琉球キントリ

(3)スキがありすぎ?
鳥居をくぐる前に,不浄な身(前回参照)のまま周囲にある聖域を観ていくことに。まずは駐車場から一段下がったところにある「佐敷ノロ殿内」を観る。奥2m×幅2.5mほどのコンクリートの社。中には榊一対と香炉やグラスが置かれてあった。火の神(ヒヌカン)を祭っているとされ,第1尚氏の祖・尚巴志(しょうはし,1372-1439)と兄弟関係にあった女性が“初代佐敷ノロ”となってここで神事を司ったとされ,以降は代々「喜友名(きゆな)家」という家柄が佐敷ノロとして就いたという。丘の突端に建っていて,佐敷の街並みや海を見下ろすことができるなかなかの眺望である。空は薄曇りであるが,天気はどうあれ,出すものを出して心なしか心地いい感じである。
さらには,もう一つ車を停めたスペースの脇には「内原の殿(うちばるぬとぅん)」という祠があった。上記のノロ殿内より一回り大きいコンクリート製のもので,中には3段のひな壇があって,いくつかの石が無造作に置かれている感じだった。女官がここで働いていた跡とされるが,そんな狭いところでどうやって働いていたのか想像がしにくいっちゃしにくい。
ここまでは城山に背を向けた格好で観るのだが,城の方向に目を転ずると,大きな“二の鳥居”らしきものの右手前に大きな石碑が建っている。確認したところ,慰霊塔だった。第2次世界大戦およびその前あたりで亡くなった地元の人たちを慰霊するためのもの。この場所に建てられたというのは,佐敷城跡(月代宮)が「佐敷町の象徴」であると判断したからなのか。その慰霊塔の裏には「カマド跡」。いまは石で三方を囲まれたシンプルな拝所になっているが,内原の殿はこちらに元はあったともされている。いずれにしても,大きさとしては働くにはあまりに狭い場所ではあるのだが。
そして,いよいよ二の鳥居をくぐって,コンクリートの階段を上がる。もう一つの別名“上(うぃ)グスク”というにふさわしい山城の様相を呈しているが,やっぱりここは「お宮さん」っぽい。ま,「つきしろ」とは信仰していた守護神の名前だそうだから,それはそれでいいのか……大きな拝殿をくぐると,その何分の一の大きさしかない神殿…というか祠がある。「佐敷世之主」「国之主」と刻まれた石が脇に置かれていたが,それが辛うじてここが居城地であったことを示すのか。
祠の周囲はおよそ100坪ほどだろうか。端っこには「親水(うえーかー)」と言う名の井戸と,石積みの御嶽「上グスク御嶽」が点在している。城独特の石垣とか石積みは発見されていないそうだが,この高さが,石垣なんかなくても何より要塞足り得ていたのであろう。もっとも,裏手には生活道路が伸びているので,およそ居城というイメージが湧かない感じだが。
佐敷城というと,前回も書いたように,第1尚氏の祖・尚巴志がいた場所として有名だが,実際に築城したのは彼の祖父に当たる鮫川大主(さめがわうふしゅ,「佐銘川」と書くこともある)という人物。伊平屋島はいまの我喜屋集落にいた屋蔵大主(やぐらうふしゅ,生没年不明)の長男として生まれた(いまでも「屋蔵墓」というのが海岸沿いにある→「沖縄はじっこ旅V」第5回参照)。後に伊是名島に移住して築城。これが明日訪れる予定の伊是名城(跡)なのである。ここに第1尚氏と第2尚氏とのまず最初の接点であるというのは,これまた歴史の不思議と言えやしないだろうか。
しかし,鮫川大主はある飢饉の年,城内にある食糧と生命を狙われたために,島を脱出することになる。その逃れた先がここ佐敷だったのだ。やがて,鮫川大主は大城按司の婿となって,一男一女の父となる。男子は尚思紹(しょうししょう,1354-1421)。思紹はさらに佐敷村の美里という集落の娘を見初めて結婚。2人の間に男子が生まれることになったのだが,これが巴志というわけである。
巴志は21歳で,父の後を継いで佐敷一帯の按司(有力豪族)として地元を支配することになった。周辺に馬天(ばてん)港・与那原(よなばる)港といった良港に恵まれ,日本(当時だと「室町幕府」あたりだろう)など交易することで富を蓄えていたことに加えて,その交易によって手に入れた鉄から農具を作って農民に分け与え,これによって人望を集めたのだという。無論,これは「そういうことなのではないか」という説を出ないが,よくある「初代が築いた財産を2代目以降が食いつぶす」ことが,この巴志に限ってはなかったということは確かであろう。その一方では按司たる者,天下をとらんとする志があって当然。地力をつけていくと同時に,虎視眈々と「自分に風が吹く」のを待っていたのだろう。
