沖縄はじっこ旅U

@ウミガメを見て,ショートケーキを食べる
さて,このまま真っ直ぐ行くと「日本最南端の碑」まで行くことができる。ロータリー(前回参照)にはそんな看板も出ていた。が,時間はたっぷりある。何も今から慌てることはない。その前に島の北部,すなわちさっき通ってきた港の周辺からぐるっと反時計周りで島を1周していきたい。その中で当然,日本最南端の碑も通っていけばいい。まずは,この集落を“集中的に攻めていく”ことにしたい。
次は,集落の北側に回って「大東亜戦転進記念碑」を見る。幅0.8m×高さ1.2mほどの土台の上に,同0.5m×1.2mほどの大理石の碑。なぜか上が自然に欠けた形である。元海軍少尉・石川茂兵氏(いしかわもへい?)による「我がカヌー怒涛の中に極まりて漂う海に星一つ見ゆ」との短歌が刻まれている。記念碑の詳細は不明であるが,まさかホントにカヌーで海に出たのだろうか。
その先に進む。波照間小・中学校の敷地を左に見ながら畑地の中を走っていくと,高さ5mほどの2段ショートケーキ型の積み石を見つける。下段は直径10m,上段は同5mほどだろうか。「コート盛」である。一方,道をはさんでその向かいにも石があり,こちらは高さ1.7〜1.8m,幅2〜3mほどの犬が座ったような形の岩。こちらは「シン石」。ちょうどその犬の“背中”あたりには窪みがあり,そこに水がたまると鳩がよってくることから「パトゥン石」とも呼ばれているそうだ。
さて「コート盛」とはいうと,脇には整備された10段の階段がついており,上に上がると北側は海を望むことができる。そこには70cm四方くらいの石で囲われた場所があって,中心に香炉らしきものが置かれ,さらには真珠っぽい貝殻が見える。そしてそこには10円玉が一つ置かれていた。一応,いまではここも御嶽っぽい役割があるのだろうか。
実際には見張り台として使われており,船なんかが来た場合には,ここで火を焚いて周囲に知らせたのだろう。黒島におけるプズマリ(第2回参照),与那国島におけるダディクチディ(「沖縄はじっこ旅」第5回参照),竹富島では行きそびれてしまったが小城盛(くすくむり)が同様の役割を果たしている。これらはすべて,石垣島は登野城(とのしろ)にある蔵元(元々は竹富島のカイジ浜にあったものが,1543年に移された)に情報を集めることを目的とされた。
港を目指して再びチャリを走らせる。目の前には大海原。空は雲が多いが青空が出ている。陽射しがないせいか,触れる風がやわらかく気持ちいい。すると,右側にブーツのような形をした石碑。「学童慰霊碑」である。少し高台になっている場所なので,高い位置から海を臨むことができる。さっきコート盛で若い男性2人と一緒になったが,彼らはこの石碑を見ることなく港に向かっていった。この碑は1984年,波照間小学校(前回参照)が創立90周年記念に建てたものだという。
第6回では,第2次世界大戦時,八重山で日本軍による強制疎開が行われたことを書いた。当時の八重山のうち,石垣島北部や西表島などがマラリアの感染地域になっており,これらの感染地域に強制疎開されたことでマラリア感染者が続出。うち2割が亡くなるという,いわゆる“戦争マラリア”が起こったことも書いている。ここ波照間島の住民もまた,全員がそのマラリア感染地域である西表島に強制疎開をさせられ,多数の“戦争マラリア患者”を出す悲劇を味わっているのだ。
――1945年2月,当時25歳という1人の男性教員が波照間島にやってくる。名前は山下虎雄氏(やましたとらお)。しかし,これは偽名だという。教員というのもウソで,実は「陸軍中野学校」という情報収集・防諜・謀略・スパイ活動といった秘密戦の専門員の養成学校から派遣された人物という。当初は島民に歓迎された彼は,翌3月に突如軍人となって態度を豹変し,島民に強制疎開を命じる。島の有力者たちは疎開に反対したものの,それは通らずに翌4月から,西表島へ全島民が移ることになる。また,その直前には島内の家畜という家畜がすべて強制屠殺される。「米軍の食糧になるのを避けるため」という理由だが,無論この波照間島に米軍は一度たりとも上陸しなかった。そもそも強制疎開自体,@米軍の上陸の可能性が逆に低くなったため,島民の気が緩むことを防止する,Aそれとは逆に島民が米軍に加担することを恐れた,などの説があるという。
