石垣島と宮古島のあいだ

@まず,行くべきは
時間はもうすぐ14時。ナンダカンダであと1時間半しかない。ここいらで海岸に出ようと思う。目の前にあるのは少し勾配がある上り坂だが,とりあえず上がっていくと,左にノッポな展望台が見えた。周囲は「八重山遠見公園」という丘状の公園になっており,これまた自然の宝庫である感じだ。入口の少し広くなったスペースにチャリを停め,すっかり暑くなってきたのでGAPのセーターも脱いでおく。どうせ丘に上るのだから,汗をかくに決まっているのだ。
歩道は自然の階段状になっていて,周囲はさまざまな樹木が植えられている。ココヤシ・フクギ・ガジュマル・イヌマキ・トックリヤシに,トックリヤシモドキ……最後の二つはどう区別すべきか分からないが,そういう樹木があるってことだろう。これらが自然のトンネルを作っていて,少し薄暗い。所々樹木が倒れたままというのは,私以外に周囲に誰も来ていないことから,なかなか手入れがされていないのが現状というところだろうか。
そして,階段を上ること1分。頂上部分は芝生が整えられた広場になっていて,20mほどあると思われるノッポな展望台の入口もここにある。早速上がっていこうかと思ったが,何と柵がされておりカギもかかって立入禁止だった。もっとも,エレベーターとかいう類いの機械はついていなさそうで,多分ラセン階段を歩いて上がっていくのだろうと思われるが,それでもこの公園が一番島で高いところであろうし,頂上から島全体を俯瞰してみるのも悪くないはず。それだけに残念である。あらためて,誰も管理する人間がいないということだろう。
その代わりというにはあまりに低すぎるが,高さ数mほどの石積みの監視台っぽいのがあったので,そこを上がってみる。標高は32.2mだというが……うーん,どう考えても周囲の樹木のほうがノッポなために,その樹木と空以外は何にも見えやしない。ちなみに,名前の通りここから八重山の島々を監視し,何かあったら島の番所に報告するという施設だったようだ。近くには行き損なったが「宮古遠見台」というのがあり,こちらは宮古島の方向を監視していたようだ。どうせならば,両者を一緒に見られる場所を造るか,あるいは島の北部に宮古遠見台,南部に八重山遠見台を別々に造ったほうがよかったのでは,とツッコミたくなってしまうのは私だけだろうか。
階段を下りると,ものの見事にチャリは倒れていた。風が吹いてバランスを失ったか。虚しくセーターについた泥を払う私。まあ,気にしていてもしょうがないから,とりあえずチャリを走らせる。ここを頂上にして,海岸側はひたすら下り坂。そして,鬱蒼と茂っていた緑は全くなくなって,さとうきび畑の中を潮風を浴びながら下っていく。うーん,気持ちがいい。陽射しも絶妙に翳っているから,暑くもなく寒くもなく……これだからサイクリングはいいのだ。でもって,今回は戻るために上る必要もない。
そして,14時過ぎ,ようやく海岸沿いの1周道路に出た。向こうには海が見える。やっぱり,沖縄に来て間近に海を見ないと,どこか落ちつかないものだ。「塩川中筋線」という県道で,片道1車線の立派なアスファルトの道路だ。砂があちこちに散っているのは致し方ないだろう。この道を南に行くと,オランダ船が座礁した高田地区(前回参照)を通って,多良間空港や南端の「宮古市の森」という辺りまで行けるようだが,集落の東にある「塩川御嶽」を見たいと思っているので,プラス時間のことも考えれば,北の方向に行ったほうがよさそうだ。とりあえず,航路の玄関口である北端の前泊(まえどまり)港を目指すことにしようか。
とりあえず北に向かって漕ぎながら,テキトーに左に見える砂浜にも降りてみる。何せ,砂浜が数百mに渡ってひたすら続いているのだ。降りない手はないというものだ。でもって,人はまったくと言っていいほどいない。オフシーズンなのもあろう。空は少し翳り気味。遠くのリーフで波が激しく砕ける音がするが,近くではせせらぎのような音しかしない。このせせらぎの音こそ,沖縄のどこの砂浜でも聞こえる音である。下は昆布とかが打ち上がって少し汚らしいが,これもまた沖縄の海の姿……って,これはどこの海も共通だな。打ち上がったままってことは,あまり清掃が行き届いていないってことだろう。ちなみに,今回はヤドカリ君を探す余裕はナシ。うーん,ちょっと残念だ。あれはなかなか面白いし,結構時間もつぶせるのに(「沖縄はじっこ旅U」第8回第11回参照)。
引き続き北上していると,右側に大きな銅像と石碑が見える。前者が「ウエーンマ別離の像」。タレントの舞の海氏に似た子どもと,その母親の像だ。そして,後者が「多良間シュンカニ歌碑」――時代は再び薩摩藩に統治された17世紀のころのこと。その薩摩藩の役人が島に赴任してくると,島の女性があてがわれることがよくあったという。
