沖縄・遺産をめぐる旅(全4回)

(1)プロローグ
那覇空港,10時55分着。羽田空港では,休みだからか長蛇の列が手荷物検査場にできていて,どうなるかと思ったが,結局10分遅れでの出発。そのままの遅れでの到着だが,毎回沖縄に行くときは1時間以上も何やかやで遅れていただけに,今回の10分遅れは十分合格圏内というか,むしろ奇跡に近いかもしれない。
さて,空港ロビーにて本日車を借りるトヨタレンタカー(以下「トヨタ」)の人間を探していると,ロビーの端っこにレンタカー業者が“まとめられて”いて,様々な会社の人間が到着客を待っている。その中でもトヨタの客は30〜40人ほどに膨れ上がっている。皆考えることは同じということだが,思いのほかの混雑ぶりだ。声をかけると,次に声をかけるまで待っていてほしいとのこと。待っている間にもどんどん,同じ飛行機だったのか,到着客がやってくる。
10分ほど待ったか,声をかけた人間だけ案内するとのこと。ここでお声がかからなければさらなる“待ち”になるが,最初6組呼ばれたうちの最後にひっかかり,ワゴンバスに乗ることに。17〜18人ほど乗れるワゴンはほぼ満席。事務所は空港から1kmほど離れたところ。そこまで順次ピストン輸送ということだ。
しかし,驚くのはまだ早かった。トヨタの事務所に入ると,某カラオケ店受付みたいに白を基調としたキレイで広いロビーには100人前後の人間がいたのだ。入口で名前を名乗ると,私の名前の読み方が分からなかったようで,しばらく私の書類を見失っていた。が,ほどなく地図と注意書きの紙を渡され,再び“待ち”となる。
扇の弧の形をしたカウンターを見ていると,テーブルに一斉に書類が並べられ,10組ほどが呼ばれると,まず書類にサインをさせられ,まとめて貸し出しの説明を受けることになる。その脇ではそれが終わって車を待っていた客が駐車場に次々と消えていく。もちろん,その間にもピストン輸送で運ばれてきた客が事務所に入ってくる。私は8時15分・羽田発のJALだったが,8時ちょうど羽田発,8時半関空発のいずれもANAが15分早く到着しており,その客がさばききれないうちに,我々が入ってきての大混雑。さらにネットで気軽に予約できる等もあれば,なおさらなのかもしれない。

10分ほどして,同姓異名の名前がカウンターから聞こえてくる。先ほどのことがあるので行ってみると,案の定私だった。正しい読み方を言うと,向こうは素直に謝った。私はネット予約だったが,申込の際にフリガナはきちっとついて送信されるはずで,名前間違いはあり得ないと思うのだが,まあ,バタバタしているのだろう。とにかく一連の説明を受けると,また“待ち”となる。
結局,車に案内されたのはそこから5分ほどして。十数台停まれる駐車場の奥,2列×2列で置かれている“ヴィッツ群”のうち,右列・奥にあるやつ。壁と別のヴィッツに挟まれている。色は,グレーと緑が混ざったような色。カーオーディオがMDなのはよかった。早速スタンバイしてエンジンをかける。
しかし,ここからも“待ち”となる。前に停まっている車がなかなか出てくれない…というかよく見ると,その車の前に事務所を出ようとしている車の列が,近くにある交差点の信号待ちのあおりで身動きできないのだ。まったくいつになったらここから“脱出”できるのか。
すると,これまた3分ほどして,ようやっと信号待ちの列に入り込んだ。ほとんどの車は左折のウインカーを出している。その先にあるのは国道331号線。向かうのは北部か南部か。私も何となくつられて左のウインカーを出す。
そして,ここでやーっと行き先の説明。あいかわらず前書きが長い。今回まず行きたい場所は,本島中部にある与勝(よかつ)半島。なかでも海中道路に行ってみることにしたい。方角的にはここから北東になるのだが,単純に考えれば左のウインカーと逆方向。那覇市内を西から東に縦断して北上する国道329号線に入るか,できれば沖縄自動車道で行きたいのだ。なので,素早くウインカーを右に変える。
ほどなくして車は事務所を出る段になり,左折して信号待ちにひっかからぬようにしたい輩をよそに,右折して悠々と走りを進めることとなった。ここで時間は11時35分。やれやれ,空路の“奇跡”はこれでほぼ完全に帳消しとなってしまった。人生こんなものなのか。あるいは6時台に羽田を出る飛行機に乗っていれば,もう少しスムーズに出られたのか。