さて,その西表島といえば,当時はバリバリでマラリアの感染地域だった。疎開に反対する理由にこのマラリアがあったことは想像に難くないが,軍人の命令には逆らえない。そんな島の南部にある南風見田(はえみだ)の浜付近に,多くの疎開者が移ることになったのだ。私は気をつけて見なかったが,ちょうどいま碑が建っているところから臨める位置である。島民の一部は,マラリア感染が認められなかった由布島(「沖縄標準旅」第9回参照)へ疎開したそうだが,おそらくは住み慣れた土地に対する望郷の念が,南風見田に多くの住民を移させたのかもしれない。
しかし,恐れていた通り,この疎開によって波照間住民の中でマラリア患者が急増。一方で,これらの住民を統括していた山下氏は,当然というか軍から薬が支給されていたという。やがて,組織的戦闘が終わったとされる6月23日以降も,山下氏から帰島が許されず,当時,波照間国民学校校長だった識名信升氏(しきなしんしょう)ら数人が,スキを見て西表島を脱出して石垣島に渡り,石垣島守備軍に許可を直訴。許可を得てもなお山下氏が賛成しなかったのを,住民会議で全員が帰島に賛成したことでようやく帰島が実現する,というありさまであった。1945年8月2日のこと。山下氏が賛成しなかったのは,日本軍本部の直属にいたからという説がある。それは言わずもがな「日本軍本部>石垣島守備隊」という組織同士の“タテ関係”である。
結果的には,この強制疎開中に島民のほとんどがマラリアに感染する状況となった。これに栄養失調が追い討ちをかける。疎開前の家畜強制屠殺,疎開中に農作物の植付けができず,家畜は農耕にも必要な存在だったため疎開後の耕作そのものも遅れた。薬も不足し,また家族中で感染という状況ではいかんともしがたい。帰島から翌年12月までに488人が死亡。これは全島民の3分の1。葬式だって満足に挙げられないありさまだったそうだ。そんな中でも何とか生き残った人間は,実に毒があるというソテツから毒を取り除いて調理して餓えをしのぎ,そのうち,強制屠殺の中でこっそり隠したりして生き延びた家畜が繁殖したりもして,徐々に島民の日常生活を回復していったという。
そして,その帰島から9年経った1954年,南風見田の浜の岩場で「忘勿石 ハテルマ シキナ」と刻まれているのが発見される。これを刻んだ人間……カンのいい方は気づかれたかもしれないが,識名信升氏である。強制疎開者の中には波照間の国民学校生323人が含まれていた。その生徒のために,この岩盤のあたりで国民学校の青空教室を実施したりしたが,戦争マラリアでうち66人が死亡する。識名氏は波照間島への帰島前,自らが預かる生徒を悲劇に巻き込んだ自責の念,そしてその悲劇そのものを「忘れること勿れ」という意味を込めて刻んだのだという。
それから30年以上経ち,この南風見田の「忘勿石」を臨める場所に,その生徒の慰霊と恒久平和,さらには山下氏の行為は“許しはしようが忘れはしない”という,さまざまな意味合いを込めて造られたのが「学童慰霊碑」なのである。なお,識名氏はこの碑が建った4年後の1988年に死去。山下氏も1997年に死去している。ちなみに,その山下氏は戦後3度も波照間島を訪れているという。当然のごとく,そのたびに波照間島民から抗議されたようであるが,何を思いながら自らも“忘れはしない”に違いないこの島を訪れたのであろうか。

