奄美の旅(第1回)

(4)奄美西部へ
午前7時20分,宿を出る。本日は,島の西部と北部を見て,18時までに空港前の西郷レンタカーに車を返す。そしてバスで名瀬に戻る,というルートである。
本来ならば名瀬でもう1泊するのだから,車も延長しようと思ったのだが,そもそもは1泊2日の予定でいたのを直前に2泊3日に変更したもの(「奄美の旅のトップ」参照)で,最終日は,島内は名瀬と空港の間を走るのみ。名瀬―空港間はバスで片道1100円。レンタカー代は,代理店経由で「1泊2日割引」というやつで1万600円となっている。となると,レンタカーをもう1泊借りると割高になるのは間違いない。なので,レンタカーだけは変更なしとしたのだ。

「匚」の上棒部分(第1回参照)を,左から右へ行く形で5分ほど県道を進むと,どんづまりに奄美博物館がある。今年は奄美が日本に復帰して50年で,いろいろ見所があるようだ。もちろん,まだ開館時刻ではないから,島の西部を見て昼頃ここに戻って見ることにする。
県道は,どんづまりの手前で左に折れると,一気に景色が鄙びて急坂とカーブの連続となる。道自体は国道と同様,舗装されているのでその点は大丈夫であるが,この地形の極端さには,言葉は悪いがあきれてしまうほどだ。
7時40分,大浜海浜公園に到着。県道から坂道を下ったところにある砂浜だ。海を見る格好で,右側はすぐに崖となるが,左は1kmはあろうほど長い。駐車場も20〜30台は楽に止められるほどに広い。いわゆる「海の家」もあり,さぞかし夏になれば賑わうのだろう。
先に進む。うねうねとアップダウンを繰り返して進むと,大和(やまと)村。そして群倉(ぼれぐら)を右に見る。群倉とは,萱葺きの高床倉庫(以下「高倉」とする)のまとまっている状態のこと。ここのは三つか四つかはある。しかし,駐車場が見当たらず,スピードもついていて通り過ぎてしまった。後で名瀬方面に戻るときに見ることにしよう。
そのまま行くと,「←フォレストポリス」の標識。山の中にあるようだが,とりあえず入っていくことにする。宿に備え付けのパンフレットに,その「フォレストポリス」の中の「マテリアの滝」という滝が写っていて,見てみたくなったのだ。

道はあっという間に細い道になる。周囲は,緑が生のままに鬱蒼と茂る森。屋久島ではないが,鹿や猿がひょっこり出てきそうな気配だ。いや,それよりも車に気をつけねば。しかし,道のところどころにカーブミラーがついていて,そのたびに見るが,対向車はない。時間がまだ朝の8時だと,入ってくる人もいないのだろう。唯一,作業車みたいなのを追い越しただけだ。
20分もすると,突然明るく開け,地面もきちっと整備された広場に出る。アスレチックやキャンプ場,グラウンドもある。地元中学・高校の合宿とか,ボーイ&ガール・スカウトには格好の場だ。個人的には中学・高校で合宿に行った,茨城は高萩にある「大心苑」を思い起こさせる。32km歩け歩け大会,飯盒炊飯,5kmマラソン……やったなぁ,そんなの。
さて肝心のマテリアの滝だが,看板によれば奥のほうにあるようだ。距離にして2.4km。「フォレストポリス」と言うと格好いいが,早い話が「自然公園」だ。メインは,80%は占めるであろう森。残り20%が広場。もっと遊園地っぽいものを想像していたが,そもそも電気ってものが通っているのかすら怪しい。再び鬱蒼とした森に入って10分,ようやくマテリアの滝に到着。
木と石でしっかり整備された階段を2〜3分降りると,まさしく「オアシス」とも言うべき,そこだけがぽっかり空が開いていて,光が差しこむ水辺となっている。滝は高さ15m×幅5mくらい。滝壷が直径20〜30mほどの広さ。名前の由来は,案内によると,「本当に美しい太陽の滝壷」がいつしか「マテリアのコモリ」となり,「マテリアの滝」と呼ばれるようになったらしい。うーん,よう分からん。さらには「大人は焼酎をここの清流で割ると,絶対に味わえない風情となる」らしい。好きな方はやってみるといいが,ここから出られなくなっても責任は持てない。
ここの近くには,標高694mで奄美最高峰の湯湾(ゆわん)岳があり,そこの7号目には展望台がある。行ってみたが,どこかの入江が見えたくらい。私は展望台止まりだが,さらに頂上に登れる登山道もある。

