奄美の旅アゲイン
@犬とオジイ
犬田布岬を後にして,まずは県道に戻らなくてはいけない。しかし,途中から来た道とは違う道に入ったことに気づく。道幅は,車が辛うじてすれ違えるないしはどこかに寄せないとムリなくらいの狭さである。まさしく“迷路”である。明らかにレンタカーの入る道ではないが,何気に沖縄に多いと思っていた魔よけの札「石敢当(いしかんとう)」を見られたりもするので,これはこれでなかなかいいものだ。無論“強がり”も“都合のいい解釈”も込みであるが。
ちなみに,その「石敢当」は中国から入ってきたもの。魔物は直進しかできないので,三叉路やT字路などに置くことで退散できるというものだ。しかし,ヤフーなどで調べると,沖縄をメインに南九州,中国地方南部,そして日本の至るところでも見られるという。関東では,神奈川は川崎駅前にもあって写真がどっかのホームページに載っている(ということは実際もあるのだろう)。

県道に何とか出て,島を西から東に回る形を取ることにする。その出た付近から少し東にある木之香(きのこ)という地区は,昨年惜しくも亡くなった“かまとばあちゃん”こと,女性長寿日本一だった本郷かまと氏の出身地とのこと。ホームページによっては犬田布出身というものもあるが,1887年生まれというから,おそらく集落の境界線が変わったりとか,あるいは戸籍もあまりきちんとしていない時代だったからかもしれない。「かまとばあちゃんグッズ」を出しているからには,何か直販ショップや看板とかがあるかと思ったが,残念ながら何もなかった。まあ,ご本人はすでに鹿児島に行ってしまっていたから仕方がないのか。
その先,阿三(あさん)という集落の郵便局脇で県道を外れ,内陸に入っていく。とある看板が出ていたからだが,さすがにこっちのほうが有名ということか。入った道はやはり狭い路地。次第に上り坂となっていくこと5分。畑の脇に平屋建ての家屋と銅像がポツンとある。畑側にはなぜか東屋があり「長寿の里公園」となっているが,周囲は畑のみで,しかも収穫済みなのか土がきれいにならされているのみで何もない。「長寿であるからには,必要なもの以外余計なものはいらない」というコンセプトだろうか。いや,ただ単に何もないだけのようだ……。
この場所は,徳之島出身のもう1人のご長寿人物であり,男性長寿世界記録保持者&名誉伊仙町民第1号・泉重千代氏の生家である。1865年6月29日生まれ,1979年に当時114歳でギネスブックに長寿世界一の認定を受ける。そして1986年2月21日死去。享年120歳と237日。長い間世界一だったのだが――私も世界一と疑わなかったのだが――,ホントの長寿世界一は,1997年に死去したフランス人女性のジャンヌ・カルマン氏の122歳。ということで,彼のいまの位置付けは「男性の世界一」となっているわけだ。
平屋立ての家屋は途中で改築されたものだろうか。壁には「重千代記念館」とかすかに白い文字で書かれているが,カギがかかっていて開かない。あるいは心ないイタズラ書きか? はたまた,この家自体も「あくまでこの辺りが生家」という目印なのか。そして脇にある1982年に建てられた銅像は,少し高くなったところに建てられ,海の方向を見下ろす格好で杖をついている。当時の鈴木義幸首相による文字で「泉重千代翁之像」とある。「長寿の秘訣は焼酎と女」――いかにもおおらかな土地で育った男性らしい生前のコメントだが,改めて顔を見ると,モンゴルか中国系の顔をしている。あの白く伸びたあごひげが,何となくそんな感じを抱かせるのか。

ところで,彼は一応120歳というはずだったが,生前中に私も記憶にあるのは「実際はもっと若い」という噂。聞いてそのときはガクッときたものだったが,出生当時は戸籍がいまほどしっかりしていなかったからだとかいう話は出た(ちなみに戸籍制定は1872年)。結局,亡くなったときは120歳ということで認知されたと思うが,真相はどうなのだろう。
