奄美の旅アゲイン

徳之島空港,11時45分着。徳之島空港といえば,記憶に新しい,この正月に着陸の際,飛行機の翼が滑走路についてしまう事故だかがあって,正月早々から空港が閉鎖になった。飛行機自体に欠陥が見つかって,さらには他の同機種の飛行機にも欠陥が次々と見つかり問題になった。ひょっとして今回は……とひそかに心配になったが,無事何事もなく着陸と相成った。当たり前か。外は幾分雨が降っているようだが,傘をさすほどのことはなさげである。

タラップを降りて,そのまま空港ロビーを通り抜けると,出入口で今回車を借りるトヨタレンタカーの紙プレートを持った若い女性を見つける。声をかけると「ナンバー745,白のヴィッツです。駐車場に置いてありますのでどうぞ」とカギを渡される。「どうぞ」と言われても,契約の手続きだとかお金のこととかどうするのかと思ってしまうが,とりあえず,そのナンバーの白のヴィッツを50〜60台ある駐車場の中から発見する。久米島で乗ったヴィッツも似たようなものだったが(「久米島の旅」第1回参照),南西諸島の離島で活躍するヴィッツは,一括まとめて同じなのだろうか。カーオーディオも両方ともカセット/CDだったし。
駐車場には「わ」「れ」ナンバーが割と多い。私が準備している間にも,何台かが出ていく。一方,出入口前にはタクシーが数台停まっていて,傍らには行き先を示した緑色のマイクロバスも停まっている。しかし,島自体はとても広いし,バスは例外なく不便なようだ。おそらく空港とは飛行機の離発着に合わせているだけだろう。よって,レンタカーのニーズ自体は結構あると思われる。トヨタ以外にも2〜3社あるようだ。
ま,何はともあれ出発……と行きたいが,このままトンヅラするのは心苦しいし,何より後でトラぶるのもイヤである。見れば,空港の敷地から出たあたりにトヨタレンタカーの看板がある。「どうぞ」の言葉の後には「いったん事務所に寄っていただき,諸々の手続をお済ませ下さいませ」が隠されているのだ。とりあえずその事務所の前に車をつけることにする。
中に入ると,中年くらいの男性が応対する。早速,免許書のコピーを取った後,
「いつまでお借りの予定ですか?」
「明日の朝の奄美大島行きに乗るので,それまで」
これは事前に向こうに伝えたはずだが,聞いていなかったのか。はたまた当日の突然の気変わりに対応しますということなのか。そして,
「ガソリンは満タンですので,満タン返しになりますけ
ど,ここでも入れられますので,入れなくてこなくても
結構です」
とのこと。こういう曖昧なことを言われると,結構神経質な私は「どっちやねん?」と突っ込みたくなったが,念のため「じゃ,入れてなくてもいいんですね?」と聞くと「いいですよ」と返ってきた。そして「じゃ,このまま行かれて結構です」――あれ,金取らなくていいの? ひょっとして,後払いということなのか。大手のレンタカー屋で前金じゃなかったのはここが初めてだ。上記の久米島でも前金だった。唯一,昨年石垣島で元旦に借りた石垣島レンタカーが何時間乗ったかで計算する後払いだったが(「沖縄標準旅」第7回参照),それは“地元ならでは”のやり方だと思っていた。そんなんでいいのかと微妙な不安に駆られるが,いいんだろう,これで。

