ヨロンパナウル王国の旅(全5回)

B兵どもが夢の跡〜中城城跡
中村家を見て,目の前の県道を南下すること10分弱,小高い丘が見えてくる。これが中城城跡だ。既出のとおり,護佐丸が勝連の阿麻和利を警戒して15世紀前半に居城したと言われ,勝連城などとともに,世界遺産に指定されている。
「沖縄・遺産をめぐる旅」第1回ではまた,護佐丸と阿麻和利と首里王府の初代・尚氏が血縁関係であることを書いた。彼らの間で起こった出来事についてはそれを参照いただきたいが,ここ中城では,護佐丸は完全に善人で,阿麻和利は敵。もらったパンフによれば,この地に伝わる演劇,その名も『護佐丸』という物語が1995年9月,52年ぶりに復活上演された。物語では護佐丸のあだ討ちは彼の三男がしたというストーリーになっている。そのストーリーに観客は涙して喝采を送ったそうだ。「所変われば」ということなのだろう。

時間は16時20分。受付で300円を払うと,「17時までなのでよろしくお願いします」と言われる。駐車場には車が数台置かれていて,空車のタクシーもいる。うまくすればタクって普天間に行けるか。ともあれ,まずは世界遺産の堪能だ。
ゆるいジャリの上り坂を上がると,広大な芝生の広場がある。野球ができそうなくらいの大きさであるが,馬場だったという。戦後は県民の憩いの場として,また城跡を保護する目的で,この広場には遊園地があったらしい。横幅が10mほどの5段の石階段があり,その上はさながら天然のステージだ。そこを通って,いきなり「裏門」である。正門はここから数百m向こうのようだが,いまからスタートに行くのは面倒だ。裏から表に出る格好で見ていく。
その裏門はこれまた石のアーチ門。高さ・奥行きとも3〜4mほどの入口は,太陽の昇る東に向かって開いている。不恰好さのない精緻な作りは,光に照らされると西洋的な雰囲気を醸し出す。かつて,ここ中城城跡には,あのペリーが“黒船事件”の折に来たそうだが,この門を彼は「エジプト式」と評したという。なるほど,エジプトのピラミッドの精緻さに重ねたということだろうか。
門を入ると「北の郭」……と呼ぶようだが,上にある「三の郭」への踊り場みたいなスペースだ。崖沿いに工事のシートがかけられていてよくは分からなかったが,井戸が一段下にある。かなり大きい井戸のようだ。パンフには「城郭内に水を確保できていたことが城の価値を高めている」と書かれているが,そう言えば阿麻和利のいた勝連城には井戸らしきものは見当たらなかった。あるいは,忠臣だった彼への琉球王朝からの人的・物的なバックアップがあったのかもしれない。
そして「三の郭」。高さ4〜5m程度の石垣が四方を覆っていて,広さは50m四方くらいか。ここでもかなりの広さである。内側からしか石垣は観られなかったが,石垣の先が万年筆のペン先のような曲線を描いているようだ。『ニライカナイ』には,このペン先のような石垣が海と空に伸びている写真が収められている(ただしどこの部分の石垣かは分からない)。
その石の積み方はパンフによれば「亀甲乱れ積み」という積み方。「亀甲積み」も「乱れ積み」もともに用法としてあり,前者は六角形の石をパズルのように形を合わせながら積んでいく方法。後者も基本は前者と同じだが,上になるに従っていろいろな形のものが積まれていくため,高さが乱れた感じのする積まれ方だ。その両方が組み合わさった積まれ方,ということだろう。コラムによれば,一番下には五角形の石が置かれないと成り立たないという。下は崖の下なので残念ながら見られないが,ここの石垣ははたしてどうなっているのだろうか。