いよいよ,チャリは港へ下っていく。目の前は大海原,それに向かう一本道。勾配はなかなか急であり,帰りは間違いなく押して上がってこなくてはならない。その距離も100m以上はあるに違いない。それでも,この景色は下る価値のある景色だ。早速,そのまま進んでいくと,颯爽とかけぬける風が実にさわやかである。周囲はトンボが乱舞しているくらいだから,そういう時節なのであろう。
しかし,いい加減スピードがつきすぎると,やはり怖くなってくる。左のハンドルについている後輪のブレーキを徐々にかけていく……が,その代わりに“ギ―――――――――――”という,100人が聞いたら99人が「イヤな音」と評するであろう錆び付いたブレーキ音を立てる。ずっとかけているとうるさいからと,ポンピングブレーキをすると,錆び付いた音も一緒になって“ギッー,ギッー”とポンピングしてくる。下から上がってくる人間とすれ違うが,彼らが私を見ているのがよく分かる。まったく,恥ずかしい限りである。何とか走れるからいいやと思ってはいたが,なるほどこういうことが待ち受けているとは。こりゃ,下り坂はちっと気を遣わないといけないかもしれない。
さて,錆び付いた音を立てて滑り込んだのは,波照間港旅客ターミナル。イスと上がりの畳を含めて20人くらいが座れる待合室の端っこに,小さなカウンターだけの店が。ここが「イーノー(漢字では“海畑”)」である。1坪2坪のレベルの狭さだ。隣接する売店はシャッターが下りている。さすがに時間が11時過ぎであり,また次の船便までかなり時間があるからか,いま待合室は上がりの畳にオバチャンとおじさんがいるのみである。しかし,肝心の店には人がいない。それも「準備中」というプレートがカウンターにかかっている。はて,どうしようかと思っていると,
「あれ〜,あんなにびっちょり汗かいて〜」
とおばちゃんがこちらにやってきた。彼女はここの店の人間だったのだ。そう,陽射しが少ないとはいえ,1時間以上走っていれば,ただでさえ汗っかきの私は,もう余裕で背中は水を浴びた感じになってしまう。鏡とかで見ることはなかったが,大体は想像できる。
「やってます?」と聞くと,「あ,いいよ」と言ってきた。もちろん,目当ては幻の泡盛「泡波」である。壁にはいろいろな紙が所狭しと貼られているが,左上の角に「泡波ロック水割り 300円」と書かれている。とりあえずは,
「あー,泡波の“ロック水割り”1杯ください」
「んー……“ロック水割り”ってどういうことかな?」
あ,そうか。冷静に考えれば“ロック水割り”なんてあり得ないな。私は「氷が入った水割り」かと思っていたけれど,注文としてはそれはたしかにあり得ない。早い話,こういう注文に慣れていないのだ。そりゃ,クラブに行ったら勝手に水割りとか作ってくれるし,こっちも別に好みとかなくてテキトーに飲んじゃうしねぇ……とはいえ,貼り紙が“ロック水割り”とつながって書かれていれば,そういう風にとらえてしまうとは思うのだが。
「あー,あそこに書いてあるんですけど」
「あ,ストレートかロックか水割りなんだけどね」
「じゃあ,水割りで」
まさか,ストレートじゃ飲めない。チビチビと自宅でも飲んではいるが,それはコップにいわゆる“シングル”かそれ以下に泡盛を入れて,あとは水で大量に薄めて飲んでいるのである。これは今年1月に友人と行った旅行で,首里にある「あしびうなあー」にて水割りで飲んで以来(「沖縄“任務完了”への道」第3回参照),ストレートやロックでは間違っても飲んではならないと思っている。そりゃ,感覚的にアルコール30度のヤツはストレートでなんか飲めるはずがないのだ。実際,沖縄の人たちも,ストレートではなく水割りで飲むそうである。ストレートで飲むのは本土の人間だけ。もっとも,私ほどに薄めると,あんまり意味がないかもしれないが。
で,注文を受けたオバチャンはというと,おもむろに泡波の350mlのビンを取り出す。で,グラスは本土の食堂でもよく見るサッポロビールの白いラベルが入ったもの。これに氷を数個入れて,何と半分ぐらい「泡波」を注いできた。そして,目の前にある水道の蛇口をひねって,残り上半分のスペースに水道水を注ぎ込む。これで一丁あがりである。
