奄美の旅(第1回)

(6)龍郷町
@西郷隆盛のいた場所
先ほど曲がり損ねた県道に入ると,目の前には断崖。いくらもしないうちに断崖を縫うように海沿いの道になる。その海もあっという間に見えなくなり,山の中。救いは道が舗装されているところ。坂道に食傷気味であることは先ほどから書いているが,しばらく経つと,私の気持ちを察したか,道はほぼ平坦となってくれる。
20分ほど走ったか,秋名(あきな)集落という所に入る。県道から少し入ったところに,定番の共同店+αwithバス停。バスは1日7便。思ったほか多い。集落の出口には「スーパー和」という共同店よりもデカいのがあった。ここいらでは割と大きめな集落に当たるのだろう。秋名から先はしばらく左に典型的な遠浅の海を見て走る。天気もよいし,たまに車が停車して見物しているが,私は通り過ぎて北に進んでいく。
13時40分,西郷南洲流謫地跡(さいごうなんしゅうるたくちあと)。西郷南洲こと西郷隆盛が住んでいた旧宅だ。龍郷集落の入口に大きな看板があり,しばらく集落を進むが,その場所は集落の中に紛れて分かりにくい。鉄柵があってその脇に表札でその旨書いてあるだけなので,見逃すこと必至である。中にはよく茂った樹木と,古い藁葺きの民家,石碑がある。石碑は残念ながら字が読めない。何とも不親切。

後でガイドブックなどで調べると,こういうことだ――隆盛は,薩摩藩主であり恩師の島津斉彬の死と,その後の藩政に絶望し,僧・月照とともに1858年11月,入水自殺を企てる(隆盛当時31歳)。月照は,将軍継嗣問題や斉彬の上京計画に,薩摩藩と京都朝廷との橋渡し役を務め,西郷とも周知の間柄であった人間。ちょうど井伊直弼の「安政の大獄」の時期で,幕府から月照の捕縛命令が出た。西郷は,当時事実上の藩主だった,斉彬の父・斉興に月照をかくまうよう頼んだが,拒否するどころか月照の藩外追放を命令したのが,自殺の動機だ。ちなみに斉興は,正室の子である斉彬より,側室の子である久光を藩主にしたかったようだ。
で,この入水事件で月照は死亡するが,隆盛は助かる。奄美行きを命ぜられたのは,その直後のこと。1859年1月に龍郷に到着し,再び久光に呼び戻されるまで,丸3年この場所に身を置いた――という経緯だ。
ただし,いわゆる島流しではなく,上述の井伊直弼の「安政の大獄」は,隆盛にも捕縛命令を出していた。それをかくまうための処置であったそうだ。息子・斉彬の右腕であったゆえの斉興からの配慮もあって,扶持米も出たという。隆盛は,島民を税の厳しい取り立てから解放したり,自らの扶持米を病人や老人に与えたりして人気者になり,ここで地元出身の女性と結婚したという。奄美においては幸福な時期を過ごしたと言えよう。

面白いエピソード。隆盛は,上述の入水自殺を企てる4カ月前に一度,自殺を試みようとした。島津斉彬の死の直後のショックによるものだったが,これを僧・月照に説得されて思いとどまった。隆盛は奄美から鹿児島に帰って間もなく,島津久光の命令を無視する行動を取ったため,捕縛命令が出る。久光の上京に対する安全を考えての行動だったが,この状況を憂いた盟友・大久保利通が,「久光がもし隆盛に切腹を命じたときには自分も一緒に死ぬ」と隆盛に言ってきた。しかし,今度は隆盛が利通を説得して,思いとどまらせたという。
……と,ここまでは感動だが,利通は後に隆盛と外交論で対立し,隆盛が自刃する西南戦争へとつながっていく。これを考えると,隆盛の説得に運命のいたずらを感じずにはいられない。ただし,利通もその翌年,暗殺される目に遭っていることまで含めて考えれば,神はどこかでやっぱり運命を平等にさせるための糸を操った……のかもしれない。

A大島紬村
龍郷町役場脇で国道に出て数分進むと,「大島紬村」の大きな看板が出ている。時間もあるし,ちょっと興味もあるので寄ってみる。
進行方向で右折して5分。大島紬村に着く。20台は入れる大きな駐車場の前に鎮座する大きな入口は,幅・高さとも3〜4mはある大きな琉球チックな門。「美ら門」と書いて「ちゅらもん」ではなく,奄美では「きょらもん」と読むようだ。
入ってジャリの坂を上ると,左にとんがり屋根の白い建物。受付と資料館を兼ねていて,ここで入村料500円を払う。すると,案内の者が来るのでちょっと待ってほしいとのこと。資料館に入る間もなく,青い作業衣を着たがっちりした男性が出てくる。彫りの深い,藤岡弘を“崩した感じ”のちょっと強面。日によく焼けた浅黒い肌に,薬指に光る金の指輪と金の腕時計が,ますます彼を怪しくさせる。

