沖縄はじっこ旅(全4回予定)
@初夏のサイクリング
西崎から先ほど分かれた比川方面に向かう道に入る。その名も「南牧場線」というらしい。持ってきた道路地図には載っていないが,もらった地図にははっきり載っている道である。しかも,細い林道とかで表示されているのではなく,いままで走ってきた県道216号線と同じ扱いである。なるほど,しっかり舗装された道であるから,まあ当然か。

道は入ってすぐ2度目のテキサスゲートとなり,上り坂を上がりきると,一気に海岸沿いに出た。右には緑の絨毯の向こうに巨大でゴツゴツした岩のテーブルがあり,その向こうには激しく打ち寄せる波が。それなりに海岸から上にいるはずだろうが,波柱が何度となく立っているから,かなり時化ているのではないか。風も相変わらず強いことだし。
一方の陸側は,広大な芝地になっていて,牛馬が多く放牧されている。道の名前の通り,この一帯全てが「南牧場」の敷地なのだろう。で,道端にもそして道路の真ん中にまで“落とし物”がたくさん落ちている。まるで「ウ×コロード」という名前がぴったりなくらいだ。無論,岩や石みたいに固くはないし,自分は車に乗っているわけだから,思いっきり踏んでしまったところで別に何も害はないはずだが,それでもどこか必死によけて走っている自分がいる。
すると,走ること数分,馬や牛が十数頭左から右に横断しているのが見えた。牛には耳に黄色い札がされていたので,あるいは食用になってしまうのか。一方の馬は何の目的で育てられているのか。競走馬というにはあまりにのどかな感じであるし,まったくもって謎である。これら2種類の動物が何事もなく共存しているのが,沖縄らしい気もまたしてくる。アフリカの原野みたいな過酷な生存競争とはかけ離れた世界の光景である。
ふと,前に軽乗用車がいた。私より一足西崎を後にして前を走っていた車だ。徐行を始めているのが見えたが,やがて馬たちに触れたくなったのか,車を停めて下りだした。反対車線にいた車もそんな感じになっている。私はといえば,別に馬に触れたいとは思わないし,とりあえずは比川地区に早く行きたいので,牛馬およびその落とし物を適当に振り切って,先に進んでいく。
これらの光景を見て思い出すもの。それは,昨年放送されたフジテレビのドラマ「Dr.コトー診療所」のエンディング。中島みゆきの『銀の龍の背に乗って』に乗せて,サビから音が最後に半音上がるまでのカットだ。白衣を着たコトー先生(吉岡秀隆)が,自動車免許がないという設定もあって,誰もいない舗装道路を自転車で走っているシーンと,一瞬画面が暗くなった後,芝生の上で彼が体育座りしているところから,カメラが上空へだんだん動いていき,巨大な崖を映し出して大海原が広がる空撮シーンがすごく印象的である。彼らもまた,草地に大量に落ちている落とし物や,気ままに飛び出してくる牛馬に気をつけながら,あの名シーンを撮ったのではないか――と勝手に想像してみたが,実際は北牧場,すなわち空港のすぐそばにある「馬鼻(うまばな)崎」という場所らしい。なーんだ。
気持ちのいい道をしばらく走っていたが,3度目のテキサスゲートを渡ると,突然道が狭くなり,かつ周囲が草で覆われた。先も視界がよく見えない。私の後を走ってきた車は,それを見て行き止まりだと思ったのか,転回して引き返して行った。でも,地図を見る限りはたしかに道は狭くなっているようだが,行き止まりではないようだ。なので,そのまま走りつづけると,何のことはなく,見事再び道は片道1車線の舗装道路になっていた。あるいは,テキサスゲートとこの視覚のセットで,牛馬を比川方面に行かせないという手かもしれない。道が舗装になると同時に右手に砂浜が開けたが,地図にある「カタブル浜」というやつだろう。
それにしても,私の後続にいた車はどこまで引き返したのだろうか。ちなみに,県道216号線がもう1本内陸に入ったところを,同じような線を描いて走っているが,あるいはその起点の久部良までわざわざ戻ったりでもしたのだろうか。見た限りはレンタカー観光客に間違いなさそうだが,つくづくマヌケなヤツだと思ってしまった。
