ヨロンパナウル王国の旅(全5回)

Bさまざまな“顔”を持つ島・与論
与論民俗村の次に向かったのは,赤崎(あかさき)鍾乳洞。畑の中に茂みに埋もれるようにジャリの脇道があり,そのどんづまりに1台だけ車が。見るに管理人の車であろう。はたして客は私1人。そして管理人の30代後半くらいの女性1人が,小さいプレハプの中にいた。彼女に入館料300円を払うと,私の背後,すなわち茂みの下に鍾乳洞がある。ちょっとユニークである。早速,階段を下っていく。
中は二股に分かれている。右に進むと「菩薩」「逆さ富士」「天の川」……と,名前は格好よくてもすべて同じ鍾乳石にしか見えないもの,狭苦しいアーチ状になっていて,そこをくぐると幸せになれるという「幸福の門」など,ありがちである。長さもさしてなく,10分もあれば見られてしまう。個人的には,ジャングルの中にパックリと大きく開いた沖永良部島の昇龍洞(「奄美の旅」第6回参照)や,透明な水が青く映ってとても幻想的な岩手の龍泉洞には到底かなわないと思った。
その中でも強烈だったのが二つ。まず「剣の間」という鍾乳石。細長くて鉛筆の先のように鋭角にとがった無数の鍾乳石群は,それこそ“先端恐怖症”の人にはこの上ない恐怖を誘うだろう。何の恐怖症もない私でも,少し不気味な感を抱いた。
もう一つは,二股の左に進んだところにあった「千枚田」というもの。これは,大きな岩に無数の細かいクレーターが存在する。こっちは“ブツブツ恐怖症”にはキツいかもしれない……そうそう“ブツブツ”と言えば,「織姫」という鍾乳石があったが,これもクレーターみたいなやつだった。はたして何をもって「織姫」なのかギモンである。
前回紹介した与論民俗村と,ここ赤崎鍾乳洞は島の東端に位置する。西端のプリシアからは,いわば“折り返し地点”となる。そして,ここまででほぼ1時間半。はて,早いのか遅いのか分からないが,その半分くらいを雨の中ですっ飛ばしてきたせいか,何だかイヤにストレスがたまる。大分,雨が小降りになってきたから,あと1時間半を効率的に使わねばならない。

西に少し進んで路地を上っていくと,その高台のてっぺんにサザンクロスセンターと与論城跡がある。城跡に隣接して建っているサザンクロスセンターは,島のいろいろな資料を展示する資料館。5階建てのシンボルタワーである。名前の由来は,この与論島が南十字星の観測できる最北端だからだそうだが,今日は間違ってもそれは拝めそうにない。一応,今回の旅用にベタにも稲垣潤一の『サザンクロス』をMDに入れてきたが,それを聴くシチュエーションも期待できそうにない。
さて,その資料自体は,昭和30年代の写真が何ともノスタルジック……を通り越して,歴史の教科書に出てくる戦前の地方の農村そのものである。白黒なのもあるだろう。「高度経済成長時代」とは遠く無縁な生活の一端を垣間見たような気がする。先日読んだ芸術家の故・岡本太郎氏著『沖縄文化論』(中公文庫)では,まさにそのころの沖縄が詳しく書かれていたが,生まれていない私でも,やはり本土との大きな落差を感じずにはいられなかった。ご存知のように,奄美は終戦後か1953年まで米軍統治下に置かれていたが,あるいはそれによってあの写真のような状況を強いられたと言うのは詭弁だろうか。
また,この島の住民はしばしば移住を経験することになる。1900年前後は,人口過密と自然の厳しさから約900人が集団移住で長崎県口之津(くちのつ)町へ行った(その10年後に福岡県大牟田市三池に転住)。また太平洋戦争中の1944年には,当時の満州を開拓するのに約600人が渡航。敗戦後の引き揚げでうち260人が,鹿児島県田代町に移住となった。
南西諸島の島々は,いわばこのような「翻弄される歴史」の中で年月を重ねている。だが,島の人たちの表情はなぜか明るい。それが“ヤマト”の人間を惹き付ける。少なくとも私を。もしかして“表面”しか見ていないのかもしれないし,彼らは実はしたたかなのかもしれない。でも,小さいことでとかく神経質になりがちな私にとっては,この大らかさ――というよりも「あっけらかん」と言うほうが適当か――が,心に凝り固まったものを溶かしてくれるのだ。