(1)犬と重千代
@犬とオジイ
空港からの通りは早速左にカーブとなる。そのカーブが終わったあたりに交差点があり,「→西郷南洲翁上陸記念碑 600m」とある。西郷隆盛というと,奄美大島には事実上の,沖永良部島には正真正銘の島流しで上陸しているが(「奄美の旅」第3回第6回参照),この島にも上陸しているとは。まあ,大島と沖永良部島の間にこの島があるのだから,当たり前っちゃ当たり前かもしれないが,ホント流転していたのだなと思う。
しかし,肝心の碑は見つからない。そのうち,護岸工事がされた港沿いの道となってしまった。その途中,左に墓が見えたが,墓と碑の違いくらいは明らかである。景色も初めこそ岩場と遠浅の海が見えていたが,次第に石油コンビナートのような工場のような建物が出現し,独特の無機質さを感じさせる。
ということで,早速碑は見過ごしてしまい,車は街中らしきところに入った。と同時に「→犬の門蓋」という看板。この“犬の門蓋”は見たい場所なので右折すると,個人商店が両側に数軒ある狭い道に。その中にはスーパーらしき建物もある。時間は12時を過ぎたので,ホントはそのスーパーで昼飯を買うなり,近くの食堂で食べるなりしたいが,後ろから4WDがついてきている。途中で横付けするのも気が引けてしまい,そのまま道を直進してしまった。ここは天城(あまぎ)町の中心地である平土野(へとの)。空港が近いから少しは賑やかかと思ったが,予想通りの地味さである。
市街地を通り抜けて数分,どんづまりに「犬の門蓋」の看板。読み方は「いんのじょうふた」。誰もいない駐車場から先は亜熱帯の植物による草地になっていて,その先端には沖縄の古城にある城門の形のオブジェが見える。それこそ二つの岩の上に横倒しになった岩が蓋のように乗っかっているようだ。あれがそのブツであろう。
草地の中にある遊歩道を歩いていくと,突然14〜15mの空洞が右手に現れる。侵食によってできたものであろう。沖永良部島にあるフーチャ(「奄美の旅」第6回参照)みたいな感じだが,少し遊歩道からは離れていて近づきにくい。見た感じでは,その空洞の下は単なる崖か。さらに進むと,よく分からない女性の観音様もある。何かをお祈りするためのものだろうが謎である。そして空洞Part2。こちらの大きさは40〜50m四方もある大きさだ。でもって,遊歩道の終点にはクレーターになったいくつもの岩場と,少し離れた海上には剣山のような王冠のようなトゲトゲしい岩が浮かんでいる。しかし,これらがメインではない。
肝心の犬の門蓋はというと,その遊歩道から1本外れたところのどんづまりにあった。両脇を高さ3〜4mほどの岩がはさみこみ,少し見づらくなっているが,紛れもなく犬の門蓋である。近くによると,石灰岩でできた二つのメガネ型洞門。一つは幅5m×高さ2mの半円型,もう一つは幅は3mほどだが,高さは10mはあるだろうだ円形のもの。波がその向こうに激しく打ち寄せているのが見える。
なぜこの場所が“犬”かといえば,ホームページによると2説ある。いわく「飢饉のときに,増えすぎた犬をここから突き落として処分した」というのと「人畜を襲う犬を突き落として処分した」――“言い伝え”とはいえ,いずれにせよ犬にとっては迷惑な限りだったわけだ。まあ,いまほど犬に関する知識や処方がなかった時代であろうから,やむを得なかったということか。もちろん「動物愛護団体」なんてものはあるわけがない。こんなこと現代でやったら,間違いなく警察に通報されるはずだが,案外,いまも昔も“捨て犬(猫なども含む)事情”は似ているのではなかろうか。

