奄美の旅(勝手に)アンコール

A天才の住みたもう「御殿」
マーチに再び乗り込む。今度目指すのは画家・田中一村氏(前回参照)が奄美で終生住んでいたという住居跡である。右手に海を観ながら龍郷町の中心部をあっという間に通り過ぎて,本茶トンネルから名瀬市に入ると間もなく「←田中一村終焉の地 1.2km」という看板が出てきた。ここを左折することにする。交差点脇には「たかの」という鶏飯の店…というかフツーの食堂があって,一度ここで昼食に鶏飯を食べたことがある(「奄美の旅」第3回参照)。
左に曲がると,緑深い山をバックにした住宅街の中に入っていく。「奄美交通」から名称変更だか「南の島交通」なんていう路線バスが入り込んでいたので,住んでいる人もあるいは結構多いのかもしれない。たしか『一村伝』(前回および「参考文献一覧」参照)だと,この山の麓にある国立療養所・奄美和光園のそばにあったと覚えている。やがて,いかにも一村氏が住むにふさわしいという感じの田舎の風景が現われる。さて,そろそろ1.2kmくらいは走っているはずだが,一向にそれらしき案内板が出てこない。あるいは国道からの入口だけ看板をつけといて,後は自分で探せってか?
こう言ってはナンだが,結構辺鄙な場所なのにもかかわらず,この道は車の数がそれなりに多かったと思う。その理由が分かったのは,間もなく現われてきた大きなトンネル「和光トンネル」である。ピンときた。市の中心部を通らずに国道58号線に通り抜けができる近道なのだ。こんな道があったとは…そういえば,今でもざっくりだが見ている「南海日日新聞」に載っていたうろ覚えがこれまたあったので,調べてみたらば昨年の暮れに開通したばかりのものだったようだ。
「そもそも,このトンネルの向こうに住居跡があるのだろうか?」と思いつつも,何となく道をそれる機会を失ってしまい,ズルズルと長いトンネルに入り込んでしまった。さすが新しいトンネルだけにキレイなものだ。道も広いし走りやすい。相当の時間くぐっていたと思うが,距離は2440mということで,奄美で3番目に長いものである……いやいや,これをくぐっちゃいかんのだよ。
そして,このトンネルの向こうにはやはり名瀬市の中心部しか広がっていなかった。すなわち,住居跡は確実に通り過ぎていたことになる。やがて国道58号線との交差点。このまま瀬戸内町に向かって左折することも可能だが,せっかく目的があるのならばやっぱり見ておきたい。「ま,これで“近道”が分かったのだから」とプラスに解釈しつつ,交差点前でUターンして再び長いトンネルに入っていくことにする。でも,2km余ものトンネルを戻ることに,どっか虚しさを感じていたのは否めない。
再び和光園付近の田舎の集落に入り,今度は注意深く周囲を見ていると,大きな周辺地図を左に見た。なるほど,しっかりと分かりやすいものだったが,これによると上のほうに位置する和光園のそばに「一村橋」というのがある……いや,これは単に一村の名前を拝借しただけだろうから,目的地とはまったく違う。そこから下に視線を移していくと……おお,なるほど,2本目の川を渡ってすぐを右へ曲がる感じか。うーん,それにしちゃ向こうから来る時に案内板がなかったぞ。
さらに注意深く進む。再び住宅街に入って川を2本渡る。すると「→田中一村終焉の地」という看板が見えた。ちなみに,反対車線のほうにちらっと目をやったらば,同じような看板があるにはあったが,街路樹に隠れている格好だった。うーん,これは名瀬市がちゃんと観やすいようにしないのがいけない。法定速度を少しオーバーして走っていた私は決して悪くない…わけはまったくないのだろうが,いずれにしても改善の余地は確実にある見づらさだ。
その道を右折して1分。木でできた即席のような看板が最後の目印。入口から100mほどの距離にあるようだ。周囲は宅地造成中のようで,ガラーンとした空地に,ポツポツと新しい家が建てられているような感じだった。奥まで車が入っていけそうだが,別にこのガラーンとした空き地の片隅にマーチを停めといたところで罪にはなるまい。奥まで入ってヘンに転回する羽目になるよりラクでいい。私道のようなところに“路駐”しておこう。ま,こんなところまでパトカーが入ってくることもあるまい。

