沖縄はじっこ旅U

@ウミガメを見て,ショートケーキを食べる
いよいよ外周道路に出る。ニシ浜を境にして西側はほとんど人を見ない。道路は舗装はちゃんとされているが,ギリギリで片道1車線ほどの幅。でも,センターのオレンジの線がかすれて見えにくい。とはいえ,この上にオレンジのペンキなど新たに塗る必要はない。無論,車がめったに通らないからだ。周囲は林かさとうきび畑か土しか見えない。空にはいい感じに雲が広がって,陽射しを遮ってくれる。そして肌を触る風がやっぱり気持ちいい。
時々,周囲の畑に向かって狭い道が延びている。ほとんどはジャリ道で,おそらく畑に用事がある人用であろう。だからその程度でいいわけだ。それでも,遠くで海の音が聞こえてくるから,思わずそっちの方向にチャリを走らせてしまう。そして,ギリギリで一番外側であろう道を走ってみるが,海への入口はなかなか訪れない……というか,その気になれば藪の中を入っていけば,それはそれはニシ浜よりももっと静かで美しいビーチが待ち受けているのかもしれないが,そこまでする気にもなれず,途中で再び外周道路に戻っていく。
ふと,戻りながら冷静になる。そこは周囲がほとんど土ばかり。さとうきびがなっているところもあるにはあるが,ちょっと距離があったりする。私より背が高いのが電柱しかないのだ。ふと,見上げれば少し黒い雲が出ている。今日は天気がいいが,明日はまた雨が降ると「お天気チャンネル」では言っていた。ということは,雷雲だろうか。私は,間違いなく落雷に遭ってしまうだろう“おあつらえむきの位置”にいる。助けを呼ぶにもケータイは……いや,私のボロいケータイは電源が入っていても“圏外”に違いない。あわれ,見つかったときは白骨化……はさすがにないか。
それと,ジャリ道を走ると,ラム肉の匂いが時々した。脇を見てみると,文字が同じだからやっぱりというか,ヤギがつながれている。しかも数頭。ヒゲが黄ばんでいるのは年寄りヤギだろうか。嗚呼,キミたちの仲間をあと何時間後にはもしかして食べるのか……さらに行くと,無事外周道路に出る。そして右手には大きな溜池と,その向こうにお子様ランチのごはんみたいな形の石積み。その先は海である。少し先からまっすぐ舗装道路が通じているので行ってみるが,寸前で金網に阻まれる。
どうやら,石積みは「底名(すくな)溜池展望台」とのこと。なかなかここからの景色がいいらしい。そう『やえやま』に書いてあったので信用する。そして,その溜池の斜向かいでは,農作業をする人の姿が。とても静かで,さとうきびの葉がサラサラと風に触れる音と,ラジオの声しか聞こえない。のどかな光景だが,今日は平日なのだ。彼らは日常,私は非日常。
さて,再び陽射しが出てきた周回道路を走っていると,興味深い光景。まずは私の後ろから軽自動車が追い抜いていったが,窓には一面黒いフィルムが。あれ,フィルムって貼っていいんだっけ…なんてのはこの際どーでもいいとして,ナンバープレートは「わ」じゃなかったから,多分地元の人だろう。で,そのまま走っていると,向こうから男性3人。何と,いずれも上半身ハダカである。多分,本土から来た人たちであろうことは想像に難くない。このあまりに好対照な光景。どっちが正しいのか,あるいはふさわしいのかは,神のみぞ知るってことか。途中からは再び海に近い道路に入り込む。
そして,13時26分。いよいよ日本最南端の……標識「止まれ」である。ご存知の方もいようが,フジテレビの「トリビアの泉」でやっていたヤツである。これを見て「いつか行って見てきてやる」とその時は思ったものだが,いざ波照間島に行ってみると,1年以上前のテレビだった(2003.8.27放送とのこと)からか,そんなことはすっかり忘れていて,それでも赤い逆三角形の標識を見た瞬間に,思わずニヤリとしてしまう。でも,たまたま見つけたって感じだから,ひょっとして別のところが真の最南端だったりするかもしれない。見通しが悪い場所で,坂が海に向かって急になるために設置したとのことだが,それもあまり気に留めていなかった。78へえ〜。