初めに案内をされたのが染色館という施設。パッと見,いかにも作業場という感じの素っ気無い建物。その脇には車輪梅(しゃりんばい)という木。その名の通り梅の花に似た花が咲く。別名を「テーチ木」。幹が鉄のように固いことから「鉄木」,それが訛って「テーチ木」になったようだ。
まずはその樹木を細かく砕き,直径1.5mはある釜で十数時間煮る。すると,茶褐色の液体になる。匂いはシンナーに近い刺激臭。色の元は,木に含まれる,お茶でお馴染みのタンニン酸。大島紬の原料である絹糸の束が数本吊るされていて,この液体に漬け込む回数が増えるほど,色が薄茶からこげ茶色に変わって行くのを見ることができる(以下は,伝統的な泥染め製法についての説明である。もちろん,泥染めをしない製法もある)。
次に案内されるのは泥田。鉄分が豊富に含まれているようで,この田んぼに染料に漬けた糸をさらに漬け込むと,化学反応で色が濃紺になっていく。もちろん,一度だけでなく何度も何度も漬け込むのだ。糸も初めに比べて,ふわっとさらっとした触り心地になる。この濃紺が泥染大島紬の地色となるわけだ。
その泥染の様子を実演してくれるが,深さは人の膝から腰くらいまであり,中腰でやるのでかなりの重労働である。田んぼは,10m×20mくらいの広さの中に四つくらいに分かれている。染色を繰り返せば繰り返すほど,泥の鉄分は失われていく。そうしたら,隣の田に移る。その移っている間に,前の田んぼには降雨などにより新たに鉄分豊富な泥が流れ込む。そんな自然の繰り返しが,この泥田では行われているわけだ。

次は図案室。要するにデザイン部屋だ。方眼紙の上に点で細かい指定をして作成するもの。方眼紙なんて,なつかしい言葉を聞いたが,最小単位は1mm×1mmだから根気がいるだろう。その最小単位の点の集合で一つの模様を完成させるのだが,最近はパソコンという文明の利器が取って代わっているらしい。案内される順番に書いているが,当然ここが一番最初の行程である。
その次の行程になるのが,締・加工。男性が4人並んではたおり機に向かって作業している。詳細は私自身が専門家でないのと,ガイドが早口で聞き取れなかったので(後で聞き返すのも何だったし)書けないが,縦糸は絹,横糸は綿を使用し,白い絣織物を作るそうだ。綿の横糸は,縦の絹糸をしっかり固定するためのものなので,力のある男性の作業になるそうだ。またデザイン用に絹糸を染色するのもここでの作業になる。
その後,案内されるのは手織り部屋。こっちは女性ばかり5人。ここでさっきから案内している男性が姿を消してしまう。はて,どうするのかと思っていると,女性のうちの1人(50代だろう)が私を手招きして,はた織機の横に案内してくれる。
聞けば,一反(長さ10.6m×幅34cm)を織り上げるのに40日もかかるという。ベースとなっている縦糸だけの濃紺の織物に,デザイン用に染色された糸を横に差し込んで織り上げて行く。デザイン通りにやるわけだから,1ミリ単位での手先の機用さと根気が必要となる。こういうのは女性の仕事らしい。
デザインに根気がいるとは書いたが,パソコンがいざとなればやってくれる。ところが手織りはその名の通り人の手。で,しかも絹糸は湿気で収縮するもののようだ。せっかく糸を正確に織り込んでも,微妙にズレが生じてしまう。微妙なズレも,放って先に進むと取り返しがつかなくなるわけだから,デザイン指定と照合して,気づいた時点でそれを修正しなくてはならない。それが終わってようやく先に進める。これは聞きそびれてしまったが,「今日はここまで終わらせる」というスケジュールがあったとしたら,やっかいな絹糸の収縮のせいで,夜遅くまでいわゆる「残業をする」こともあるのだろう。そんな一進一退がここでは繰り広げられるのだ。

行程説明はここで終わり。次は高倉に案内される。高さは4mくらい。三角の藁葺き屋根を細い丸太数本で支える。その藁葺き屋根の中が屋根裏部屋の雰囲気で,そこにいろんなものを収めるのだ。ここの支柱は,2mほどの長さ×直径20cmほどの4本の柱で支えていて,日本史にも出てくるのでご存知だと思う「ねずみ返し」もついている。倉に上がるには,支柱と同じくらいのサイズの丸太で,等間隔でV字型に切り込みが入っている,笛みたいな形のものに足をかける。V字に平行ではつま先がちょっとしか入らないから,直角に足の側面をひっかけて,もう一方の足をクロスさせる格好で上り下りするのだ。組立方式は,前回述べた奄美の民家と同様,木に木を差し込む方式。万一,雨風で壊れても組立が容易なのだという。
最後に案内されるのは,大島紬展示室と土産屋。展示室も当然販売所を兼ねている。気になるのは値段だが,ここで買うと一反で12万円。さらに,今年(注・2003年)は奄美本土復帰50年につき,1割引をするという。気の遠くなる手織りや泥染の力仕事からいくと,いささか安すぎると思ってしまうが,この値段が東京や大阪に行くと,40〜50万円になるという。輸送費だのマージンだのが入るためだが,私は現地価格ですでに40〜50万円と思っていた。奄美を往復する飛行機料金やら宿泊費を加えても,現地で買うのが圧倒的にお得のようだ。

