石垣島と宮古島のあいだ

@まず,行くべきは
海秀では「多良間村イラストマップ」(以下「イラストマップ」とする)という手製の立派な地図をもらっている。こと細かくてイラストを織り交ぜた造りは,さすが建築会社のなせる技か。家から地図のコピーを持ってきているが,多分イラストマップで間に合いそうだ。
とりあえず,島を1周サイクリングするのが今回のルートである。海秀の人から「そこが中学校ですから」と言われたが,どうやら海秀は,位置的に集落の南側にあるようだ。ということは,ひとまず目指すは北ということになる。とりあえず,ガタガタ道をしばらく漕ぐことにすると,再び舗装道路になる。でもって,テキトーなところで左折すると,集落らしい狭い道に入った。
すると間もなく,明らかにこの道路には不要と思われる信号に出くわす。建物が間近に接近していて少し見通しが悪い交差点というのもあるし,道が交差点に向かって狭くなるのもあるだろう。でも,それほどスピードを出してこの交差点に車が進入してくるとも思えないし,こういうのって,だいたい島の子どもが島外に出たときに困らないようにするためのものだろう。「赤信号車がなければ渡っていい」と,下らない字余りな川柳をふと思いついたが,一応はルールを守って赤信号で一時停止する。
ここからはどう行ったかよく分からないが,たしかこの交差点は曲がったと思う。やがて,民家の脇を淡々と走っていたが,集落は遠ざかるばかりになった。はて,テキトーなところで南下していかなくてはならないと思っていると,大きくて真新しい施設が現れる。案内板を見ると「ゆめパティオたらま」と書いてある。どうやら研修施設と宿泊施設を兼ねた建物のようだ。看板を眺めていたときに,チャリに乗った小学校中学年くらいの女の子と目が合う。すると,向こうから「こんにちは」とあいさつ。もちろん,こっちもあいさつする。思わぬ出来事に驚いてしまった。
その「ゆめパティオたらま」の前には,これまた案内板がある。背後は鬱蒼とした森になっている。「シュガーガー」――漢字で書くと「塩川井戸」だ。塩川(しおかわ)を“シュガー”と読んでしまうのは,いかにも沖縄らしい。ここは自然洞穴の湧水という。なるほど,中に入っていくと二手に分かれ,それぞれの奥を下ったところにパックリと開いたガマがあった。この中におそらく水が湧いているということだろう。その水は塩分が濃いという情報もある。あるいは,戦時中に避難壕になったかもしれない。位置的にも形態としてもピッタリな感じである。
下は草地が生え放題で落ち葉も結構あるし,ゴツゴツした岩もあったりして足元が不安定なので,あまり深くは入っていきづらい。案内板によれば,入口から左23mのところには「ウスヌカー(牛の泉)」というのがあり,右29mのところには男女別に水浴びができる泉,その奥には飲料水用の泉があったそうだ。この数字の細かさは,ちゃんと巻尺か何かで計ったのだろうか。
そして,すべてはガマの上に大きく垂れ下がる樹木の陰で見えないが,この泉を中心にかつては集落が形成されていたという……そう言われると,一瞬日本創世記のような話に私には思えてしまったが,考えてみれば東京の下町とかで井戸がある場所も,周囲は民家ばかりだ。水の持ち運びなどで少なからぬ重労働になるのに,みすみす井戸から離れて暮らすこともないというわけか。
そこからそのまま来た方向へ戻る。道は違うが,再び家が多くなって道が狭くなってきた。塀はブロック塀がほとんどで,サンゴの石垣はあまり見えないし,家もコンクリートの平屋建てで築数十年というのがほとんどといった感じだが,塀を囲うように植えられているフクギが,いかにも沖縄の田舎風景を演出している。たまにすれ違うチャリもまた,のどかさを演出する。
そして,間もなく左に大きな御嶽が見えた。看板には「ピトゥマタウガン」とある。20〜30m四方くらいの広場の奥に,高さ5m×幅2mほどの祠がある。奥半分が香炉が納まった祭壇,手前半分が階段と踊り場のような造りとなっている。おそらくこの階段と踊り場にノロ(役の人?)が座って,祭壇に向かって祈りを奉げるということだろう。広場はこれまた階段状に整備されていて,デイゴやフクギが所々植えられている。そして,それらすべてを覆っているのが,テントの骨組みらしきパイプだ。広場をほぼ覆いつくしていて,中には木が生えているところだけ故意に穴を開けて,周囲はコンクリートで固めました,というような箇所もある。