それはそうと,ここで俄然気になりだしたのが――と,突然書き出すのが私の長文学――ガソリンである。前日は150kmほど走っていて,針はFとEの中間よりやや下にある。やっぱり,山道をセカンドで長く走ると,燃費を食うのだろう。このまま燃料を入れないで北部を周るのは,さすがにキツい。山のたもとは宇検(うけん)村。役場もあるようなので,多分ガソリンスタンド(以下「GS」)もあるだろう。
20分ほどして,山を下り宇検村。こじんまりとした,商店1軒+民家のメインストリート。早速GSを見つける。ロープはされていないので入れるだろうと思って入ったが,なんと人がいない。しばらく待っていたが,誰かが出てくる気配もない。しかたなく村役場のある名瀬寄りに少し進むと,2件のGSがある。しかし,こっちも同様,誰もいない。考えてみれば,日曜だから仕方がないのかもしれないが,3件ともアウトというのはどうか。しかも,1件は「ENEOS」。奄美の至るところでみるチェーン店であるが,それすらダメとは。
となると,名瀬に北進すべきか。あるいは南進して,昨日行った古仁屋に行くべきか。地図で見る限りは古仁屋のほうが距離が短そうだ。昨日も行ったけど,ここは古仁屋に再度行くことにする。よって,群倉を見るのはあきらめることにする。
宇検から古仁屋への道は,右に海を見ながらの走行となる。何度もカーブに遭遇するから,複雑な入江となっていることが分かる。波自体はまったくなくて穏やかだ。スピードも自ずと上がる。
間もなく名柄(ながら)という所。古仁屋へ行くには,ここを左折してしばらく海とはお別れである。真っ直ぐ行くと,半島のようになっているところに入っていく。本来ならば「真っ直ぐ」なのだが,いかんせんガソリンを入れるのが先決だ。万が一,ガス欠で帰れなくなったら恥である。ここは左折する。

再び道は山の中に入る。幹線道路とはいえ,道が細くなったり凸凹になるのは,田舎だから仕方がないということだろう。ガイドブックによれば,しばらくすると再び海沿いの道に出るようだから我慢しよう。
ところが,いつまで経っても山の中から出ない。それどころか,アップダウンの“アップ”ばかりである。カーブも当然ある。そして周囲は鬱蒼とした森が延々と続く。これだと,古仁屋にはとても行けそうにない。
かれこれ20分はさまよった山の中。標識が出ているので見ると「住用林道1号線」とある。その中には「古仁屋」の文字はどこにも出てこない。一つは「住用」,もう一つはどこか分からない地名。あかん,完全に道を誤ってしまった。しかし「住用」というと,昨日行った古仁屋と名瀬の間にある村。国道58号線沿いである。まあ,住用村だと宇検村の二の舞にならないとも限らないから,名瀬で入れることになるのか。ガソリンの針は,FとEの中間とEのちょうど中間にある。多分,名瀬まで何とかもってくれるだろう。そうとなれば,後は山道との我慢比べで住用に出るしかない。
しかし,こうなるならば名瀬まで海沿いを素直に帰ったほうがよかったのだ。まったくついていない。群倉も見損ねたし,帰りに海を見ながら帰るのも叶わない。いつも,待っているのは山・山・山,坂・坂・坂,カーブ・カーブ・カーブ。ギアもひょっとして,ドライブよりセカンドにしているほうが長いんじゃないか。いい加減うんざりといったところだ。
さらに20〜30分走ったか。ようやく国道58号線に出た。そして,北進すること5分。左に「ENEOS」の看板。時間は10時35分。こっちは無事営業している。やっぱり県道と国道の差なのだろうか。まあ,そんなことはどうでもいい。砂漠のオアシスに出会った感覚だ。名瀬まで一気に,とムリをせずに,ここできちっとガソリンを補給する。

(5)名瀬市 Part2
@奄美博物館
奄美博物館には11時20分到着。ブロックを積み重ねたような変わった形の白い建物。屋根の一部は三角すいが乗っかっている。
博物館自体は3階建てで,1階は,全長10mはある巨大な木船が吊られているのと,作家・島尾敏雄氏の展示物がある。2階は昔の道具類が飾られている歴史・民俗的スペース。また,第2次世界大戦後にアメリカの統治下にあったときのパスポートも展示されている。3階はミニチュアのジャングルと昆虫だのの標本がある。