C『アイランド』を求めて
外に出る。タワーの脇は芝生のスペースと神社が不釣合いに入り混じっている。でも,これが与論城跡である。“城跡”と言うにふさわしいものといえば,この高台を取り囲む琉球石灰岩の石垣のみ。いわゆる「一の郭」「二の郭」というような仕切りはない。高台の突端は船の舳先のようになっており,石垣は上に反るようにそびえる。与論の島主だった琉球北山王の三男・王舅(おうしゃん)が,1405〜16年ごろ,ここに城を建てはじめていたが,最中に王朝が滅亡してしまったため,そのままに終わってしまったという幻の城らしい。どおりで城跡らしからぬ風景なわけである。
城跡を見た後はそのまま北上して,茶花に入る手前の「ユンヌ楽園」という植物園に寄る。ここも,萱葺き家屋や道具が展示されているが,与論民俗館の比ではない。むしろ植物のほうが売り物のようで,花や木が好きな人間にはいい場所だろう。ちなみに「ユンヌ」とは与論のことである。
さて,これでガイドブックなどに載っている名所は見終わった。しかし一つ,この島で肝心なものを見損ねていた。そこを見ずして,この島を離れるわけにはいかない。その場所のために,私は何度となく都内の書店をかけずり回ったのだ。
それは作家・森瑶子氏(1940〜93)の別荘と墓である。彼女はここ与論の海に惚れ込んで,1988年に別荘を建てる。そして,同年与論に伝わる天女伝説と七夕をモチーフに,ラブストーリー『アイランド』を執筆している。そして亡くなった後は,その別荘のそばに埋葬されたという。今年で没後10年だ。
普段恋愛ものを読まない私が,この本に惹かれた理由というのは単純。舞台設定が,2003年すなわち今年なのだ。彼女に15年後の今年がどう映ったのかに興味を持ったのだ。ちなみに,1988年といえばバブル絶頂期。彼女らしいゴージャスで甘美な情景を期待したりもした。
この本,角川文庫で出ているのだが,上述のとおり都内の有名な本屋を片っ端から当たっていったものの,なぜかこの『アイランド』だけが抜けている。大判の本もあるのだが,こちらもどの本屋にも置かれていなかった。版が古いからか,はたまた失礼ながら大して売れなかったのか,版元は在庫切れで増刷がないまま。ということで,しまいには神保町や地元の古本屋にも当たったが,ついぞ見つからなかった。そして結局,そのブツ(大判)を見つけたのが,既出のサザンクロスセンターのとある一角というオチもある。

地図を見てみると,彼女の墓はユンヌ楽園からは北東の位置。初めの頃,土砂降りの雨の中通り過ぎてしまった古里(ふるさと)地区にあるようだ。時間は15時半。返却までは1時間を切っている。ここはダッシュをかけなければ。
狭い路地を入って,とある交差点で右折する。その途中通過する与論高校は,鹿児島県で初めて「連携型中高一貫教育」を実施した学校である。小学校は島に三つあるのだが,中学校と高校は一つだけしかない。学生のほとんどがエスカレーター式に高校まで進むという現状なので導入されたようだ。そんでもって,ズバリ「ユンヌ」という郷土学習の科目まで設置されているらしい。先回紹介した与論民俗村の“サーター車体験”も,あるいはこの「ユンヌ」の一貫なのかもしれない。
話を戻す。先ほど通ってきた「バス道路」を間もなく突っ切り,畑地の中の道をウネウネと進む。道は狭く,私道と言ってもいいような感じだ。そのうち上り坂となり,その頂上で道がカーブになる右側に,赤瓦の東屋みたいな建物がある。ここが森瑶子の墓だ。
入口には陶製のこげ茶色のシーサーが鎮座して,8段の小さな階段を上がった脇には「Masayo Brackin」という文字が書かれた石碑。旧姓の本名は「伊藤雅代」。放浪の旅の途中に出会った英国人のアイヴァン・ブラッキン氏と結婚してのことである。
墓自体は,青いモザイクタイルのモニュメント。屋根に向かってだ円にアーチを描いている。彼女らしく和洋…いや“琉洋折衷”というところだ。アーチの根元は四角の台になっており,四方いずれにも彼女の在りし日の写真パネルが飾られている。誰が置いたのか,一角にワンカップが一つ置かれていた。隣接して広い敷地があり,結構な下り坂となっている。崖の上に建っているのだろう。奥にこれまた赤瓦のごくシンプルな家屋が見える。おそらくはこれが別荘だろう。
この家の庭ではよくパーティーが催されたという。しかし,門には無断で入らないようにとの看板。少し中に入っていってみたが,車が置いてあり人がいそうな雰囲気だったので引き返す。ちなみに,毎年7月7日の七夕には,彼女を偲んで「アイランドツアー」なるものが行われ,この家が開放されるらしい。