この女性のことを,地元では“ウエーンマ”と呼んでいた。邦訳して「現地妻」と言えば,その位置付けが分かるだろう。ということは,当然役人には別に妻子がいたりするわけだが,まあいずれにせよ,役人の赴任期間が満了となれば,ウエーンマは再び1人になる運命にあるのだ。そして,一つ屋根の下で暮らせば子どもができることも当然ある。この子どもも当然,父親とは別れ別れになる。これらの別離の哀しみを歌ったのが「多良間シュンカニ」なのだ。石碑には歌詞が書かれていたが,意味は妻が前泊港に子どもを連れて見送りに行く内容とのこと。元々はいろんな歌詞がつけられていたそうだが,この見送るという内容で多良間村の文化協会が統一を図っている。
さらに,その隣には「イビ拝所」という御嶽が。防風林になっている森の,道路に接する側の約20m四方mほどが,キレイに刈られたように草地になっており,その一角に祠が。中には香炉があり,祠の周囲は低い石垣で囲われている。ここは前泊港から船が出るときに祈りをささげた場所だという。また,虫除けの行事が行われたとも案内板には書かれている。
このイビ拝所から,前泊港まではいくらも距離はない。護岸工事でもやっているのか,クレーンがひっきりなしに動いている。海に向かって埠頭は北に突き出ていて,西側は砂浜のまま。一方は東側はコンクリートで護岸されている。ここは多良間島の海の玄関口のはずで,はて肝心の(?)ターミナルは……あ,あんなに遠くにあった。その突き出ている埠頭から,さらに枝状に埠頭が分かれており,100m以上は有に離れたところに赤瓦っぽい2階建ての建物。多分,あれがターミナルだろう。結構距離があるので,ムリして行かないことにする。時間は14時20分。あと1時間ちょいしかないのだ。

前泊港からは一旦南に下ることにする。初めは広かった道は,間もなく狭い集落の道になる。そして右に「ちとせ旅館」「レンタカー富見城」という看板。前者はプレハブの旅館……あれ? 「美ら島物語」では“それなりの建物”だったはずだが,工事でもしているのか。後者は,実はレンタカーを借りようかと思っていた店だ。事前に多良間村のホームページで情報を入手していたのだが,どうにも怪しいと思って問い合わせもせずに海秀にしたわけだが,それらしき車は,やっぱりというかなかった。メインは商店のようだが,こちらはなかなか広い店舗みたいだった。
そのまま南下していくと「嶺間部落公民館」という木造の一軒屋。戸が開け放たれていて中が見えるが,いくつものトロフィーが飾られていた。アピールでもしているのか…って,そんなわけないか。多分風通しのために開け放っているのだろう。その公民館の前で集落の中に入ると「嶺間御嶽」。この付近を統治していた嶺間按司を奉っている。幅・高さ5mほどの赤瓦で木造の社があった。また,この嶺間按司は“神真似遊び”の名人だったという。男20人と女10人が,子・丑・寅の年の10月,13日連続で白装束を着て神の唄を歌ったと書いてあった。そういえば白装束……いま,彼らはいずこへ?
さあ,ここからは進路を東に取ることにする。再び家は少なくなって,畑が多くなった。そして,時折聞こえてくるのは「ムォー」という鳴き声。こちらは牛である。あちこちで放牧がされているのだ。それ以外はまったく静か。家がなければさすがに子どもの声は聞こえない。果てしなく続く一本道。島にいながらどこか牧歌的であり,北海道にでもいる気分になる。
やがて,そこだけ意図的に植えられたようなフクギの並木道が現れる。イラストマップで確認したところ,塩川御嶽に向かって延びているもののようだ。とりあえずは,その並木道に入っていく。木と木の間には,車1台分くらいの幅のジャリ道が延びているが,進行方向で左の木の隣にも,なぜか同じくらいの幅の舗装道路がある。おそらくは自動車や農耕車用に作られたのだろう。
歩きならばジャリ道を歩くかもしれないが,間違いなく今の私ならば,舗装道路を選択する。ジャリ道を残しているのは,おそらく風景保存のためだと思われるが,どこかムダなような気もしてくる。もちろん,並木道をジャリ道を舗装道路にすれば,道が1本だけで済み,よって余計な維持費用がかからないから,という意味であるが……うーん,いろんなホームページで見る並木道の写真を見ると,やっぱりジャリ道も残したほうが趣があったいいような気がしてきた。
そんな並木道が700m弱ほどで終わると,森が出現。ここが「塩川御嶽」である。入口の鳥居から赤瓦の社殿までは50mほどはある長さ。両サイドは背の高い木々が並び,参道っぽい演出をしている。社殿はごく普通に木造の建物。何でも“ハリマタマチャラ”という地元の百姓が,いまの御嶽がある辺りに霊石が二つ飛んできたのを目撃。霊石の動きが鎮まったのを見て,周囲に樹木をはりめぐらして御嶽を造ったそうだ。霊石があったようだが,見逃してしまった。