さて,今ちらっと書いた作家・島尾敏雄氏(1917-86)についてであるが,1955〜75年までの20年間,ここ名瀬に居を置き,県立大島高等学校非常勤講師,鹿児島県立図書館奄美分室長などの職についている。その間の1961年,『世界教養全集』(平凡社)第21巻の月報に「ヤポネシアの根っこ」という文章が掲載される。タイトル通り,彼はこの文章で「ヤポネシア」という概念を打ち出したが,これは,日本文化は単一のものではなく,南は奄美や沖縄,北は北海道のアイヌなど,それらの文化をすべてひっくるめてこそ「日本文化」だという。だから,奄美や琉球などの文化を軽視してはならない,というわけだ。「ヤポネシア」とは,日本を意味する「ヤポニア」と,群れを意味する「ネシア」の合成語である。
そもそも,島尾氏が居を移すきっかけになったのは,妻の病気療養のためという(以前から転居は繰り返していた)。「たら・れば」の話になるが,名瀬に転居しなければ,そして妻が病気にならなければ,横浜出身の彼にとっては,その「ヤポネシア」の概念にめぐり合うことができなかったかもしれない。運命や縁とはそんなものなのだろう。
彼の「ヤポネシア思想」から40年経って効を奏したのか,奄美や琉球はいま,その独自の文化にメディアの注目が集まり,観光客も多くなっている。火付けの筆頭たるNHKの連続ドラマ「ちゅらさん」や,あるいは何度となく触れている元ちとせ,沖縄ではいわゆる「ライジング・プロ所属」の歌がきっかけで来ている人は,私を含めて結構多いだろう。
しかし,「ひっくるめられる側」「マイナー側」だったはずの奄美や琉球がこんなにも珍重されているというのは,裏を返せば,「これぞ日本=本土文化だ!」と言えるものが失われつつあることの現れであろう。皮肉な話である。無論,この私も,そんなことを聞かれたら答えに窮すること,間違いあるまい。

建物の外には,奄美特有の民家と高倉が展示されている。民家は,瀬戸内町管鈍(くだどん)にあったものを移築し,一部アレンジしたものという。生垣で周囲を囲んだ敷地内に,大きく分けて,母屋に当たる「オモテ」と,台所・リビングに当たる「トーグラ」の2棟。屋根はいずれもトタン葺きとなっている(高倉については次回触れる)。
ここの「オモテ」については,6畳の座敷(+床の間が0.5畳),3畳の寝室,4.5畳の納戸(もちろん普通の部屋としても使える),1畳ほどのトイレによる構成。トイマもしくはカヨイと呼ばれる3mほどの,オープンエアー(屋根付き)の木の渡り廊下を渡ると「トーグラ」。ここは4畳ほどの台所(履物を履いて降りる)と,気持ちそれより広い板敷きのリビングによる構成。しめて,今風に言うと3LDKといったところだ。工法は,釘を使わずに,木に木を差し込んで貫通させるやり方である。
家の外に出ると,8畳くらいの「アタリ」と呼ばれる菜園スペース,「シーヤ」と呼ばれる軽作業や煮炊きをする場所(3畳くらい)と,「サスヤ」と呼ばれる倉庫(4畳くらい)がある。ちなみに,倉庫・物置というと高倉があるが,元あった管鈍というところは,上述したガス欠を恐れて行き損なった半島の先にある場所。すなわち岬地形であるから風が強い。数本のノッポの柱で支える高倉は,風で崩壊することもあり得るからだろう,あまり作られていないという。そのために「サスヤ」があるということだ。その他に,直径1m弱の赤い釜の五右衛門風呂,ややそれより大きめの井戸もある。
車に戻る。直射日光を浴びていると,運転席のドアの凹みがくっきり浮き出ている。ドアを開けると,モワッとした空気。半袖でもいいくらいの気候に,直射日光をモロに浴びていたせいだ。

時間は正午。北部に向かう前に腹ごしらえをしておきたい。名瀬市内を巡ってはみるが,駐車場のある店がなかなか見つからない。駐車場というと,昨日デミオを凹ませたホテル前の例の駐車場が無料で停められるわけだが,どうもイヤな予感がして抵抗を感じる。
そんなこんなしているうちに,国道58号線に戻ってしまった。というか,拉致があかないので先に進むことにしたのだ。北側から南側を見るといい景色だという話を第1回で書いた(「匚」の字云々の話)。逆から見ると,あまり建物が多くないし,至るところが工事中ゆえ景観はよくない。これも書いた。そんな中,おそらく市内でも有数の面積を有するであろうダイエーの白い建物が,圧倒的存在感を示している。その辺り,行きのルートでいくと,長いトンネルを抜けて海が目の前に広がった辺りの
地区は佐大熊(さだいくま)という場所。バス停に「団地入口」と書いてあり,山側に入っていく道もある。その道脇に小さい団地が数棟ある。バスがそこに入っていくのも数度見た。ダイエーはその団地周辺の人間に,さぞ活用されているのだろう。
さてこの先は,国道をまっすぐ行って,浦上(うらかみ)という所で左に折れて,海岸沿いの県道を北上するルートを取る。国道をそのまま北上するのは意味がないし,さんざん海は見ていても,それでも海沿いを走りたがる私ゆえの選択だ。
途中,標識も出ているくらいの左折する道を通ったが,通り過ぎる。さらに進むが,景色は明らかに鄙びてきている。どうやら,通り過ぎたその道が取るべきルートのようだ。途中でUターンして戻ると,左に食事処「たかの」とある。いまから行く県道沿いに店があるとは限らないから,この店に入ることにする。