はて,何かお祭りか催し物でも行われるのかと思ったら,ここは国の重要無形民俗文化財になっている豊年祭「八月踊り」の開催場所なのである。ここともう一つ,土原御嶽(んたばるうがん)の2箇所で旧暦の8月8日に催され,今年はちなみに9月21〜23日に行われている。この階段状のスペースなどが祭りのときは舞台や客席になり,華麗な民俗衣装を着た踊り子によって,地元に古くから伝わる踊りをはじめ,様々な舞踊が行われるという。
あるいは,9月に多良間島に行っていれば(「沖縄はじっこ旅U」参照),この祭りを上手いこと見学…と思っていたが,どうやら少し時期はズレていたようである。この八月踊りは,専門家にとって貴重な“研究材料”のようで,時期が来るとその専門家やマスコミ――ま,おそらく「琉球新報」「沖縄タイムズ」「宮古毎日新聞」だろう――がこぞってやってきて,島中の宿が予約でいっぱいになると,どこかで聞いたことがある。
そもそもは,琉球王国が薩摩藩の支配下に入り,さらに八重山や宮古に導入された人頭税が導入された17世紀半ばごろに始まったようだ。その年の旧暦7月までに税を無事皆納し,翌8月には「パチュガツウガン」と称して各御嶽にて祭事を行い,税の完納報告と神様へのお礼を述べて,さらに次の年の豊作を祈願することを年中行事とした。その際,神前で「奉納踊り」をすることが慣例となっていたという。こうして過酷な税の完納を喜び合い,あるいは今までの苦労を慰めあったり,お互いを励ましあったりしたのであろう。

さて,再びチャリに乗って進むこと1分。「毛刈屋」という島で唯一と思われる床屋を通り過ぎると,さっきの交差点に辿りつく。そろそろ昼飯の場所を探さなくてはならない。実は「美ら島物語」のホームページから,「ぎりき」という店が昼に要予約で弁当を作っているという情報を得ていた。メインは夜の居酒屋なのだが,写真で見ると500円でボリュームのあるランチが食べられるという。
当初は予約しようかとも思ったのだが,どうやら他にも店がありそうだったのと,多忙にかまけたこともあって予約をしそびれてしまった。ま,結果的にはその店の場所すら,いま現在分かっていないのだから,予約もへったくれもなかったのかもしれないが,そうなった以上はどっか別のメシ屋を探すか,はたまた集落の商店でテキトーに弁当か食べ物の類いを見つけるしかない。ちょうどこの交差点の角にも「石嶺商店」というのがあって,明かりがついて営業しているようだが,素直に入るまでは至らない。もう少し周囲を見てみたいと思う。
とりあえずはこの交差点を右に曲がる。間もなく,右には「さしみ」と書かれたちっぽけな魚屋,左にはこれまたこじんまりとした民宿が現れる。この道がどうやらメインストリートのようだ。魚屋は一応明かりがついているから営業しているのだろう。しかし,外観がどうしても廃墟か開店休業の店のように見えてしまい,入るのがはばかられてしまう。その外観と,製造している食べ物が必ずしも比例するとは限らないにもかかわらず。
さらに進む。道端に何度となく子どもたちの姿を見ていく。大人よりも子どものほうを多く見ていると思う。そして今度は左右にスーパーが出現。右が「中央スーパー」,左が「Aコープたらま店」。どっちにもそれなりの品揃えがありそうだが,前者には日用品のほか肥料の袋も置かれている。後者はおそらく食料品がメインだろう。2軒が向かい合わせに立つなんて,いい意味で競合するのか,はたまた共倒れにならないか――後で調べたら,前者が島で最大の店とのこと。加えて「ぱなぱんびん」「うーまきがーす」という多良間名産の黒糖スイーツが売られていたようだ。両方とも事前に情報を仕入れていただけに,その場で思い出せなかったのが,ちと悔まれた。