車を停めたところから50mほど入ったところ,裏には和光園のバックあたりからつながっているであろう山…というか丘のようなものがあるどんづまりに,一村氏の住居跡はあった。敷地は少なくとも20坪はあろうか。周囲の造成中の敷地と比べても,大きさに遜色はない。2階建ての一軒屋が建てられるぐらいの敷地の端っこに,トタン屋根ですっかり雨ざらしにあって古ぼけた木造の平屋が残っていた。ガジュマルだのシダ植物だの芭蕉系だのといった南国の木々が,その敷地を縁取るように生えている。写真よりも,一村氏よろしく絵画にしたほうがいいような光景だ。
中をうかがうことはできないが,『一村伝』によれば中は6畳と4畳半の畳部屋に台所つきの借家だった。現代風にいえば“2K”である。屋根のトタンは元々茅葺きだったのを改造したものだった。家主からふすまと畳を取り替えようと打診されたが,絵を描くことで多少なりとも汚すことになるからと断ったそうだ。一村氏が住むまで2度ほど別人が住んだということだが,家主が当たり前にやろうとしたはずのリフォームを断ったあたりは,一村氏の「いい人柄」の部分の表れだろうか。
このお世辞にもキレイとは言えぬ家に,一村氏は柳ごおり2〜3個と,絵画の道具を入れたダンボール数個を持ち込んだ。それは奄美に移住したから4年も経った1962年のことだった――そう,すぐにこの家にありついたわけではなかった。初めは奄美和光園のそばに住んでみたりと,島の中で“流転”していたこともあるが,4年の月日の間に,実は一村氏の縁談話もあったのだ。
きっかけは,千葉時代に世話になった知人の身内の結婚式に襖絵を送ることになったことだった。一村氏にしてみれば「今まで世話になったお礼」,絵画を送られた知人にしてみれば「移住した一村氏への金銭面での配慮」があっての創作であった。この創作のために千葉にあるその知人の一時期過ごしたときに,これまたその知人によって縁談が持ち込まれたのだ。実際に見合いをし,芸術に理解を示し知的でもあったその女性とは結婚寸前まで行った。しかし,突然それは破談する。そこには前回も書いたが,自分のために一生独身だった(「と思い込んだ」とも言えるのだろうが)三つ上の姉への申し訳なさがあったともされる。
氏にとっては,この破談で「すべてが吹っ切れた」とも言えるだろう。持ってきた家財道具もほとんどなかったというが,その荷物の少なさには今まで過ごしてきた生活の“レベル”もさることながら,奄美単身移住への並々ならぬ決意も垣間見ることができよう。こうして,この家で亡くなる直前までの15年間,暮らすことになったのだ。家主もあるいは本人も,その年月までは想像しなかったに違いない。
奄美での暮らしも,基本的には千葉時代と変わらない質素…いや時として「貧乏」以上の過酷な生活であった。自給自足も見事にこなした。日本人の原点とも言える菜食主義的な食事で,朝食はかつおぶしとたっぷりの野菜を豆腐の上にかけ,麦飯を食したそうだ(この影響で,私はいまかつおぶしを食べていたりなんかする)。『一村伝』にある写真では,部屋の中はきわめて“シンプル”な感じだが,台所の写真には「男の1人暮らし」にしては,豊富な数の調味料や料理道具が写っている。
千葉時代(前回参照)には,既述のとおり貧しい絵描きとしての生活を,農作業で自給で食物を作ることで補っていた。しかも,それを20年もやっていた。奄美は千葉に比べるといっつも温暖だから,食物の生育に加えて病害虫まで生育がよすぎて,初めこそ栽培に苦労したようだったが,その長い経験と根っからの研究心・探求心は,そんな課題を克服するには十分だった。『一村伝』では,庭先を切り払って作った菜園がこの敷地の中にあったというが,パッと見ではその跡は分からなかった。あるいは,裏手の山の斜面が田畑のような感じになっているので,そこでやっていたのだろうか。