これについては「健康長寿資料館」というホームページにこんなことが書かれている――1966年,当時・鹿児島医大助教授だった福田正臣氏は,101歳だった泉氏も含めて100歳以上の15人を診察したところ,泉氏は100歳過ぎにもかかわらず針に糸を通し,目も耳も達者でごはんをよく食べたという。その時点で“老齢学”の観点から疑念を持ったという。それから7年後,107歳になっていた泉氏を再び訪問したところ,福田氏が見ても相当重い竹の束を持って家に帰り,一風呂浴びていたところだった。面談をしても実に若々しく,100歳以上に見られる“現象”もなかった。ますます福田氏の疑念は深まり,上記15人の診察対象から外してしまったほどだ。そして1979年,すでに泉氏の長寿世界一が認知されていたにもかかわらず,それを否定する発表を日本老齢医学会で行ったということだ。ということは,件の噂がこの発表とまったくリンクしていないとは言えないだろう。
ちなみに,南海日日新聞などでその後調べていったら,この発表をした福田氏は1919年生まれで,お隣奄美大島の龍郷(たつごう)町出身。よって,より奄美の文化・風土,そして人々の人間性を理解していたと言っていい。だからこその疑念とも言えるだろう。まして,泉氏と初めて出会った40代半ばから,学会発表をする60歳ころまではバリバリ現役医師だったはず。案外,これで本州の人間だったら「すごい,すごい」のみか,もっと下らないコメントで片づけていたかもしれない。
それから今までで,100歳以上の高齢者を60人あまり診察してきて,現在福田氏本人も85歳と,ある意味“高齢者”になっている。その後の泉氏に関するコメントは確認できないが,昨年の本郷かまと氏の死去に関しては「長寿者は家族が作り上げた共同作品」とコメントしている。世紀が変わってから,機械に頼りがちな医療に疑問を抱き,故郷の奄美で問診・触診中心の医療に携わることになったという。
あえて悪い言い方をすると「“そんなこと”はどーでもよくなった」のだろう。そしていい言い方をすれば,福田氏は専門が循環器科というから,少なからず「手を加えて直す」という意識がどこかにあったに違いない。何回となく心電図をつけさせ,レントゲンを撮らせ,薬や注射を施して,時には手術――それが「結局治すのは医者ではなく患者本人」となっていることからも,人間を素直に“リスペクト”する余裕が改めて持てるようになったのではないか。無論,だからといってそれまでの福田氏の功績は否定されるべきではないのだが,結局長生きしていると,自ずと辿りつくのは何かにつけ「原点回帰」なのではなかろうか。逆に言えば「原点に回帰できない人は長生きできない」とも言えるが,こればかりは医学に素人なばかりか,“若干30歳”である私がコメントできる状況にはないので,このへんで留めておこう。

@犬とオジイ
再び県道に戻り,しばらく進むと今度は「→伊仙闘牛場」の看板。時間は14時ちょい前。島1周はたしか100kmほどだが,東部から北部にかけてはさして見るものがないと思った。時間もまだ早いことだし,ここは右折してみる。
こっちもまた民家や畑の間の狭い道路をくぐり抜けると,左に円形コロシアムのようなコンクリのような,漆喰で塗り固めたような物体。近くに寄ってみると,中心は水色の鉄柵が円形に囲っている。その直径は10mほどか。何となく,牛よりは羊を囲っておくぐらいがちょうどいいような大きさにも思える。雨がポツポツ落ちてきていたこともあり,土はいささかぬかるんでいる。で,それをさらに囲う観客席はというと,階段状に8段ほどあったか。集落のせせこましさの中では結構な広さは確保されており,上のほうが草地になっているが,そこまで満員になれば数百人は収容可能だろう。
この徳之島では,年に二十数回闘牛大会が催され,その中で全島一決定戦なるものが,プラス1・5・10月の3回ある(次の大会は,このゴールデンウィーク)。相撲と同様に「横綱」「大関」「関脇」などの地位があり,順位づけも相撲と同様である。上記全島一決定戦では,最高位「横綱」のさらに上を行く「キング・オブ・横綱」が決定する。ただし,いわゆる“賭け”の類いは,確認できる限りはないようだ。なお,徳之島以外では沖縄,愛媛の宇和島,島根の隠岐で盛んである。
闘牛というと,すぐに思い浮かぶのはスペインの闘牛。スペインは「牛vs闘牛士」であるのに対し,徳之島は「牛vs牛」である。角と角で組み合うスタイルだ。ただし,徳之島式にも闘牛士はいて,それは「勢子(せこ)」と呼ばれるのだが,その勢子は牛と一体となって,相手の牛に攻撃しかけていくのである。別の意味での「異種格闘技タッグマッチ」だろうか。