車は南下をする格好になる。島を1周する県道からは1本外れているが,とりあえず道なりに進む。南国らしくさとうきび畑も多いが,ほとんどが収穫済みのようだ。でもって,中には焼畑を行っている畑もある。南国は土が酸性であることが多く,その酸性の土が焼畑によってできたアルカリ性の灰によって中和される効果がある,と聞いたことがある。その土でさつまいもなどを作るそうだ。でもって,数年経って土地が痩せてきたら別の土地に移る,というのもあるそうだが,そこまではさすがにしないのだろう。
さて,いい加減腹が減ってきた。平土野でメシを食べ損なってしまったし,かといって,これから行くであろう伊仙(いせん)町の中心まではまだ距離がある。ぜいたくは言わず,ここはコンビニか小さい売店あたりで,パンでも買いたいところだ。
間もなく道は突き当たりとなる。左側を県道が走っているのはおよそ検討がついているから,左折する。ドリンクすら買っていなかったので,少し行った平瀬製菓という工場か事務所にある自販機で,たまらず“生茶”を購入。この工場では黒糖関係の品物を作っているようだ。しかし,ドリンクだけでは当然足りない。
さらに進むと,ちょっとしたロータリーにぶつかった。交差する道路には車が結構通っているから,それが目指すべき県道だろう。でもって,交差点の右側には小さな平屋の売店。「富田商店」という名前だ。隣にある庭つきの民家は多分主の家だろう。自販機も一応あるから,何がしかの食料品は売っているとみた。早速入ってみる。
中では80代と思しきオジイが店番をしている。低めの木のカウンター台が,何とも田舎の売店らしさを演出している。隅にあるテレビでは笑福亭仁鶴や上沼恵美子の声がする。ちょっと普通の土曜日に戻った感覚だ。たまにオジイは「フン」と反応しているが,何か彼らが面白いことでも言ったのか。はたまた体内の空気が漏れただけか。
中は12〜13畳程度の広さだろうか。奥のほうには生活雑貨と呼ばれる品物が置かれ,その手前にはスナック菓子が置かれている。アイス類もあるようだ。近所の人間には,この程度で間に合うのだろう。そして何か食事用…と思っていたら,カウンター台の前のガラスケースに,菓子パンと和菓子が何種類か置かれている。和菓子はまんじゅう類だ。とりあえず,その中から「イタリアン」「チョコパウンドケーキ」の二つを選び,カウンター台の上に置く。台の隣には魚の惣菜などもあったが,あくまでおかず主体といった感じだ。
オジイは,パンの入った袋をしばらく眺めると「190円ですね」と言う。とりあえず1000円札を出すと,当たり前だが810円おつりをくれた。そして「フン」と一息。別に笑う場面ではないはずなので,やっぱり体内の空気が漏れたのだろう。ふと台の上を見ると「酒類売上表」なんて書類があった。自己申告なのだろうが,ちゃんと書けるのかと余計な心配をしてしまう。
それにしても,菓子パン二つで190円は安い。学食でも買えまい。もともと値札シールなんてものは貼られていない。私も菓子パンはときどき食べるので,およその市場値段というものは分かっているが,計算をちゃんとしているのかと思ってしまった。いや,オジイはそれ以前に年金暮らしだろうし,息子か娘が一緒に住んでいたりして,何もしなくても生活には困らない境遇なのだろう。いわば店番はボケ防止みたいな感覚か。もっとも人が頻繁に出入りしてくれなければ,かえってボケるだけかもしれないが。

車に戻って早速ビニールを開け,まず「イタリアン」から食す。細長くソフトなコッペパンの中にクリームが入ったシンプルなもの。別段普通である。何をもってこんな名前がついたのだろうか。ちなみに地元・天城町にある三星製菓製パンというところの品物。一応は“地もの”である。「給食指定工場」と書かれているから,地元学生がひょっとして食べているかもしれない。間違いなくB級以下の食べ物だろうが,ちょっとだけ日常に触れた感じがする。
もう一つの「チョコパウンドケーキ」はというと,まあその名の通りで,ちょっとビターな味である。そして製造元はというと,何と群馬県玉村町のコスモスという会社のもの。で,ホームページによれば,希望小売価格は150円。群馬から関越ないし東北自動車道と首都高に乗っかって,プラス飛行機かはたまた船便ではるばる1000km以上の旅を経て,さぞ小売価格ははね上がるはずだが,にもかかわらず二つで190円。内訳は「群馬産・チョコパウンドケーキ」が150円で,「天城産・イタリアン」が40円? んな,バカな。しかも,小売店であるからには4月からは税込価格表示……って,そんなややこしいことはオジイにはどうでもよいか。あらためて「これでいいのか?」って感じだが,いいんだろうな,これで。
再び出発。交差点を右折すると,曲がり角に赤・白・緑の“イタリアンカラー”の丸型バス停ポール。島内を走る徳之島総合陸運バスのバス停だ。名前は「富田商店前」。いかにも地方のバス停名である。あ,ひょっとしてさっきの「イタリアン」はここから来ているのかもしれない。ちなみに南下しているときに平土野行きのバスとすれ違ったが,緑地に青とオレンジの線が入ったマイクロバスだった。空港にいたバスもそうだろう。地味というかセンスがないというか……。道がそれほど広いわけでもなく,ところどころ舗装されていなかったりもするし,何より朝夕でもない限りは満員にもならないだろうから,サイズ的にはちょうどいいのだろう。
次に目指すのは犬田布(いぬたぶ)岬。途中,秋利神(あきりがみ)大橋というアーチ橋を渡る。下を流れる秋利神川というのはかなりの水量があって,難所だったようだ。でも,その豊かな流れなど見えないくらい,かなり高いところを走っているようだ。