比川集落は道が入り組んでいて狭い。これから行く祖納,さっき寄った久部良とともに,三大集落の一つになるが,民家の数は少ない。ちなみにここにも学校はあるが,小学校のみ。たしかに小学生の姿は,偶然かもしれないが数人みかけた。とはいえ,小学校を卒業して即働けという形には,日本の教育制度はなっていない。あくまで中学校までが義務教育なのだ。ということは,中学生になったら久部良か祖納のどちらかの中学校に行かなくてはならない。でも,地図で見る限りは,どちらも同じくらいに遠い。自転車を必死こいて漕いでいく姿が想像できる。

その集落のどんづまり,道を1本間違えたりはしたが,裏手には民宿,目の前には製塩工場がある更地に車を停める。あるいは,これから行く目的地のための,とりあえずは駐車場にでもなっているのだろうか。先は防波堤がひたすら続いている。道はこのまま続いていそうな感じだが,今度ばかりは久部良バリのようには行かないかもしれないので,車を降りて歩きとなる。
外は相変わらず,生ぬるくて湿気っぽい。右側に琉球石灰岩と,そのそばになぜかずっと体育座りしている――ホント,ずっとそこに座りっぱなしだった――Tシャツ姿の若者を見て,ジャリ道を進むこと約50mくらいだろうか。後ろに大きな崖と緑の森を控え,目の前には比川浜という,大きく弧を描いたやや岩場の多い砂浜を置いて,コンクリート平屋建てのあまりにボロいその建物は建っている。
ここが,あの「志木那(しきな)島診療所」である。そう「Dr.コトー診療所」で,数多くの奇跡が生み出された診療所である。大きさは10m四方といったところか。入口には,オープンセットであり再び使われる旨が書かれていたが,この春に放送された2時間特番のことだろう。そもそもオープンセットというにはあまりに古びている感じで,玄関にかかった長い木の板に「志木那島診療所」と書かれたスミ文字は,いかにも時間の経過でかすれたという印象を持つが,ホントに正真正銘のセットとのことだ。何でも,地元の大工さんに造ってもらったのだが,その棟梁がこの建物を見て「新築なのにどうしてこんなにオンボロなのか。もっと上等に造れ」と言ったのに対して,弟子が「いや,これはわざとなんです」と返答したエピソードまであるそうだ。
カギもカーテンもかかっているので中には当然入れない。しかし,カーテンのわずかな隙間からは,中の受付と待合室と自転車を見ることができる。自転車は上述のとおり,コトー先生の足となる必需品。待合室は,たしか土間と1段高い畳敷きになっていたはずだ。広さは7〜8畳程度だろうか。でもって,受付には地元で唯一の看護師・星野彩佳(柴咲コウ)がいたのだ。その受付は,玄関から時計の反対周りに歩いていくと一番最初の位置になる。ここもまた,裏側からブラインドの隙間越しに見られるが,広さは4畳程度であろうか。
さらに奥に向かって進むと。垂直にハシゴがかかっている。別に登ってはいけないと書いていないので,とりあえず15段あるそれを登ると,一応屋上らしき真っ平らなコンクリートのスペース。というか,それしかない。こういうところは,あるいは洗濯物を干すスペースとしては格好なはずだが,そのあたりのシーンは多分,ドラマ中には出てこなかったと思う。ちょうど,比川浜から西側を見渡す格好となり,眺望はそれなりにいい。
下に降りて,ちょうど建物の裏手に回る。そこは崖にへばりつくように植物が生えており,ちょっとした茂みになっていて,1段下に下がる格好だ。その下がったところには拝所があって,「アンダ王水御川神」「宇天龍十一而観世音菩薩」などと書かれた札やら小さい碑がある。一応は御嶽なのだろう。読み方も神様の“種類”も,私には皆目検討がつかないが,おそらく,地元・比川集落の人のためのものに間違いなかろう。いや,案外地元の人も分からなかったりして……。
最後。海側に回ると洗濯機が1台置かれており,そこからも中を覗けるが,4畳程度の板張りの部屋だ。たしか,粗末な入院用のベッドが置かれた部屋は普通の土間だったと思うので,ここはコトー先生の寝室の設定にでもなっているのだろうか。

@初夏のサイクリング
