次に寄ったのは大坂トンネルと「夢の逢坂(おおさか)橋」。トンネルは日露戦争の戦勝記念で作られたものとのこと。で,樫立からトンネルをくぐって外に出ると,左に大きく下ってカーブする橋脚が出てくる。これが「夢の逢坂橋」。左に広がるのは大海原。正面には八丈富士,左後方に八丈小島。右側に駐車スペースがあって,そこに停められる。
ここは交通の難所で,膨大な金をかけてこの道はできたそうだ。なるほど,山の斜面は海に向かって少し内陸にえぐれる形になっていて,道は少し空に浮いた格好で――もちろん橋脚で支えられているが――走っている。山の斜面に沿うように作るとなると,かなり内陸に入り組んだ形で作らなくてはならない。トンネルに入る手前にあった旧道は,さぞ複雑で険しい道筋となっているのだろう。ちなみに,このトンネルを境に,これから向かう大賀郷や三根を「坂下」,いままで通ってきた樫立・中之郷・末吉を「坂上」と呼ぶそうだ。
さらに北上して坂下地区の入口の,大里集落という集落に入る。車1台ギリギリ通れる程度の狭い路地の両側に,玉石垣がびっしり連なっている集落。石垣の上には緑が生い茂って,南国ムード満点だ。あたかもここだけロケのセットみたいである。石は,ラグビーボールみたいな感じの楕円形。一つ一つはバラバラな大きさであるが,石の大小をうまく組み合わせているのだろう。凸凹感がなく整然とした印象を持つ。平均してみると,30〜40cm×20cmといったところだろうか。
特徴的な垣根として,沖縄のサンゴでできた垣根が印象的であるが,あちらは明らかに一つ一つが凹凸から大きさからバラバラで,隙間が結構目立つ。それがまた素朴でいいのだが,こちらも形状からして,隙間はおそらくできてしまうのだろうが,楕円で統一されている分だけそれがあまり目立たないのだ。
その玉石垣が連なる集落の中に「ふるさと村」という開放スペースがある。藁葺き屋根に木造の素朴な住居で,母屋,牛舎,トイレに高床倉庫から構成されている。
母屋はパッと見,昔の普通の日本家屋。入場料もない,管理人もいない場所なのだが,閉まっている障子を動かすと,普通に家の中に入れてしまう。なので(?)入ってしまうことにすると,10畳と8畳のたたみの部屋二つ。「母屋に壁がないのと畳の敷き方に特徴」と入口の看板にあるが,たしかに壁はなかったが,ふすまで仕切れそうなので,果たしてこれが特徴的かと私にはよく分からない。畳に関しても専門外なので同様だ。牛舎は,屋根が藁葺き屋根の牛舎。それだけ。
トイレは,1.5m四方×高さ3mほどの低い足がついた屋根付きの家。細長い板敷きの床に1枚分隙間が空いていて,そこに落とすというわけだ。下の土が少し掘られていて,そこにある程度たまったら肥料としてまわっていくのだろうか。
高倉は4本の支柱で支えられているが,背はさほど高くなく1.5mほど。その上に四方・高さとも3mほどの収納部分。奄美で見た高床(「奄美の旅」第4回参照)に比べると,短足で柱自体も太くてどっしりした感じだ。
「ふるさと村」を出て,路地を通り抜ける。路地を出た先に次に行こうと思う。八丈島歴史民俗資料館があるために,近道をしているわけだが,道はあいかわらず車1台がギリギリ通れるくらいの幅。ここに車が路駐されていた日にゃ,スリル満点にギリギリのところですれ違う羽目になる。こういうところで玉石垣に“ゴツ”とやった日にゃ,ノンオペレーションチャージとかいうやつで2万円持って行かれてしまうし(「奄美の旅」第5回参照),近道と思って入り込んだ自分を恨めしく思う瞬間である。