しかし,これまた素直にどっちかに入って弁当を買うのも味気ないと思ってしまった。もう少し進むことにすると,大きな十字路に進入。そして,大きな建物を見る。多良間村中央公民館と多良間村役場である。ま,大きいといっても,村の建物一つ一つがこじんまりしているから,たかが知れてはいるのだが……公民館は正面玄関のドアが開いていて,子どもがしきりに出入りしている。
そして,役場は玄関こそシャッターが下りてはいるが,中は明かりがちらほらついている。ってことは,この土曜日なのに出勤ということか。「ご苦労さま」って感じである――沖縄の失業率と労働時間は,どういうわけか比例関係にある。さぞ仕事がないかと思いきや,残業時間は全国でもワーストから数えたほうが早いというから,これがまた沖縄の不思議な部分ではある。人々の性格がのんびりしているから,そのまま仕事ものんびりしてしまい,ただ時間だけが過ぎて非効率になるという悪循環が働いていると聞いたことがあるが,真意はどんなものだろうか。
役場や公民館が斜め左に見えたこともあって,何となくその十字路を左折する。これまた村で1軒だけであろう診療所の前を通り過ぎると,目の前左にただっ広い空地と,右にはコンクリートの建物。ここは多良間小学校である。舗装道路はこの小学校の入口で終わって,その先はどういうわけかキレイに整備された歩道が続く。うーん,何のために歩道をタイル貼りっぽくしているのか謎だ。
この先に進んでも拉致があかなくなりそうなので,来た道を戻ってAコープまで寄ることにした。少しスロープ状になった駐車場にチャリを停めようとしているとき,目の前で自転車ごとゆーっくりと倒れていく男の子が。見た感じは小学校低学年だろう。別にどこかから急いで集落まで走ってきて,何かにつまずいた拍子にスッテンコロリンってわけでもなく,その場でペダルをゆーっくりと漕ごうとして,そのままバランスを崩し,スローモーションで再現するがごとく,チャリごとゆっくりと崩れていくのだ。
一瞬,何が起こったのか分からなかったが,あわてて事情を飲み込んだ。小さい子どもだから,大泣きでもするかと思った。そして,よっぽど助けようかとも思ったが,これまたスローモーションで再現するがごとく,再びチャリを起こして自分の身体も起こしていく。うーん,どーゆースピードだろうか。おそらくは身体を思いっきり叩きつけなかったから,さして痛くないのだろう。
運動神経が鈍い私だが,その私が今の男の子だったとしても,もっと早く立ち上がるだろうと思う。いずれにせよ,その子に変わった状況は見受けられない。なーんだ,タイしたことなかったか……と思っていると,その男の子はまたスローモーションを再現したかったのか,再びペダルをゆーっくり漕ごうとして,ゆーっくりとチャリごと倒れていく。うーん,もはや自分の考えの域を越えてしまった。あんまり構ってもいられないから,とっとと店の中に入ることにしたい。
中はやっぱり食べ物を中心とした品揃えだが,所々棚がスカスカなのが目立つ。あるいは物資が不足しているのか。何やかや言っても,飛行機で運べる量はたかが知れているわけで,かなりの確率で船便が頼りなのではないか。でも,その船便は1日1便で,波が荒れていれば欠航は間違いない。確実に交通機関が確保できるためにと,新しい多良間空港が作られた経緯があるにはあるが,結局はやっぱり「たかが知れている」ということだろうか。
入口すぐのところにあるレジの脇に,惣菜のコーナーがあった。見れば,12〜13cm四方×深さ5〜6cmほどのプラスチックの容器に入ったカツ丼らしきものと,牛肉丼らしきものがそれぞれ5〜6個置かれている。その脇にはジューシーおにぎりや,なぜか常温で置かれているにぎり寿司のパックも数個置かれている。おにぎりはともかくも,にぎり寿司は冷蔵庫で保存したほうが……そして,手製と思われる和菓子の類いもあったが,とりあえずはカツ丼を選択した。税込で450円。東京だったら,1〜2割は高くつくかもしれない。フタには「東食堂」というシールが貼られていた。住所は…ま,当たり前だろうがこの多良間島の住所である。おそらくは,その食堂で作ったものをコープに卸しているということだろう。ま,これも立派な「島料理」「地元料理」ということだと解釈しておく。