比川浜を後にして,さらに東へ向かう。引き続き,島の輪郭をなぞるように道は続いており,その通りに行くことにする。ただし,久部良から比川に行くときよりは内陸になるため,次の見所である立神岩(たちがみいわ)までは,海はほとんど見えないか,見えたとしても遠くに見ることになる。
そのうち,新川鼻(あらかわばな)という,この道が海からもっとも遠ざかる辺りの沖には,テレビなどでも取り上げられた,有名な「海底遺跡」がある。ダイビングの免許を持たない私としては,島で運行されている「ジャックスドルフィン号」というアイロンみたいな形をした半潜水艇に乗りたかったのだが,乗る場所を分からずに今回は断念した。ちなみに,後で調べたら冬場は久部良,夏場は祖納から出るらしい。でも,この波の荒さでは船がまず出ないだろうし,出たとしてもせいぜい自分が海底遺跡になるのが関の山といったところか。
この海底遺跡,発見は1986年。地元の旅館兼ダイビングショップのオーナーで,上記ジャックスドルフィン号の持ち主でもある新嵩喜八郎氏(あらたか・きはちろう,1947〜)が,島のダイビングスポットを開拓してダイビングマップを作ろうと海に潜ったときに,偶然見つけたものだ。形状がインカの遺跡に似ていることから「遺跡スポット」と命名。「ここが次に,与那国で有名なダイビングスポットになる」――初めは,それでもダイビングショップのスタッフだけでの調査だったようだ。
その発見から5年後の1991年。「どうにかしてこの場所を紹介できないか」と考えた新嵩氏は,自ら遺跡をビデオに撮って,NHKの視聴者投稿コーナーに送った。これが海底遺跡の“全国デビュー”となった。このときの反響がとても大きく,そこから琉球大学,東大の海洋研究所の人間などによる本格的な調査が始まったようだ。また,世界的に有名な素潜りダイバーで,映画『グランブルー』のモデルにもなった故ジャック・マイヨール氏(1927-2001)は,毎年のようにこの与那国に来て海底遺跡を見ていったそうだ(彼の名前を頂戴したのが「ジャックスドルフィン号」というオチもある)。
肝心の遺跡の大きさはというと,水深が平均12m(最大25m)の位置に,基底部が東西290m×南北120mというから,かなり大きいと言っていい。そして,遺跡ポイントを取り囲むような一周道路があったり,“インカの遺跡”と言わしめるような階段地形の特異さと,石器などの生活品まで見つかっていることなどから,「1万年以上前の人工建築物である」という説がある。建設当時は陸地だったものの,地球の温暖化で海面が40m上がったことから海底に沈む格好になったのではないか,という仮説が立っている。ただし,誰が作ったかまでは分かっていない。
――そういえば,10年前に行ったときは,海底遺跡の「か」の字も話題に上っていなかったと思う。沖縄観光コンベンションビューローが,観光資源調査に乗り出したのが2000年になってから。ジャックスドルフィン号の就航に至っては昨年秋からだという。ダイバーたちは,もちろんそれ以前から知っていただろうが,私自身が海底遺跡の存在を知ったのは,たしかこの2〜3年の間だろう。ま,少なくとも「Dr.コトー診療所」よりは先に知っていたとは思うが。
ちなみに,新嵩氏はここ与那国の出身だが,もともと東京で仕事を持っていた。しかし,実家が旅館をやっていて,プラス自分が長男だったこともあり,帰郷することになったという。東京ですでにダイビングの免許を取っていたのを生かし,旅館経営の一環としてダイビングのサービス業務を始めた矢先の出来事だったようだ。
“家”のつながりがものすごく強い沖縄で,かつ自分の親世代の人間としては,“帰郷”という選択はある意味自然なものだったのかもしれない。“不惑”という年齢に差しかかってきていたのも大きいだろう。これがあと10年若い世代だったら,帰郷という選択をしたのだろうかと思う。そもそも,彼だってもし次男坊だったら,一度は沖縄から出た以上,帰らない選択肢を選んだかもしれないのだ。しかし,そんな彼に返ってきたのは「旅館の経営権」「長男としての特権」だけでなく,太古の奇跡という,与那国だけでなく日本…はたまた「世界の財産」だったというわけだ。人生,どこで何が待っているか,あらためて分からないものである。