「徳之島の闘牛」というホームページによれば,歴史は約500年ほどになるという。前回の犬田布集落の項で触れたように,税の搾取に苦しめられていた島民が,ひとまず税を納め終わり,その喜びを祝って行われたのが始まり。娯楽らしい娯楽などなかった時代の,唯一といっていいくらいの娯楽だろう。闘牛が行われた当初から戦前までは,牛主同士が相談しあって何かの催し物があったときに河原や畑で催されたという。でもって見物料はタダ。ただし“諸経費”はそれなりにはかかるから,ある程度裕福な農家でないと飼えなかったというわけだ。いまでは,各家単位でも出せるようにはなっているようだが。
その後,戦後に「徳之島闘牛組合」なるものが発足し,組合規約ができて,このときから入場料を取るようになったようだ。そして,島の伊仙・徳之島・天城の3町で闘牛協会が設置され,これらをまとめて「徳之島闘牛連合会」という組織にまで発展している。例えば,全島一決定戦では各町が持ち回りで主催していくのだが,こういったことができる意味では組織化は大きかったのではないか。
ちなみに,これはホントに愚問かもしれないが,前回天城町にある“犬の門蓋”の名称が,犬が突き落とされた言い伝えからであると書いた。徳之島ではこのように闘牛は広まったが,“闘犬”がなかったのが不思議だ。それこそ,突き落とされる運命の犬の何分の一かが,こういう闘犬のために使われることはなかったのかと思ってしまう。……もっとも,犬の立場に立ってみれば,無用に突き落とされるのと,闘犬として育てられ,相手と戦って傷ついたあげく最悪致命傷を負うのも,どちらがいいのかなんて,そもそもないのかもしれない。もちろん,闘牛の牛だって同じだろう。“言い伝え”を必要以上に膨らます必要も,他人事を殊更面白がる権利も,私にはないのだ。
――話を戻して,肝心の(?)大会への入場料というと,大人2500〜3000円,子どもが1000円というから,かなり立派な興行ではないか。私はもっと安く気軽に見られるものと思っていた。そうとなれば,強い牛を持って勝ち続ける“闘牛成金”だって出てくるだろう。ファイトマネーについては上記ホームページには記載がないが,少なからずころがってくるだろう。そうでないと「次世代の牛を育てる」とかいうモチベーションが働かないのではないか。

県道に戻り東へ。伊仙町の中心部は,スーパーが数軒あり,ちょっとした街にはなっている。寿司屋らしきものもあったが,シャッターは閉まっていた。結局,富田商店で買ってしまって(前回参照)正解だったわけだ。そして「ベスト電器」の看板もあるが,建物こそキレイなものの,どう見ても借り物の平屋建て。ちらっと見た限りでは,照明器具が見えたが,おそらく“使える度”から判断すれば「ベター電器」程度だろう。
ここからはひたすら海岸線をドライブして,北上する形だ。雨が次第に強くなっていて,ワイパーがだんだん欠かせなくなってくる。後でガイドブックなどで確認したら「喜念(きねん)浜」という有名な浜辺があったようだが,もはや脇道にそれる気持ちはなくなってしまっていた。
しばらくして,一方の左に崖が長く続いていたのが,ふとゴージャスな空間になった。高さは7〜8mあるだろうか。赤茶色くテカった屋根の下に,「これでもか」と言わんばかりの一対の龍の彫刻と,金字で彫られた墓石。文字には「福田家之墓」とある。でもって,その隣には赤い社と黒光りする牛三体の像。スピードが出ていたので1回通り過ぎてしまったが,どうにも気になって引き返した。
“空間”の前に適当な停めるスペースがなく,少し離れたところに停めて,雨が降る中近くに寄ってみる。海に近いので加えて風もある。ジャンパーを着るほどではないが,「涼しい」と「冷たい」の間くらいの肌触りだ。
早速,牛の近くに寄ると,名前が書かれている。「福田喜和道1号」「太陽館1号」「福富建設号」――このうち「福田喜和道1号」は,現在の全島一チャンピオンの位置にいる牛だ。今年の1月の全島一優勝旗争奪戦でも勝利し,現在12連勝中。重量は1200kg。上記「徳之島の闘牛」で紹介されている牛は,ほとんどが1000kg以上。しかし,こやつはその中でも巨体の部類に入る。ちなみに,昔(といってもいつごろかは不明)は重くても600〜700kgだったというから,そのころから比べればスーパーヘビー級といっていいだろう。人間だけでなく牛の世界も,いまと昔では格段に与えられる栄養が違うということか。餌自体も今では簡単に手に入れられるだろうし。そして,推定年齢は9歳。闘牛界では7〜9歳が全盛期だというから,まさしく全盛期を謳歌している牛だ。