その斜面にはあぜ道のようなものがついていて,上がっていけるようなので行ってみると,直径2〜3m程度の水たまりが,10個程度点在している。元々窪みになっていたのかもしれないし,あるいは一村氏がシャベルで開墾のために掘ったのか,そこのところは知る由もないが……そばには濃紺に染まった糸の束が丸まって置かれてあった。その水たまりに含まれる泥で染めたものであろう。おそらくは大島紬の糸作りをしているのだろう。「大島紬村」へ初奄美の際に行ったとき(「奄美の旅」第4回参照),これと同じ光景を見た。山から流れ込む泥が鉄分豊富で,染料をつけた布を何度も浸していくうちに化学反応を起こし,独特の風合いの糸を作り上げるのだ。
この大島紬。実は,一村氏も体験している…いや,実際に5年間,大島紬の工場で「染色工」として働いていたのだ。ここは千葉時代と違うところかもしれない(一度,板金工として働いた時期もあったが,いろいろあって長続きはしなかった)。いや,誰も頼れないからこそのやむない選択だったかもしれないが,ただし「5年仕事をして金がたまったら辞め,最後の人生をかけて絵を描く」というプランニングだった。家主の奥さんが機織りをしていたことが大島紬との出会いのきっかけであるが,初めは体力的にも楽ということで機織りから入ったが,さすがの天才も「何でもできる」というものではない。
結局は「素人の域を出なかった」という機織りをやめて次に就いたのが,染色工としての道だった。このときの氏の年齢,54歳。当時の世の中のサラリーマンが「定年間近」だったころ,いわば「新人」として初めて人の下で働くことになったというのも,「天才ならではのエピソード」というべきか。あるいは,単純に「皮肉な話」ということなのか。決して賃金自体は満足のいく額ではなかったというが,勤務態度は至って真面目。しかも,これは昔からの性だったのかもしれないが,時として根を詰めすぎて周囲から心配されるほど,「工場一の働きぶり」を見せたそうだ。
思えば若いころ,氏は中央画壇とのつながりを自分で断絶した。そして常に「誰のために何のために絵を描くのか?」を自問自答してきた。無論,その答えは自明であろう。こう言っては失礼かもしれないが,“頑固の権化”みたいな氏が「人の下で5年間もよくやっていた」と言えはしないだろうか。たしかに,仕事の理由として「5年働いたら絵を描くために辞める」という考えであったことが,彼を仕事にひたむきにさせるモチベーション足り得たことは大きいだろう。ダラダラと何となく働くよりも,気持ちに張りが出るかもしれない。
とはいえ,絵画の世界だったらば,客の注文とはいってもいくらでも自分のセンスを前面に押し出すことができるはずだ。これに対して,工場での作業は客からの色指定の通りに染色していくものだった。そこに“恣意”を入れるのは許されない正反対の仕事である。そもそも,奄美にやってきたのも,誰のためでなく自分のためにやってきたのに,この辺りの経緯は何とも面白い。それでも「ここはこっちのほうがいいのだが…」とたまには言いつつ,しっかりと指定通りのことをやったという。もちろん,何と言ってもそこは画家だから仕事の上達は早く,そのレベルもグングンと上げていったそうだ。
やがて,氏は5年の勤務の後に「3年描いたらまた戻ります」と言い残し,ホントに仕事を辞めた。そして,絵に没頭する毎日を送ることになった。“自然現象”とリフレッシュの散歩に出る以外は,ひたすら絵を描くのみ。近所づきあいなどをしているヒマはなかったから,やがて周囲から奇異の目で見られるようになったが,それを気にするくらいならば絵を描き続けるしかない。千葉時代にいろいろと面倒を見てもらった人たちとは,縁談を断ったことですべてが途切れてしまった(と思い込んだと言えるか)。
さらには,氏が働いていた最中の1965年,身内で最大の理解者だった姉が他界した。そのショックたるや,いかばかりか。それでも,今度はその遺影の前で絵を描き続けた――いよいよ氏の氏たる「孤高の世界」へと突入するわけであるが,それはまた自身の身体が蝕んでいくきっかけともなった。道端や自宅で倒れることも何度となく起こった。若くして身内を亡くしている氏も,自身の死を予感せずにはいられない。時として,それはホンの些細なことでも必要以上の行動や思考となって反応し,さらに周囲の目は彼を奇異に見るようになる。誰かを頼れば違ったかもしれないが,根本に「誰かを頼ればいい絵が描けない」という考えがあったりして,それが自身をさらに追いつめる……そんな不安を,絵を描くことですべて忘れられたのだ。世の中が高度経済成長やオイルショックを経験する中,ひたすら最底辺の生活でも絵が描ければ幸せだったのだし,あれだけの名作品を生み出せたとするならば,やっぱり氏は天才ということで間違いないのだろうと思う。