レジで会計。「お箸をつけますか?」とレジのおばちゃんに聞かれたので,「はい,お願いします」と言うと,彼女は数m先にある,さっき私が立ち寄っていた,いろんな惣菜が置かれているラックの脇にちょこんと置かれた中から箸を持ってきた。まったく,弁当の陰に隠れて見えやしなかった。格好や雰囲気して明らかに島の人間じゃないことくらい,相手も何年もレジをやっているだろうから分かるだろう。そんな慣れないヤツの相手をさせられて,あげくに軽く“運動”させられたからなのか,「ありがとうございました」も何も言わずに,黙って白いビニール袋に弁当を入れて,私に手渡した。

さて,このカツ丼をどこで食べるべきか――とりあえず,さっきの小学校まで戻ってみる。あるいはベンチがあれば,そこに座ってとも思ったのだ。だだっ広い校庭には人はいないし,一方の校舎にも人影はなさそう。第2土曜日だから休みなのか。そして,その二つのエリアを分ける通路が,敷地内の私道のような,はたまた集落と集落を結ぶ公道なのか,よく分からないビミョーな造りをしているが,何だか敷地内に入るような気がしていまいちはばかられた。そんな人の所有する敷地(?)にズケズケ入っていけるほど,私はタフな人間ではない。はたまた,小学校の敷地を囲う低い塀に腰掛けて食べるのもアリっちゃアリだが,何だかいまいち中途半端だし,通りかかった村人に見られたときにどうコメントしてよいものか分からない。
なので,敷地の手前で左に折れる。と,間もなく左に図書館が見えた。そして,それと同時に「メ〜」というペーソスあふれる鳴き声が2回ほど。図書館の建物が途切れると,トタン屋根のボロい小屋にヤギが10頭いたのだ。入っているというか,押し込められているというか,いずれにせよ人口密度ならぬ“山羊口密度”はかなり濃い。小学校で「動物をかわいがりましょう」のコンセプトの下,飼育されているのではないかと想像する。
ちなみに,通り過ぎた図書館では,玄関脇に高さ5mほどのバカでかい錆びた錨が飾られていた。これは「オランダカナグー」と呼ばれている。「カナグー」とは「金具」ということか。1857年にオランダの商船が上海からシンガポールに行く途中に,この島の西部にある高田(たかた)という場所の沖合いのリーフに座礁。そのときにゲット(?)したもののようだ。「国際親善のために,永久保存することに決めた」と案内板には書かれていたが,こんなんで国際親善になるのならば,日本の至るところでガラクタ拾いに精を出すことになりそうだが……。
はて,集落の中心部には結局ベンチらしきものはなかった。ということで,致し方なく「ピトゥマタウガン」に戻ることにした。そして,大きな舞台(の土台)を完全独占状態にして1人で腰掛け,容器の蓋を開ける。不意に風が吹き抜けて,ビニール袋がどこかにすっ飛んで行ってしまったが,気にしない……とホントになってしまったら,ここは仮にも神聖な場所ゆえ失礼だし,バチが当たりそうなので後で拾うことにして,ひとまずがっつきたい。朝4時に,地元の松屋で「デミタマハンバーグ定食」をがっちり食べたのだが,8時間も経てば結構空腹になっているのだ。
中身はごくごく普通のカツ丼だった。ニンジン・玉ねぎ・ほうれん草・キャベツに,「肉片が2割,もちろん汁を多量に吸っていることは言うまでもないフニャ衣が8割」の“2・8トンカツ”が数欠片入っている。たくわんが2切れつく。何か珍しいものが入っているか期待してしまったが,どこからどう見てもカツ丼だ。さすがに冷めてしまっているし,味もまあ普通の弁当屋のレベルの味だ。それでも,どことなく島の住民の家庭料理を食べた気分になる――まあ,いわゆる我々が「沖縄料理」と聞いて想像するものなんざ,いつも食べちゃいないのだろう。沖縄の人だって,普通にカツ丼だとかスパゲティだとかハンバーグだとかを食べるに決まっているのだ。まして,本土からの物資はこれでもかと入ってくる時代だし,よくも悪くも食べ物については“ボーダレス”になっているのだろう。