グラスには黒いツプが一つ浮いているが,そんなもの気にしても仕方がない。水道水なのだし,家で飲むときはゴミの一つも入っているものである。何はともあれ飲んでみる。うーん,“ハーフ&ハーフ”だと,泡盛の発酵臭とアルコールの味しかしない。水道水かミネラルウォーターかはこの際関係あるまい。まさか「シングルで」とか言うのははばかられたし,オバチャンが作ったそのままを飲むしかないが,これでは味わうとかいうものではない。もうこうなったら,一気飲み。ガーッと飲んで「ごちそうさまです」。身体の中が一気に火照ってきたが,結構汗をかいてきたせいもあったか,酔いが回ることは最後までなかった。あるいは少しは酒に強くなったのか。
ちなみに,帰り際には隣の売店が開いていたので,ちらっとのぞいたら「泡波」の350ml入りのビン詰めが結構置かれていた。あるいはビンが単独で売られているのなら買って帰ろうかと思ったが,Tシャツとか他のグッズと抱き合わせで,しかも値段が数千円とかいう貼り紙がしてあった。え,そんなにするの?って感じで,さすがに買って帰れなかった。地元の島の人間ですら飲みにくくなっているというから,島外にも簡単に持ち出せないような価格設定に取り決められているのだろうか。

@ウミガメを見て,ショートケーキを食べる
とりあえず1杯ひっかけて,再び坂を上る。下ってきた坂とは別の坂である。こちらも港からサイクリング乗り場に上ってきた坂(前回参照)と同じくらいに急な坂である。当然,押して歩かなければならない。しかも,陽射しが急に出てきた。再び吹き出す汗。ふと,右下に目をやると煙突のある製糖工場。人がいるから操業中であろう。ちらっと寄ってみようかと思って,工場に向かう下り坂を下ると,再びあの錆び付いた“ギ―――――――――――”の音。その音でカラスが飛び立って行った。
再び坂を汗かいて上がり,少しすると「←モンパノキ」「←パナヌファ」の看板。後者は昼飯を食べようかと思っている店だが,営業時間は12時から。まだ営業時間まで時間がたっぷりあるから,その先にあるニシ浜に行くことにする。少し行くと「→ニシ浜」の看板。道は海に向かって下り坂となる。ちなみに,漢字で書くと「北浜」。こっちでは「北=ニシ」という方言のようだ。
その海はというと,エメラルドブルーの鮮やかな海。「クリームソーダ色をしている」と誰かが何となく言っていた。道は「L」を逆さにしたように左にカーブする。そこを上ってくる人の姿もある。皆,一応に押して上がっている。これはよほどの脚力がないと仕方がない。でも,これから目の前に近づいてくるであろう光景が楽しみで,あの錆び付いた“ギ―――――――――――”の音は免れないが,思いきってこの坂を下ることにしたい。
“ギ―――――――――――”……うーん,実にイヤな音である。みんな私を見ている。周囲の自転車を見れば,どれもピカピカである。でも時々同じような音を立てて下りてくるのを聞くと,ニヤリとしてしまったりもする。そして,とりあえず錆び付いた音を立てたまま進むこと1分,ニシ浜に到着する。チャリがすでに数台。その隣でレンタルとドリンク類を売っている出店。店といっても「置いてある」って感じの青空商店。脇に停めた軽自動車で持ってくるのであろう。レンタルはシュノーケルやビーチパラソル。ドリンク類はビールが400円,さんぴん茶とシークワーサージュースが200円。おじさんが店番しているが,繁盛している感じはとてもしない。東屋には数人がすでに荷物を置いて水着で座っているが,それを見ると,少なくともビーチパラソルはまったくはけていないようだ。