でも,氏はホントのところは,中央画壇と決別したことをものすごく悔んでいたのではないか。「誰かとかかわっていたい」と社会的欲求をしっかり持った,ごくごくフツーの人間だったと思うのだ。23歳で支持者が出なかったのならば,“一浪”でも“二浪”でもして,機を改めて例えば25歳のときに再評価をしてもらっていたならば…と思う。少なくとも,中央画壇で生きる道は残されていたかもしれないのだ。いや,「残される」どころか才能がさらに開花して,あるいは東山魁夷氏をしのぐような人物になっていたんじゃないかとも思わずにはいられない。そんなシンパシーを抱かずにはいられない魅力がどこかあると思うのは,ひょっとして私だけだろうか。
もちろん,今では奄美大島という離島とはいえ,個人の美術館が建つまでに知名度がアップしているのだし,「結果的にはよかったんじゃないか」と言えるかもしれないが,やはり有名になるのは“中央”に近いほど…と思うのが,ごくごく自然な欲求であろう。今と昔では「年齢に対する見方」は大きく違うだろうが,かりに25歳とか30歳の年齢でも「遅咲き」とするならば,「それはそれでもいいではないか」と“スパンを広げる発想”が,氏には欠片もなかったのだろうか。あるいは,若くして親が亡くなったことで,ココロの奥底で「いつ自分もどうなるか分からない」と怯えていたのだろうか。
そして,若いころに比べたら多少丸くなったのもあるだろうが,ちゃんとフツーに働くことができる人間ではないか。私はまだなったことがないから分からないが,フツーの人間は50歳を過ぎてから新たな世界に飛び込むのは,相当の勇気が要るはずだろう。対して彼は,自身の才能が生かせた分野とはいえ,「一匹狼から一職人」へと見事に変身し,誰よりもしっかり働いたではないか。「かなり仕事ができる人間」なはずなのだ。
もしくは,サラリーマンとしても,きちっと教育を受けて理解者を得ていれば,やっていける器があったような気がする。ただし,時代はいまと違ってゼネラリストがまだ主流だった時代だし,氏の特異な才能を生かせる“キャパ”を企業に持てたかがビミョーではあるところだが,何たって学生時代まではエリートだったのだから……いろいろと考えてしまうところだが,「人生は,そうは上手く行かないもの」だとはいえ,神様は氏にあまりに重い運命を課しすぎたのではないだろうか。
その重い運命を背負った氏。最期は誰にも看取られることなく,ある日突然やってくることになった。1977年9月11日。死因は心不全。台所で夕飯の準備をしているときに倒れてそのまま逝ったと推定。享年69。翌日,近所の人間が事切れている氏を見つけた。孤高の人間らしいというのか,仰々しさなどまるでなく,あっけなくてあっさりしたものだった。
しかし,ここに一つ重要なことがある。ここまで,我慢して読んでくださった方,お気づきだろうか。史跡自体の「終焉の地」という表現の仕方と,私が書いた「亡くなる直前まで過ごした」という表現の仕方との矛盾に――そう,ホントのことを言えば,ここは「終焉の地」ではないのだ。もちろん,病院に運ばれて死亡が確認されたから「亡くなった場所は病院だ」とかいうナンセンスなオチなどではない。
実は同年9月1日,亡くなる直前に氏は別の場所に引っ越していたのだ。区画整理のために移動せざるを得なかったというのが理由。上述のこの場所を発見するきっかけとなった地図にも,それぞれの場所がはっきり明記されている。どうして「終焉の地」と行政が名づけたのかは謎だが,あるいは「そのヘンは大らかに」ということなのか。ま,「大らかに」というのは私の意見だったりもするのだが……それほど互いに遠い位置ではないので,ホントはどちらにも行きたかったが,古仁屋行きのことを考えると,今回はあきらめざるを得なかった。