さっき飛んでしまったビニール袋を“舞台”の端っこで拾い,チャリの前カゴに弁当殻を入れたまま,再びサイクリングに出る……で,なぜか再び小学校に戻ってきてしまった。とりあえず,公道とも私道ともつかない中に入っていくと,別段オトガメも何もなく,すんなりと中心まで入れてしまう。まったく,さっきの心配はどこへやら。そして,その中心にてしばしチャリを停めてしまうことにした。
大きく目の前に広がる校庭は,トラックの白い線も描かれているほど広い。奥の上座(?)には,どこの学校にもあるブルーの朝礼台。そこまでは,この公道だか私道だかからは50mくらいあろう。ちなみに,左右はその倍はあるかもしれない。都会の学校にはない,ぜいたくなスペース。私が通っていた田舎の小学校はこのくらい広い校庭があったと思うが,都内に入ればこのスペースに校舎から何から押し込められているかもしれない。そして,朝礼台のバックにはガジュマル・ソテツ・デイゴが何本も植えられている。朝礼台はひょっとして御嶽っぽい雰囲気すら醸し出している。
一方,校舎がある側にもちょっとした広場が設けられていて,遊具の充実ぶりが印象に残る。ちょっとしたアスレチックっぽい造りで,高さ5mくらいのところから角度30〜40度くらいの滑り台が2基。その滑り口から5mくらいは真っ平らになっていて,いくつもの鉄パイプが上にトンネルを作っている。これらの器具を支える部分もまた鉄パイプで,案外これが上り棒になっていたりするのだろう。
そして一番奥,滑り台への階段の代わりだろうか。チェーンがネット状になってなだらかな坂となったヤツになっている。アスレチック公園でよく見る,ロープがネット状になっている遊具の“チェーンバージョン”といったところだ。はて,これだけ高いところから滑らせるのなら,せめて階段の一つも設けてやってもよさそうな気がするが,それは子どもに甘いのだろうか。さしずめ「滑り台を滑りたければ,この関門をクリアせよ」という学校からのメッセージなのだろうか……この他にも,吊り輪だとか“ターザンゲーム”のロープだとか,実に遊具が充実している。
そして極めつけ(?)は,3段階の高低差がついた鉄棒が1基,同じ高さの鉄棒が6基ほどあった。何でこんなに鉄棒があるのかと不思議に思ってしまう。そんなに鉄棒はこの島の子どもにニーズがあるのか……そういや,小学校は結局逆上がりができないまま卒業してしまったなー。なるほど,コツはよく分かるのであるが,身体がそれについていけなかったもどかしさが,ふと甦ってしまう。
話はズレるが,10年ほど前,北海道は稚内に訪れたときのことだ。市内中心部のとある公園で鉄棒を見つけたとき,思わず逆上がりにチャレンジしてみたくなった。でも,結局上手く行かなかった。とはいえ,あの時より少なからず自分は成長しているわけで……しかし,今回も身体は年齢に反比例して衰えていたようだ。しかも,さらに顕著に。やっぱり小学校時代にできないと,永遠にできない“鉄棒種目”なのかもしれない。腰がいくらも上がらずに,あっさりギブアップしてしまった。

@まず,行くべきは
さあ,時間は12時40分。いい加減集落を後にしないと,島を1周できなくなってしまう。とりあえず,確実に何がしか見るものがあるかもしれない「ふるさと民俗学習館」(以下「民俗学習館」とする)を目指すべく,村役場や公民館の裏手に入っていく。一気に減っていく建物と,確実に増えていく緑。別に集落を外れるだけなのに,何だか未踏の域に入っていく感じだ。
ところで,いま見ているイラストマップ。複雑に道が交差している中に,いろいろな見所の名前が書かれているのであるが,単に文字が書かれているだけで目印になる“点”が描かれていない。なので,ゴチャゴチャしているだけで,どこの路地でどう曲がっていけばいいのかが分からない。やっぱり「本業は建築関係の仕事なわけだし,片手間でやっているからこの程度ってことか」と,前回書いた文章を思わずコピー&ペーストしてしまった。