後はチャリをこのまま東進させて,島の東部を目指すことにする。のどかな畑と牛の風景。せっかくビニールひもだかでキレイに纏め上げたワラのボールを,カラスがゴミ袋を荒らすがごとく,無残に突き破ってワラを食べていたり,道路側でたむろっていた牛が,たまたま私が猛ダッシュで通りかかると,音にビビってか一斉に立ち上がって逃げたりと,ほのぼのした出来事(?)に出くわす。
やがて,1周道路に再び出た。そして,間もなく左にバカでかい製糖工場が現れる。建物らしい建物はこれと,先に見える牛のせり場の建物しかない。工場では車が数台あって音がしているので,おそらく操業しているのだろう。ちょうど車が1台,敷地内に入っていくのが見えた。とはいえ,さっき1周道路を走っていたときもそうだったが,これだけの立派な道なのに,ほとんど車とすれ違わない。塩川御嶽に行く並木道で,ノコノコとトラクターが走っているのとすれ違ったが,過去1時間で何台のどんな車種とすれ違ったか,きちっとメモを取ろうと思えば取れるくらいにしか走っていない。
そして,大きな交差点。左は護岸された埠頭が見える。普天間港である。さっきの前泊港と同様,ここもまた海の玄関口である。しかし,これまた前泊港と同様に店の類いはまったくない。玄関口は確実に空港に移りつつあるということだろう。その手前にもまた御嶽がある。そのまま「普天間御嶽」という名前で,鳥居に立派な看板がかかっている。ここは御嶽には珍しく,鉄筋コンクリートでできた社殿。1989年に改築されたとのこと。船守の神が奉られているそうだ。
さあ,ここで時間は15時。イラストマップで確認したら,どうやら丸いお盆型の島の120度分しか,周囲は走っていない。思ったより広かったようで,このまま1周はとてもムリである。せめて旧空港までは行きたいところだが,集落に入って海秀に素直に辿りつけるか不安だし,バスが例えば5分前に来てしまって,いなかったからそのまま空港に行っちゃったなんてこともあり得なくもない(前編参照)。ま,バスは大抵遅れて来る確率のほうが高かろうが,15時半という時間はできるだけ守っておかないと,あとあとマズそうだ。
とりあえずは,埠頭の方向に向かっていくと,旧空港の方向に道が直角に折れている。イラストマップでは道が途中で途切れているが,あるいはテキトーに道が1周道路の方向にあるかもしれない。ならば,そのまま空港まで一気に行きたいところだ……と,考えるより前にチャリはその方向に動き出す。途中,砂が散らかったままのところを通り抜けると,ああ無念。道は再び海の方向に折れるのみ。角にあった小屋はターミナルなのだろうか。陸側にも道はあったが,明らかにジャリ道。はたしてちゃんと1周道路に辿りつけるか不安である。時間はここで5分過ぎてしまった。ここで旧空港方向はあきらめる。ひたすら来た道を戻るしかない虚しさ。心なしか,帰りのチャリは散らかった砂にタイヤをより捕われている感じがした。

集落に向かう道を戻る道。周囲はあいかわらず何もない。猛ダッシュで漕ぎ続けたが,そんな中でマラソンランナーと,それに伴走する人間に出くわす。どうやら,この道の途中が折り返し地点のようだ。別に交通規制なんてものはされていないから,そのままランナーたちに気をつけながら走り続けることにするが,集落に近づくにつれて徐々に歩道でのギャラリーの姿が多くなる。ちらっと見ると,構成は母と子ども数人と,場合によってはプラス,オバアやオジイといった感じだ。走っているランナーはみな男性である。ということは,お父さんかあるいはお兄ちゃん・息子の応援であろうか。でも,観客側から見れば,私はちょっと邪魔な存在になってしまったか。
それにしても,ほとんどの家庭は子どもが3人はいる感じだ。中には4人いる家庭もある。さっき土原御嶽で出会った子どもたちは,2人兄弟と3人兄弟(前回参照)。Aコープ多良間店(前回参照)で,私の前にレジにいた女性の周囲には4人の子どもがいた。この島では子どもをホントよく見かける。もっとも,島には中学校までしかないから,ほとんどは小学生ばかり。中学生辺りもちらほらと見たが,大人よりもよっぽど小学校くらいの子どものほうが確実に見かけたと思う。
この多良間村について,興味深いデータが今年5月に発表された。“子ども”と聞いてピンと来た方もいるかもしれないが,それは厚生労働省から発表される,1人の女性が一生に産む平均の子どもの数「合計特殊出生率」である。これを全国の区市村別に見たところ,1998〜2002年の5年間平均で3.14人と,見事第1位になったのがこの多良間村だったのである。ちなみに,最低は東京都渋谷区の0.75人で,4倍余りの格差がある。全国区市町村平均は1.36人(2003年度の平均では,さらに下がって1.29人)。多良間村はまた,前回調査期間である1993〜97年からの上昇率でも,0.79ポイントでトップ。また,3人を超えたのも多良間村のみである。