(4)再び,リゾートホテルタイム
これにて島内見学は終了だ。時間は16時を回っていた。雨の道をすっ飛ばして,プリシアには16時20分に到着。さっき応対した男性従業員が,貸出し帳簿を見つめて一言。「ちょうどですね。ありがとうございました」――何だか,がっちりしている印象を持つ。これで10分でも遅れていたら,6分の1加算とかでもするつもりだったのだろうか。メールでの問い合わせに無反応(前回参照)だったのがそもそものケチのつけはじめか,何かミョーに一挙手一投足にややカチンとくるものがある。
ま,いいか。車を借りる前にすでに部屋のカギはもらっているので,とっとと部屋に行こう。本館「ソレイユ」を出てすぐ左折。入口右にあるちょっと大きな売店と,その先左のテニスコートを通り過ぎ,水色に塗られた小道を60〜70mほど歩くと,白地で表面の輪郭が水色に塗られた2階建てのコテージ群に入る。
「Cタイプ」と呼ばれるこのコテージは,1階・2階に2部屋ずつ,都合4部屋で1棟となっている。2階へは1階の玄関ドア前にある螺旋階段をあがっていく。それが全部で20数棟あるようだ。でも,16時半過ぎで多少外が暗くなってきているにもかかわらず,明かりがついている部屋はまばらだ。私の部屋はコテージ群のとば口にある建物の1階,700号室である。
中は,ドアをはさんでツインベッドのスペースとテレビやソファのあるスペースに分かれていて,あわせて12畳ほどのフローリングルームだ。ソファは向かい合って二つ,人が横に寝転がれるほどの大きさで,壁にヒロ・ヤマガタみたいな絵が飾られている。一方のベッドは高さが50cmほどと低く,ピンクのシーツがかけられている。ツインベッドと書いたが,無論泊まるのは私だけである。この手のホテルには,シングルルームなんてハナッからないのだ。さぞ,ホテル側には効率の悪いことだろうが,だからメールでの問い合わせも無視した?……うーん,なんて執念深いヤツなんだ,オレは。
話を戻す。部屋の奥に,私にはムダと思える2畳ほどの“空間”があり,その奥はユニットバス。5畳ほどの広さがあるが,これも私1人にはもったいない広さだ。こういうホテルで何気に楽しみなアメニティは,よく見るとくしがない。ちょっとマイナスだ。
これでしめて,インターネットから予約割引が適用されて1泊2日朝食付きで9450円。建物は多分,築十数年は経っているだろうか,ところどころサビがあったり,玄関のドアが閉まりにくかったりした。