そんな狭い道を無事くぐりぬけて,大通りに出るとすぐにある八丈島歴史民俗資料館は,木造平屋立ての建物。昔の田舎の小学校か,あるいは町に1件しかない診療所みたいな建物だ。これでも1939〜71年まで八丈支庁庁舎だったようだが,もらった絵葉書によれば,「両脇には煉瓦造の門柱が構え,両側に細長い建物がバランス良く配置された西洋風の建築(中略)湿気を調節するため一切釘を使わず,また通気性を考慮した構造の壁板が特徴」とある。島の官庁ゆえだろう,それなりに凝った作りをしているのだ。で,両側には南国の木がいい趣で茂っていたりするから,なおさら官庁っぽく見えない。私にとっての官庁のイメージが「コンクリートの無機質な役所」で固定されてしまっているせいもあるだろうか。
中に入るとその名の通り,考古資料や民俗資料,生活用具,あと黄八丈などが展示されている。絵葉書の続きには,年間数万人の観光客が訪れると書いてあるが,いまこの建物の中にいるのは,受付にいる町の職員と思しき,ヒマそーな男性2人と私だけである。「め由工房」ですれ違った観光バスはおそらくここも通るだろうから,少なくとも本日は数人が訪れているだろうが,それを累積しても,数万人とはホントだろうか。
さて,いろいろコーナーを見ていて面白かったのは,流刑史のコーナーだ。先の御赦免料理で触れたが,八丈島は島流しで有名な島。処刑の様子を描いた絵がいくつも展示されていて,結構エゲツないこともやられていたのだと分かる。また,島を牢屋に見立てれば当然付き物なのは,「脱獄」ならぬ「脱島」。その脱島のエピソードが描かれているものもある。
この島に最初流されてきた有名人は,1606年の戦国武将の宇喜多秀家。豊臣秀吉時代の「五大老」の1人である。34歳で流され,84歳で亡くなるまで,この島から残念ながら出されることはなかったという。秀家とその一家を始め,1881年に流罪人が全員赦免されるまで,270年余りに合計1759人という流刑史が八丈島にはある(脱島82人,赦免489人)。
しかし,八丈島では割と流人は自由だったようで,なかには島の女と結婚した人間もいるという。赦免されたときに御赦免料理が振舞われたというのも,この島が罪人に寛大だった何よりの証拠であろう。もちろん,奄美での西郷隆盛(「奄美の旅」第4回参照)のように,人のために尽くしてくれた者とか当たり障りのない人間はそうだったのだろう。逆に「俺は侍だ。文句あるか」という輩は,冷遇を余儀なくされたのではないか。
島の流人たちに対する寛大さの結果は,流人たちが島民に教育を施して,明治の学制発布と同時に島には小学校が設けられたというし,島の踊りや民謡は,流人たちが持ち込んだものだというから,八丈島の文化と歴史が流人によって大きな影響を及ぼされたと言ってもよい。ただ,赦免されて晴れて本土に戻ることになったために,島で折角一緒になった女と別れることになったということもあったようだ。
その一方,三宅島が罪人に対してはひどかったそうだ。いざ島で出迎えられて,何気に荷物を持ってもらっちゃったりしたあかつきには,不当な運搬料とかを請求され,一文なしになってしまうケースがあったようだ。先に流されてきたいわば“先輩流人”がやることが多かったというから,島民がやったという言い方は正しくないだろう。
しかし,それから何世紀経ったのか,三宅島はいま,噴火活動の影響で島民が全員避難生活を余儀なくされている。ひょっとして島で不幸な目に遭った流人たちの怨霊なのではないか。流人を冷遇した過去の歴史が,数世紀を越えて島民を島から全員追い出したとするなら――と勝手に妄想で書いているが――皮肉なものである。
さて,あとは北部を周るのみ。大賀郷集落をいつのまにか突っ切って,フェリーが泊まる八重根(やえね)港を通過し,南原(なんばら)千畳岩海岸に着く。八丈富士が噴火したときに流れ出た溶岩が固まった,ホントに真っ黒な岩場。しばらくはその真っ黒な岩場を左に,正面は圧倒的存在感で八丈富士が迫りながら,道を北上していくことになる。建物というと,八丈島国際観光ホテルとか八丈パークホテルとかホテルくらいで,それ以外はホントに何もない。やがて島のメイン道路に合流すると,次第に海岸も遠くに遠ざかり,緑が生い茂ってくる結構退屈なルートとなってしまう。