そして,今度こそは日本最南端の碑に到着。13時42分。日本最南端の標識あたりから立派な片道1車線の舗装道路が続いていて,いっちょ前に歩道も完備されているが,虚しく草地から延びた緑に覆われて使いものにならない。でも,そもそも車道にすら車が1台も来なかったから,そのまんまでもいいのだろう。だったら初めから歩道なんかいらないのに,ムダな限りである……ってどーでもいいか。
一帯は,岩場の中に草が生えている荒涼とした感じの場所。周囲数百m四方はある広さである。つるはしみたいな形で,年季が入った白い「日本最南端之碑」と書かれた碑と,ヘビが2匹とぐろを巻いたような格好の,石で縁取られた遊歩道。中は砂道である。幅は40〜50cm先ほど。これが50mほど続いていく。その先端はちゃんと鎌首の形で,大きさは直径3〜4mほど。敷石が赤石と黒石となっている。一応は“雌雄”ということだろう。これは本土復帰の1972年5月15日,全国各地の若者が自分の出身地の石を各自持ち寄って造ったものらしい。なるほど,日付がそれを象徴づけている。
碑の脇にはこれまた石でできた碑。その中には「日の丸」が防弾ガラスの中で海原をしかと見つめている。脇に白くなって干からびた団子虫が入っているのはご愛嬌だろう。近くにはこれまた,終戦50周年を記念して建てられた日本最南端の平和の碑なんて新しい碑があるが,そこに書いてあったのは「北緯24度02分25秒,東経133度47分16秒」という数字だった。ふーん。
空には青空の中に大きな雲がせり出して,沖には怪しげな雲も。たまたますれ違ったおじさんに声をかけられたが,彼は「あの雲が…」なんて心配していた。とはいえ,陽射しは十分あるから今日いっぱいは大丈夫だろう。この次に見えてくる陸地は,数千km先のフィリピンだという。だから,目の前に見えるのは地平線のはずだが,なぜか沖にはスミアミ70%ほどの黒い帯が。まさか……。
この波照間島には「パイパティローマ」という伝承がある。漢字で書くと「南波照間」だ。時は1648年,薩摩藩の島津氏による支配が始まった時代のこと。ここ波照間島で集団脱走事件が起こったのだ。事件を遡ること11年前の1637年,八重山と宮古では人頭税(「沖縄はじっこ旅」第4回参照)が制度化されたが,この人頭税に苦しんだ島民40人がヤグ村(モンパノキ(→前回参照)の近くという)の「アカマリ」という男に引き連れられて,パイパティローマに向けて船を漕ぎ出したというのだ。で,結論としては,史実と伝承が複雑にからみあっており,謎は深まるばかりでよく分からない。沖縄にははるか南に神々が住む理想の楽園「ニライカナイ」があるという言い伝えがあり,それが変形した言い伝えという説もある。かと思えば,当時の琉球政府が『八重山島年来記』という史書に「“大波照間”という島に“欠落”した」と記述していたりする。そして,明治以降は沖縄県として1900年前後に2度,台湾南東部にある蘭嶼島(らんゆうとう)という島を脱走先と考えて,調査・探検をさせている。
……こんな話は,前回ここに来そびれた5月の旅行前にすでに仕入れていたし,結局ビデオが見つからなかったが,映画で『パイパティローマ』なんてのもあるし(「管理人のひとりごと」Part8参照),ひょっとしてその地平線に浮かぶ黒い帯があの……なんて思ったりするわきゃない。多分,雲の加減だ。ま,「パイパティローマ」は伝承のままで想像を大いにふくらませているに限ると思う――ちなみに,ホントにホントに正真正銘の最南端は,東京都の沖ノ鳥島であるのでお間違いなく。ここはあくまで「有人の日本最南端」である。

次に向かったのは,ここ日本最南端の碑からも見える白い建物。「星空観測タワー」である。建物の前には数台が停められる駐車場があるが,停まっているのはライトバンが1台。そしてヤギ2頭。そのうちの1頭は,よりによってライトバンの下に縮こまっているのだ。ま,当分は動き出しそうな気配がないからいいが,この陽射しに耐えられなくなったか。とはいえ,もう1頭は堂々と青空の下で草をついばんでいたが……。とりあえず,誰もいない駐車場にチャリを停める。