当時は「北山・中山・南山」といういわゆる「三山時代」。メインは中山だったようだが,全島を統一するほどの状態ではなかったようである。巴志はまず,当時中山王として浦添城で権力を握っていた武寧(ぶねい,生没年不明)を滅ぼす。武寧はもっぱら政治に関心を示さずに遊び呆け,周辺の按司や農民の心はすっかり離れていたという。地力を蓄えていた巴志にしてみれば,つぶすことは時間の問題だったのだろう。巴志は中山王に父親である思紹を据えた。すなわち,これが第1尚氏王朝の礎となったのだ。このとき拠点は浦添から首里へ変わる。その首里に居城された城こそ,あの首里城である(「沖縄“任務完了”への道」第2回参照)。1406年のことだ(一部の説では,巴志の父である思紹を第1尚氏の初代としているところもある)。
こうして,巴志は天下統一に向けて本格的に動き出した。次は今帰仁城(「沖縄標準旅」第3回参照)に拠点を置いて,北山を強圧的に支配していた攀安知(はんあち,生没年不明)の制圧であった。「強圧,これ“不満分子”の温床作り」という感じで,安知の周辺で不満分子だった他の按司(豪族)は「巴志と手を組んだほうがトク」と思うようになり,巴志は彼らを巻き込むことに成功した。しかし,今帰仁城というと天然の丘陵地形を利用した堅固なる城。攻め滅ぼすにはちと困難を要することになる。
そこで,巴志は安知の腹心だった本部太原(もとぶてーはら,生没年不明)を,密使を送ることで自軍に抱き込むという手に出る。これが成功。何が太原を心変わりさせたのかは分からないが,それを知る由もない安知は,巴志の「城外に打って出て我々を撃ち落としてみせよ」という挑発に見事にひっかかった。城を出て中山軍を追いかける安知の後ろでは,あっという間に火の手が上がった今帰仁城の姿――安知は火を放った太原を斬った後で自害。こうして攻略に成功する。中山制圧から10年後,1416年のことだ(一部,1422年とする説もある)。この北山には,巴志の次男であり,後に第3代国王となる尚忠(しょうちゅう,1391-1444)を据える(「沖縄卒業旅」第2回も参照)。
最後は,南山を支配していた他魯毎(たるみい,生没年不明)の制圧。他魯毎は,物欲の強い人物であったとされる。南山には嘉手志川(かでしがー)とよばれる水量の豊富な井戸があった。今でも,糸満市にその水量豊富な井戸がある……「尚巴志が他魯毎の物欲の強さをどこで知ったか?」ということはこの際抜きにして,巴志は他魯毎に「この井戸と自分の持っている金の屏風を交換しないか?」と持ちかけた。すると,他魯毎は喜んでそれを承諾したという。この出来事が,嘉手志川を利用しまた神聖視していた農民たちの反感を買って支持を失って,こうして南山は巴志の手に落ちることになり,天下統一を果たすことになる――1421年のことだ(一部,1427年とする説もある)。
繰り返すように,いずれも伝承の域を出ないことではある。「巴志にとって都合のいい歴史の解釈」だとも言える。しかも,冷静に見てみると,面白いことに当時の権力者は放蕩者だの強圧的だのと,権力者としてあまりに分かりやすくかつ致命的な欠点を持っている。もちろん,権力者たるもの,「放蕩・強圧」はあるいは「豪快・強気」と表裏一体みたいなものだったのかもしれないが,スキがあまりにあり過ぎではなかろうか。
ま,巴志のような実直な人間が最後に報われたという点では,やっぱり「歴史のお勉強にも都合がよかった」というオチをつけて,この文章を締めることにしたい。ただし,哀しいかな。次世代以降の政権が短命なのは,やっぱりスキが出たのだろうか。7代で64年のうち思紹が16年,巴志が17年と,2代で半分以上。残りの5代は平均で6年あまりだから,対照的な在位年数である。尚円が後に無血クーデターで第2尚氏を名乗ることになる(「沖縄・遺産をめぐる旅」第1回参照)のは,ある意味流れとして当然だったのかもしれない。
佐敷城跡を出る。後で確認したところ,思紹らの墓である「佐敷ようどれ」とか,いろんな井戸とか見所がもっとあったのに,看板はさっきの佐敷城跡のところしかなかったし,うろ覚えでは場所が分からないからどうしようもない。結局城跡しか見ずに佐敷を後にすることになった。結局,すべてはあの屈辱的な出来事のせいで,台無しになったような感じだ。ま,繰り返すように自業自得ではあるのだが。