なるほど,実際島に来てみれば,そのデータは見事に実証されていたのである。あえて,イヤな言い方をしてしまえば「他にやることがない」ってことかもしれないし,肯定的な言い方をすれば「周りも子どもが3人いるからウチも」「周囲にたくさん子どもがいるから安心」ということなのだろう。気候も温暖だし,気をつけるべきはハブくらい…と言っては失礼だろうが,子どもをつくるのに“障害”になるものがないってことに尽きるのではなかろうか。子育てもオジイ・オバアに頼ることだって可能だろうし,一番上の子どもが大きくなれば,何かとその子に頼ることもできるわけだから。
また,こんなデータもある。2003年時点での多良間小学校の全生徒数は96人,同中学校のそれは52人(ホームページで確認。ただし時点が少しズレる)。さらに,こちらは2001年のデータになってしまうが,幼稚園児の数が28人。すべて足し上げれば176人。村の人口が2003年現在で1441人だから,単純に幼稚園・小中学校の生徒数を全人口で割ると,12.2%となる。これには乳幼児は含まれないから,さらに率は上がると見ていい。これに対して,彼らのオジイ・オバアに該当するであろう65歳以上人口は,14.6%という。単純に全人口に掛けてしまえば,210人もしくは211人だ。
まさしく,離島に典型的な「子どもと年寄りの島」であると言えるが,気になることもある。それは,高校への進学率がほぼ100%であることだ。全人口の推移はここ数年横ばいのようであるから,高校進学などのために島から出ていったり,あるいは人が亡くなった分,外から入ってくる,あるいは島で生産される(?)分もあって均衡が取れていると言えよう。ちなみに,小学校から中学校になると生徒が約半数になるが,これは単純に学年が半分になることによると言っていいと思われる。
しかし,例えば中学校から高校に進学して一度島を離れる人間が,今後どれだけ島に戻ってきて,なおかつ子どもを産み落としてくれるのかとなると,それは分からない。はたして,この島の「合計特殊出生率ナンバーワン」の座は決して安泰ではあるまい。残念ながら全年代別の人口のデータがないのだが,いま子どもたちの親となっている30〜40代が,あるいはそのままオジイ・オバアになるまでこの島にいてくれるとも限らない。また,自分の親が亡くなったとき,その土地なり何なりを守っていけるのか。子どもの進学で金がかかるとなれば,何がしかからお金を捻出する必要もある。海秀を含めて建設会社を数軒見たが,需要があるかはビミョーだし,プラスさとうきび畑での農業を考えても,それほどこの島に雇用があるとも思えないし……ま,そんなんでも,この島は「なんくるないさ」で苦境を乗り越えてしまったりするのだろうから,部外者はこのヘンでコメントをやめることにしたい。
――話を戻そう。結局,海秀には集落から上手いこと迷わずに帰ることができた。時間は15時25分。ある意味,理想的な「5分前到着」だが,何とまあドアにはカーテンがかかって,カギもすべて閉まっている。脇の洗濯機があるトタン屋根の小屋のドアが開いていたのでそこから声をかけたり,裏側に回って声をかけてみたが返答はナシ。何たること。まあ,チャリを置いとけばそれでいいか。
多分,集落でやっているマラソンに駆り出されたのか。はたまた本人が走っているのか。集落の方向は,ランナーがちょうどゴールインしているタイミングなのか,女性の声でアナウンスが聞こえてくる。まあ,向こうにしてみれば,前もって金を取っているわけだし,チャリ1台で島の外に簡単に出られるわけではない。別に誰もいなくたって不都合はないのだろう。こっちは誰もいなくってかえって不安になってしまうのにもかかわらず。

さて,時間はナンダカンダで15時半になった。しかし,聞こえてくるのはアナウンスのみだ。道は自分から見て左右に走っており,左が集落,右が空港方面だ。車は……ワゴンとかワンボックスカーはちらほら見るが,それも自分の左側で別方向に曲がってしまう。まったく,いいようにオジイの言葉に翻弄された。こうなったら,旧多良間空港とかを見てきてもよかったのではないだろうか。ま,やっぱりというか,予定より遅刻してやってくるのだろう。
そして5分経ち,10分経ち,それでも一向に現れない。その間に海秀の隣にある民家から小学生がチャリでどこかに出かけていったのだが,見事に戻ってきてしまっていた。まあ,ここからどんなに時間がかかっても10分あれば空港に行ける。飛行機は16時半発だし,空港で何かしなくてはならないこともない。脱いでいたセーターを着たりして,不意に吹き抜けて気持ちがいい風を浴びたりしながらしばしバスを待つことにする。