さらに先に進むと「二の郭」だ。大きさは三の郭と同じほどだろうか。三の郭よりも5〜6mほど高い位置にあり,三の郭と接する石垣は10mほどになる。一方,メインの「一の郭」とは1〜2mほどの差しかない。周囲の石垣は再び3〜4mほど。こちらは三の郭とは違う「布積み」と呼ばれる方法。水平に四角い石を積んでいくやつで,モノは違うがプロック塀の積まれ方と同じだ。
その石塀の中央にはアーチ型の門。何だか,ヨーロッパっぽいというか,もっといい例えを出せば,「ドラクエ」系のロールプレイングゲームに出てくる要塞と言ったほうがいいか(どこが“いい例え”だ)。アーチ門をくぐるといよいよメインの「一の郭」になるわけだが,まるで「ワンステージクリア,パワー○○ポイントゲット」って感じだ。ちなみに,一の郭も石垣は布積みだそうだ。
そしてメインの「一の郭」。野球グランド1個が入りそうな広さ。この一の郭だけで,あの勝連城よりも大きいはずだ。だてに,中央に使えていたわけではないのだろう。その中の約半分くらいの敷地に正殿があったようだ。50cmほどそこは高くなっている。そこからまた1mほど高くなった石垣の際には,観月台(かんげつだい)という台がある。ここで護佐丸はしばしば宴を催したという。周囲にある木で公園っぽく見えるが,ここはれっきとした“権力の跡”なのだ。
周囲を囲む石垣へは観月台から上がることができる。ゴツゴツしているのでやや不安定な感はあるが,勢いで端のほうに行ってみると,海岸と住宅地が見える。住宅地は場所から言って,沖縄市の泡瀬(あわせ)あたりだろうか。そしてその向こうに与勝半島らしき陸地が続いている。空はすっかり晴れ上がった。既述したように,この城は勝連城の阿麻和利への,いわば“監視地点”として築かれたもの。あまりに遠くて何も見えないが,はたして護佐丸はどんな気持ちでこの海や陸を眺めていたのだろうか。
その奥に「南の郭」。ここは霊域である御嶽(うたき)が八つ集中するスペースだ。他の郭と比べて木々が生い茂り,光があまり当たらない。聖域らしい雰囲気がある。本島南部・知念村の沖にある最高峰の聖地・久高島(くだかじま)への遥拝所(うとうし),護佐丸がそれこそ“命を賭けて”守ろうとした首里への遥拝所がある。
最後に「ふりだし」というか「正門」に辿りつく。高さ3〜4mほどの布積みの石垣の間に通路があるのみ。アーチにも何にもなっていない。個人的には,裏門のほうがよっぽど正門らしい出で立ちだと思う。

C宜野湾市へ
時間は16時50分を過ぎていた。城跡を一通り見て元の場所に戻ったが,さっきのタクシーは残念ながらいなかった。ってことは,宜野湾市までは歩いて行かなくてはならない。2〜3kmということで普天間宮の見学はムリそうか。
とりあえず,いままで来た道を歩き,ちょうど中村家住宅まで戻る。すると幸運にも反対側車線を1台のタクシーが走ってきた。持ってきたガイドブックには,このあたりに流しのタクシーがいないと書かれていたが,その1台がいなければどうなっていただろうか。しかも空車。すかさず手を挙げると,その場でターンしてくれた。
何はともあれ,行き先は普天間宮だ。車はスッスッと進んでくれて,あっという間に高速と交差して国道330号線に入った。ここまでで約2km。車は7分ほどだが,歩きでは有に30分はかかろう。周囲は住宅地だが,地図を見てみるとキャンプ瑞慶覧(ずけらん)という米軍キャンプと道路1本で接している。「普天間宮の前で下ります? あるいは近くでいいですか?」と聞かれたので,普天間宮に用があることを伝えると,車は大きな二股の交差点でUターンし,わずかに脇道に入ったところにある鳥居の前で停まってくれた。690円。メーターが何回か更新したから,それなりに距離があったのだろう。
さて,普天間宮はガイドブックに載っているわりに,鳥居と拝殿だけを見ると,その辺の神社みたいな感じだ。もっとも,明治神宮ほどのスケールは期待していなかったけど,鹿島神宮程度のスケールはあろうと思っていたので,拍子抜けしてしまった。
前回書いたとおり,ここには洞窟がある。当然これを見なくてはならない。拝殿では小さいガキと両親が数組,御払いみたいなのを受けている。たまたま一組とすれちがったとき,ガキが千歳飴みたいな長細い袋を持っていた。12月なのに七五三だろうか。もともと沖縄には七五三の風習はなく,本土復帰後に普及したと聞いたことがある。それで時期がズレても平気だったりするのか。
拝殿脇の社務所で巫女さんに洞窟に入れるかを聞くと,隣の待合室で待つように言われる。そこにはやはり親子連れが数組。夕方17時過ぎというのに神社も大変である。いくら昼が暑すぎるので夕方から行動を起こすという沖縄県民といえど,この時期は,さすがに20℃を行くか行かないかだ。真相は分からないが,いっそ時差を1時間とか遅くしてやったほうがいいのではないか。