中にいるのは,メガネをかけたアンちゃんが1人。彼は『やえやま』にも載っている。中ではスリッパに履き替えて,入場料300円を払う。すると“使用申請書”なるものに,住所と名前と使用時間を書かされる。立派な書類だが,私ごときに必要なのかと思いつつ書いていく。まあ,そんなにここで時間を費やすわけではないから,使用時間は「2004年9月7日,14時〜14時15分」としておく。そして,ちゃっかり入口脇にある水飲み機で水をいただく。集落で買ったさんぴん茶(第9回参照)は,この暑さともなると確実に消費されていき,上記日本最南端でカラになってしまった。この先に自販機がある保証はないから,ちょうどよかったというわけだ。
建物は2階建て。脇から上がっていくとまっすぐと左と,2部屋に分かれる。まっすぐはミニプラネタリウム。12〜13畳程度のじゅうたん敷きで,当然ながら真っ暗である。でも,クーラーがガンガン効いていて気持ちいい。真ん中に台があって,そこにある星座名が書かれたボタンを押すと,天井にあるランプが光って位置を示すようになっている。でもって,テキトーに「解説」と書かれたボタンを押すと,女性の声で解説が始まった。このボタンを押すと,どうやら別のボタンを押しても反応ができないようだ。私は「おとめ座」なので,それを押してみたがウンともスンとも言わずに,淡々と解説のテープらしきものが流れている。ちなみに,春の星座だそうで。
自慢じゃないが,私は天文学が超ダメな人間だ。たしか小学校4年生のころだったか,宿題で星の観察をするとかいうのが出た。で,観察ノートみたいなのを工作で作った器具に書かされるのであるが,これに書くのが一苦労。星が見えないし,北極星がどうこうと言われても,その北極星がどこにあるのか皆目検討がつかない。テキトーに書いて出したか,あるいは未提出のままだったか,記憶が定かでないが,とにかく星座については苦い思い出しか残っていない。そんなものだから,私は解説なんか無視して,1人クーラーの前に立ってひたすら涼んでいた……あと,もう1部屋は星座の写真や本が置かれた部屋。プラネタリウムよりも少し狭い。写真には“星のシャワー”というヤツもあった。5年前に撮影されたものだ。
時間になったので外に出るが,その前に水をまた飲む。名前からして当然なのだろうが,ここは夜も営業している。でもって,3階があったようで,そこには望遠鏡がセットされているようだ。おそらくは,そこから夜空の幻想を眺めるのであろう。南十字星がはっきり観測できるというから,好きな人にはたまらないのだろう――個人的には,例えばこの島にテキトーに宿を取って,夜空の星を眺めながらMISIA嬢の名バラード『星の降る丘』を聴きたいとか,どっかの入江に入り込んで松田聖子氏のこれまた名バラード『秘密の花園』を聴きたいとかあったのだが,それはまた別の機会に譲ることにしよう。
ここから道は左にカーブして,一路北上していく。あいかわらず,人はほとんどすれ違わない。ちょうどこのあたりだっただろうか。ヘリコプターが1機上空を北上していた。後で日航八重山に帰ってテレビをつけたら,どうも避難訓練を石垣島でやっていて,それ用のヘリだったらしい。かなり南方から飛んできていたが,はてどこから飛んできたのか。
間もなく,右手にフェンスと小さい滑走路と白壁の平屋建ての建物。波照間空港である。もちろん,日本最南端の空港だ。フェンスが開いているから入れるのだろう。中に入ると,人はまったくいないが,電気がついている。さっき立ち寄った波照間港のターミナル(前回参照)よりも狭い。座椅子は16人分のイスと3人掛けのシート一つ。売店らしき場所はシャッターが下りている。飛行機はとっくに飛んでいっているから,何もかも閑散としているのは当然だろう。
その代わりというか,コカコーラの自販機があった。こいつもまた日本最南端の自販機だろう。ここで350mlの缶のさんぴん茶を購入。値段は…あ,130円。やっぱりここまで持ってくるのにいろいろとかさむのね。そして緑の公衆電話。受話器を上げてお金は…入らない。トイレ…の水は生ぬるい。ここか,先ほどの星空観測タワーにあるだろうトイレが日本最南端のトイレであろう。肝心の人は……どうやら,事務所らしき部屋に明かりがついていて,物音がするから誰がしかいるのだろう。