次の目的地・大越鼻灯台へは,狭い坂道を下る格好となる。ペンションが数件あるようだが,灯台と展望台が見えない。そうこうしているうちにどんづまりに向かう気配を感じる。
ふと目の前右に軽自動車が停まっている。左には生垣のような緑が生い茂る。近くにいるアンちゃんとネーちゃんがこっちを見ているが,多分車の持ち主(あるいは借りている人間)だろう。ここまで来たら行くとこまで行こうと,その車とギリギリですれ違うことにする。左が生垣に触れるのは確実だが,葉っぱだから差し障りはないはず。慎重だが順調にすれ違おうとしていたそのとき,
「ガリガリガリ」
と何かがひっかかる音。多分,生垣に枝でもあって,それがひっかかったのか。結構な音がした。後ろではアンちゃんとネーちゃんが,申し訳なさそうな,「やっちゃった」的な顔をしている。とりあえずこのまま進むが,やっぱりどんづまりだった。仕方なく,どこかの家か別荘かよく分からない家屋の前が少し広くなっているので,そこで転回すると,さっきの車は立ち去ってしまった。「やばい」とでも思ったのだろう。私もこの瞬間は,「やられた」と思ってしまった。と同時に,ノンオペレーションチャージで2万円が連続で吹っ飛ぶ図を想像し,一気にブルーになってしまった。一度ならともなく二度までとは。今回も説明こそなかったが,もらった書類のカーボンコピーには,しっかりその旨が書かれている。果たしてカードが使えるだろうか。トヨタレンタカーのカード払いは,クレジットじゃなくて自社カードだけだったはずだ。
思わず,帰り道の途中で車を停めて,左のドアを見る。しかし,何も跡らしきものは見当たらない。あの音は一体何だったのだろうか。
それからの道は,いまの灯台を北端にして,南下する格好となる。しかし,特に変わった景色もなく,加えてさっきの出来事ですっかり景色などどーでもよくなってしまった。このあたりの記憶は,ホントにない。
淡々と走りつづけること10分ほどか,三根に戻ってきてしまった。時間は14時手前。しかし,このまま空港方面に行くのはあまりにつまらないので,二股に分かれる道を海沿いのほうに選択し,底土(そこど)港方面に向かう。こっちの海岸線も岩場が多いが,そんなことしか覚えていない。
ふとちょっとしたスペースに車を停めて,降りてみる。そして左のドアをもっとよく見ると,なんとまあ線が数本スーッとできてしまっている。救いというのか,塗装が剥げるほど深いものではないが,奄美でのデミオの凹み30cm(「奄美の旅」第2回など参照)よりは,明らかに範囲は広い。なんせ後ろのドアまで入っているのだから。光に当たれば,くっきり目立つ。かすかな望みはもうすべて絶たれてしまった。間違いなく「はい,2万円」である。とはいえ,一応旅を続けなくてはならない。あとは八丈富士に登るだけだ。
その登山道は,道こそ片道1車線でほぼ続くのだが,勾配がとにかく激しいのだ。前編で触れた“いろは坂の小さいやつ”登龍峠と比べると,カーブの数は少なくて割と大まかなので,細かくカーブする登龍峠。勾配でいくと,カーブが少ない分,一つの坂でかなりの勾配を登るから八丈富士登山道。登りには,セカンドギアで加速をつけるのがベストだろうが,セカンドでもあまり加速ができず,ローでようやく加速がつくくらいだ。
15分ほどで,鉢巻道路に合流。八丈富士の7号目あたりを鉢巻のように巻いて1周走る道路で,私は時計回りに行くことに。途中左に「ふれあい牧場」という牧場への道がある。ここでは牛乳やアイスクリームが食べられるというが,時間は14時。おやつの時間にはやや早いからとりあえず通過する。
この道は,眠気と呆気でボーッとしていたら,10分ほどで1周してしまった。景色は概ね,下に海岸線を見る格好になるが,特に北側は海岸線がよく見えたと思う。ちなみに,合流したところから反時計回りで入ってすぐのところに頂上への登山道があり,カップルがいた。ガイドブックでは,1280段の階段をゆっくりで1時間もかければ頂上に着くようだが,とてもその気にはなれない。かといって,もう1周するのもバカらしく,とっとと山を降りてしまう。