車を一路東に進めると,那覇都市モノレールの高架橋と県道221号線に交差する。これを左折して国場(こくば)川にかかる那覇大橋を渡って右折,理想とする国道329号線入りだ。那覇市内はほぼ片道2車線。車がとても多いと兼ねてから話に聞いていたが,なるほど時間帯で渋滞こそないし,車線変更も容易にできたが,信号待ちではそれなりに車の列ができる。
10分ほどで上間(うえま)交差点。左折すると沖縄自動車道に入る。ターニングポイントである……とすごく大げさだが,先ほど「できれば沖縄自動車道で」と書いた。実は高速道路にはここ10年近く乗っていない。回数にして,教習所の仮免許で高速運転をしたのと,大学時代の家族旅行で運転した2回のみで,いずれも距離はわずかだ。
いくらここ最近レンタカーに乗るケースが増えていても,都市部は車が多いのでめったに乗らなかったし,ましてや高速道路なぞ目もくれなかった。しかし,今回は“先のこと”を考えると一般道では時間のロスが目に見えている。そして自分のことに戻れば,「鉄は熱いうちに打て」と言うではないか。「ドライブ熱」があるうちに高速道路にも慣れておかねばならない。
ということでここは左折し,5分ほどすると那覇インターから高速に入る。10年ぶりだが,動きに問題はなかった。そして何気に気にしていた「合流」だが,ここは起点になるのでなし。プレッシャーが少し楽になる――実に大げさな書き方だが,人気相撲力士・高見盛の何分の1かでも,あれに近い気合入れが私には必要なのだ。
しかし,一度乗ってしまえばこっちのもの。車は順調に北上をしていく。一般道でも空いていれば制限速度の20kmオーバーで行く主義の私だが,さすがに100km/h以上出したことはなかった。それでも前を遮るものはほとんどない。どんどんスピードを上げて100km/hで安定させる。常に追越車線。その追越車線で前に車がいようものならば,走行車線に入って抜いて再び追越車線に入る。10年のブランクなんざ,どこ吹く風。たまに登り坂でスピードが落ちるのは,非力な車の宿命なので仕方あるまい。

(2)勝手にアメリカナイズ
さあ,乗ったからには下りなくてはならない。前もって与勝半島に行ったことがある大学時代のサークルの同期にいろいろと聞いたところ,半島に一番近い沖縄北インターで下りたら迷ったという。こういうときに先人がいるのは有り難い。運転素人の私ゆえ,同じ目に遭う可能性はある。
ということで,私は一つ南の沖縄南インターで下りることにする。さる年末年始の沖縄旅行の初日,沖縄市にバスで行ったときのルート(「沖縄標準旅」第1回参照)の記憶があったのもある。これまた10年ぶりの料金所通過もほどなく完了。出口から直進,諸見里(もろみさと)地区を通ると国道330号線にぶつかる。北上なので左折である。
沖縄市内,国道330号線は片道2車線でゆったりしている。周囲に高い建物もほどよく並び,都市部の光景を演出している。この光景,どこかとダブるなと思ったが,名古屋市の郊外・東山公園辺りによく似ていると思う。東京行きの高速バスで東山公園は何度となく通っているが,あれを70%くらいに縮小したような感じだ。
このまま北上してもよいが,海好きとしては海岸沿いに車を走らせたい。ということで,年末年始の旅行で下車した胡屋(ごや)交差点にて右折。左折すると「アメリカの田舎町」と評した(同上参照)空港通り。一方,私が進むのは「くすの木通り」。その名の木なのかは分からないが,街路樹がほどよい日陰を提供してくれる。
少し進んでとある交差点で左折…というと,さも道を分かっているように思えるが,何のことはなく,走行車線と思ったら左折車線に入ってしまっていたのだ。道の狭い住宅街の間を抜けると,国道329号線に入った。持参した地図を見れば,右折すると海岸沿いに出られそうなので右折する。と同時に,時間が12時なので,ここいらでレストランを探したい。朝6時の朝食ゆえ,胃も少しキリキリしている。夜はそばと寿司を食べる予定なので,それ以外なら何でもいい。
すると,左に「ドライブインレストラン」という看板がかかったゲートがあり,そこに向かってちょうど車が1台入っていくのが見えた。探してもキリがなさそうだ。ここいらで手を打つことにしよう。

