奄美の旅アゲイン
@犬とオジイ
車はムシロ瀬を北端として,今度は南に進路を取る。いくらもしないうちに,右側に大きな青いコテージ群を見る。ここが私が今回泊まる予定の「ホテル サンセット・リゾート」である。すでに車が数台停まっている。空港に着陸するときも,模型みたいにこの青いコテージ群が左に見えていた。地区名は「与名間(よなま)」。時間は16時15分で,チェックインには十分な時間だろうが,いっそこのまま車をトヨタレンタカーに返したくもなってきたので,通過することにしよう。
すると間もなく右に横長の石碑。人が数人取り囲んでいるから,知名度はかなりあるのだろう。奥には,1950年代のウエスタン映画に出てきそうな木造の建物。白い字で「サンセットリゾート」と書かれている。あるいは,ここがかつての宿だったのだろうか。その横長の石碑は,つい最近世間を騒がせたあの人のものだが,それは後述するとして,ひとまずは南下を続ける。
5分ほどすると,「←西郷南洲謫居(たっきょ)之跡」の看板。一応,奄美大島の住居跡(「奄美の旅」第4回参照)と沖永良部島の南洲神社(同第6回参照)は見ているので,今回も見てみよう。畑の中の狭い一本道を上りきると駐車場と整備された公園。一応,観光バスの枠らしきものもあるが,かなりムリして入ってくることになるのではないか。
肝心の跡地はというと,幅2m程度の砂利っぽいアプローチの奥に石碑があるのみ。なんとか石というのがあったようだが,奥まで行かなかったので,それは発見できず。上記・沖永良部島の南洲神社のところで書いたが,当時の薩摩藩主・島津久光の反感を買い,流刑に処せられたのが1862年6月。薩摩半島の山川港を出てから,いまの徳之島空港近くにある,午前中に見損ねた上陸記念碑の辺り(第1回参照)に上陸したのが7月。でもって,この場所に住み始めたのもつかの間,今度は沖永良部島へ場所替えを命じられ,8月には離島している。
この時,隆盛35歳。徳之島では一女をもうけたものの,離島の歳には家財道具と禄高が没収させられてしまう。加えて,来るときは身重の奥さんとの長い船旅,離島の際は乳飲み子連れという,なかなかなハードさだ。神が彼を見捨てず,“時代の要請”で再び鹿児島に戻ることになるまでは,もう少し時間を要することになる。

西郷邸を出て5分ほど南下をすると,空港への道路入口。結構すっ飛ばしたから時間がかからなかったが,何やかやで数kmありそうだ。道はアップダウンがあるので歩きでは大変そうだし,例えばタクるとなったら金が結構かかるかもしれない。送迎バスは……まさか,たった1人の送迎では期待できないか。
入口を右折して,間もなく大きな交差点。すると「←西郷南洲翁上陸記念碑」の案内看板。あまり地図を見ずに走ってきたので,どんな感じで島の中を走ってきたのかが大雑把にしか分からなかったが,なるほどこれで分かった。そのまま右に道は狭くなってカーブし,空港敷地の金網が見えてきた。時間は16時半。この右側にトヨタレンタカーがあり,ダイレクトに事務所へ右折も可能なわけだが,ひとまず空港の状況を見ておきたいので一旦敷地内に入る。
すると……なになに,タクシーもバスも何もいないじゃん。ガラーンと曇天の下に寂しげな空港ターミナル。バス停の時刻表を見れば,16時20分が最終だ。多分,このバスだって宿のある北の方向には行かないだろう。鹿児島と奄美大島から2便ずつしか行き来していないことを考えれば,その離発着時間以外に何も空港に停めておく必然性はないのだから,仕方ないか。
これでは,車は返すわけにはいかなくなってきた。行き帰りともに,最悪徒歩になろうものならばたまらない。あるいは,その辺りをある程度この島のレンタカー屋は心得ているのだろうとも思ってしまう。別に「返せるものなら返してみろ」というわけじゃないだろうが,「明日の9時半発の奄美大島行きの時間まで」と言って,別に普通に納得していたから,私と似たような借り方をする人間も結構多いということか。
仕方なく駐車場を1周して,そのまま敷地の外に出る。でもって,再び「西郷南洲翁上陸記念碑」を目指したが,意味もなく最初のルートをなぞったのみ。後でどこかの書店で鹿児島県の地図を確認したら,どこかで1本道を入るような感じだった。見逃したのならそれまでだが,看板は出ていなかったと思う。結局,最後まで同じルートを辿って平土野の町並みを2〜3回ウロウロし,再び北上することにした。