@犬とオジイ
しばらく県道を順調に走って,その名も犬田布集落にて右折。入った道は次第に狭くなっていくが,集落には「アイショップ」というちょいとしたコンビニもあって“そこそこ”な感じである。途中の色鮮やかな花畑で,作業中のおばちゃんと目が合いつつ,また大きな道と交差して,岬への道だろうと疑いなく入ったら,同じ“み”つながりでも,岬ではなく港だったなんてオチに遭遇しながらも,車を岬へと進めていく。
この犬田布集落では,1864年に百姓一揆が起こっている。見なかったが,その事件の石碑もあるという。当時の薩摩藩役人が,税である砂糖の取り立てを厳しくする中で,1人の農民が黒砂糖を横流しした疑いで捕えられ,拷問を受けたことが発端になったとのこと。村人たちは結束して役人を追い払い,村の森に7日間籠城して抵抗を続けた。結果,奉行所は村人全員を罪人にすることはできず,7名を島流しにしただけで無血解決。この事件以降は村民からのムリな搾取ができなくなったという。その後,地元出身の劇作家によって「犬田布騒動記」という芝居にもなっている。
犬田布岬は,集落のどんづまりのさらに先にあった。そのどんづまりには,30台くらいは入れる駐車場と,なぜか平屋立てのスナックがある。周囲は緑しかないので,このスナックはドラマのセットのように浮いた存在だ。さらには民宿「やまと」という建物もある。この「やまと」は3階建てで,「食事・喫茶・団体食事・カラオケ」と壁に書かれているが,完全にコンクリートの廃墟と化している。カラオケがあるということは,20年くらい前はまともに機能していた時代があったのか。
その隣には東屋とくっついて喫茶店がある。窓を開け放ち,明かりがついているこの喫茶店はなぜか盛況で,おそらく10人程度のキャパだろうが,半分くらいは埋まっている。中を窺おうかと思ったが,これもどうにも場所に合わない感じで気が引けてしまった。一応,コーヒーは置いているのだろうが,その他に何があるのか謎だ。それこそ笑いの“ネタ”にされていい一連の光景である。
一方,内陸側を見ると,古ぼけたコンクリの庇つきの玄関。柱には「岩井博物館」「戦艦大和記念館」「民芸品」「骨董品美術」という文字が,かすれているが読み取れる。博物館といっても,これまたコンクリでできた小屋と,奥にはこれまたコンクリの大きめな家屋。家屋と思しき建物には明かりがついているから,おそらく人は住んでいるのだろう。しかし,どこをどう見ても,戦艦大和も骨董品も置いてあるように見えない,博物館らしからぬ建物だ。こちらも周囲は草地などの緑しかないし,むしろこっちのほうが笑いの“ネタ”にされていいかもしれない。