A再び,鶏飯を食す
この店,1階は駐車場で,2階に店がある。早速上がると,ドアは普通の家のドアだ。中に入ると玄関も内装も普通の家と何ら変わりない。
客は1組しかおらず空いている。12畳くらいのフローリングのリビングについ立てがされていて,4人席が四つとなっている。隣部屋には和室があるようで,障子で締めっきりである。この4人席が満員になったとき,あるいは集団で来たときには和室に通されるのだろう。
メニューはというと,しょうが焼き定食だとか豚骨定食だのと,典型的な肉料理の定食屋のよう。そして,一番下に鶏飯(1050円)とある。昨日「ひさ倉」で鶏飯を食している(第1回参照)が,鶏飯の食べ比べというのも面白い。食べ比べでいくと豚骨もそうなのだが,当たりはずれがありそうなので,ここは鶏飯を選択する。ちなみに,鶏刺しはない。
接客をしてくれた女性(40代前半くらい。亭主が料理担当,自分は接客担当ということだろう)が気を遣ってくれたのか,近くにあるテレビのスイッチを入れ,画面を私のほうに向けてくれた。その後ろの壁には,魚拓が3枚飾られている。圧巻は体長1.5m,重さ62kgのナポレオンフィッシュ。紙の大きさもバカデカい。佐野元春の歌にも出てくる魚だが,私はすっかり幻か架空の魚だと思っていた。あとの2枚は50cm前後,重さ2〜3kgくらいのキダイとグレという魚だ。
一方,つけてくれたテレビでは,ちょうどNHKの「のど自慢」が放送されている。中継は沖縄県石垣市から。いろいろと沖縄の歌や,いまどきのも含めて歌っている。ゲストは南こうせつと夏川りみ。日曜日の昼に「のど自慢」を見るなんて,何年ぶりだろう。今じゃ「ウチくる!?」を時々見るか,ほとんどは外出してテレビなんか見ていない。私の後ろは網戸で,微風も入ってくる。何だかのどかな昼下がりである。

鶏飯は10分ほどして登場。錦糸卵・刻みのり・刻みねぎ・しいたけの細切り・紅生姜・ゆずのみじん切りと,鶏肉を細かくほぐしたもの。「ひさ倉」に入っていたパパイヤの細切りは入っていないが,大勢には影響はないだろう。鶏のスープは直径15cm×深さ7〜8cmほどの鉄鍋で湯気を上げていて……と,ここまでは第1回の文章をコピーしているが,色は幾分白濁している。
早速,具を乗せてスープをかける。なるほど,コクがある。スープに少し油が浮いているが,そのくらいのほうがかえって鶏スープらしくてよい。しょうゆという余計な調味料がないのも,邪道な食べ方の仕様がないからよい。純粋に鶏飯だけに集中できるし,おかげで「ひさ倉」では余らせてしまったスープは,完全にかけ尽くした。七味だけが置いてあったので一度だけかけてみたが,七味は適度に味をひき締めるのでOK。鶏飯だけでいけば,個人的にはここのほうが気に入った。
サイドメニューは,グリンピース入りのひじきの煮物,もずく酢,そしてこれぞ正真正銘パパイヤの漬物。「ひさ倉」で食べたのがたくわんみたいだと書いたが(第1回参照),もしかしてホントにたくわんだったかもしれない。その証拠に味が全然違う。多分,パパイヤ独特と思われる,くどい感じの甘さがあったのだ。もっとも,いままでにパパイヤを食べた記憶がないので推測になってしまうが,半円状に切られた弧のあたりに黒い線が入っていたから,パパイヤに間違いあるまい。
帰り際,レジ脇にある厨房を見たが,家庭用のキッチンを改造したような感じだった。「ひさ倉」より105円高かったのは,ひょっとしていろんな改造費を賄うためのものだったのか。はたまた,私を「ひさ倉」よりも気に入らせた“コク”に対する自負なのか。(第4回につづく)

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