1分ほどして私の名前が呼ばれ,巫女さんが1人出てくる。ついてくるように言われて,後ろをついていくと,彼女は拝殿の端っこにあるドアを開ける。そこで一礼をすると,とっとと中へ入っていく。中は特段何もないスペースだが,私も思わず一礼してしまう。そういう作法なのだろう。
再びドアがあり,拝殿脇から再び外に出る形になる。建物と壁の狭いすき間を抜けて,「普天満権現」と書かれた竜宮城みたいなグレーで古ぼけた小さな鳥居をくぐって階段を下りると,パックリと大きく口を開けた洞窟に着く。目の前にはこれまた桐みたいな木で作ったきれいな鳥居と祭壇。トータルで見ていると,天然洞窟と言うよりはテレビの“セット”として作ったかのようだ。「こちらに上がることと,お賽銭をあげることは,ご遠慮ください。あと,見終わったら受付に声をおかけください」と彼女は一言残して消えていった。
さて,中はそれほど広くない。祭壇をはさんで左右に通路は分かれるが,左は巨大な鍾乳石が行く手を阻むかのようにダランと垂れ下がる。すき間があって入れなくもないが,よっぽどかがまないとダメだし,明かりが一切ないので,こっちは見学ルートではないのだろう。
一方の右方向は,通路が数十mある。明かりがついて幅が広く,アップダウンが少ないので歩きやすい。別に他の鍾乳洞のように,すごくめずらしい鍾乳石があるわけでもなく,看板で石の名前がついていることもない。でも,すぐそばを片道2車線の幹線道路が走っていて,車が多いにもかかわらず,静けさだけが際立つ。よく「街の喧騒から外れて」と言うが,まさにそれである。ホントに何の音もしない。自分の靴音のみだ。
来た道を戻って社務所で声をかける。別に何も言われずに,それで終了……となるが,ガイドブックを見ると拝観料が“志納”と書かれている。当然このままサヨナラしてもおとがめはないのだろうが,小心者ゆえこのままだと罰があたりそうで,何だかこわい――ということで,社務所に必ず付き物のお守り(500円)を一つ購入。少女コミックに出てくるような仙人のフィギュアがついた携帯ストラップだ。今朝か昨日だか分からないが,富良野で買った『北の国から』の“黒板五郎ストラップ”が壊れてしまって,“ミニ田中邦衛”はカバンの中に埋もれてしまっている。なのでちょうど都合はいい。まあ,内訳としては300円が拝観料,200円がお守り代といったところだ。実際の制作費は100円もかかっていないんだろうけど。

普天間宮を出る。夕方とあって車は多い。アメ車も1台見つけた。先ほどの国道の二股は右にカーブしているので,何となく右の広い通りに歩いていく。幹線道路沿いだが,店舗は左サイドのみ。右は既出のキャンプ瑞慶覧だ。灰色のフェンスの向こうには木々の緑が見える。左も,後で地図を見ると,すぐ後ろにあの米軍・普天間飛行場が滋賀県における琵琶湖みたいに市の中央にデーンと居座っている。
そして,その米軍キャンプの街であることを示すかのようなアンティークモールを,その通りで見つける。看板は当然英語。中には入っていかなかったが,入口外には黄色の錆びついたシェルのスタンド式給油機が飾られていた。あれも売り物なのだろうか。また,誰かあの給油機を買っていく人でもいるのだろうか。
その先には「サンエー」というスーパーマーケット。沖縄では「マックスパリュ」とともによく見る全国展開のメジャーな店だが,サンエーは純粋な沖縄産。もともとは宮古島の平良市から個人商店として始まったようだ。地図で見ると平良市の中心街から少し外れたところにあるので,そこがいわば“原点”だろう。
中はまあ普通の品揃えだが,ちょうど“ペイデイセール”なるものをやっていて,350mlのコーラが49円,レモンティーが66円,さんぴん茶が29円と書かれていた。破格の安さである。“ペイデイ”とはご存知,米軍の給料日のこと。無論,我々の給料日だって英訳すれば“ペイデイ”なのだろうが,やはりここでは米軍のそれを言うのだろう。
いつだったか,TBS(正確には毎日放送)で毎週火曜にやっている『世界バリバリ★バリュー』で,横田米軍基地が取り上げられていたが,基地内には米軍兵(あるいはその家族)のための店舗があって,結構な安値でいいものが手に入れられるという。なので,彼らが敷地の外にわざわざ出てこういうスーパーで買うことはないだろう。となれば,やっぱり「“米軍様のおかげ”で宜野湾市民が潤う」ということになるのだろうか。別にそれがどうこうというわけではないのだが。