店の名前は「コザドライブインレストラン」。入ってすぐ5台ほど停められる駐車スペースがあり,私道をはさんでつきあたりに赤レンガの平屋で横長の店がある。店の前も駐車スペースとなっていて,車が7〜8台停まっている。
中に入ると,一昔前の地元密着系レストランという感じで,クラシックな造りの建物。見える範囲で,4人席が六つと6人席が一つ。6人席にはすでに人が座っていて,あとは4人席一つが埋まっている。すべて窓側に位置していて,そこからは海岸沿いの泡瀬(あわせ)地区を見下ろす格好なので,内陸からここいら辺りまで地形が高地になっているのだろう。街は,コザや胡屋に比べて新興地なのだろうか,新しいマンションがいくつも立ち並んでいる。遠くには海も見え,ところどころ護岸工事が行われている。
さてメニューだが,予想通り洋食がメインで,イセエビやステーキ類が多い。近くにある米軍基地の影響を何となく感じる。私はC定食(700円)を注文する。するとほどなく,味噌汁の色をしたカップスープとアイスコーヒーが出てくる。スープは,食べてみるとポタージュスープのような味だ。具がコーンとたまねぎだから,おそらくはポタージュスープなのだろう。
その後しばらく待っていると,自分の後ろに位置する6人席で,ひときわ特徴的な男性の声がする。何とものどかな沖縄弁の語り口で,その人を囲むように,運ばれてきたイセエビの定食が美味いだの,男性が三線を若いときからやっているだの,会話が展開していく。
その声,6月に観た沖縄を舞台にした映画『ホテル・ハイビスカス』(「参考文献一覧」「沖縄・8の字旅行」後編参照)で主人公・美恵子の父親役をやった照屋政雄(てるやまさお)氏にそっくりなのだ。照屋氏といってもピンとこないだろうが,琉球民謡のベテラン歌手だそうだ(私もよく知らない)。席が少し遠かったし,まさかジロジロ見るわけにもいかないし,パッとしか見られなかったが,それらしき人間は見当たらない。あるいは映画のイメージとは違うのかもしれないし,それ以前によく似た声の違う人ということなのだろう。いずれにしても,その声に少しビックリしてしまった。

その6人席にすべてメニューが運ばれ,もう一つの4人席(座っていたのは2人)にメニューが運ばれ,それからということもあって,20分ほど待ってようやくC定食が運ばれてくる。白い20cm×40cmほどのだ円の皿に,ハンバーグwith半熟目玉焼き,フライドポテト5〜6個,白身魚のフライをメインに,生野菜(トマト・キャベツ),マカロニ,丸く盛られたライスが乗っかっている。
こういうスタイルもまた,アメリカナイズされていると勝手に思ってしまう。ハンバーグには何か塊が入ったソースがかかっていて,何だろうと思ったら,パイナップルであった。あと,白身魚はタルタルソースをつけて食べるのだが,そのソースはカキの貝殻みたいな器に入っている。これが実に取りづらい。味はまずまず。700円で妥当だろう。
昼飯を済ませ,再び運転。坂を下ると,さっきのくすの木通りと交差する。ここで左折して,突き当たりの県道・沖縄環状線を一路北上というルートを取るべく進むと,通り沿いの右側に2階建ての「マックスパリュ」を発見。いま流行りの“イオン系”の店舗だ。ここの2階には100円ショップ・ダイソーがあることは,年末年始の旅行時に知っていた(「沖縄標準旅」第2回参照)。今夜は那覇で1泊する予定だが,いつものように下着類は現地調達のつもりだ。もちろん那覇市内にも店舗はあるが,時間がどうなるか分からない。車だから荷物になることもないので,ここに立ち寄ることにする。
駐車場は100台近く入れる広さ。隣にはケンタやドラッグストアもあり,人も時間帯のわりに入っている。こういう店舗ができると,往々にして中心街はジリ貧になる。「沖縄旅行記」第1回第2回に沖縄市の繁華街の様子を書いたが,それはもうひどかった。唯一「コリンザ」という商業施設のみ人が入っていたが,大きい店舗が小売店を食ってしまう好例(悪例?)だと思う。
さて,中は1階が食料品中心のスーパー。2階はTSUTAYAとダイソーが1:2くらいの割合でスペースを共有している。ダイソーの品揃えは豊富で,あっさりと「シャツ・パンツ・靴下・ハンカチ」4点セットが揃った。値段は税込420円。パンツは5枚入りのトラベル用なので,10月と11月の旅行時に使えそうだ。まったく便利なものである。
ちなみに,TSUTAYAも品揃えはまずまず。さすが地元だけあって,セルコーナーには沖縄音楽の棚が充実していた。レンタルも,今日レンタル開始の福山雅治のバラード集,ハルカリのアルバムは入っていた。ちらっと見だったので詳細は分からないが,“最低限のアイテム”は入っているものと思われた。