そして,ケータイの時間が15時43分になったときだ。私の右,すなわち空港寄り30mくらい先のところにある家に隠れた路地から,紛れもなくバスが出てきた。やれやれ,結局は15分遅れかよ……そう思ったそのとき,何とバスはこちらに曲がらずに空港の方に右折して進んでいってしまったのだ。一瞬,コトが飲み込めなかったが,遅れたあげくに見事にすっぽかされてしまった。せっかくオジイが言っていた時間よりも5分前に来て律儀に待っていた約束は,こうしてあっさりと粉々に砕かれたのである。私もまた「バスにやられてしまった」わけだ。
バスは行きと同様に,テロテロと走っている。私はというと,何とか追いつくべく走って追いかけるが,いかんせんこちらはチャリを4時間近く漕いでいて,足は疲労が蓄積しているし,バスはテロテロといっても,時速20〜30kmは出ている。となれば,見る見るうちに距離は開いていき,数十m走ったところで完全にバスの姿は見えなくなってしまった……はて,弱ってしまった。周囲はさとうきび畑のみで何もない場所だ。ケータイは圏外だし,かといって,空港まで歩いていくには距離が多分3〜4kmはあるだろうから,仮に歩けても飛行機には確実に乗り遅れてしまう。
でも,こんなときに役に立ったのが事前情報。それは,どっかのホームページで見たのだが「村の人の軽トラックに拾ってもらった」というものだ。うーん,これがホントに価値のある,拠り所となる情報かと言われればビミョーだが――とにかく,早い話がいま私がしなければいけないのは,ヒッチハイクである。もちろん,生まれてこの方,そういう行為はやったことがない。とはいっても,背に腹は変えられない。後から振り返ってみたら,チャリを海秀で再び借りて手紙の一つも置いていけばよかったというのも思いついたが,海秀からは200mほど離れていたから,再び戻るのも面倒だっただろう。第一,海秀に人がいるのがそもそも筋なわけで,そうすれば事情を説明して車で送ってもらって……。
まあ,いいや。そのときのことに再び話を戻すことにしたい。これでまったく車が通らなかったら最悪であるが,そこまで神様は残酷ではなかったようだ。1分ほどして,空港側から軽トラックがこちらに向かってきた。機械の動く音がするが,どうやら荷台に乗せている農機具が動いているようだ。とはいえ,これを逃しても次が来るという保証はないのだ。道路に立ちはだかって手を大きく振り上げると,きちんと停まってくれた。これだけでも有り難いっちゃ有り難い。ひとまず事情を説明する。乗っているのは60代前半くらいの細面なおじさんだ。
「すいませーん,実はバスに3時半に来てもらうよ
うに約束してたんですけど,来たは来たんですが,
行かれてしまいまして,空港まで乗せていただくこ
とはできませんか?」
文章にすればこんな内容だが,口ベタなので実際はもっと内容が曖昧だったかもしれない。でも,内容は伝わったようだ。しかし,
「申し訳ないけど,後ろに(と言って,荷台を指差す)
機械動かしたまま乗せているから……集落で当た
ってくれない……?」
“文章にすればこんな内容だが,口ベタなので実際はもっと内容が曖昧だったかもしれない”と,数行前をコピー&ペーストしてしまうが,つっけんどんとかいうことは決してなく,恥ずかしそうな,はたまた申し訳なさそうな感じで断りを入れられた。そもそも停まってくれるだけで有り難いのだし,「あ…そうですか。分かりました。どうもすいませんでした」と,こちらもきちっとお礼(?)を述べることにする。
しかし,何であれ車がつかまえられなかったのは間違いないし,時間はもうすぐ15時50分になる。あまり悠長なことはやっていられない。少し集落に戻るように歩いていると,これまた軽トラックが,今度は空港方面に向かって走ってくる。さっきと同様,道路に立ちはだかって手を大きく振り上げると,再びきちんと停まってくれた。今度はさっきよりもちょっと上。70代くらいのメガネをかけたオジイだ。
「すいませーん,実はバスに3時半に来てもらうよ
うに約束してたんですけど,来たは来たんですが,
行かれてしまいまして,空港まで乗せていただくこ
とはできませんか?」
と,さっきと同様のことをコピー&ペースト…もとい事情説明をする。すると,何も言わずにオジイは助手席を指差した。見事,2台目にてOKである――なるほど,事前情報のコメントでは最後に「なんくるないさ」という言葉が出てきていたが,まさしく今がその瞬間である。たとえどこかがダメだとしても,別のどこかがフォローしてくれる。それがこの沖縄の風土だ。ふと,車内という“現実”に戻れば,中はいろんなものが散らかって,はっきり言って汚い。オジイも農作業からの帰りなのか,衣服のあちこちが汚れているが,そのココロだけはとてもキレイだったのである(って,ホントか?)。もちろん「ありがとうございます」と,ココロを込めてお礼したのは言うまでもない(って,ホントか?…ってツッコまないでほしい)。