さて,時間は17時40分。そろそろ那覇に戻らなくては。近くに「普天間入口」というバス停があり,33系統の那覇バスターミナル行きが17時43分とあるから,すぐに来そうだ。念のためと思って路線図を見ていると,70代くらいのおばちゃんが,
「どこ行くの?」
と声をかけてきた。「那覇ですけど」と返すと,
「それじゃ,33系統が久茂地(くもじ)経由だから,これで行け
ばいいや」
とのこと。さらに言葉は続いた。
「昔はこんなに分かりやすくなかったわ。時間は分からないし,
バスはスーッと適当に行っちゃうし」
結局,おばちゃんの言葉通り,17時50分に来たバスは31系統というバス。無論,那覇バスターミナルには行くのでこれに乗る。おばちゃんもこれに乗る。ただし,ゆいレールの「県庁前駅」のそばで,国際通りの南端にある久茂地は通らず,開南(かいなん)という国際通りの東側の地区を経由するバス。おばちゃんの言うことと意味は違えど,ややこしいことには変わりはないのだ。
また,途中のバス停をよく観察していると,客は必ず手を斜め下に上げてバスに乗ってくる。何気ないことだが,これも系統がいくつもあるがゆえの“暗黙の了解事項”なのだろう。そう言えば,私がバスに乗るときも,たしかおばちゃんはそうしていた。ということは,それを分からなかった私1人だけだったら,通過されちゃっていたってことだろうか。
バスは国道58号線に入ると,ひたすら南下する。前方の出入口脇の“特等席”から見る車窓は,18時ともなればヘッドライト・テールライト(中島みゆきではない)と,周りの店の明かりが入り混じって,なかなかキレイである。特に,国道58号線と合流する伊佐(いさ)交差点は,一段高くなったところから道路を見下ろす格好になるので,オススメである。

(7)Back to 国際通り〜エピローグ
那覇市内に入り,バスは国際通りの北端の安里(あさと)付近を通過する。後で地図で確認したら,久茂地経由はかなり国際通りから外れるようだったので,この系統のバスで正解だったかもしれない。安里バス停で下車。1カ月ぶりに今回もまた,国際通りに“戻ってきた”。
しかし,外は雨がポツポツ来だした。今回は北端から中心の牧志まで歩いて,美栄橋駅からゆいレールと思っていたが,最悪,一つ北の牧志駅からの乗車としよう。あの不便なレインコートをまた着て街中を歩くことを考えれば,空港に早く行くことはやむを得まい。
とりあえず歩き出す。早速,左右に飲食店やら土産物屋やらが並び出すが,ポツポツと来る雨に,店を選ぶ気持ちの余裕を奪われてしまった。で,結局一番最初に見つけた「なか家」という店に入る。他の店をいろいろ探してずぶ濡れになるのもイヤだからだ。
中は奥に縦長となっている。4人席が10席ほどとカウンターが5席と座敷がやはり5席ほどと,結構広い。ほぼ満席だが,カウンターが空いていたのでそこに座る。今回注文したのは「麩チャンプルー定食」(940円)。第3回でもちらっと記したが,あの食感にはまってしまったようだ。他にもいろいろとあるが,今回の旅の締めはこれにする。
目の前には,調味料類と一緒に三和ファイナンスの広告が入った大量のポケットティッシュ。柄を見ると,「ファインディング・ニモ」のキャラクターが描かれている。どんな理由なのかは謎だが,安く済ませようということなのか。
10分ほどで料理が出てきた。サイドメニューから見てみると,小鉢のもずく酢は,上にキュウリが乗っかっていて,少し塩気のあるもの。味噌汁は具が豊富で,わかめ・玉ねぎ・ニンジン・豚肉・あさつき・大根。海草の入ったアーサー汁を多く見てきただけに意外だったが,美味かった。そして刺身は,カジキマグロが4切れ。これにごはんがつく。
そして,メインディッシュの麩チャンプルー。30cmほどの皿に,もやし・キャベツ・にら・玉ねぎ・ニンジンの野菜炒めを卵でとじた中に,またも豚肉と見紛う大量の麩。塩・こしょうとテキトーに醤油が入っていそうだが,麩の味がなかなかいい。朝・昼と結構ボリュームのある食事だったが,そんなに量はないと思っていたら,結構なボリューム。しかも,卵を1日4個も食べてしまった。明日は少し控えなければならない。
周囲はあいも変わらず盛況で,客の話し声と従業員の会話に加えて右上からは琉球民謡,左からは『サザエさん』が聞こえてくる。何ともチャンプルーな空間である。
食べ終わって外に出ると,雨は上がっていた。食べすぎたので美栄橋まで歩いていくことにしたが,やっぱりというか食指をそそられる店は中心部に行くほど多い。ちょっと後悔する。でも,何度来てもいくらでも店があるし,食材もたくさんあるから,最後はこの場所に戻ってきてしまうのだ。

帰りの那覇空港。いろいろと私を翻弄してくれた105円のレインコートは,ここでゴミ箱行きとなった。(「ヨロンパナウル王国の旅」おわり)

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