その新しい家を氏は「御殿」と呼んで喜んだそうだが,実際は以前と何ら変わらない粗末なものであった。かつて一緒に暮らした姉を1965年に亡くして以降,唯一の身内になった妹が,「『御殿ができた』と言われて行ってみたが,その家を見て以前の(氏の)生活を想像したら,涙が出てきた」という。おまけに電気が通っておらず,手続が済んで電気が通ったのは,氏の葬儀の日だった。

B古仁屋に着いたら離島へ行こう
「田中一村終焉の地」改め「田中一村が奄美で最も長く暮らした地」を後にして,マーチは先ほど通った道を再び辿る。この道は今後また奄美大島にやってきたときに,ぜひ使いたい道だ。いや,早速だが帰りにでも使いたいところだ……再び国道58号線に入ると,思いのほか市の中心部に近かったので,ちょっと驚く。なーんだ,これじゃそれほど時間短縮にはならないんじゃないだろうか。それでもまあ,車がよく混む場所から外れるだけでも,多少は時間が違うかもしれない。急ぎ旅は身体に決してよくないだろうとは重々承知だが,限られた時間の中では「移動の効率化」が,旅人には最大の課題となって常にのしかかるのだ。ましてや,ドライバーにとってはなおさらのことだ。
古仁屋までの道中は,ひたすら走るのみだ。強いて印象に残ったことは,瀬戸内町に入って嘉徳(かどく)という集落の入口に辿りついたときのこと。この嘉徳は歌手・元ちとせ嬢の出身地だ。初奄美のときに,何気にメインの目的地にしていたのがこの嘉徳だったりした(「奄美の旅」第1回参照)。で,この入口にある看板に「元ちとせの実家」という落書きがされていたのだ。紛らわしいので消してほしいと思ったのだが,たまたま後続車がなかったので停まってみてみたら消えていた。誰か指摘した人物がいたのか。はたまた苦情が観光客から出たのだろうか。
――こうして古仁屋の街中に入ったのは,13時半。思いのほか早く到着することとなった。そして,車を停める位置の都合で少しぐるっと街中を回り,13時40分,今回も泊まることになる「ライベストイン奄美」の前に車を停めた。前回の奄美旅行のときもここに泊まって,今回が2度目。これから瀬戸内町のとある離島に行くことになるのだが,その拠点として港にも近いし,また設備的にもしっかりしているから,このホテルはなかなか個人的には評価が高い。
玄関を入ると,どう考えても小さいころから真面目で気弱そうな感じだが,実は支配人あたりかと思われる,50代ぐらいの大村昆氏似のメガネをかけた男性が,丁重に出迎えてくれた。実は一度キャンセルしてから最予約を入れたとき(トップ参照),団体が入っているためにキャンセル待ちとなったのだが,数日して部屋が一つ確保できたということで,ホッとした次第だ。とはいえ,ホンネをいえば,旅行直前に不覚にも風邪をひいてしまって(「管理人のひとりごと」Part75参照),いまいち乗り気ではなかったので,2度目のキャンセルも考えたのだが,結果的にはこうしてやってきてしまった。
「今日はこれからどちらへ?」
「あのー,請島(うけしま)です」
「明日はいかがされますか?」
「朝食ですか?」
「いや,お車の配車でございます。予定のほうなんで
すが…」
そう,玄関前に車を停めている理由の一つに,ホテル側でわざわざ車を入れてくれるから,というのがあるのだ。前回のときは,そばにある橋沿いの道を行って畳屋の脇の狭い道を入って自分で入れたのだが,あるいは駐車場が変わったのだろうか。個人的には,別にホテル側が何かしでかすとか,ヘンに不信感を抱いていたわけじゃなく,入庫も出庫も別に自分でやっても問題ないとは思っていた。
「あのー,実は明日加計呂麻島(かけろまじま)に行
こうと思ってて,夕方まで車を置かせてもらっても構
わないですか?」
「構いません! では,朝は8時の古仁屋発でしょう
か……お帰りはいつでしょうか?」
「16時15分に古仁屋に着くので,16時半ごろで」
「かしこまりました。では,16時半ということで」
何か自信に満ちた男性の表情。「その質問,待ってました!」なのか,はたまたこちらのサービスに応えたいという精神の表れなのか。ミョーに自信に満ちたような覇気のある反応だった。ともあれ,これで明日の駐車場も確保できたので,さらにホッとする。「申し訳ないですが,港に停めてください」と言われたあかつきには,駐車スペース確保のために,少し早くホテルを出なければならない。