とはいえ,この地図以上に詳しいものは持ち合わせていない。家から持ってきた地図のコピーは,道路こそ細かく描かれていても,名所はパラパラとしかない……ということで,カンを頼りにテキトーなところで曲がっていくと,集会所らしき一軒屋と,ブランコが2基と,かなり高さのある鉄棒が見え,その脇には案内板らしきものと石柱も見えてきた。集会所からは“カコンカコン…”と卓球のボールの音が静かな集落の中に乾いて響いてくる。加えて,声変わりしかけている少年の声が聞こえてくる。
そして,肝心の(?)案内板と石柱には「ウプメーカー」と書かれている。16世紀前半,沖縄本島から多良間村に渡って未開拓であった多良間村を統一。その後第2尚氏の琉球王朝時代,王朝側の将軍だった仲宗根豊見親(「宮古島の旅アゲイン」後編参照)に味方して,八重山のオヤケアカハチ(「宮古島の旅アゲイン」後編「沖縄はじっこ旅U」第9回)や与那国のウニトラ(「沖縄はじっこ旅」第6回参照)の討伐に加担した土原豊見親(んたばるとぅゆみや)を奉っている墓である。私は「カー」と言うから,一瞬井戸なのかと思ったが,どこをどう見ても墓らしきものしか見えない。なお,土原豊見親はその後,琉球王朝から正式に多良間島主に任じられることになったようだ。
敷地全体は120平方mとのこと。10mほどのアプローチで石灰岩でできた石垣の入口に辿りつく。高さ60〜70cmの低い石垣になっていて,アーチ型の石門が施されている。門のトータルの高さは,私の背丈よりちょいと低い1.6mくらいだろうか。石積みの上には丸い石が乗っかっているが,何かの象徴なのか。その奥にはカマドのような石造物が横たわる。全体を俯瞰してみると,1000分の1に縮小された“ミニチュア城”って感じがしてくる。まあ,島を統一した人間の墓であるから,家が城のようだったと仮定すれば,墓のレイアウトもなるほどと思えてくる。
アーチ型の石門は,幅も60〜70cmほどと狭苦しい。でも,中に入れなくもないのでかがんで入ってみる。墓は奥行き3m×幅2m×高さ数十cmといった大きさ。上記のようにカマドのような形状で,一枚岩ではなくて,いくつもの石を組み合わせてでき上がったものだ。上部は屋根のような形に石が立てかけられている。石垣をはさんで左側にも似たような墓があって,こちらは内宮の墓のようだ。
豊見親から数えて7代目の子孫・春遊(しゅんゆう?)が,豊見親の偉業を称えて周辺を整備したとされ,造営自体は18世紀初頭。沖縄本島からこの島に流刑された奥武山龍洞寺住職・心海(しんかい?)上人の手によってなされたものと考えられている……と,どっかから引っ張ってきてしまったが,「ミャーカ」と呼ばれる宮古地方の石造墳墓の中でも,ランクは“上級”とのこと。ちなみに,その上級は五つしかないというから,かなりの上級な墓ということだ。
とりあえず,史跡らしい史跡を見てホッとする観光客の気分のまま,チャリは南に進める。なぜか,民俗学習館に固執してしまうのであるが,それらしき建物はなかなか見つからない。それでも,その代わりというとヘンだが,別の御嶽にでくわす。「ウッパルウガム゜」――そう「ム」に「゜」なのである。ここ多良間地方独特の発音で,無論「ウガン=御嶽(うたき)」のことである。でも,どういうふうに発音させるのだろうか。中国(もちろん“チャイニーズ”のことだ)の,同じ母音でも何通りもある発音に似ていて,何だか興味深い。
話を戻して,ここは金志川金盛豊見親(“きんすかーかにもりとぅゆみや”と呼ぶようだ)という武将を奉っているそうだ。上記オヤケアカハチの乱とウニトラ征伐に参戦し,その戦いの後宮古島を目指したものの,途中でこの多良間島に上陸することを余儀なくされ,そのまま亡くなったという。ノッポの樹木に覆われていて,どこが何があるのか分かりゃしない。案内板だけが淡々と史実を伝えるが,中の藪に入っていく勇気を持たず,その隣の神社に行くことにする。
その隣の神社は「多良間神社」。日本のどこにでもある神社って感じだ。かなり大きな敷地の奥に,赤瓦の社殿。幅5m×奥行き10m×高さ5mといったところか。中の祭壇には香炉がある。ってことは,早い話がここも御嶽なのだろう。入口にある“一の鳥居”から“二の鳥居”まで10m,“二の鳥居”から社殿までが5〜6mといったアプローチ。周囲はもちろん…というか,とにかく背の高いフクギが規則正しく生い茂っているのだ。先述の土原豊見親を奉った神社だという。