そんなこんなで,次に向かうことになったのは一気に北上した今帰仁村。別に攀安知のことが気になったというわけではないが(書きながら史実を調べている状態なので,事前になんて分かるわけがない),今帰仁城跡以外に見そびれているので,行ってみた次第である。時間も佐敷を出た時点でまだ12時台だったし,結局,西原インターから沖縄自動車道へ乗ることにしたのだが,インターの近くにあった「浦添ようどれ」をあるいは観てもよかったかもしれない。でも「所詮,復元した真新しい墓だろ?」みたいな感じで通りすぎてしまった。唯一寄った場所といえば,自動車道の伊芸サービスエリア。何の用事があったかといえば,“穢れた手”を洗いたかったからである。
さあ,穢れた手を洗って精神的にすっきりした……と思ったら,佐敷ではまずまずだった天気がしぐれてきた。ひとまず運天港に行く道を通りすぎて寄ったのは「仲原馬場」というところ。幅約30m,長さ約250mという長方形の馬場であるが,いまは私のも含めてたくさん車が停められる,何もないだだっ広いスペースってだけだ。両側には琉球松並木。その下は石積みで1段上がった感じになっているのだが,そんなでもかつては観客席だったというのだ。まるで地方の球場みたいである。こういう馬場は,戦前は地域の民俗行事や,草競馬などが盛んに行われ,地元の人たちの交流場であったそうだ。
その次に行ったのが,今帰仁城跡…の前にある「今帰仁村歴史文化センター」であった。外はポツポツと雨が降ってきており,いよいよ折り畳み傘を出さざるを得なくなった。今となっては何で行ったのだろうかと思い出そうにも思い出せないが,一つ言えるのは,「そのまま運天港に行ったらば,相当な待ち時間になるからどこかで時間をつぶしたかった」ということである。伊是名行きの船が出るのは15時半。でもって,この時点でもまだ13時半だったのだから……前回行ったとき,駐車場がどういう感じだったかはっきり覚えていないのだが(「沖縄標準旅」第3回参照),間違いなく,こんなきれいに整備されていなかったってくらいに,きっちりと整備されていた。その整備された駐車場に,地味にバック入庫で入れておく。結構車は入っている感じだった。
加えて,どうやら観光バスの客がいて,センター内は賑やかだった。それもそのはずで,今帰仁城跡とチケットが抱き合わせだったのだ。400円。新しくできた観光施設の中にあるチケット売場で買う。後で知ったのは,センターだけの見学だと150円だったらしいということ。雨も降っていることだし,ハナっから今帰仁城跡を観るつもりはなかったので,結局250円を損したままということになってしまった。
館内は名前の通り,今帰仁村の歴史や文化に関する展示があった。以上…あ,そういえば運天にある百按司墓(むむじゃなばか,「沖縄卒業旅」第2回参照)の内部にある木棺が復元されていたが,まるで賽銭箱みたいだったのと,当時の様子を示す絵が,木棺を中心にして周囲にサレコウベが散乱しているというものだったのは覚えている。
あとは運天港まで直行し,港には14時ちょい過ぎに到着してしまった。出港の1時間半も前である。今回はレンタカー会社の規程で島外に車を持ち出せないこともあり,また2004年年末に伊平屋島に行ったとき,フェリーに車を載せるのに苦労したりしたこともあって(「沖縄はじっこ旅」第2回参照),車は近くの駐車場に預けることにしようと考えていた。もちろん,有料である。無料の駐車場も港湾施設のそばにあるらしいが,屋根とかはないし盗難があったりとかいうし,伊平屋島行きの乗り場に行く途中にあった駐車場は,たしか屋根がついていてしっかりしたものだったと記憶する。
なので,今回伊是名島行きの駐車場が単なる空地で,ただ車を停めているだけだったのを見たとき,正直なところ「これじゃ,無料でも有料でも変わらないじゃないか」と思ったのだ。それでもまあ,誰かに預けている“安心料”を払うと思えばいいのかもしれない。単なる空地ではあるが一応は「宮里駐車場」と名乗っているその駐車場に車を入れることにする。50台ぐらいは停められる広さがあった。トタン屋根の小屋の中から中年夫婦らしい2人がこちらを見ているが,誰もいない中で探す羽目になって,しまいに客と主人が逆転しちゃってそれでも「ま,いいか」になる……のはごくありがちだとして,少なくとも声をかけたのにヘンに無視されちゃうよりは,何だか安心できていいかもしれない。