再び,上記の“横長の石碑”に16時45分に到着。「徳之島に石碑」でピンと来た方はいるだろうか。ここは女子マラソンの高橋尚子選手の石碑である。彼女の名前は,金メダルにあやかったのか金文字で彫られて。通称「尚子ロード」という,彼女がこの島内で走った練習ルートの起点に当たる場所である。
実は北部の金見とかを走っていたときに「実業団マラソンコース」という目印を何度も見ていた。ルートとしては,この場所から県道を南下,平土野で左折して東に進路を取り,花徳(けどく)という地区で再び左折。私が金見崎などに行くときに通ってきたルートをぐるっと回り,この場所に再び戻るという全長31kmである。アップダウンが結構あるルートだし,そもそも気温10℃前後がマラソンには最適と聞いたことがある。日本で冬にマラソンが多いのは,この辺りが影響しているからだろうが,1年を通して,それ以上の気温になることが多いであろう島の温暖な気候が,いい意味での「暑さ→負荷」になってよいのではないかと,素人ながらに勝手に想像する。
彼女の初来島は1998年2月――厳密に言えば,この島に来ているのは彼女以外にも数人いるようだが,とりあえずは主語を彼女にさせていただく――。上記の練習ルートを走った後,翌3月の名古屋国際マラソンで優勝することになる。その後同年12月のバンコクでのマラソンをはさんで,2000年2月,2年ぶりの国内,再び名古屋国際マラソンに備えて徳之島に再来島。すると,このレースでも優勝。こうして石碑に書かれている「日本一のマラソントレーニングコース」が誕生することになった。ちなみに石碑の建立は2000年4月。ま,島の活性化の意味合いもあっただろうが,その後のシドニーオリンピック,ベルリンマラソンでの連勝を考えると,いいタイミングだったのではないか。
そして今年。再び彼女は来島したが,縁起がいいはずの名古屋国際マラソンには走ることはなかった。ケガに見舞われたのと,昨年11月に東京女子国際マラソンで走った“巡り合わせ”もあっただろうが,結局この8月のアテネオリンピックには選ばれることはなかった。いまさらその選考をとやかく書くのは旅行記にそぐわないので割愛するが,その碑に書かれている小出義雄監督の「雨風に耐えて花咲く時を待つ 夢の掛け橋徳之島」という“字足らず”な短歌は,今回については現実のものとならなかった。それを考えると,何だかこの石碑が単なる“過去の遺産”っぽく,かすんで見えてしまう。旅行前,不謹慎にも会社の人間に「石碑に“ケリ”を入れてくる」と言ってしまったが,ホントにこの栄光の尚子ロードに“ケリがついてしまう”のか。はたまた「第2の栄光」へのプロローグになるのだろうか。

(1)犬と重千代
17時,やっと「ホテル サンセット・リゾート」に到着。今回は安さに惹かれたとはいえ,昨年11月の久米島「ホテル日航久米アイランド」(「久米島の旅」第2回参照),翌12月の与論島「プリシアリゾート」(「ヨロンパナウル王国の旅」第2回参照)に続いて,3度目のリゾートホテル体験である。リゾートホテルらしく,駐車場は30台ほどは停められるが,いわゆる青空駐車場。整備なんてされておらず,ジャリで水たまりもあちこちにある。しかし,周囲には緑が多いので,かえて野性味・自然味を出すための効果なのだろうか。
いやいや,いざチェックインとなると,受付に出てきたのは60歳前後のオバちゃん。しかも,彼女は背中に乳飲み子を抱いている。年齢からいったら,子どもではなくて孫だろうか。多分,予約の電話で応対してくれたのは彼女だろう。そのときの応対が「はい,サンセットです」と,そもそも初めから名称を略していたし,大きなホテルのような洗練さとはかけ離れた何とも大らかな感じで,「何だかリゾートらしくねーな」とは思っていたが,その通りだった。ロビーは豪華さが微塵もなく,フツーの宿のそれっぽい。名前とは違って実に“アットホーム”というか,はたしてこれで“リゾート”と名乗っていいのだろうか。目の前には広いレストランがあるにはあるが,これでは何となく国民宿舎の“食堂”っぽく見えてきてしまう。