いよいよ,目の前にはクリームソーダ色の海である。下はたっぷりの白砂。コンブだとか“不純物”は一切ない,純粋な砂浜である。それが海に向かって左に数百mに渡って続いていく。波は,少しあるが問題ない。シンプルに美しいビーチである。昨日行った竹富島のコンドイビーチ(第8回参照)は,個人的には沖縄で一番気に入っている海岸であり,第2位は久米島のはての浜(「久米島の旅」第3回参照)である。で,ここはというと,多分第3位に入るであろう。それくらい気に入った。いや,もしかしたら暫定的に…というか,気まぐれにNo.1にしてしまうかもしれない。
右側は軍艦っぽい形の岩があり,その先は港か製糖工場の施設みたいである。砂浜には大きな岩が一つと,流木が2本。岩は三角岩。5m×3mの大きさに,標高が2mほど。流木は1本が直径50cm×長さ5m,もう1本は長さがそのさらに倍はあろう。いずれも,砂にかなり埋もれているから,推測するしかない。10分くらいいたが,陽射しはどんどん増してきて,汗が吹き出てくる。後ろでは続々とチャリが下りてくるのが見える。たまーに錆び付いた音を聞きながら。
帰り際,当然ながらチャリは押して上がっていくことになる。やれやれと思いながらチャリに手をかける。と,目の前では坂を下りてきたばかりのカップルが何やら話をしている。多分,20代前半くらいであろう。
女「あ,ここなら潜れるじゃん。でも波あるねー」
男「あー,向こうのほうが砂浜がきれいじゃん。向
 こうに行きたい」
女「えー!? 今下りてきたのにー」
男「だから,向こうに行こうって言ったんじゃん。言
 うこと聞かないからだよ」
どうやら,ビーチの位置決めで揉めているようだが,やむなく上がっていくことにしたようだ。しかし,途中でストップ。何だろうと思っていたら,彼女は勢いよく漕いでどんどん上がっていき,彼氏は押して上がっていく。前カゴに荷物がかなり積まれているようだ。どうやら,交換条件で彼女の荷物まで持ってやったらしい。私も後から追いかけていくと,彼らは坂の途中で再び停まっていた。どうやら,今度は彼女のチャリがおかしくなったようだ。さすがに聞き耳は立てられないから,ここでカップルを追いぬくことにする。ま,せいぜい仲良くケンカしてくれたまえって感じだ。

坂を上がりきり,ホッとしたのもつかの間。なぜか牛が3頭放牧されている敷地の角を曲がって,また坂を上がっていかなくてはならない。でも,勾配はさっきより楽である。とりあえずは漕ぎながらある程度は上れそう。向かうのは「パナヌファ」と「モンパノキ」である。時間は11時半を過ぎた。前者は店自体がやっていなくても,場所くらいは確認しておきたい。後者は『やえやま』を見れば,どうやら開いているようである。あるいは「モンパノキ」で時間をつぶしてから行ってもいい。
坂は途中で右に折れる。目の前は民家であり,石垣には丸いお盆大の丸い石がかかっている。外側には貝殻で円を描き,内側にはランダムにサンゴのかけらが埋めこまれ,中心に「石敢当」の文字がはめこまれている。なかなかシャレている。ここを上がっていくと,左に3〜4m四方×高さ2mくらいで,黄色地に赤と緑の南国風な色使いの小屋。トーテムポール柄にも見えるが,ここが「モンパノキ」だ。小物類を売っている売店で,マイクロバスなんかが寄っていたりもした。数人客がいるし,入ろうかと思ったが,何せ時間はたっぷりあるのだ。メシを食ってから寄ってもいい。
ふと,来た道を振り返って眺めてみると,真下には美しい緑と放牧された牛3頭,遠くにクリームソーダ色の海と,さらに奥には濃い青。天には晴れ上がった青空。今回の旅のベストスポットである。この景色と日航八重山からの石垣市中心部の景色は,カメラを持っていたら確実に収めている景色である。俯瞰すると,放牧されている敷地はそれなりに広い。無論,金網がされてはいるが,3頭ならゆったりしていいだろう。全体的に見て色が濃い分,すべてがゆったりと広がっている。このバランスが絶妙だ。人工的に造ろうにもなかなかできないだろう。そして,ここをチャリで下っていく人のほとんどが「きれーい」「クリームソーダ色だね」などと絶賛していく。