さらに,上記「徳之島の闘牛」によれば,こやつは元々徳之島育ち。しかし,一度沖縄にトレードに出されることになる。この沖縄で連戦連勝して名を挙げて,再び徳之島に戻り,別のオーナーの下で安定した成績を残した後で,現オーナーの元に来たという。名前についている福田喜和道氏こそが,現オーナー。徳之島闘牛連合会会長と同時に,徳之島民謡保存会長の肩書きも持つ,今年すでに米寿となっている(はずの)人物だ。福田氏は,祖父の時代から闘牛にかかわっていて,一方でホテル業,食堂など幅広く事業を手がけ,現在は貸しビルと清掃業をやり,氏の息子がいまは諸々の責任者になっているという。そして,牛の世話は,その息子との共同作業とのこと。
……なるほど,道路をはさんで海側,広い土地に家や車庫などが建っている。ちょうどそこから出て行こうとしているトラックには「清掃」の文字。脇にあるトタン屋根の平屋は,あるいは牛小屋だろうか。周辺は心なしか牧場の匂いもする。そのトラックが出る準備をしているときに,私がその墓や銅像の周辺をウロウロしていたから,多分運転手は私の存在には気づいていただろう。その平屋に近づこうかと思ったが,目が合ったような気がして,思わずひるんでしまった。
ちなみに,こんな輝かしい「福田喜和道1号」だが,何気に全島1日警察署長なるものも経験している。110番のいたずら・間違い電話防止のために駆り出されたようだが,キーワードは「いたずら電話はモーやめて」――“たかだか牛”とはいえ,何だか失礼ではないかと思ってしまう。

(1)犬と重千代
@犬とオジイ
やがて,コンクリートのビルが次第に見えてきた。道幅も広くなってきたし,交通量も格段に多くなった。平土野や伊仙よりも街らしい街。徳之島町の中心部・亀津である。フェリーも停泊する場所で,ガイドブックを見ると観光ルートの起点がここになっていたりと,名実ともに島の中心と言える。
県道から1本中に入る。こちらのほうが街の中心っぽい…というか,昔から形成している街並みということか。道が県道の半分くらいしかなく,そこに“お約束”の路駐。よって,すれ違いに一苦労するのがこういう場所でのパターンだ。
途中,大きな徳洲会病院やスーパーなどの建物も見える。前者は奄美や沖縄でよく見るので,ひょっとしてこっち方面でメジャーな病院かと思っていたら,全国展開しているようだ。後者は駐車場が満車状態。そこに出入りするための車がときどきつっかえる。多分,島で一番大きなスーパーと見た。ホントは入ってみたいのだが,駐車場がゴミゴミしていそうであきらめる。こういうときに徒歩でないことを恨めしく感じることもある。
ということで,このままひたすら北上を続けよう。海とはしばしの別れで,道はしばらく内陸を走ることになる。「初代朝潮太郎の碑」「徳之島小唄の碑」「ちゃっきゃい節小唄の碑」なんて看板を数度右に見るのだが,朝潮と言えば,私は2代目の朝潮にしか親しみは湧かないし,そもそもその朝潮だって,どうでもいいっちゃどうでもいいのだ。後者も,沖縄奄美のことをとやかく言うからには興味の一つも持たなくてはならないのだろうが,どうしてもいま車内でかかっている自分好みのJ‐POPしか食指が動かない。
さらに北上。景色は,畑があったりその他の緑があるといった単調さが続く。しかし「→畦(あぜ)海浜公園,徳之島フルーツガーデン」という看板が見えた。フルーツガーデンということは植物園みたいなものか。そっちはいいとして,いい加減に海が見たくもなってきたので,ここで右折し道を下っていく。しかし,どんづまりでは樹木が海を遮っていて,さらに歩かねばならないことを知らされると,駐車場から降りることなくそのままあっさり引き返す。ふと,前を走っていた車から降りた金髪のネーちゃんと目が合ったが,さぞ「何だコイツ?」と思っただろう。
再び県道に戻る。そして今度は「→金見崎」。ここは“ソテツトンネル”なるものがあり,見ておきたい場所である。畦海岸に行くのと比べると,こっちは集落の中を通るため。道がぐっと狭くなる。そのうち,右に大きく下る道との分かれ道で駐車場が見え,ここに駐車する。一応,駐車場のようだし,脇には“←ソテツトンネル”の看板があるから間違いなかろうが,下は赤土のタダの空地。停まっている軽トラックが,何ともこの空地での作業用っぽい感を抱かせる。