そして,そのレストランはというと,張り紙があって「え!?」と思ったのは,「本日貸し切りにつき閉店とさせていただきます」の文言。早速,そのことを聞いてみると「すいません,今日70人の団体が入ってるんですよ」とのこと。この与名間には一応集落があるが,食堂らしき建物は一切見当たらなかった。かといって一番近い平土野まで戻るのは,いくら車があり,夜に晩酌をしなくても平気といえど,納得がいかない。その辺のことを言うと「なので,こちらで調整させてください」と言ってきた。ま,そう言うのであれば,こちらも一応は従うしかない。
そもそも,ここに電話予約を入れたのは3月初めだ。その時点で70人団体の予約が入っていれば,レストランが使えない旨を言うはずだと思うが,話はなかった。多分その後の予約なのだろう。あるいは忘れていただけか。でもって,向こうは私の名前こそ確認したが,電話番号は聞いてこなかった。別に外国じゃないんだから,必要以上に疑ってこちらから電話を教えるというのもヘンだろう。別にそれでいいやと思っていた。だいたい,沖縄奄美の観光施設ではインターネット予約でない限り,電話番号はあまり聞かれない。それでも結構何とかなるのだが,今回のようなことがあることを考えると,正直困ることだと思った。あるいは,私がヘンに神経質すぎるのか。
ともあれ,部屋に入ることにしたい。受付脇の廊下を通りぬけて,外に出てすぐ左にあるコテージの,311号室が私の部屋だ。ベージュのタイル壁に紺の三角屋根,でもってすべて平屋建てだが,2〜3部屋で1棟のようだ。私はその一番左側。すなわち,受付などがあるメイン棟に一番近い位置にある。ツインの部屋は,種類が分かれるが,全部で56部屋あるようだ。対して,シングル部屋は九つ。もっと人数が多く入れる,1棟まるごと貸し出しというのもあるから,むしろ団体向きだろうか。
中は当たり前だがワンルーム。10畳程度だろうか。洗面所などはユニットバスだが,普通のアパートなどにあるそれとほぼ同じ大きさ。久米島の「ホテル日航久米アイランド」や与論島の「プリシアリゾート」に比べれば狭く感じる。いい解釈をすれば「ムダがない」,悪く言えば「もっと大らかな作りでいいんじゃないの?」といったところだ。アメニティは,くしがない以外はすべてついている。
ちなみに,このホテルのホームページにはバス・トイレの文字がない。なので風呂については,海が一望できる大浴場の写真があったので,すっかりその大浴場に入りに行くのだと思っていたが,ちゃんとバスがついていた。トイレは……ま,これはついていると思った。大浴場で裸の付き合いも決して否定はしないが,何だか最近は1人でいることが気楽でいい気がしてきた。「これでいいのだろうか?」と,ふと振り返らなくもないが……まあ,そんなことはともかく,風呂は部屋についていてくれたほうが有り難いっちゃ有り難い。

さて,レストランは19時からの営業。しかし,上記の理由で19時すぐに行くということはできない。ヒマを持て余し,とりあえず周囲を散策してみたい。メイン棟の裏側が実に丸見えで,タオルなんかが洗濯バサミにとめられてハンガーにかかっているのを見て「あー,何てアットホームなんだ」と感心した後で,ふと,近くの高台から海側を見下ろす。すると,隣接しているはずの与名間ビーチが結構遠く見えたので,初めはビーチはやめようかと思ったが,せっかくなので行ってみる。
県道からホテル前を通って海岸に下る道は,かなり急だ。とはいえ,1分ほどでもうビーチの駐車場に着いてしまう。夏は結構海水浴客が来るのだろう。数十台は停まれる広さだ。近くに倉庫みたいのも見えるが,マリンスポーツグッズの類いが収められているのだろう。で,そこからさらに歩道を歩くと与名間ビーチ。といっても,コンクリートの場所と白砂の部分とはっきり分かれているから,おそらく人工なものだろう。
気温がうすら寒いからだろうか,ビーチに人は数人しかいない。名前のとおり,ホントはサンセットを期待したいところだが,残念ながらあいかわらずの曇天。それでも,白砂のビーチのほうは,やっぱりコバルトブルーとのコントラストがきれいである。つくづく天気が晴れていないのが惜しい。
一方のコンクリートの場所は,人が休める東屋があったり,近くにはひょうたん型をしたプールと,ウォータースライダーもある。後者は結構な高さから落ちてくる本格的なものだ。東屋にはなぜか黒い服を着た中年夫婦などがいる。話を戻して,こっち側は海に向かっては階段状に護岸されている。実はこのビーチ,毎年6月に島内で行われるトライアスロンの水泳会場となっているのだ。この海で2kmの水泳後,90kmの自転車レース(距離からして島内の県道をぐるっと1周するコースだろう),21kmのマラソンで,トータル113kmのレースである。おそらくは,水泳にあたって砂やジャリでケガやタイムロスなどをしないための工事であろう。