「モンパノキ」を通過すると,道は今度は左にカーブする。ここをまっすぐ行くと,左に真っ白なトランクみたいな,消しゴムみたいな形の建物。高さ3m×横幅10mくらい。ここが「パナヌファ」である。店の看板は白地の板に「たべもの。のみもの」と書かれ,太陽と月のマークがトレードマーク。ただし,月は某洗剤会社にそっくり……まだ,時間が11時40分少し前ゆえ,脇から声が聞こえてはくるが,入口のドアが閉ざされている。見ると,木の引戸のようだ。ここで待つのも何だし,しばらく進んでいくと,家が多くなってきて十字路にさしかかる。このまままっすぐ行けば,中心部のロータリー(前回参照)に行くようだ。
今度はここをおもむろに右折すると,左にバーベキューをやるスペースっぽいレストランが見える。白いテーブルとソファ,ビーチパラソルが青空に映えている。すでに2組ほど客がいる。「青空食堂」と道路に面した小さい建物に看板がかかっていた。ここも実は入ろうかと思っていたが,2組とも待っている感じだ。時間を取られるとイヤだし,初志貫徹はやっぱりすべきであろう。ここは通過。再び来た道を戻る途中,左に木陰を見つける。奥行き5m×幅10mくらいの更地。行きは気がつかなかったが,ちょっと時間から置いてけぼりをくったような閑散さがいい。そこに木の古ぼけたベンチがあったので,しばらく…といっても数分だがここで休むことにした。
――そして,再びパナヌファに向かう。時間は11時52分。パナヌファはまだドアが閉まったまま。ただし,カップルが1組待っていた。とりあえず一緒に待っていると,数分でドア…というより「戸」が開く。同世代くらいの女性が,窓も玄関もすべて手で開ける。しかも滑りがよくないから,やっとこら開けるって感じだ。網戸とかはない。風通しは抜群にいいだろうが,カップルの男性が「これ,トンボが入ってくるんじゃないの?」と,彼女と話しながら入っていった。
さて,中は2人席と4人席混合で合計20席ほどと,カウンターに5席。テーブルもイスも昔の木製である。私は“混合”の中に適当に座る。目の前はすぐ壁になるが,右には昭和時代に製造と思われるいくつもの黒くてゴツいオーディオセット。8ミリビデオの機械もあった。それとともに大量のCDとLP。私にはいまいち分からないが,特にLPはかなりお値打ちものがあるんじゃないか。スピーカーもデカいBOZEのやつだ。その左には本棚。漫画本とガイドブックが多い。そして,その脇にはなぜか衣服が売られている。見た感じは女性用のTシャツとワンピースだ。まさしく,ハッキリとそれをねらっているがごとく,雑多な感じだ。そして,これらを入れたりかけたりしているラックが,これまた古ぼけた色をしている。あるいはわざとそうしているのだろうか。
カウンターの向こうには,椎名誠氏に似た男性がいる。彼が主である。カウンターには,よくありがちな酒や調味料のビンと,なぜかimacが置かれていた。その脇にはカゴに入ってCDが数枚置かれているが,売り物らしい。後でここのホームページを見たら,この2人でその名も「パナヌファ」というユニットを組んで演奏して,2年前に自ら録音したものとのこと。でもって,この食堂は別名「日本最南端の音楽食堂」だそうだ。
主の男性は大阪出身。バックバンドでの演奏経験を持ち,波照間島に移住してこの店を経営する傍ら,今も音楽に携わっている。女性のほうはここ波照間島の出身。親戚に唄者(「うたしゃ」…島唄を歌う人をこう呼ぶ)がいるなど,小さいうちから島唄をたしなむ環境にあったようである。ちなみに,上記の売り物の衣服は彼女の手製とのこと……そういや,オーディオセットの脇に写真が額に入って飾られていた。よくは見なかったが,2人の人間が琉球衣装を着て三線を弾いている写真であったと思う。多分,この2人の写真であろう。