何でも,この神社ができるきっかけになったのは,さっき通ってきた多良間小学校の新校舎落成だという。1901年まで同小学校は萱葺きの校舎だったそうだが,これを瓦葺きにすることになったのだ。そのときに必要となったのが大量の木材。村としては,これを御嶽にある樹木で賄おうとしたのだが,集落では「ご神木を切ってはバチが当たる」と,伐採をためらった。しかし,それこそ“大鉈を振るって”それらの樹木を伐採したところ,何も天罰などが起こらずに済んだという。そして,めでたく翌1902年に新校舎は落成。この一連の出来事を「豊見親のご加護」だと信じて,その徳を称えて同年に神社を建立することになったとのことだ。
うーん,私だったら“大鉈を振るった”人物を称えて建立したいところだが,あくまでこの島では「豊見親が最上」なのだろう。ま,一般人を崇め奉ったらば,それはそれで集落でヘンに嫉妬の対象になってしまって,かえって島にいられなくなってしまうということか。はたまた,どっかの大学のように,先生は1万円札…もとい学校創始者の福沢○吉ただ1人で,後はどんな名誉教授もどんなアホ生徒も一緒くたに「君づけ」であるという思想に似たものが,この島の風土としてあったりするのだろうか。

多良間神社を後にする。いい加減,民俗学習館はあきらめたほうがよさそうだし,何より海沿いの1周道路に出たいところだが,たまたま通りかかった海の方向に行けそうな道が,結構急そうな坂っぽくって「これじゃあ…」と思ってしまい,一向に集落の方向をさまよってしまったりする。
少し南に下がって,こっちは多良間神社のように整然とではなく,雑多にいろんな樹木が生い茂った中に「ブナジェーウガム゜」があった。入口には,鳥居の代わりに直径50cmほどの石積みが一対であり,数mのアプローチで幅・高さ1mほどの石造の祠があった。「ブナジェー」というのは,ある兄妹の名前。どっちが「ブナ」で,どっちが「ジェー」かなんて愚かなギモンはどーでもいいとして,あるとき島に大津波がやってきた(いきなりこの展開!)。で,“ウィネーツツ”という丘に2人は逃げて,オヒシバ(イネ科の植物)にしがみついていたところ(何なんだ,この単語は!),無事この最大のピンチを乗りきった。ただし,2人以外の島民は全滅。そこで2人は夫婦の契りを交わして,島の再建に努めたという――そんな2人を称えた御嶽であった。チャンチャン。
そして,チャリはズルズルと集落方向をさまよう。磁場が働いているのか。そんなわけないか……でもって,次は「シューレーウガム゜」。これまた御嶽だ。この島の“御嶽率”は,沖縄の全市町村でも上位になるのではないかってくらいに,御嶽が多い。いったいいくつ御嶽を見て回ればいいのか。もっとも,それにとらわれていると,海岸線を見ずに海秀に帰る羽目になりそうだが。
で,そのシューレーウガム゜。これでもかというくらいに,真っ赤でぶっとくなったアカギが鎮座する。「幹の周り胸高41m,高さ10m,枝張13m」と書かれている。何だかよく分からないが,幹も太ければ根っこもかなりに太く,方々に延びている。“勇壮”を通り越して“阿鼻叫喚”の世界にすら達しつつあるくらいにグロテスクである。これに負けじと,1本のフクギの根っこが,巨大な岩にがんじがらめにからみついている。嗚呼,自然の力の恐ろしさよ。
そして,アカギの裏には低い石垣で囲われた御嶽があるが,アカギの手前にある石の丸井戸の上にも御嶽になっている。香炉があるから間違いない。丸井戸は直径3mほどの低い石囲みの中に,直径1mほどの丸い出っ張り。フタがされてはいるが,周囲に民家があるということは,おそらくこの井戸も実際に使われていたと思われる。こんなにも神聖というか,不気味というか,理解の範囲を越えるというか……そんな様相の御嶽が,私にはとても魅力的で好きである。