降りてそちらのほうに向かう。外は雨粒が大分見えるようになってきた。やれやれ,これでは傘が完全に手放せないのか……「すいません,車停めたいんですけど」というと,女性のほうは何だか“キョトン顔”をしていた。そう来られるとこちらのほうが困ってしまいそうだが,「ここ,有料ですけどいいですか?」と聞かれた。「でっかい看板が出ているんだからそのくらい分かるよ」というツッコミたいのを抑えて,「はい。大丈夫です」と答える。1日800円。先に払うのかと聞くと,「後払いでいいです」という。でもって,「明日の1便で帰っても2便で帰っても同じです」とのことだ。カギを預けると引換証をもらう。車のナンバーが書かれてあったが,さっき夫婦がこちらを見ていたのはナンバーをチェックするためのものだったのだ。旦那が外に出てナンバーを確認。奥さんがそれを引換証に書き込む。
掘っ立て小屋のようなところだが,奥さんのほうが気を遣ってくれて「ま,しばらく休んで行かれて…」と言って,冷蔵庫から250ml入りのカンのサンピン茶と,190ml入りのカンのブラックコーヒーを差し出してくれた。「サンピン茶は車内でずっと飲んできたし,カンのブラックコーヒーはあまり好きじゃないし,正直,どっちも…」とは思いつつも,サンピン茶をいただく。木の板を組み合わせただけのベンチで,しばし休憩。外は次第に雨が本格的になってきていて,いつかは行かなくちゃ行かんのは分かるのだが,ターミナルまでの徒歩がどうにもユーウツになってきてしまう。
旦那のほうは恥ずかしがりやなのか,何だかこっちの様子をうかがっている感じだったが,やがて「これでもどうぞ」とカゴに入ったお菓子を出してくれた。「MAGICFLAKES」とオリーブ色のパッケージに書かれたそれ,どっかで見たことがあると思ったらば,ひめゆりの塔に寄ったときに車を停めた駐車場で「正月だからあげる」と言われてもらった,ピーナツバターがはさまれたウエハース状のビスケットだった(「沖縄はじっこ旅V」第9回参照)。
こう言っちゃアレだが,あれって多分大量に生産されていて,単価なんておそらく100円ショップで袋で売られているようなものではないか。食感もパサついて味もドヨーンとしてるし。しかも,先ほどあやぐ食堂で“多量に摂取したカロリー”があって(前回参照),腹なんて空かないのであるが,どこか愛想で一欠片食べてみた……うーん,次の二口めに積極的に手が伸びない。それどころか,サンピン茶のほうだって,そんなに身体の中にスムーズに入っていかないのだ。
小屋の一角にある事務所からは,ウッチャンナンチャンのダンスの特番が流れている。多分,1カ月くらい前に東京ではやっていたものかもしれない。こちらからは壁が死角になって見えないが,女性は何やらそちらのテレビ画面があるほうをずーっと観ている。しばしの沈黙にシトシト雨の音。何となく着てしまったジャケットは邪魔にも思えるし,陽射しがない分,風対策にもなるのか。ビミョーにな位置づけにいる。このまま伊是名島まで持っていくべきか。
そんなときに,「兄さん,今日は雨で×△■□※@^.,…」と声をかけてきた。後段は何をおっしゃっているのかはっきり聞き取れなかったのであるが,「雨で大変だね」ということだったのだろう。「そうですね,こんなときに降られちゃって…」と返しておいた。「ま,行き帰りが無事帰ってこられれば今回はいいです……風がありますしね」なんてさらにつけ加えると,「このくらいだったら大丈夫でしょうね」と,夫婦アンサンブル。「(波が)4m超えると欠航するけど……3mくらいまでは大丈夫でしょう」
たしか,予報では2.5mだったと思う。理屈の上では大丈夫っちゃ大丈夫なのだろうが,こっち方面では,伊是名島の隣(といってもちょいと離れてはいるが)にある伊平屋島に行った翌日から丸2日間,足止めを食らったときのこともある(「沖縄はじっこ旅V」参照)。そのときの経緯を話すと笑っていたが,「ここのところは欠航ってのはめったにない」そうで,「あとは7月・8月ぐらいかな……台風が来ると欠航ってことぐらい」とのことだ。