このトライアスロン,全国から“それなりの人間”が集まってくるとはいえ,完走率は50%くらいと思っていた。しかし,海岸への歩道脇に参加者一覧が書かれた看板があったので見ていたら,意外にも完走率は高い。看板に出ていたのは数年前のものだが,だいたい9割前後。ちなみに天城町のホームページで昨年度分を確認したら,全参加者211人中,199人の完走。実に94.3%である。
ま,考えてみれば,よほどの自信がなければ参加自体しないだろうから,初めから人間が選抜されていると言っていい。でもって参加費は2〜3万円と,私はもっと安いものと思っていただけに,結構高額に思える。さらに参加者を見てみれば,地元よりも圧倒的に本土などからの参加者が多いが,無論交通費は自腹だろうから,財布との相談あきらめる人もいるはずだろうからだ。レースによってレベルもさまざまだろうから,己を知った上で慎重に選ぶものなのだろう。
ついでに「トライアスロン」のホームページがいくつもあるので,比較がてら,数年前に会社の大先輩に連れて行ってもらった飲み屋の主人が出ているという,さらに南にある沖縄・宮古島のトライアスロンの様子を見てみた。参加費が2万9000円。何も徳之島だけがべらぼーに高いというものではなさそうだが,距離は水泳が3kmとやや徳之島より長いだけだが,自転車が何と155km,マラソンもフルの42.195kmと,徳之島の比ではない。それでも完走率は9割を超えている。
ちなみに件の主人は,体つきがいかにもという感じの人だが,とても物腰の柔かい人だった。昨年の宮古島レースにも13時間余りかけて完走しており,何と97年の徳之島レースにも出ていて6時間半ほどで完走している。たしか,店に連れて行ってもらったときには「毎年宮古島に行って完走している」と言っていたが,もらった名刺は,夜の宮古島でゴールテープを切る彼の写真になっている。

部屋に戻ると,時間はまだ17時台であった。ここからが結構長い長い。テキトーにNHKやらプロ野球やらをテレビで見ながら時間をつぶすが,19時以降はどうしたって退屈だ。かといって「調整する」と言うからには,電話が来るまで待つしかない。ビーチからの帰りにレストランをちらっと見たら,テーブルではわさわさと従業員の動く姿があった。多分,いまごろ向こうのメイン棟では,その70人の団体が食事に興じていることだろう。
一方,私はとあるテレビをひたすら見ていた。地元・天城町の「ユイの里テレビ」というケーブルテレビだ。「ビデオ,紙芝居は5日以内に返却を」という地元図書館ののどかな告知を数回見ていたが,突然,スタジオにカメラが切り替わり,どう考えても地元の素人っぽい人間が数人ずつ並び出した。バックはどこかのログハウスみたいな作りで,楕円の緑地のボードには「天城町ユイの里テレビ」と描かれている。
すると,その素人たちの中の“ボス”らしき,スーツを着た中年男性がカメラの前に出てきて,一礼の後挨拶を始めた。「本日は○○小学校の△名が異動致します……」――どうやら,4月初めとあって,公立の小・中学校などの人事異動があったようだ。彼は多分,校長先生だろうか。で,その挨拶をテレビ上でやるというわけだ。東京でも地元区のケーブルテレビがあるが,こういうのはなかったと思う。結構新鮮というか,いささか失礼かもしれないが面白そうだ。
そして,1人ずつがカメラの前に出てきて,やはり一礼の後,挨拶を始める。勤続数十年で定年退職する者,鹿児島の本土に行く者,島内移動というある意味“恵まれた者”もいれば,はたまたタイランドの日本語学校に行く者もいて,老若男女,勤続年数も経歴もバラバラ,人生いろいろである。立ち位置はカラーテープとかで指示されているのだろうが,たまにカメラのフレームから微妙にズレて立つ人がいると,カメラがそっちの方向に動いてくれる。当然,出る人間もそれなりに緊張しているし,実際“カミカミ”の人だっている。「ちょっと動いてください」とクールに指示するのは,彼・彼女のある意味“ハレの舞台”に屈辱だろう。いかにも地元のケープルテレビっぽい光景である。