チェックインが終わって,少しの間ロビーで待っていると,ホントは14時から部屋に入れるところを,特別に入れてくれるということで部屋に案内される。荷物を部屋に置いておきたかったので助かった。先ほどの男性に案内されることに。「いやー,今日は久々の晴れ間ですね。昨日までは天気が不安定で…」とのことだ。さらに,「この時期はあまり天気がよくないんですよ」。そう,いまはこんなに晴れ上がっていても,明日の予報は“雨マーク”がついているのだ。できれば,この天気が明日まで持ってくれるといいのだが……。
案内された部屋は505号室。前回は502号室で,ツインのシングルユースだったが,今回は純粋にシングルルーム。カギの開け方から空調から,いろいろと丁寧に教えてくれる。これまた前回とは大違い。たしか,ロビーではもう1人若い男性が立っていたが,団体が来るというから多少テンション高めかつ丁寧になっていて,その“おこぼれ”を私ももらっているのかもしれない。私1人しか客がいなかったら,こんな丁寧に接してくれたのか,ビミョーである。

荷物を置いて,部屋のカギを先ほどの男性に預ける。ついでに,車のカギも預けることにする。はて,どんな格好で停められるのか。バック入庫が望ましいっちゃ望ましいが,その辺りまで配慮が利くのかどうか……そして,ふとフロント脇に「イケンマレンタカー」の広告が。加計呂麻島の港の一つである生間(いけんま)にあるレンタカー屋である。既述したように,明日加計呂麻島に行くとき,実はこの生間から入ってこのレンタカー屋でできれば車を借りたいところなのだ。しかし,風邪を引いてしまったこともあり,念のため予約とかはしないままで乗り込んできてしまった。はて,ここで予約が取れるのだろうか。はたまた明日でも間に合うのか……そんなことを考えつつ,外に出る。
外は陽射しも出て,先日の東京みたいなポカポカ陽気…というか,かなり「暑い」ほうに近いかもしれない。湿度もそれなりにあるのが大きいだろう。ジャンパーはもちろん部屋に置いてきて,上は薄手のシャツ1枚になっているが,これも半袖にしたりして調節しなくては,結構汗をかくかもしれない。このポカポカ陽気で,少ししなびかけていた旅行への意欲が復活してきた。
5分ほどして,古仁屋港に到着。先ほど書いてしまったが,今日はこれから奄美の離島の一つである請島に行きたいと思う。「奄美の旅ファイナル」のトップでは,この請島と隣にある与路島(よろじま)はひとまず置いておく…なんてことを書いたが,その“ひとまず”がこうして“現実”になるとは,少なくともその時の私は思ってもいなかったはずだ。フェリーで行くことになるわけだが,その時刻表の都合で日帰りで行けることになったために,今回スケジュールに組み込んだというのが理由だ。ま,「何が特別にある島というわけではない」ということは,すでに承知済みである。むしろ,もう一方の与路島のほうが,ガイドブックなどにも載る集落内のサンゴの石垣など,見所が少しある感じなのだが,こちらは時刻表の都合で今回は行くことができない。その辺りは機会があれば後述したい。
請島行きのチケットは,加計呂麻島に行ったときと同じ,コープの脇にあるチケット売場にて買う(「奄美の旅ファイナル」第1回参照)。片道900円。請島は東西に長い島で,フェリーが寄港する港が東に請阿室(うけあむろ)港,西に池地(いけじ)港と二つある。往復運賃だと1710円なのだが(復路が1割引き),私は池地港から上陸し,請阿室から“アウト”としたい。そうなると,同じ島内で片道では同額にもかかわらず,往復運賃は適用とはならないで片道ずつ買うことになるらしい。「帰りのキップは直接港で買ってください」と言われた。なお,フェリーはこの二つの港を寄って与路島まで行き,また二つの港を経由して古仁屋に18時に戻る運航予定である。このフェリーが請島に再び戻ってくるまでの時間を利用して請島の中を移動しよう,というスケジュールなわけである。