欠航となると,ここに停めている人からすれば駐車料金がかさみそうであるが,「欠航のときには駐車料金は取らないです。せいぜい100円ぐらいもらうのかな」。なるほど,台風に対する“温情措置”はどこでもあるみたいだ。その代わり,欠航があったときはバタバタするらしい。「伊是名島から船が出なくても,伊平屋島から出ることがありますからね。そっち(伊平屋島)に向かってから来るというケースもありますよ」――たしか,上述の伊平屋島で閉じ込められたとき,橋でつながっている野甫島から渡船があって,そちらを利用しようとしていた人たちがいたのを思い出した(「沖縄はじっこ旅V」第3回参照)。その逆もまたあるわけだ。ほぼ同じルートを航行するはずだろうが,あっちが欠航でもこちらは運航なんてこともあるものなのだ。「さすがにどうしようもない」ときもあるだろうけど。

20分ほど休憩して,傘をさして外に出る。旦那が「これ持ってけ」と,カゴに入ったMAGICFLAKESを差し出した。こちらとしては,さっき食べた一口から先に進んでいない。そのまま置いていくつもりだったのだが,愛想でその袋だけ持っていくことにした(その後,申し訳ないが捨ててしまった)。旦那は「遠慮せずにもっと」と引き続きカゴを差し出したが,さすがに「いいです」と言っておいた。
左側にドックのようなものが見えたので,そちらのほうに行こうとすると,「こっちこっち」と夫婦アンサンブル。なるほど,左手は伊平屋島行きのターミナルで,右手に歩くこと3分ほどのどんづまりに,伊是名島行きのターミナルがあった。ステッカーのような色合いの尚円の絵が描かれたフェリー「ニューいぜな」が静かに停泊している。絵…という,元は銅像から来ているのだろうが,たしか伊是名村出身の画家・名嘉睦稔氏(なかぼくねん,1953‐)が作ったものではなかったか。
チケット売場は,真新しいけどどっかの会社の借り事務所みたいな感じであった。こざっぱりしすぎて,どうにも「これから離島に行くぞ」という気分にはなりにくい。伊平屋島側のターミナル(「沖縄はじっこ旅V」第2回参照)や,いまはもうないだろうが古宇利島側のターミナル(「沖縄卒業旅」第2回参照)のほうが幾分古ぼけているからか,どこか「これから行くぞ」という感じになれそうな感じが……という感覚は私だけだろうか。外から見ても誰もいず,閑散としているようだ。
中に入ってチケットを買う。壁に書かれてあったのは往復3350円という文字。1万3350円で釣りをもらおうとしたら,「3450円です」という。350円以上の小銭がなかったので,1万円を出して財布の中を重くしたところで,チケットをもらって「あ!」と思った。チケットにホッチキスで「環境協力税額100円」という紙がくっついていたのだ。「この税は伊是名村の環境の美化・保全に使います」
昨年4月25日,伊是名村では伊是名ビーチ,尚円王御庭公園など,島内に数多くの観光施設があって,これらの維持管理や環境の美化・保全に毎年多額の費用が必要となっているところから,1回の入村(=入島)について1人当たり100円を徴収する「環境協力税」が導入されることになった。後で村のホームページを確認したら導入1年を祝して(?),4月20〜25日を「伊是名村環境ウィーク」として,村内清掃だの海岸清掃だのが行われたようだ。島の外の人間にしてみれば,いわば「入島料を取られる」みたいなものだが,環境保全のための100円ならばとりあえず「いいアイデア」だとは思う。
しかし,これには思わぬ“スキ”がある。規程には「旅客船,飛行機等により伊是名村へ入域する者」とあり,課税免除のところには「高校生以下は非課税」「地方税法(省略)の障害者は非課税」とある。となると,伊是名村に住んでいる人間が用事で島の外に出ていって,また戻ってくるときにも100円はちゃんと取られるということになる。実際,そのようなケースでもちゃんと徴収されているようだが,自分たちの島や村の美化のためだからと,拒否されることはないらしい。
もっとも,これが都内だったら,確実に揉めそうである。都内の人間はちょっとした買い物でも,自分の住んでいる区を出ることがままある。それ以前に,通勤で出ることはもっとあるはずだ。伊是名村の理屈をあてはめれば,極端な話,サラリーマンは毎日「入区税」を支払わなければならなくなる。それなのに「環境保全のためですから」と言われたところで,「何てお役所的!」と確実にブチ切れられるだろう。それに比べれば,伊是名島の人間は早々島の外に出ることがないのかもしれないから,問題はあまりないということだろう。となれば,「制度にスキがありすぎ」と思ってしまったのは,とかく白黒つけたがる“都会モン”の哀しい習性といったところなのだろうか。(第3回につづく)

第1回へ
琉球キントリのトップへ 
ホームページのトップへ