1時間ほど休憩して散歩に出る。夕飯を取るレストランが本館をはさんで反対のエリアにあるので,そこに行くついでにいろいろ見てみようと思ったのだ。
まず,自分が泊まる棟のすぐ脇には,真っ白い教会がある。ここで結婚式をやる人間がいるのだろうか。さらに進むと海岸に出る。左には船着場らしき護岸が見える。遊覧船が泊まるのだろう。そして,目の前は100mほどの砂浜である。でも遊泳禁止。そのせいか,草木が生い茂っていて階段を覆い隠している。砂浜も汚れていてゴミが散乱していた。海の向こうには,出光のガスタンク。景観がいまいちだから,オープンにしていないのかもしれない。ここからは西に歩道が延びているが,見るものは何もない。緑のみである。ちょっと寂しい。
そして,その緑を通りぬけると,右に高台があり,紅白の縞の灯台・兼母(かねぼ)灯台がある。ここがこの島の西端と言っていいだろう。敷地に入れなくもないが,周囲に草木が生い茂っていてムリそうなのであきらめる。
そして,その隣に白いギリシャ風の建物が見える。この一角に夕飯を取る予定の「ピキ」という和食レストランがある。中は明かりがついていて人が動いているが,オープンは18時で,まだ30分近くある。建物の前は水色のタイルが敷かれ,ちょっとした広場となっている。その中心には噴水。真ん中に白い陶製の人形が飾られ,三方から赤・緑・水色の3色ライトが照らされている。いかにも,って感じだ。
振り返って建物を見ると,真ん中に上に上がれる階段があるので登ってみる。この階段,上に行くほど細くなるやつで,これまたいかにも,って感じであるが上は何もない。近くの海岸が見える程度だ。兼母灯台と接しているので,こちらから入れるかと思ったが,ダメだった。
一度建物を離れ,再びコテージ群の中に入る。こちらは「Bタイプ」というそうで,白1色で2部屋ないしは3部屋で1棟となっているが,玄関のドアがない……というか,あるにはあるのだが,部屋の窓みたいな出入口である。こちらはCタイプコテージ以上に明かりが少ない。値段は当然こちらのほうが高いのだが,やはり客は安きに流れてしまうのか。
プリシアの経営母体である,ミサワリゾートのホームページによれば,リゾート事業の売上は毎年漸減している。プリシアは八丈島にもホテルがあったのだが,こちらは残念ながらこの8月に閉館してしまった。三宅島噴火による風評被害と,日帰りでも十分な場所なため,泊まる人間が減ってしまったのもあろう(話が少しズレるが,ダウンタウンの松ちゃんが,伊豆のどっかの島に泊まったらお金をもらえたという話をしていたのを覚えている。それくらい深刻なのだ)。
ここ与論については日帰りは困難であるし,泊まる場所も限られているから,閉鎖はないかもしれない。ただ,部屋のところどころのボロさや上記の閑散さを見るに,経営は決して楽ではないのだろうと思う。

Bタイプのコテージは,砂浜と面していて下に下りることができる。通称「サンセットビーチ」といわれるくらいなので,ここからの夕焼けはさぞ絶景なのだろう。ビーチバーなどもあって,さすがにこちらはゴミがほとんど落ちておらず,きちっと整備されている。広さも,端から端まで200mはあるだろう。残念ながら,いまはブルーグレーの空に濃い灰色の雲が覆っていて何も見られない。波がやや高いのか,波音はやや大きい。気温は,ジャケットを羽織っていないと少し寒さを感じるくらいだ。
せっかくなので,稲垣潤一の『サザンクロス』と,森瑶子と七夕つながりで入れてきたドリカムの『7月7日,晴れ』を聴いてみる。あと,その間に入れた杉山清貴も。誰もいない海で寂しい限りだが,いずれもそれなりにムードは盛り上がる。この一瞬のためだけでも,MDに入れてきてよかったと自分の都合のいいように解釈しておきたい。
さて,「ピキ」に戻ると「営業中」の看板が出ている。18時10分前だが入ってみると,元気よく「こんばんは」と板さんと女性従業員があいさつする。しかし「宴会以外の方はもう少しお待ちください」という。その後入ってきたジャケットにスラックスの中年男性2人はそのまま招き入れられたので,あるいは家族連れか会社旅行の宴会でもあるのか。仕方なく外でしばらく待っていると,どうみても宴会関係者とは思えない外国人カップルが堂々と入っていった。まだ3分前なのに。何なんだ,これは。女性従業員は私と同じことを英語で言うのが面倒だったのか。些細なことだが,ちとムカついた。なので,私もそのまま一緒に入ってやる。さすがに今度は誰にも止められなかったが。
中はとても広く,南国らしいウッディなテーブルが10数台はあろう。中央には時節柄,クリスマスツリーがあり,ライトが点滅している。しかし和食の店なので,奥には座敷もある。外からその座敷の障子が見えるが,外はギリシャ風で中は和風なその光景は,ちょっとアンバランスに見える。
私はというと,奥にある海に面したカウンターに座る。無論,海は見えるわけないのだが,1人なのでそこに座った。小心者。そして,3150円の「ピキ定食」なるものを注文する。
待っている間に続々と客が入ってくる。座敷では人数が集まったのか,挨拶が始まった。子どもの声がちらっと聞こえるので,家族連れでの宴会だろうか。でもって,私はというと,水が目の前に出てこない。後ろでは飲み物が運ばれているが,ドリンクを注文していない私のところには何もない。もしかして……後ろをよく見ると,店の真ん中あたりに水差しとグラスが。やれやれ,それくらいあらかじめ言ってくれよって感じだ。

