって再び“権力乱立”の世の中になっていたかもしれない。もちろん,彼の家族が生き延びて何かをしたかもしれないという可能性もあるし,彼の子孫が後々に「薩摩の侵略に遭って,島中が長らく過酷な納税に喘ぐ時代」を招いたということもなかったかもしれないと,一応は言えるのではあるが……ま,後者は松金のせいにしてはいけないだろう。いずれにしても,ここは松金だけの話のはずなのだから。
もちろん,これだけの人物だったら,地元・伊是名島を背負って立つ人間に確実になっていただろうことは容易に想像できる。彼だったら誰に推されなくても,自ら手を挙げたかもしれない。それにもかかわらず,この小さい島を追われることになった理由は「水が逆に流れたから」――たとえ伝説の域を出ないとしても,何とも才覚のある人間に似合う“仰天エピソード”ではないか。(第4回につづく)

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