中では一言二言会話をした。「今日はどうするんですか?」と聞かれたので,「これから4時半の飛行機で宮古島に行って,今日のうちに東京に帰ります」と言ったのは覚えている。それに対してオジイは少し驚いたように「ほぅ……」と言ったのではなかったか。いずれにせよ,たわいもない会話だったことだけは確かである。
空港には16時ちょい前に到着。玄関前に横付けすると,オジイはちょうど知り合いとばったり出くわしたようで,握手をすると同時に話が弾み出した。はたして,お金を少し置いていくべきか。かといって…と思いつつも,拉致が開かなさそうなのでとりあえず降りる素振りをすると,オジイはこちらに軽く手を挙げて合図してくれた。これ以上余計な言葉や素振りはお互いに不要といった感じだ。もう一度「ありがとうございました」とお礼を言って,軽トラックを後にする。

――ちなみに,あの“クソオジイ”のバスはといえば,ちゃんと空港に待機していて,ヤツは玄関脇で地元民らしき男性と何事もなかったかのように,明るくおしゃべりをしていた。もはや,私の存在は彼の“宇宙の片隅”にすらないであろう。空港に着くまでは,よほどどんな文句を言おうかと思っていたが,いざその場になると,どうにも怒りのコメントは出てこない。無事空港に着けたという安堵感がすべてに勝ってしまい,どーでもよくなってしまったのだ。それでも,せめてもの抵抗として,顔を一切合わせないことにする。あとは上記のように“クソオジイ”と書くくらいだ。どうせ玄関の外にいるんだろうから,外に一歩も出なければいいのである。仮に顔が合ってしまっても,かえってこちらが悪いことをしてしまったかのごとく,言葉の出しようがないというのもあったりする。
しばらくロビーで座っていたが,端っこにある土産屋に興味が湧いた。何が置いていたかは忘れてしまった。というのも,再びロビーに戻る途中にさっきの“クソオジイ”とばったり出くわしたからだ。一瞬,気まずい空気が……流れたのは私の中だけのようだ。無視をするのが精一杯。オジイはニコニコしたような,ある種の“達観の域”に達しているような仏様のような顔をしている。もはや,完全にオジイの勝ちであり,私の完敗である。怒る気力が完全に吹き飛んでしまった。しまいには「貴重な体験ができた」とまで思えてしまったから,沖縄って場所はつくづく不思議である。

(1)プロローグ
宮古空港へは,39人乗りの飛行機で到着。予定より5分遅れて17時着。ここからは19時5分発の那覇行きで那覇を経由し,羽田へは23時に到着というチケットを取っている。無論,宮古から羽田への直通便が出ていることは,実際に2回利用しているから知っているし(「宮古島の旅」および「宮古島の旅アゲイン」参照),当然今回も直行便にしたかったのだが,2カ月前の予約の時点で何とまあ満席の表示だったのである。
その後も逐一チェックしていれば,あるいは空席が出てめでたくチケットをゲットできただろうし,後で帰りに搭乗手続カウンターで確認したら「空席」の2文字があった。とはいえ,どうなるか分からないと思って,結局那覇経由を選択した。で,こっちのほうが直行便よりも数千円安く上がったのである。那覇から,これまた何度となく使っているJTA58便の1万円台ので帰れるというのが大きいからだが(「久米島の旅」第4回参照),さもなくばわざわざそこまでして切り詰めなきゃならない必然性は,私にはないのである。決して金持ちではないが,便利さと快適さには変えられないものである。
話がズレたが,宮古島では2時間の滞在となる。しかし,搭乗手続とかの時間を考えれば,多く見積もっても実質1時間半程度である。かといって,ロビーでただボーッとするのがどうももったいなく思って,急いでロビーを抜けて玄関からタクシーを拾うことにする。とりあえず,目指すは平良市役所である。さらに具体的に言えば,ホントに行きたいのは,平良市のメインストリートである西里通りだ。しかし,目印となる知っている場所というのは,実際に入って食べたことがあるレストラン「のむら」か,前を通り過ぎるだけでいまだ入ったことがない「金太楼寿司」という店くらいしかない(「宮古島の旅」後編「宮古島の旅アゲイン」後編参照)。
しかし,運ちゃんがこれらの店を知っているかも分からないし,実は行きに機内誌『Coralway』でこの辺りの地図が載った土産屋の広告を見て,その中に平良市役所と西里通りがさも近そうに描かれていたのが頭にひっかかっていたのもある。おそらく,そんなに離れていなかったとも思うし,「ひょっとしてこの店,西里通りにあるのかな?」と,同じく『Coralway』の別の記事で読んで気になっていた店があったりもする。あるいは,昨年7月に寄ったマクラム通り――市役所もこの通り沿いだ――にある「琉球居酒屋あぱら樹」に寄って,前回とは別の食べ物を食べて帰るのも手か(「宮古島の旅アゲイン」後編参照)――長くなったが,これらのことをすべて勘案し,勝手に自分の頭の中で市役所に行くのがベストだと判断したってわけである。ふぅ。