(3)与勝半島へ
@世界遺産・勝連城跡(かつれんじょうし)
沖縄市を後にし,車は沖縄環状線を北上する。海岸沿いの片道ゆったり2車線の道路。イケナイことだが,スピードの出しがいがある。隣の具志川市まで,周囲は護岸工事や埋め立てが行われており,どうやら工業団地があるみたいだ。コンクリートの無機質さが漂う以外は何もない。
いよいよ与勝半島である。付け根の川田交差点にて右折すると,道は一気に田舎道となる。周囲に緑が増えてきたあたり,目の前に一目見て城跡と分かる山の盛り上がりを見ることができる。やがて道はその山の左にカーブしていくと,「→勝連城跡」の看板。細いジャリ道が,その城跡に向かって登り坂となって続いている。
入っていくと,城跡の下にジャリだけの何もない駐車場。12〜13台は停められ,結構車が多い。2000年,ユネスコの世界遺産の「すぐれて普遍的価値を持つ建築物や遺跡など」に当たる「文化遺産」に指定された城(「グスク」と呼ぶ)の一つだ。
さて城跡。登っていく通路の左側は,2mほどの高さの石垣が上に向かって延々と続いていく。例えるなら,「上に伸びる万里の長城」のようであり,格好よく言うならば「天にそびえるオーロラ」のようでもあり,沖縄つながりなら「サキシマスオウの板根」のようでもある(「沖縄標準旅」第9回参照)。城跡の各階の周囲を囲う石垣につながっており,城全体で見ると,まさしくホントに「要塞」という感じだ。その様は圧巻で芸術的で西洋チックでもある。
だが,いざ上に登ろうとなると,ピーカンで真夏の空の下ではその高さはとんでもなくキツい。というのも,足元がまったく整備されていないからだ。ゴツゴツした石やら岩やらが剥き出しのままで,そこに都合よく足をひっかけたりしながら登ることになる。足元が弱い私には負担が大きい。でも,何たって「世界遺産」だから,階段を設けるなんぞできないのだろう。いや,それ以前にこの城が現実に機能していたときでも,簡単に人を上がらせないようにしていたのかもしれない。

それでもヒーヒー言いながら,三の曲輪(くるわ)というスペースに着く。簡単に言えば駐車場がある辺りを1階として,“4階分”あるうちの2階に当たる場所だ。ここで一休み,とめどなく出てくる汗を拭おうとポケットを探ると,ハンカチがない。多分,手に持っていたから,どこかで落としたのかもしれない。やれやれ,カバンを持っていたのが救いだが,やむなくティッシュで心もとなく汗を拭う。それと同時に,先にダイソーでハンカチを買っていたのがこんなところで役に立った。
気を取り直し,さらに石や岩がゴロゴロする通路を上がると,二の曲輪。ここにはウシヌジガマという城の守護神が奉られている。直径1mほどの洞穴で,何かでふさがれている。ちなみに,このスペースには舎殿があったようだ。
そして,頂上の一の曲輪。25m四方くらいの大きさで,ここから南にはさっき通ってきた沖縄港と青い海が見える。一方,北には同じく青い海,その間を伸びる道路と島々を見ることができる。道路は,目当ての海中道路であろう。両側に海が見えることで,ここが半島であるのを実感するが,さすがに東側の半島の先は,何か鉄塔みたいなものに遮られ見ることができない。でも,城が機能・発展していたころは,それこそ半島が360度見渡せたのではないかと勝手に想像してしまう。いまは,もはやそれは「兵どもの夢の跡」。近くでは家族連れが休んでいて,親父が草地の上に寝転がっている。のどかな土曜の午後なのだ。
一の曲輪の中央には,直径・深さ2mくらいの穴が掘られていて,その上を同じくらいの大きさの岩盤が覆っている。「玉ノミヴチ御嶽」というそうだ。何のためにこんなものを造ったのだろうか。まさか自然にできたものでもあるまい。