手続カウンターには,古ーい黒いプラスティックのプレートに白の丸ゴシックな書体。到着には「955」,出発には「1025」という数字しか入っていない。「運転約款を供覧致します」と書かれている文字も,昔の書体。はたまた椎名林檎嬢ぐらいしか使わない書体だ。1日1便。しかもプロペラ機で,ほぼ貸し切りだという。石垣から飛んできた便は,そのまま波照間で折り返して,石垣に戻ってからそのまま多良間島に向かうそうだ。この1便のためにデジタルは無用であろう。さぞ,昭和時代から使って年季が入っているのではと想像できる。それでもカウンターのラックには矢田亜希子嬢と松井秀喜選手のパンフがささっているから,現在も機能しているのだと確認できる。
それにしても,これだけ閑散としていると,飛行機で来るといって民宿の人たちはちゃんと迎えに来てくれるのかと不安になってくる。入口のフェンスには「南の島の活性化,それはあなたの空の旅」という標語が書かれた看板があったが,集落の中にもそういえば飛行機をぜひ利用してほしいと訴える看板があった。個人的には羽田から石垣に来るのが9時半だから,波照間に行くのを10時過ぎにしてもらい,石垣に向かう便を17時ころにもう1本設けてもらえば,私は確実に乗るかもしれない。何たって貸しきりでクリームソーダ色の海が見られるなんてめったにない。でも,今の飛行機の便だったらば,しかるべき時間に便がある高速船に確実に軍配が上がり続けるだろう。

波照間空港からは一旦東進し,大きな十字路にぶつかって右折する。こっちもきちんとした舗装道路だが,やっぱり真ん中のオレンジは見えない。その角にはこれまた大きな碑があったが,これは「波照間土地改良区」と刻まれていた。さっき通った底名の溜池もそうだが,この島自体では,かなり大掛かりな灌漑事業が行われていて,例えば溜池だったり,排水路だったり,農道だったり,防風林だったりと国や県がかなりの金を注ぎこんでいるようだ。その割には排水路には水がなかったが,はて,これは台風による大雨の水はけのときくらいしか役に立たないじゃないかと思ってしまった。
そこを右折してしばらく行くと,「→シムスケー」という看板。酷くえぐれたジャリ道を何とかチャリでクリアして走ること数分,周囲が森の中,幅数m四方を石垣で囲った中に水が見える。下り井戸だ。深さは3〜4mほどで,少し埋もれているが階段がある。そこを下って水を汲んだのだろう。昔,このあたりはシムス村と呼ばれ,その村の婆さんが飼っていた牛がここを角や前足で石をかきわけ,水を掘り当てたのが始まりという(“ケー”は“井戸”の意味)。他の井戸が枯れても,ここの井戸は枯れなかったことから,「シムスケーの世話になる」が大干ばつの代名詞だったそうだ。
再び酷くえぐれたジャリ道を戻って,舗装道路を西進していくと今度は「→ぶりぶち公園」の看板。その方向はやはりジャリ道だが,さっきよりはマシだ。とりあえず中に入っていくと,右手に大きな藪。その中にベンチと碑があり,向こうに石垣と小山が見えるが,いかんせんどこから入ったらいいのか分からずに引き返す。その先には「下田原貝塚」というのがあると『やえやま』に書かれていたが,もはや先に行く気は失せた。
ちなみに“ぶりぶち”とは“城跡”の意味だそうで,本格的な造りの城がここにはあったようだ。あるいはこの波照間島を統治して,オヤケアカハチに討伐された明宇底獅子嘉殿(第9回参照)の居城だったのか。それと,藪の脇には池が見えたが,湧水のようで昔は島の簡易水道の水源だったそうだ。その奥には燐鉱跡の穴があったようだが,そこまでは見ていなかった。
このまま真っ直ぐ行ってもOKそうだが,途中で右に折れる道が。しかも舗装道路。右手は海側だからあるいは好眺望が期待できるか……とりあえず右折すると,たしかに海は見えるが,防風林が邪魔で海が見えない。多分,テキトーにどっかから下りていけるだろうが,そこまでしたいとも思わない。途中,さとうきびの収穫をしている人たちのギリギリ脇を通過して再びぶつかった大通りは,今朝方ワゴンで上り,チャリで下った道だった(第9回第10回参照)。
その通りを再び港に少し下ると,さっきは気づかなかったが藁葺きの小屋がある。高さ2m×5m四方ほどで壁は石積み。「イノーサヒ」というこの小屋は,年貢の集積所だったという。3箇所入口があって中がのぞけるが,現在は拝所になっている。で,そこに黒くとぐろを巻いたように見えるものがあったが……あれ,波照間ってハブいたっけな?