NHKの午後5時のニュースを聴きながら,平良市役所には17時10分に到着。990円。降りると同時に位置の感覚が甦ってくるのが,ひょっとしたら沖縄にハマっている一因かもしれないが,1本入った路地に抜けられる市役所の駐車場を突っ切り,少し来た方向に戻ってから,大きい通りを右に曲がり,間もなく居酒屋の角を曲がると……お見事,西里通りである。ここまで,時間にしてわずか3分。早足だったのを多少考慮しても,自分のカンが間違っていなかったことを,勝手に誇りに思ったりする。
さて,西里通りに入ったとはいえど,どの辺りから入ったのか分からなかったが,入ってすぐ駐車場だとか右側に「のむら」がなかったので,どうやら通りのほぼ中心から,公設市場のある通りに向かって入り込んだのだと確信する。右にはつらつらと居酒屋の建物が並ぶ。上記「あぱら樹」に行くという選択肢はこれでなくなった。どこかの店に入ればそれで済むし,ここ宮古島では「どうしてもここ!」という店はなかった。それがある意味,時間ギリギリの旅には救い(?)だったりもするのだ。そして,1分ほど歩くと……おお,見事にこれまた上述『Coralway』の別の記事で読んで気になっていたという店に出くわしたのである。何という幸運。記事には地図すら乗っていなかったというのに。
で,その店とは「モンテドール」という洋菓子店である。黄色地のそで看板に「バナナケーキのモンテドール」という,レトロな老舗洋菓子店っぽい看板が目印だ。玄関前は,記事に載っていた通りだ。早速中に入ってみると,プーンと甘い香りが辺りに充満する。店名にもなっているバナナのような,家の近くにあるメロンパンの店のような,はたまたバニラのような,何とも言えない甘い香りがしてくる。ふと,甘い花の蜜に吸い寄せられるハチってこんなんかなと想像してみる。
そして,中は「都会にある洗練されたブラッセリー」というのとは真逆の,昔ながらの和菓子の仕出し屋っぽい素っ気なさだ。少し暗めな蛍光灯と,シンプル以外の何物でもないショーケースと,高い天井に地面の灰色のコンクリートがそれを演出しているのかもしれない。そして,黙々と何か作業している女性スタッフが2人。売り物のお菓子のパッケージが山と積まれており,その一角にはバラ売りのコーナーもある。バラでは1個100円くらいだったか。「黒糖バナナケーキ」「グアバケーキ」と描かれたパッケージの原色系の色が,せめてもの店内の素っ気なさを払拭しようとしている感じがする。
ここの最大の売り物は,2度書いたように「バナナケーキ」である。上述の記事にはそれを造るに至った経緯と,この店を創業した66歳のオジイの話が書かれている。いわく,@観光客から「宮古島には独自のお菓子がないですね」と言われ,島の家庭によく植えられている島バナナに着目。これを丸ごとつぶしたものを入れて,試行錯誤の末にフワフワのパンケーキが完成。現在は大量生産なのでフィリピン産のバナナを使用している。Aそもそもは40年余り前,自分の兄と宮古島初のパン屋を創業するところからスタートしたのだが,どうしても自分の店を持ちたかった。かといって,パン屋だと兄と競合する。争いごとは元来好きじゃないから自分は独立を機にお菓子屋になった……などなど。
こんな内容の記事を読んで,しかも現地に立ち寄る可能性があったから,店に興味を持ったというわけである。そうとなれば買って帰ろうかと思ったが,箱売りしかなかった。一番小さいので200g入りの525円。あるいは,会社への土産物とも思って,1個1個別分けになっているお菓子も探したが,10個入りばかり。ちなみに,会社の部署…というかフロアには全員で12人いる。ということで,試食のバナナケーキの欠片を食べてそそくさと外に出る。食べた感じは,ほのかなバナナの香りがするパンケーキの味。なるほど,でもふんわり感は確かにあった。

さあ,これで後はメシを食うだけである。時間は17時半と少し早いし,昼飯はそれなりにヴォリュームがあるカツ丼を食べている(前回参照)。とはいえ,那覇でのトランジットとかで食べるのは不毛な気がするから,テキトーに通りかかった店に入ることにしたい。中にはオシャレな居酒屋もあったが,結局入ったのは,これでもかというくらいに,スタンダードな昔ながらの和食の店だった。看板には「かめ吉」とある。外の壁には沖縄料理の写真がいくつか貼られていた。場所は「モンテドール」の斜向かいで,距離にして20mほどしかない。結局,近場で済ませてしまうことになってしまった。