そのソテツトンネル,高さはだいたい2〜3mくらいだろうか。まっすぐ立っておらず,中央の遊歩道…というかジャリ道に向かって斜めに覆い被さるようになっているのだ。それが名前の由来である。でもって,ところどころが怪しい曲がり方をしている。まさか人の手で植えたにしては規則性みたいなものがないから,自然の賜物だろう。それが密集して育っているからだとも思われる。下手をしたらそのまま倒れてくることになるかもしれない。現に腐ってしまったのか,風に煽られ過ぎたのか,ポッキリと折れたものもあって,木の中が見えるものもある。その中は意外にも空洞が多く,例えれば長いカーペットをぐるぐる巻いたような感じで,何重にも渦を巻いているのだ。
ソテツというと南国特有の樹木であるが,雌花にできる実の中の種に,残念ながら猛毒がある。体内に入ると,酸によって分解され,ホルムアルデヒドを生じて中毒を起こす。ホルムアルデヒドなんて,集合住宅の壁だか何だかに存在するものと思っていたが,人間の体内でも生成できてしまうものなのだ……と話がズレたが,症状は嘔吐・めまい・呼吸困難など,かなり深刻そうである。でも哀しいかな,沖縄なんかでは,戦後の混乱期で食べ物がなかった時代に,この実を食べてしまったために中毒死する事件も起こったという。いろんなホームページを見ていると,沖縄の粟国(あぐに)島では,この実を乾燥させて味噌を販売しているようだが,それは現代の“いろんな技術・知恵”の蓄積の上でのことだろう。一応,上記の中毒事件についても,実を煮沸したとはいうが,そんな原始的なことでは到底太刀打ちできないというわけだ。
途中,貝殻で作ったアクセサリーなどを置いてある土産小屋を通り,かなりのアップダウンを通過する。また,限りなく自然に近い形で脇道が何箇所もある。要するに,人の踏み入れた部分のみ赤土が露出しているわけだが,当然ながら周囲は草木がボウボウ……とくれば,ハブの格好の棲み家である。聞けば,徳之島のハブは獰猛だと言うではないか。会社の人間で,奥さんのお父様かお母様だかが徳之島の出身という人がいて,その人から事前情報を聞いていたこともあり,脇道には到底それることができなかった。
「都合により休みます」と,ホントかと思う張り紙がしてある「金見茶屋」という廃屋(と言ってはいけないか)を通り抜け,ようやく頂上に着く。雨こそ止んでいるが,恒例のように風は強い。そこから見下ろす景色は右に岩肌の多い砂浜と集落,左には灯台が見える。灯台へは上記のような脇道から行けるようだ。そして,前者の砂浜には人が数人いて,近くに緑の屋根のちょっと大きな建物が見える。駐車場らしきスペースには結構車が停まっている。
この建物は,多分「金見荘」という民宿だろう。「イセエビ鍋」が夕飯に出るというこの宿,ホームページもあるので,あるいは予約でもしようかと思ったが,今回泊まる宿のほうが空港に近いし,食事抜きであることを加味しても少し安くなると思ったために見送った。「イセエビ鍋」は正直食べたかったが,何しろ明日は9時半に徳之島を離陸することになるから,朝はムリな日程にできないのだ。

金見崎からは西に進路を取り,今度は「→ムシロ瀬」という看板にて寄り道をする。その名の通り,岩がムシロのように広がっていることから名づけられたものという。パッと見,こんな岩では久米島の「畳岩」(「久米島の旅」第2回参照)を思い出すが,向こうはほぼ六角形で統一され,かつ平坦である。対して,こっちは多少凸凹もある。ちなみに花こう岩でできているものらしい。
そんな中で際立つのは,シンボルのようにはだかる巨大な岩二つ。左には亀。右にはモアイ像。いずれも自然の造形美であろうし,こっちのほうがよっぽど何か有名にしてやったほうがいいと思う。ただ,不安定に乗っかっている感じで,何かの拍子にゴロンとこちらに倒れてきそうで怖い。ここはとっととずらかろう。
――さあ,これにてとりあえず今日見るべきものは見た。あと数分で今日の宿には着くはずだが,時間はまだ16時。このまま空港に直行しても20分はかからないだろう。今日中に車を返しても,案外行けそうなのではないか。第一,後払いなはずだから,「早めに返しました」でも案外通用するのではないか。少なくとも,明日の朝まで借りるよりは安く上がるのではないか。「明日までと聞いているので」と向こうが返してきたら……いや,その辺はきっと大らかなんだろう。(第3回につづく)

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