この「イノーサヒ」で時間は15時30分,チャリの返却まではあと45分もある。ここからサイクリング乗り場までは数分だが,このまま返すのも何である。ここはまたニシ浜で時間をつぶそう。ワゴンで上った道をチャリに……乗っては上がれないから押して上がり,再びクロスする大通りに「→ニシ浜」と出ていたので,ここを右折する。途中にはいくつもの御嶽らしき拝所が見られるが,『やえやま』にも名前は載っていない。あるいは個人で作った“独占御嶽”とでも呼ぶべきか。
15時40分,再びニシ浜に着く。宿に帰るのだろうか,チャリを押して上ってくる数人の輩とすれ違いながら,再び“ギ――――――――”……と音を立てることなく,今度は下りていく。さっきは後輪のブレーキのみかけていたが,これを前輪も,すなわち両方のブレーキをかけることにしたのだ。これによって音は……ま,ないと言ったらウソになるが,少なくともカラスが飛び上がることがないくらいに抑えられたとは思う(第10回参照)。
ビーチは,午前中と比べると人が倍以上に増えている。チャリがかなり停めてあって,私の停める場所がなかなかないくらいだ。それでも,とりあえず空いている所に停めて砂浜に出る。空は再び陽が翳っていて,いい感じの気温だ。時間帯もあるだろうか。吹いてくる潮風が気持ちいい。見ると,さっきの流木(第10回参照)は,いつのまにか衣服がひっかけられていた。
そして,ここで私の視線は足元に行く。いた,ここにもヤドカリくんが。真珠みたいなヤツで,大きさはやはり小指のツメくらいの大きさ。私が見つけると,身体を丸めた。しばらく動かないので裏返しにしてやったが,当然というか動きがとりづらくなってしまったようだ。なので,再び元に戻してやると,手足を出して海に向かっていった……のではなくて,波をよけるように砂浜を辿っていく。途中で気まぐれに丸まりながら。しかも身の丈の3倍はあるサンゴの欠片はしっかりよけながら。

――その後,集落をうろつきながら,サイクリング乗り場には16時15分きっちりに戻る。ワゴンが間もなくやってくるが,オバチャンは「あと,2人来ていない」と言っている。多分,行きに一緒になった女性2人だろうが,行きと同じアンちゃん(第9回参照)がなにやら話をしてオバちゃんは納得していた。そのアンちゃんの運転で,何度か通った桟橋への坂を下る。もちろん,溝のところでの減速はキッチリやってくれる。そして,16時25分に船客ターミナルに到着。行きと比べると,帰りは客が集中するのか,人がかなり多い。
16時35分,石垣からの高速船が到着する。船からは乗客が下船する傍らで,大量の物資が下ろされたが,その中に20インチくらいのカラーテレビがダンボールに入って出てきた。若い男性が2人で抱えていたが,民宿のボロテレビが壊れでもしたのだろうか。波照間海運の船と安栄観光の船が同時に来ていたが,帰りに関しては,波照間海運のほうに乗る客が圧倒的に多く,安栄観光の客室に入ったのは,わずか7人であった。
16時40分,波照間港でのわずかな折り返しで2隻とも出発。コースを左右に分かれて,しかしながら競い合うように港を出ていくが,私が乗る安栄観光のほうがリード。別に2隻でレースをしているわけではないのだが,自分の乗っているのが先に行ってくれるのは,心情的に何だかうれしい。うーん,やっぱり私は都会のスピーディーさに冒されてしまっているのだろうか。

(1)ハートアイランドへ