さて,肝心の料理であるが,スーチカ(豚肉の塩漬け),テビチ定食など沖縄料理もあるようだが,メニューにはカレーライスが特製だと書かれている。「たかがカレー」ではあるが,こういう店でのカレーは「されどカレー」となり得る。なので,そのカレーライス(700円)を注文。あと,頼まなくたってよかったに決まっているが,テンションが上がってしまってチャイ(450円)も注文してしまう。ちなみに,メニューに店名の由来が書かれていたが,八重山方言で「花の子」という。また「神様のお手伝いをする人たち」という意味もあるそうだ。

10分ほど待って,カレーが出てくる。15〜16cmほどの器に入って出てきたのは,いわゆる“びしょびしょ”のカレーである。色は少しハヤシライスに近いかもしれない。具は玉ねぎ・ひき肉・にんじんが細かく刻まれて入っている。結構辛くて,さらに出来立てだから熱いが,なかなか美味い。やっぱり「されどカレー」である。そして,トッピングには直径3〜4cmの半円型の揚げ物が一つ。しわしわが入っていたので,形からして一瞬餃子かと思ったが,食べてみるとカボチャの天ぷらだった。カボチャの甘みが辛さを調整する役割を果たしているのだろう。プラス福神漬けがついてくる。汗をかきつつ食べるが,夏に辛いものを食べて汗を出すと身体にいいそうだし,都合はいいだろう。
食べ終わると,チャイが出てくる。直径5cm×高さ20cmほどの青いガラスに白い液体。下に敷くコースターは藁でできた四角いもの。味は,そのままだとヨーグルトを水で薄めただけのもの。これまた緑の小さいガラスのポットに入ったシロップを好みで入れるわけだが,このシロップを入れるとちょうどいい甘みになる。カップルのほうは,どうやら昼からオリオンビールを頼んでいたようだ。
店内は四方から扇風機がかかっている。とはいえ,女性は初め,2組が座っているところのみスイッチを入れていたが,そのうち主はすべての扇風機のスイッチを入れた。風通しはよくしてあるのに,肝心の風が来ないものだから暑いのである,ぶっちゃけ。主の選択は正しかった。あと,上記カップルの男性が入ってくるんじゃないかって言っていたトンボは結局入ってこず,代わりにハエが入り込んで,皿の周りを飛び回っていた。そして,店内にはひたすら癒し系のような童謡のような音楽がかかっていた。歌っているのは,歌詞が日本語だから日本人で間違いない。でも,どういう類いなのだろう。あるいは,いまカウンターで作業をしている2人だろうか。
店を出て「モンパノキ」に向かう。さっきいた人たちはいない。店にはドアらしいドアはなく,さしずめ“フリーなんちゃら”である。早速中に入ると,Tシャツ・ステッカー・指輪・貝殻・ハンカチ・バンダナ・絵葉書……これまた雑多にいろいろな種類が並べられている。どれもこれも,その気になれば欲しくなってしまうものばかり。Tシャツは,明日着る分がなければ買っていたかもしれない。ここも気に入った。多分,若い女性は確実に気に入りそうな感じの店である。
と,アゴにひげを生やした若い男性が入ってきた。さっき通りかかったときは女性が番をしていたが,あるいは夫婦だろうか。しばらくしてまた民家のほうに戻っていった。時間が12時台だから,食事でもしているのだろうか――で,結局いろいろ目移りしながらも,ステッカーを1枚購入。400円。中心に長細い「波照間島日本最南端」と書かれたやつがあって,その周りを12種類の円形のシールが囲む。柄も実にカラフルである。男性が自分で作ったりしたのだろうか。
さて,いよいよ今から島を反時計回りに1周する。再び来た道を下る。目の前には再びクリームソーダ色の海と青い空と放牧された牛3頭に黄緑の草地。この島にまた来られるかどうかは分からない。だからこそ,ずっと瞼に焼きつけておきたい美しい景色である。(第11回につづく)

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