この勝連城主であった阿麻和利(あまわり)は,領民にとってはいい城主だったそうだ。しかし彼についても,歴史の複雑さ,見方の二面性が出てくる。「ついても」としたのは,「宮古島の旅アゲイン」後編で述べた,宮古の仲宗根豊見親・八重山のオヤケアカハチにおける“忠臣・逆臣”の関係がここにも出てくるからである。
当時15世紀前半から半ば,琉球王朝の創氏である尚巴志が亡くなった後,尚氏政権は国王在位期間が短くなり,不安定になっていた。そんな首里城をおびやかす存在になっていたのが,海外貿易で力をつけていた阿麻和利だ。一方で,尚巴志の琉球統一に忠臣として貢献した護佐丸(ごさまる)は,そんな不安定な首里を護ろうと,その中間の中城(なかぐすく)に居城していた。
その脅威さは,当時琉球国王だった尚泰久が自分の娘である百度踏揚(ももとふみあがり)と阿麻和利を政略結婚させるほどだったそうだ。ちなみに,尚泰久の妻が護佐丸の娘というから,護佐丸にとっては,尚泰久は娘ムコ,百度踏揚は孫。政敵の阿麻和利は孫のムコという親戚関係がここに成立する。何ともドラマティックでドロドロした関係だが,そこまでして地方にくすぶる“火種”を消したかったということだろう。
さて,ここからがすごい。阿麻和利は舅(尚泰久)に大舅(護佐丸)が謀反を起こさんと兵士を集めていると訴えた。すると,舅は娘ムコの阿麻和利を総大将にして大舅を倒すように命じた。こうして孫のムコに中城城を攻められ,無実の罪を着せられた護佐丸は最後,自害してしまうことになる。しかし,阿麻和利の野望もここまで。今度は自分の妻・百度踏揚の家来であった鬼大城(おにおおぐすく)にその策略を気づかれてしまい,最後は舅に殺されてしまうこととなった。時に1458年。そして,それと同時に勝連城の歴史は終わることになる。まったく,吉田栄作や山口智子とかが出ていたドラマ「もう誰も愛さない」のテーマソングであるビリー・ヒューズ『とどかぬ想い』が流れてほしいくらいのドロドロさである。

ここで“忠臣・逆臣”の話になれば,忠臣は護佐丸,逆臣は阿麻和利という見方ができる。護佐丸は身内に裏切られたという悲劇の人間であって,阿麻和利は身内を裏切った悪党になる。
しかし,考えてみれば阿麻和利だって,したくもない結婚をさせられたわけだから,ある意味被害者である。当時は中央=(このときは)尚泰久政権自体が不安定だったのだから,力のあった娘ムコの阿麻和利が,面白くないとばかりに何かをしたって不思議ではなかった。言わば尚泰久が自分で蒔いた種なのである。そしてその種をついに自分で始末できなかったのか,1467年泰久の後を継いだ三男・尚徳の死で,尚氏は事実上の結末を迎える。ってことは,結局は終焉が伸びただけにすぎなかったということだ。
そして代わって王になったのが,伊是名(いせな)島出身の金丸(かなまる)。尚泰久とその三男・尚徳の“忠臣”だった彼は,尚徳とソリが合わずに身を潜めていたが,周囲に説得されて1469年,50代にして王に即位して尚円(しょうえん)と名乗り,ここに2代目・尚氏政権が誕生する。
尚円は,初代尚氏のたたりを恐れ,その供養のためにいまの那覇に崇元寺を建立。そして,自分たちの正当性を確立するため,「天子は天命によって天下を治めるが,不徳の者が出て国民に圧制を加えるならば,天は別の有徳者に天命を下し天子とする」という中国の易姓革命の思想を利用し,2代目尚氏の天命説を述べてその地位を確固たるものにしたという。そして,各城にいた豪族をみな首里に呼び寄せ,残された城には百姓が役人となって収まることとなった。ここに中央集権の強化が始まることになる。そしてその途中,護佐丸・阿麻和利の事件から約40年後,1500年の“忠臣”豊見親と“逆臣”アカハチの事件をはさんで,2代目・尚氏は1879年までの超ロング政権となる。

「たら・れば」の話になってしまうが,この尚円が阿麻和利だったら,護佐丸だったら,あるいは豊見親やアカハチが2代目・尚氏を倒して3代目・尚氏政権を名乗ったらどうなっただろうか。政略で血縁関係を作らされた阿麻和利や護佐丸。血縁関係とは無縁だが,当時の政権に忠実だった金丸や豊見親。血縁も忠実さからも無縁,本島から遥か遠くで暴れまくったアカハチ――皆が皆,純粋にヒーローになりたかったからこその登場なのだろうと思うが,やっぱり時の政権に耐え忍び,しかるべきときに周囲が説得してくれて無血革命の形で王になって,しかも先代を供養して寺まで建てる抜かりなさを持ち,自分のしたことで天誅が下ってもそれは仕方がないことと覚悟(?)した金丸=尚円の完全勝利と,ここは素直に認めるべきだと1人勝手に思うのである。(第2回につづく)

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