フェリーの待合室は,晴れていても少し薄暗い感じだ。人は結構オバちゃんが多い。古仁屋で買い物を一通りして,これから各島へ戻るのだろうか。室内にはいつの放送なのか,『踊る!さんま御殿』がテレビから流されている。ゲストの声よりも客のしゃべりや笑い声よりも,なぜか明石家さんま氏の声だけが,ひたすらうす暗い室内に響いていた。
さあ,こちらはといえば,先ほどちらっと触れた「イケンマレンタカー」に,待合室脇の緑の公衆電話から連絡を取ってみる。何となく明日“飛び込み”で行っても大丈夫そうな気がしないでもないが,一応前もって予約しておくに越したことはないだろう。一度目のコールで,どこかに転送されたらしく別の音色のコールが続いたが,結局つながらずじまい。5分ほどしてもう一度かけたが反応は同じ。港にでも出かけているのか。あるいは別のところに出かけていないのか。また改めてかけ直してみよう。
あいかわらず明石家さんま氏の声が響く待合室を後にして,少し離れたところに停泊している請島・与路島行きのフェリー「せとなみ」のところに向かう。港にはたくさんの小さい釣り舟みたいな船が停泊しているが,これらは「海上タクシー」と呼ばれるヤツだ。定期船の時刻表ではタイミングがズレるときなんか,これが利用されることが多い。1艘で10人前後は乗れる。でもって,その1艘でいくら…というものだから,人数が多いほどかかる金額も安くなる。陸上のタクシーと同じ原理だ。そういえば,前回旅行で加計呂麻島に行ったときは,フェリーがドックに入っていたために,代行で走っていたこの海上タクシーに乗り込んだのだ。スピードは早いが,船体が小さいから振動が身体にかなり響く。
「せとなみ」は2階建て。1階の船室はいわゆるカーペット敷きの2等船室。2階はデッキにイスが八つほど。荷物やら人やらで座れない。1階も窓側はすでに人と荷物がかなり占拠していて,人はほとんどが毛布をかけて四角い枕に頭を乗せて横になっている。「フェリーの中でやることがない」「フェリーは揺れるから」という理由で船室で横になるのは,私も経験があるので理解できるが,いくら何でも出航前からこれでは早すぎではなかろうか。しかも,結構マジで寝ていたりする。こちらは横になりたいというわけではなかったが,奥にテレビがあってそばにソファが二つあったりもするが,座れそうなところは何しろ荷物やら人やらですでに埋まっているから,窓から一番遠い壁際のガラーンとしたところにベタ座りすることになった。
14時半,予定通り出航。すると,いかにもニブそうな太ったアンちゃんが船室に入ってきて,1人1人からチケットをもらって半券を切っていく。フツーに渡す人しかり,寝っころがりながら渡す人しかり,そばに置いておいたまま寝に入って「勝手に切っておいて」という感じの人しかり,中には起こされてキップを取り出して切られる人しかり……これならば,船に乗るときに切っておけばいいのにと思ってしまうが,まあどーでもいいか。
それにしても,考えてみれば窓側から埋まるというのは不思議なことである。ソファならともかくも,ベタ座りをすると,よほど座高が高くない限りは正座でもしないと,窓の外は見ることができないからだ。私は途中で枕と毛布を取ってきて,枕の上に毛布を四つ折にして厚みを加えて,即席の座椅子を作る。一方の窓側に少し隙間があったので,そこに移動してしばし外を眺めることにしたが,やっぱりどこか安定感には欠ける。そこまでして見るべき景色かといえば,いま見えるのは加計呂麻島のゴツゴツした岩肌と緑だけの単調な景色である。
しかも,ほとんどは寝ているわけだし,ただでさえ1階だから振動が来るし,端っこのほうが振動がより来そうなものだ。にもかかわらず,窓側に行きたがるのは,どこかで景色が見られることを担保しておきたいという人の心理が働いているのか……そんなことを考えているうちに,どうにも退屈になってきて私も一緒に横になることにした。室内は声もなく,ひたすら静かだ。朝早く目が覚めてしまったからか,多分,私も少しばかり眠っていたのかもしれない。(第3回につづく)
 
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