さあ,もういい加減に民俗学習館はあきらめた。どうせ,サバニだとか網カゴとか昔のお札とかが,雑多につるされたり置かれたりしているだけだろう。たしか,300円くらい取られると思ったが,この私が元を取るには大したことはないと,勝手に解釈させていただこう。申し訳ない,民俗学習館長さま。とりあえず,チャリは北西の方向に漕いでいくことにしよう。
すると,大きな森の中にこれまた御嶽。ここが「ンタバルウガム゜」こと土原御嶽だ。ここもまた,土原豊見親らを奉ったという御嶽。上述したように,島の8月踊りで会場になっている場所だ。何本ものガジュマルやらアカギやら何ちゃらがあり,それにからみつくようにテントの骨組みらしきパイプやら柱やらが立っている。屋根もあるが,ガジュマルが生えているところだけはくりめかれている――すべてをひっくるめれば,ざっと100m四方くらいはある広さである。「ピトゥマタウガン」の数倍はある広さだ。でも,本格的に祭りの舞台が設置されると,それなりに勇壮で豪華な場所になるのだろうが,普段の骨組みだけのときは,何がどうなっているのかよく分からない場所である。
でも,肝心の拝所はといえば,さすがにそれらしき雰囲気を醸し出している。数段のステップを上がったところ,周囲を低いブロック塀に囲われ,その中で大きな岩にガジュマルの根やら枝やらが激しくからみついているたもとに,石の香炉が三つある。豊見親,その祖父および天神様を奉っているものとのこと。奥の森へは太鼓橋がかかっていて,それを渡ると完全に森の中となり,通路のようなものはなくなる。この森,名前が「父母の森」というそうだが,この森こそが真の御嶽ということなのだろう。でも,あまり中に入り込まずに戻ることにしよう。
周囲は実に静か……ではなくて,5人の小学生のガキがさっきから遊んでいる。見た感じは2組の兄弟に分かれており,一方は兄(小学校中学年)と弟(幼稚園),もう一方は兄(小学校高学年)・姉(同低学年)・弟(幼稚園)という構成と勝手に想像する。前者の兄弟は御嶽の中を駆け足で走り回り,後者の兄弟は大きなカゴが後ろについたチャリに乗っかって走り回っている。ちなみに,ハンドルを握るのは一番上の兄貴。少し蒸し暑いが,外で遊ぶには格好の気温だろう。みんな実に元気である。
そんな彼らにしてみれば,私の存在は明らかに珍しいに決まっている。それでも,人見知りをしないのだろうか。前者の弟が私のところに近づいてきて「おじさん,何してるの?」と声をかける。おじさん……ま,いいや。むしろ戸惑ったのは,明らかにこっちのほうかもしれない。「珍しいから見ているんだよ」とテキトーに返したが,向こうは数秒ポカーンとした表情をした後で,思い出したように兄貴のところに戻っていった。
一方の3人兄弟は,相変わらず狭い隙間をぬってチャリを走らせる。初めは兄がハンドルを握り,妹が後ろのカゴに乗っていたが,そのうちカゴの隙間に一番下の弟を乗せて,晴れて「自動車ごっこ」となった……かどうかは知らない。あちこちを走り回り,ちょうど隙間の出口付近に私がチャリを置いていたようだが,彼らはギリギリのところでよけることができたようだ。案外オトナだったら,真っ直ぐ突っ込んだのではないか。「おお,危なかった」という一番上の兄貴の声が聞こえてきた。
こういう神聖な場所で…というのは,オトナの理屈でしかないのだろう。彼らにとっては,ここはただの日常の遊び場でしかない。そういえば,私も小さい頃には神社で何度か遊んだりしたものだが,ここ多良間では,神社が御嶽に代わったのだと思えば,「いつの時代も子どもは変わらない」というただそれだけのことかもしれない。いまどきの子どもって,もっと“スレている”のかと思ったが,それはこの島に関してはなかったようである。ちょっとホッとしたかもしれない。
もっとも,この島の子どもだって,ひょっとしたらプレステやパソコンが与えられているのかもしれない。でも,そんなものなくたって,遊ぶ仲間や兄弟がいれば,それだけで十分日常の遊びは満たし得るものなのだろうと思う。だから,こうして外に出て遊ぶことができるのだ。何たって,人間には「知恵」というかけがえのない道具があるのだから。(後編につづく)

前編へ
石垣島と宮古島のあいだのトップへ
ホームページのトップへ