で,その「かめ吉」。中はこれまた典型的な和食割烹の店だった。座敷の席が五つに,寿司屋風のカウンターに席が7つほど。客は私のみである。おそらく,今日最初の客であるとみた。黙々と作業している板さんに「どこでもいいですか?」と声をかけると,「いいですよ」と言われたので,一番端の座敷席に座ることにする。二つ先の座席には「予約席」の札があったが,はてこんなにガラガラでも,やっぱり予約が必要な店なのだろうか。
メニューを見る。1品料理には沖縄料理がいくつもあって充実している。寿司の類いも充実しており,一瞬「ちらし寿司+ゴーヤーチャンプルー」というメニューが浮かんだが,いざ頼むとなると,無難なところで「かめ吉定食」なるものをセレクトしてしまう。1500円。
Tシャツにスカートにエプロンと,どう考えても普段着系の中年オバチャンが注文を取る。はて,店名が「なみきち」なのか「なみよし」なのか分からずに,写真を指差して「これをください」と言うと「どれですか?」。「なみきち定食…」と自信なさげに言うのを上からかぶせるかのごとく,「なみよし定食ですね」と女性は言ってきた。「しまった」と,一瞬流れる気まずい空気……と思ったのは,多分自意識過剰な私だけであろう。注文を取ると,女性はそそくさと奥に消えていった。
テレビは,東京でいうフジテレビがかかっている。別に何か大きなニュースはなさそう。そして,店内は実に静かである。途中,注文を取った女性が冷たいおしぼりを持ってきたので,試しに顔に当ててみると気持ちがいい。やっぱり,11月中旬といえども陽射しはそれなりにあったし,私の想像とは別のところで肌は立派に焼けていたのである。
10分ほどすると,四つに分かれた25cm四方の黒のお重には,たくさんのおかずが乗っていた。ラインナップは実に和風だ。まずは天ぷら椎茸・なす・ししとう・きすエビが2尾。見た目も味も,どこからどう見てもごくフツーの和風料理店である。次いで刺身マグロと白身の刺身。後者は沖縄でよく見る魚だ。背中の皮が炙りのようになっているヤツだ。思い出せないのがもどかしいが,これを食べると沖縄に来たって感じがほのかにする。
そして,ちょこちょこと乗っかった1品料理が,これまた一角を占める。3cm角の島豆腐のなめたけ乗せ,少し大きくなって5cm角のさわらの照り焼き,2切れの厚焼き卵と,ムール貝の味噌卵とじだ。そして,最後の一角には一回り小さい器に入ったもずく酢であった――これらに,味噌汁たくわんご飯がつく。まったく,沖縄に来てよもや日本食を食べるとは思わなかった。もっとも,沖縄だって立派に日本なのだから,別に不思議はないってことなのだろうが。
メシを食い終わって,外に出ると向かったのは目の前にある「とみはまサンゴ店」。近くに見えた唯一の土産物屋らしき建物だったからだ。サンゴには目もくれず,いろいろ平積みされてある土産物から買ったのは「タンナファクルー」(12個入り,630円)と,結局買ってしまった隣のモンテドールの「バナナケーキ」。他の種類がいくつも積まれている中で,ラスト1個だけ残っていたのを思わずゲットしてしまった。ちなみに,店が変わったからといって,値段は変わらず525円であった。
前者は,黒糖と小麦粉を原料に丸く焼き上げたもの。少しパサついたが悪くない味だった。そして,後者は黄色地のパッケージのど真ん中にバナナの写真があり,側面にはカウボーイハットをかぶって緑のマントを着た子どもの絵。左上には金色の「名誉総裁賞受賞」というシール。いかにも,南国のお菓子ってパッケージである。今回買ったのは200gの一番小さいやつだが,大きさは15cm×5cmに,高さ4cmほど。見た目はフツーのパンケーキだったが,フタを開けた途端に芳醇なバナナの香りがした。ホントに“芳醇”という言葉がピッタリである。店内で嗅いだ香りは多分これだろう。味も素朴ながら実に美味かった。記事を読んでいただけに,食べたときの喜びというか感慨というか,それは独特なものであった。もう1回食べてもいい味である。

空港への帰り道。宮古島に来るときは,決まって公共交通機関に翻弄されてしまう。昨年3月の初めてのときは,羽田の管制塔のシステムがダウン(「宮古島の旅」前編参照)。7月に来たときは同じく羽田で,今度は飛行機自体がトラぶって2時間遅れ(「宮古島の旅アゲイン」前編参照)。でもって,現地の宮古島ではオリオンビール主催のビアフェスタとかちあって,タクシーがなかなかつかまらなかった(「宮古島の旅アゲイン」後編参照)。ってことは,今回は……何事もなく,あっさりと西里通りでタクシーがつかまったのであった。「終わりよければすべてよし」とは,はてこーゆーことを言うのだろうか。(「石垣島と宮古島のあいだ」おわり)

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