15分ほどで料理が出てきた。内容はというと,
@ピキのからあげ……店名にもあるピキとは“スズメダイ”という与論で獲れる魚のこと。20cmほどの大きさで,からあげしたせいか身が反っているので,パッと見,何度か沖縄で食べた“グルクン(タカサゴ)”かと思った(「沖縄標準旅」第7回「宮古島の旅」後編参照)。しかし,味はアジそのもの(シャレではない。念のため)。ポン酢につけて,お約束の「頭からガブリ」である。
Aとんこつの煮込み……豚肉料理は沖縄だけでなく奄美でもポピュラーなようだ。豚肉の煮込みとして沖縄で有名な“ラフテー”が三枚肉なのに対し,こちらはスペアリブだ。そのスペアリブと野菜を煮込んだものが,奄美のスタイル。ただし,沖永良部以南は沖縄文化圏という説もあるので,この辺りは微妙……というか,いい意味でごちゃ混ぜなのかもしれない。
 ここ「ピキ」のとんこつは,味噌煮込みのスペアリブと,だしのみの味つけの大根というシンプルなやつだ。ちなみに,この4月に奄美大島の名瀬で食べて以来2回目(「奄美の旅」第2回参照)。名瀬で食ったのはとんこつ・野菜ともに味噌煮込みであった。各料理屋でこのとんこつの味比べも面白そうだ。
B海草とイカの和え物……イカは,やはりこの島の名物。彩りが赤っぽくてピリ辛っぽい味付けに思えたので,キムチ和えかと思ったが,よく見てみるとイタリアンドレッシングであった。小鉢のわりに印象に残る美味さだ。
Cアーサ汁……こちらは沖縄と同じく,もずくのすまし汁。しかし,中になぜか魚が入っていた。何の魚かは謎。
その他では,さしみはまぐろとイカとはまちで,普通の味だ。プラスごはんに漬物で,トータル7品。値段のわりには高いが,リゾートホテルの場所代込みか。これくらいなら1500円でもいいだろう。
食べている間,目の前の窓に雨風が再び打ちつけてきた。はたしてこれでコテージまで帰れるかと思ったが,外に出ると,雨はすっかり上がっていた。やれやれ,今回は最後の最後まで雨にたたられてしまうのだろうか。

コテージに戻る途中,本館「ソレイユ」を通過する。これでこの敷地を1周したことになるが,玄関はこれまたクリスマスっぽく,水色と赤と緑のライトアップに,豆電球がツタのように柱に巻かれている。昼間の素っ気無さと対照的で,何ともムーディーだ。
その先,夕方素通りした売店で記念(?)に「ヨロン糖」という茶色いかたまりの砂糖菓子を購入。105円。与論民俗村で食ったやつで少しハマったのだ。民俗村で出されたのは黒と茶色と2種類があった(前回参照)が,こっちにも同様に2種類。後で食したが,旅先でテンパッていたのか,あるいは甘いものを欲していたのか,こいつがやたら美味かった。東京に帰ってからもしばらくこれで“お3時”を充実させようかと思ったくらいだ。ちなみに,黒のほうはパッケージに「ヨモギ黒糖」とあったが,そういう味がするのだろうか。民俗村のは二つとも同じ味だったような気がするが。
さて,手に「ヨロン糖」を持ってコテージへ歩いていると,野良猫が3匹寄ってきた。彼らの視線の先は,間違いなくこの私……なわけはなく「ヨロン糖」である。無視して歩き続けたが,かまってくれるとでも思っているのか,部屋までずっとついてきた。ドア前の螺旋階段に1匹が乗っかったときにはこのまま部屋に飛び込んでくるのかと思ったが,開け閉めしにくいドアを何とか素早く閉めて振り切った。もっとも,そこら辺の“一線”は,私が心配するまでもなく,案外野良猫のほうが心得ていたかもしれない。
さあ,ここからはお待ちかねの「不毛タイム」である……いやいや,やることがないからテレビを見るしかないのだが,東京で言う1・3・6・8チャンネルしか映らない。「爆笑問題のバク天」や「めちゃイケ」まではよかったが,21時以降は完全にアウト。NHKでやっていたスペインの世界遺産の番組を1時間くらい見ていたが,それが限界。とっとと眠って明日に備えることにした。

夜中,「ヒュー」という不気味な音で目が覚める。時間は午前3時。カーテンを開けると,雨は降っていないが,ノッポの椰子の木が大きく揺れていた。(第3回につづく)

第1回へ
ヨロンパナウル王国の旅のトップへ
ホームページのトップへ