13時10分,立神岩展望台に着く。崖に突き出るように立っている肌色の東屋から,やや戻るような方向に,例えれば「できるかな」のゴン太くんみたいな,はたまた亀の頭みたいな,ロケットみたいな形の岩が見えた。陽射しはあいかわらず強い。で,何気に唇をなめてみると。少し塩辛い味。やれやれ,今日は昨日の日焼けがあったので,外に出るときは持ってきた長袖を我慢して着ているのだが,陽は浴びなくても,潮はしっかり浴びているということか。
さらに,その東には「サンニヌ台」「軍艦岩」というのもある。前者は千畳岩のようなもので,遠くからは見えなかったが幾何学模様があるらしく,これもまた海底遺跡の一つではという説がある。一方,後者はブーツ型の岩だ。近場にあるから,これもひょっとして人工物かもしれぬ。いずれにも,白波が激しく打ち寄せている。サンニヌ台の上では海水浴だろうか,上半身ハダカの男性がウロウロしているが,彼が軽く波しぶきをかぶったのを1回見た。今日はホントに波が荒いのだろうと思う。
そのまま東進して,今度は東崎(あがりさき)。ちなみに,西崎は太陽が「入る」から「いりざき」,こっちは太陽が「上がる」から「あがりざき」。4度目のテキサスゲートでガタガタした後,祖納方面と東崎方面への分かれ道,何と,数頭の馬が路上でたむろっている。思わず失速するが,彼らをよけつつ,さらにそのそばを散策していた男子青年が,強風で私が持っているのと同じ地図を吹き飛ばされたのを見つつ,そばにある駐車場まで走らせ車を停める。
5〜6m四方ある東屋までは,芝地がひたすら続く。結構,茶色い影が見えるので,この島の岩地形を象徴するように岩が露出しているのかと思ったら,何のことはない。ただの“落とし物”だ。ホントに至る所に落ちている。“ウ×コロード”の次は“ウ×コガーデン”である。でもって,当然なのかもしれないが,掃除などはされておらず,そこに“あるがまま(Let it be)”である。さっきたむろっていた馬たちにとっては,このあたりはすべて家であり,庭であるのだろう。あくまで,この広大な場所の主は彼ら馬たちなのだ(そりゃ,厳密に言えば牧場主なのだろうが)。落とし物に対して,彼らがウ×コをたれっぱなしにしていることに対して,我々観光客はクレームをたれてはいけないということだろう。イヤなら出て行くのは観光客のほうなのだ。
さて,東屋に着いた。風はあいかわらずものすごく強い。東崎にも灯台があるのだが,それは私がいる東屋からは,左すなわち北側に見下ろす格好となる。そちらもひたすら,芝地と落とし物のまだら模様が続いている。その灯台周辺も,駐車場があり,むしろそちらのほうが賑わっている感じだ。こちらは,20台以上停められる広大な駐車場なのに,私の車を入れて2〜3台しかいない。
この場所には,前回旅行で西崎からの帰りに出会った本島の会社員の方(前回参照)と来て,写真を数枚撮っている。たしか,西崎からそのままダイレクトに東崎に来たような記憶がある。写真を見ると,向こうはワイシャツに作業着を羽織った格好。このときも風が強かったのだろう。2人ともうっとうしそうな顔をしていて,髪の毛はボサボサである。その後,多分立神岩とかを見た後で祖納まで来て下ろしてもらい,彼らは仕事へ,私はどこかの店で魚の煮付定食を食べて,後は歩いて空港まで帰ったのだ。祖納から空港までは約2kmほど。時間も十分あったので,右に海岸と芝地を見ながらゆっくり歩いたが,それでも石垣行きの飛行機まで,2時間ぐらい待ち時間があったほどである。
結局,彼らも日帰り出張だったので,空港で再び落ち合い,石垣空港にて私は船に乗るべく石垣港へ。彼らはそのまま那覇行きの飛行機に乗り継ぐとのことで,ここで完全にお別れとなった。たしか,別れ際に私の実家の住所を書いて,その写真とお1人の方の名刺が後日送られてきたのだ。前回「お礼の手紙を書いた」と書いたが,この写真のお礼も兼ねてである。送ってくださった方は,このときで肩書きは係長か課長だと思うので,いまごろは部長か,はたまたもっと偉くなって社長か。あるいは真逆に,リストラでもされてしまって“プー太郎”か。いずれにせよ,おそらく50代にはなっているはずだ。