石垣港には17時40分に到着。そのまま公設市場に向かう。その名も「いちば食堂」という食堂で夕飯を食べるためだ。『やえやま』で昨日目につけていたのだ。公設市場で食材を調達するとのことだから,もしかしたらヤギ料理なんかがあるかもしれない。いずれにせよ,何か期待ができそう。ヘンな話,波照間島行きという目的が達せられた以上,あとはどーなってもいい。この先ヤギ料理で“万が一のこと”があっても,今夜は部屋で寝るだけだし,明日は帰るだけである。
公設市場の建物の3階まで上がっていくと,その食堂はある。名前からして雑然として少し汚いのかと思ったが,シンプルできれいな食堂。2人席が二つ,4人席が四つ,6人席が一つと,フローリングの上がりがある。あとで確認したら,2002年にできた新しい食堂。牧志公設市場の食堂(「サニーサイド・ダークサイド」第1回参照)と同様,市場で買った食材を持ち込めるとのことだ。
とりあえず,メニューを見ると……なーんだ,ゴーヤチャンプルーとかジューシーとか沖縄そばとか普通じゃん。ヤギ料理はなさげだ。これって,よかったのだろうか。ま,帰ったら健康診断があることだし,ありきたりだけど「ゴーヤチャンプルー定食」(840円)にとどめておく。それと,少し暑かったので「オリオンビール生」(525円)を頼む。ちなみに,店内は私ともう1人だけしかいない。テレビでは台風情報をやっていたが,どうやら交通機関は普段の状況に戻りつつあるようだ。
10分ほどして,20cm×12cmほどの長方形の器に,ゴーヤ・豆腐・豚肉・卵というごくごくスタンタードなもの。小鉢にはセロリ・キュウリ・タコ・シーチキンのマヨネーズ和え。あとは味噌汁とごはんと,しば漬けとたくわんが香の物につく。粛々と食すが,ビールのほうは半分残す。初動こそそれなりに飲めたが,後はほとんど飲まず。思ったほどにはノドが渇いていなかった,すなわちビールを身体が欲していなかったということだろう。帰り際,店のオバチャンに「ビール,飲まなかったんですね?」と聞かれたので,「思ったより飲めなかった」と返しておいた。
――最後の日。いつもの時間に起きて,いつもの時間に「AQUARIUS」に行き,昨日と同じメニュー(第9回参照)を食す。空港に行くバスは8時10分発だが,飛行機の座席が確定していないので,どうせならいい席にしたいと思って,7時半に早めにチェックアウトにする。4日間で4万3000円あまり――私はすっかり日曜日だけは台風による割引になるのかと思ったが,4日間とも普通料金にされてしまったらしい。それにプラス,電話代と“見なくてもいい1050円のテレビ料金”が加算されている。いやー,石垣島で次回泊まるときは……ま,ここでもいいけど。部屋がよかったし,メシも美味かったし。
結局,座席は一番後ろから3番目ながら,窓側の席をゲット。しかも,3人席のうち他の二つには人がこなかった。すなわち,3人席1人占め。だからということではないだろうが,思いっきり正規料金を取られる。5万1800円。本来の便よりも数千円高くついたが,勝手に延泊して,すべてが“おいしい”というシステムには,世の中はなっていないのだろう。でも,やっぱり那覇経由で帰ったほうが安いのか。いや,それは早割のチケットで行けた場合であって,正規料金だったら……。

羽田には13時過ぎに到着。帰ってきたら,壊れたケータイを買い替えに行かなくちゃと思っていたけれど,何気に充電器に差し込んでみたら,明かりがついた。ん,もしかして?――電源ボタンを押してみたら,見事に復活した。まったく,旅行前に充電はしっかりしていったのに,4日半旅行先でウンともスンとも言わなかったのは何なのだろう。つくづく謎である。(「沖縄はじっこ旅U」おわり)

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