公立学校にはこういう異動がつきものである。もちろん,学校内だって学年を変わるとかいうのもあるだろう。「春はお別れの季節です…」なんて,おニャン子クラブの『じゃあね』あたりで感傷にふけりたくなっていたころ,突然大きな「ジリジリジリーン」という電話の音。この電話,いまどきダイアル式なのだ……って,そんなことはどーでもいいのだが,1回鳴って出ようと思ったら「チン…」と侘しい音を鳴らして切れた。はて,メシに呼び出すためじゃないのか。こっちは19時以来,ずっとスタンバっているのだ。ちょっと気になったのでフロントにかけたら「すいません,完全に間違いでした」という女性の声。今度は30代半ばくらいの女性の声だ。あるいはさっきの乳飲み子の母親か。奥では賑やかな声が聞こえていたが,一体何だろうか。
引き続きテレビに向かう。プロ野球では巨人―阪神戦をやっていたが,高橋尚成がアリアスにグランドスラムを打たれてからは,どーでもよくなっていた。なのでケーブルテレビと他の局を行ったり来たりしていたが,間もなく20時だ。いい加減,声の一つもかかってもいいはずだ。試しに状況だけでも聞いてみようと,再びフロントに電話をかける。
「すいませーん,311号室の○○(本名)ですけど……何
か宴会があって夕飯の時間を調整いただくって聞いたん
ですけど,まだですかねー?」
すると,しばらくしてこんな返答が返ってきた。
「あ,すいませーん……そろそろ人が減って空いてきま
したので,どうぞ」

その応対で一瞬,ホントにマジ切れしそうになった。「こっちは何も間違っていない。一体何をやっているのだ!?」と,虫の居所次第では叫んでいたかもしれないが,そこは「ここは沖縄奄美。のどかな文化なのだ」と言い聞かせて,レストランに向かう。
……なるほど,こりゃすげぇや。ここは一体どこなのだろうってくらいの人・人・人。老若男女プラスガキで,かなり人口密度が高くなっていて賑やかだ。これでも減ったというのだから,さぞ最初はすごかったのか。でも,10席以上あると思われるテーブル席は8割ほど埋まっているわりに割と静かだ。私がさっきそのテーブル席のところで従業員の動く姿を見ていたのはほんの一角。メインの70人らしき団体は,その隣の大広間を陣取っていたのだ。とりあえず,テーブル席にはたしかに数席空いている席があるので,大広間の前にある4人席に腰掛けた。
宴会といえば,仮に19時から始まったとしても1時間,そろそろ“脱落者”が出ていい時間だ。ガキは飽きだして外をかけていたり,乳飲み子を抱えたお母さんは,私の席の脇にある通路に接する縁台みたいなところに座り,広間の中をうかがっている。数ヶ所ふすまが開いているので中が見えてしまうのだが,見れば黒いスーツを着ている人間が多い。子どもはさすがに普段着だが,大人でも意外と普段着が多い。でもって,年寄りになるほどスーツ着用率は高い。ちなみに,ちらっと見えた80代以上と思しきオジイは,いい加減にくたびれている感じだが,中では挨拶が終わり,そのうち三線の音と歌声が始まった。宴会につきもの,いよいよ「恒例の島唄タイム」ということだろう。
さて,私は注文しなくてはならない。左を見ると,テーブル席用なのか,バイキング風に食べ物が並んでいて,中年女性らしき数人が数品取っている。腰掛けると同時に男性が寄ってきて,テーブルにあるメニューを見せてくれる。男性が「バイキングは1000円ですが,一般メニューもあります」と言ってきた。ちらっと見えた限りではマグロの刺身らしき赤い物体は見えたし,サラダや肉料理も見える。しかし,いくら昼が「パン2個 of 富田商店」(第1回参照)で腹が空いているといえど,バイキングにしてまで安上がりかつ満腹にはしたくない。一方のメニューにはカレーライスなどの平凡なものから,奄美名物の鶏飯,とんこつ定食,そしてイセエビ料理もある。しかし,イセエビ料理は“4000”とか“2500”という数字が見えて腰が引けた。とんこつも経験済みで,定食も大体想像できる(「奄美の旅」第2回「ヨロンパナウル王国の旅」第2回参照)。
そして,最後に残った鶏飯だって,昨年奄美大島の「ひさ倉」という店(「奄美の旅」第1回参照)と,「たかの」という店(同第3回参照)で,ご丁寧に2回も食べたのだ。でも,明日計画しているルートでは,まともに食事が取れる時間が持てるか分からない。上記パン2個のうちの「イタリアン」は地元産っちゃ地元産だが,さすがにこれでおしまいというのもイヤである……ということで,結局1200円の鶏飯を頼むことにする。