(7)笠利(かさり)町
さらに北上して空港への道と別れて,国道58号線をそのまま北上すると,15時30分,笠利町は赤木名(あかきな)を通過。町役場があり,スーパーもある。街の中心であるが,国道58号線はここで終了する。
私はすっかり間違った思い込みをしていた。同線は,沖縄本島のやんばるは奥(「沖縄標準旅」第3回参照)から始まって,那覇バスターミナル脇の旭橋で終了する国道と思っていたのだが,実は違ったのだ。スタートは鹿児島市中央公民館前。ここからわずか700mで市内は終了。次は奄美よりも北にある,種子島の西之表市から島内を南下して島間までで終了。その後,奄美は笠利から名瀬を経て古仁屋まで続いて終了。そして例のやんばるへとつながっていくのだ。ちなみに旭橋と思っていた終点は,もう少し南の明治橋というところだ。きちっと調べてみると,なかなか面白い結果が返ってくるものだ。

@岬巡り3連発
話を戻して,道は県道に入る。ここから先は岬巡り3連発。まずは1番目・蒲生崎観光公園だ。県道から,腐るほど体験した細い山道に再び入って,約10分で駐車場に到着する。そこから200m程度の遊歩道を歩くと,どんづまりに展望台がある。20段ある階段を上って見下ろすと,270度のパノラマ。進行方向に見ると,陸が3段海に向かって突き出ている。下にある集落は佐仁(さに)という集落だろう。
再び県道に戻って,左に海を見ながら北進すると,先ほど見下ろした佐仁の集落。ここは家しかなく通過。そして右にカーブする。ここいらは奄美の最北端の岬地形の現れだろう。
そして,2番目兼奄美最北端の岬である笠利崎。今度は右に海と防風林を見ながらの走行となる。こっちは土地がフラットで道幅も広い。たまに車が停まっていて,どうやら林の隙間にある小道から海岸に出ているのだろう。ま,何はともあれ,まずは笠利崎だ。
その笠利崎は,左に断崖がそびえる。その上に白亜の灯台。道はその断崖の下にどんづまりとなる。防波堤に腰掛ける若者5名を発見。灯台にはさすがに登らない。帰ってこられなさそうだ。彼らも同じ考えなのだろう。その下で打ち寄せる波の音を聞いている。この辺りの海は岩場が多く,むしろ手前の,さっき車が停まっていたあたりのほうが砂浜になっている。
笠利崎からの帰り道,先ほど車が停まっていたあたりが気になったが,まだ車は停まっていた。早速,車を停めて防風林の間にある1.5mほどのジャリの小道を抜けていく。
すると,いかにも手付かずという感じの美しい海。プライベートビーチ感たっぷりだが,小道があるからには,人も少しは訪れるのかもしれない。まあ,海の家みたいな施設は一切ないから,公にはなっていない海岸であることは間違いなかろう。こういう海岸のほうが,私は好きである。
海岸へは,あり地獄のような砂の斜面が待ち構えていた。ズボズボと足がすねの辺りまで深く入り,靴の中にまでご丁寧に砂が入ってしまった。砂は普通の砂。何気に星砂…なんて思ったが,何も起こらなかった。

再び車に乗り県道に戻ると,方角的には南下する形となる。用,笠利集落と通過するが,目に入ったバス停を見ると,ここいらは1時間に1本バスが走っている。意外と言えば意外だが,笠利には家が多く建っていて,団地もあったので,ここから名瀬方面に出勤あるいは通学する人間も多いのだろう。あと,笠利にはキリスト教の墓地と思しきものがあり,白い十字架が夕方の青空と太陽に映えて鮮やかであった。
そして3番目,トリを取るのは「あやまる岬」。こっちは山道ではないが,狭い道を少し進むと,どんづまりに大きな20台ほど入れる駐車場があり,展望台は小高い丘の上にある。丘は芝生がきれいに刈られており,また隣にアスレチック公園があることから,有名観光地であることを証明してくれる。閉館で入り損ねたが,資料館も近くにあるようだ。
さて,その上がった展望台は,丸い鞠の形をしている。「あやまる」というのは,岬の起伏が「綾織のまり」に似ているところから来ている。が,私はどうしてもひらがなで書かれると,「ごめんなさい」の意味に勘違いしてしまう。場所的にも時間的にもタイミングがいいのだろうか,カップルが2組いた。1組は斜面で少しイチャイチャし始めている。まさしく私の場合は,「1人で来てごめんなさい」って感じである。
時間は17時。ここ「あやまる岬」にて,レンタカーで見るべき観光地はすべて終了した。18時30分発の奄美空港発名瀬行きの最終バスで帰るつもりだったので,予定より1時間早いが,西郷レンタカーにデミオを返すこととする。さて,デミオと私の運命や,いかに?(第5回につづく)

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