いよいよ犬田布岬。青々というよりは潮風で枯れたような,ソテツの樹木の間に遊歩道がある。ソテツにはパイナップルみたいな形の,緑色の無数のブツブツした実がなっている。不気味な実の形と,空がどうにもどんよりしているのが,いかにも“果て”の荒涼感を演出する。
遊歩道を進むこと1分,そこには野球グランド1個は有に入る芝地。波の音は心なしか静かで,その一番向こうに高さ数十m,幅数mの三角のコンクリート製のアーチがそびえる。近づいてみると,首が痛くなるほどの高さがあり,手首がくっつくように両腕を上に高く伸ばした形をしている。一帯を囲む鎖があるのだが,その鎖を支える支柱の石が,長年潮風に吹かれた影響か,錆びついてところどころ崩れている。入口にある,このアーチを象徴するような赤い碇のオブジェも錆びつきがひどい。このような状況なので,そばの立て札には一昨年の9月付で立入禁止の指示がなされているが,肝心の「立入禁止」の看板すら横倒しになっていた。
さて,このアーチは「戦艦大和慰霊碑」。アーチの下の石碑には「祖国を護る勇士よ 安らかにお眠り下さい」と彫られている。1945年4月7日,太平洋戦争の末期だ。沖縄に上陸した米軍を攻撃するために,「大和特攻」の名の下に南下をしていた戦艦大和は,この沖合いで米軍の波状攻撃を受け撃沈する。このときの乗組員2498人は全員戦死。その戦艦の大きさは,全長263m,最大幅が38.9mという大きさ,当時の費用で1億3780万円(いまの金額で約2600億円)という。当時世界最大の主砲を搭載し,射程距離は42km,時速2800kmだったそうだ(ホームページ「戦艦大和の世界」を参照)。
それから60年近くたって,某国のミサイルが日本の海上に余裕で届くと言われるほど,軍事技術は進歩している。それに比べれば,42kmの射程距離など“お子ちゃまレベル”だろう。そのときの米軍に比べても,技術は劣っていたかもしれない。それを“気概”や“愛国心”で何とかカバーしていたということだろう。
このあたりの経緯については,『戦艦大和の最期』という本が出ているそうなので,機会があれば読んでみたいが,その中にも載っているというこのセリフが印象に残る。いわば“最期”に向かって,船内でいろいろな議論が巻き起こった中での,とある大尉の言葉だという。
「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚める
ことが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじ過
ぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって真の進歩を忘
れていた。敗れて目覚める,それ以外にどうして日本
が救われるか。俺達はその先駆けとなるのだ」
日本は,それから十数年経って高度経済成長を迎えた。現在の日本はというと,大尉が言うところの“進歩”は果たしたかもしれないが,皮肉にも一方の“私的な潔癖や徳義”にはもっとこだわるようになったかもしれない。果たしていまの日本が,その大尉らが自らの命を絶ってまで望んだような状況になっているのかと言われれば,疑問であると思う。“私的な潔癖や徳義”を,例えばいまの日本国家が“国”としてこだわって行きついた先が,アメリカ支援の名の下にイラクへ自衛隊を派遣した行為と言っては言い過ぎだろうか。

話がズレたついでに……この段落を書いている2004年4月10日現在,その自衛隊が派遣されたイラクで,日本の民間人3人がゲリラだかテロリストだかに拘束を受けている。細かいことはともかく,日本が「アメリカ支援」を銘打ってから,こんな事件が起こることは必然だったのかもしれない。強いて予想外だったのは「自衛隊ではなく民間人だった」ことだろうか。
もっとも「アメリカとはまったく別に,あくまで日本はイラクを救うためのみに自衛隊を派遣する」と初めから主張していたところで,日本の自衛隊や民間人が完全にイラク国民に受け入れられる保証もなかったとは言える。そして,言わずもがな今回の犯人は,日本人にとって許しがたい行為をしているとも言える。ただ「我々イラク人は日本を信用していた」と,イラクのゲリラだかテロリストだかがことあるごとに声明していたセリフは,日本人がかつてアメリカと戦ったときのことを言っているような気がしてならない。
奇しくも,戦艦大和が犬田布沖に沈んでから,ちょうど“60年目”にして起こったこの事件。紛れもなく,いまの日本国家にとっては何か“転換”となる事件になるだろう。青い海の中に散った2498人は,いまのこの状況を天国でどのように見ているのだろうか。(第2回につづく)

奄美の旅アゲインのトップへ
ホームページのトップへ