待っている間,持ってきた本を見たり,周りを見回したりしてみる。テーブル席も,どうやらある程度の団体のようだ。私のように“ピン”で来ているヤツはほとんどいないようだ。かといって,コテージのほうが特段賑わっている感じもなかったから,大広間の団体は多分地元民だろう。数m離れたところでエプロンをかけて立っている女性たちが数人いるが,あるいは宴会とテーブル席の団体のために臨時に駆り出されたのだろうか。

隣の大広間ではあいも変わらず島唄が続いている。そして,テーブル席の数人が,たまに大広間をうかがってきている。物珍しいのだろうか。私も最近のブームがあってか,テレビで奄美の島唄を聴いたことは何度となくあるが,これだけ近くで聴くのは初めてだ。何を歌っているのかなんて分からないし,ただの素人が歌っているだけだし,多分“ホンモノ”じゃないだろうが,「地元文化に触れた」ということで,ちょっぴり感動を覚える。と同時に,自分がこのレストランの中では,客であるにもかかわらず“マイナーな側”にいて,少し浮いた存在のように思えてくる。
そうこうしているうちに鶏飯が出てきた。上記「奄美の旅」にも書いているが,あらためて具材を紹介すると,錦糸卵・鶏の細切り・紅生姜・きざみねぎ・ゆず粉・しいたけの細切り・パパイヤの細切りの7種類。これらを白飯の上に乗せて,そこに鶏の出汁をかける。白飯は,直径が15cm程度と大きいが底の高い黒の器に,やや盛りが多い感じで入っている。で「ご飯のおかわりは自由です」とのこと。肝心の出汁は,黒い鉄鍋の中にやや濁って油が浮いている。この感じは上記「たかの」のほうに近い。対して「ひさ倉」のはほとんど油が浮いておらず,ホントにあっさりした感じだった。
さっそくルールに則って,具材を乗せ出汁をかけて食す。空腹もあってか美味い。個人的には適度な油加減があったほうがいい。まあ,少なくともここは鶏飯専門料理店ってわけじゃないから,鶏飯の“流派”なるものがもしあるとするなら,明らかにズレているかもしれない。でも,それはいわば各店の「オリジナル鶏飯」として認めてやればいい――そう考えたのは,これを書いているいま現在だが,さらさらと胃の中に入っていき,白飯の2杯目をおかわりする。さすがに,具材は一度ではかけきらないし,何しろ待たされるだけ待たされたのだから,何とか元を取ってやりたい気もする。
すると,ちょうど2杯目に入ったころだろうか,テーブル席から突然こちらに向かって10人くらいの中年男女が駆け込んできた。よほど島唄に感動したのだろうか。彼らは私のいる席を囲うように集まり,そして「ガマンできない」とばかりに,突然一つのふすまを全開にする。中の人間はさぞ驚いたのではないかと思うが,何か心の中で“熱いもの”が走ったのだろうか。
そのうち,大広間側にいた男性の1人が,駆け込んできたうちの男性と話をし出した。年齢は近そうだが,もしかして,こっちのテーブル側も大広間の仲間?――いや,ちょっと違う感じがするが,お互いに酒が入っていて,この際そんなことはどーでもよくなってきたのだろう。何だかお互いを懐かしむような話し方をしている。そして,私はその“輪”の中では明らかに浮いた存在となった。
やがて島唄が終わって,再び挨拶タイム。見ていると,スーツを着た若い男女が上座に呼ばれているようだった。そしてカラオケで長渕剛の『乾杯』が。なるほど,この団体は結婚式――厳密には「披露宴」――だったわけだ。後でフロントのレジで金を払ったときに確認したので間違いない。いかにもベタな選曲だと思ったが,これで女性ならば今井美樹の『瞳がほほえむから』か,はたまた一気に古くなって小柳ルミ子の『瀬戸の花嫁』だろうか。
一方,テーブル側の中年男女はというと……翌朝,ちらっと彼らの荷物が置いてある部屋に紙が貼られていたので確認したら,「中部奄美会」と書かれていた。伊仙町のホームページに書かれていたが,「奄美群島復帰50年里帰りツアー」なるもので,何と80人もの団体で来ていたようだ――なるほど。となれば,やっぱり昨日の夜は“熱いもの”が走ったのだろう。(第4回につづく)

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