島の東西端をそれぞれ見て,後は祖納へ行くべく進路は再び西になる。その祖納に進路を進めてすぐ,東崎がまだはっきり見える辺りに,島へやって来る船舶の監視所になったとされる「ダティクチデイ」と呼ばれる囲いがある。ホント,サンゴの石垣で5〜6m四方が囲われただけであるが,少し高台になっている。石垣の高さは1mちょい。だから,簡単に中はのぞける。
ちなみに,路肩に地元の人と思われるナンバープレートの軽自動車が停まっていたので,ここを見ているのかと思ったら,中では女性3人がゴザを敷いて,お供え物をしているところだった。弁当らしき包みも見える。小学校中学年くらいの女の子,その母親,およびその祖母という家族構成だろうか。そのお供えをしている辺りは石でさらに囲いがしてあったので,いまは御嶽の役割をしているのだろうか。御嶽といえば,本来は男子禁制の聖域だ。今回ばかりは中に入るのは差し控える。
3人とは偶然なつながりであるが,この場所は3人で番をしたのそうだ。船が来るのが見えると,そのうちの1人が馬に乗って,集落――おそらくは祖納だろう――まで知らせに行くというやり方だったようだ。あらためて地図を見れば,ホントにここは孤島である。東には西表島があるが,そこまででも100km近くはある。北の尖閣諸島はその倍はある。西の台湾は125km,南は……フィリピンということになろうか。いずれにせよ,よほどのことがない限り,四方どこを見ても陸なんてものは見えない島である。そんな島に来る船――あるいは素通りする船もあっただろうが――は,この島の人にとって興味の対象であると同時に,恐怖の対象ともなったに違いない。
話がそれるが,参考文献一覧でリストアップしている『沖縄 魂の古層に触れる旅』を書いた作家・立松和平氏が,いわゆる“援農隊”として,30代半ばのときに与那国に訪れたことがあるという。期間にして2カ月半で,目的は島内のさとうきび畑での収穫作業。製糖工場を通年で動かすといろいろとコストでムダが出るため,ある期間に限って集中的に収穫作業が行われるのだ。島の人間の手ではどうにもならないから,よその手を借りざるを得ない……詳細は著書に書かれているが,その作業をしていた,さとうきび畑での昼休みのこと。島の人たちが地元の方言で話をしているのだが,自分には何を話しているのかさっぱり分からない。そこへ自分が近づいていくと,一瞬の沈黙の後,例えば「兄ちゃん,帰りたいねぇ」なんていう,当たり障りのない言葉が返ってきた。しかも標準語。この一瞬の沈黙が何とも痛くて,かつ大きな壁を感じたという。
与那国の人がよそから来た人に言うフレーズに,こういうのがあるそうだ。「琉球には二つの国がある。それは与那国と粟国だ」――ただ単に名前に“国”とつくシャレだけではなくて,この与那国は,地理的にもまさしく“国”という存在に近かったかもしれない。それくらいまた,自らで何とかする,すべてを完結させることを余儀なくされ,そうした歴史の積み重ねで,与那国島という“確固たるコミュニティ”が成立していったことは,容易に推測できる。
だからこそ,よそから来る船,そしてそこに乗っている人間は興味にも恐怖にも感じたはずだと思う。彼らは自分らにとっていい方向,すなわち一生懸命になってくれる人たちなのか。悪い方向,すなわち自分らの生活を乱すだけで去ってしまう人たちなのか。ホンネとしては,島の人間だけで何とかしたいのだが,上述のように外部の人間の手を借りなくてはどうにもならないことが,時にはあることもまた事実である――そういう葛藤を経て,沖縄の人間はよその人間を受け入れ,自ずともてなし上手になったとも言われている。すべてがそうだと断言するつもりも,だからそれがいいだの悪いだのと言うつもりもないが,それが観光客がよく口にする「沖縄の人は心が温かい」という印象の,もう一つの側面なのではないだろうか。(第6回につづく)

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