はてどこに行こうかと思い,再びボーッと走っているうちに,結局空港に来てしまった。もちろん,ここでレンタカーを乗り捨てる,というわけではない。時間は14時30分。帰りの飛行機は17時30分なので,一応17時返却としているが,まだ2時間は有にある。何かいまいち後味のよくない疲れもあって,少し休むことにする。
しかし,別に眠るわけでもない。奄美でデミオを凹ませたにもかかわらず,今回も懲りずにレンタカーに乗って,これまた懲りずに狭い道を入り込んだ罰でも当たったのか。旅行に来る前に会社で面接があったのだが,急な仕事が5月に入ってから始まり,一方でこの旅行の予約は4月中にしてしまったもの。ということは,場合によって旅行をキャンセルしなくてはならない。そのときにキャンセル料金は会社が負担してくれるのか,などと臆面もなく上司に聞いてしまったが,その罰でも当たったのか――どうにもこうにも,マイナスにしか思考が働かない。
15分ほどして,再び車を走らして向かったのは八丈富士。さっき入らなかった「ふれあい牧場」に行って,気晴らしにはならないが,記念にアイスクリームでも食べることにしたい。
さっきの登山道を再び登って,牧場に着いたのは15時ちょっと過ぎ。山の斜面に牛が10頭ほど放牧されていて,一応牛舎もある。その手前に大きな建物があるが,何と誰も人はいない。そこがどう考えても休憩スペース兼乳製品売場のはずだが,何と牛乳は自販機。アイスクリームに至ってはのぼりしかなく,実物は陰も形もない。ったく,はっきり言って詐欺である。
仕方なく,牧場の駐車場から1本裾野に向かって伸びる小道を歩く。回りは牧草の緑。道は土色に舗装されている。これで空が青かったら絵になるのだろうが,空は残念ながら曇り空で鉛色。風はあいかわらず強く,薄い長袖のセーター1枚ではいささか肌寒い。
1〜2分ほどすると行き止まり。そこが展望スペースになっていて,坂下の街中が臨める。登龍峠で見た「胸の谷間」の景色(前編参照)が,ここではよりよく分かる。正面にもっこりとあるのは三原山。で,胸の谷間の中心を1本貫くように,八丈島空港の滑走路が走っている。一方,八丈富士に向かって臨むと,ガイドブックにも載っている,大自然の中の小さな家と一本道。ここが小島であることを忘れさせる光景だが,空が鉛色なのがホントに惜しい。
さて,こうして島内をほぼ見て,営業所に戻ったのは15時半。予定よりも1時間以上早いが,もうどこを見るという気もしない。とにかく,寝不足と傷心(?)でクタクタである。しかし,何だか素直に自己申告してしまうというのもシャクに障る。そこで,誠にセコい手で恥ずかしいが,とりあえずこうしてみる。
営業所は,それを見る格好で右には事務所の建物,左には車1台ちょいほどの通路があって,その奥は操車場のようになっている。傷がついているのは左のドア。となれば,頭から突っ込む形で入って,事務所の前で車を停めれば,事務所側からは右の何でもないドアしか見えない。それで,そのまま何事もなく私を空港に送ってもらえるならば,うまくいくかもしれない。もちろん,帰って早々に車のチェックをこと細かにされて,左側に回られてしまったら,そのときは素直に観念するしかない。
ということで,その通りに実行。「すいませーん,帰ってきました」と何でもないような感じで事務所に入ると,何と「それでは,空港まで送りましょう」と返ってきた。そしてサクサクと,事務所の女性の1人がいま乗ってきたヴィッツの運転席に,そして私は平静を装い助手席に乗って,こうして我々は空港に向かうことになった。何とまあ,拍子抜けすらしてしまった。
5分後,空港に着く。と,事務所の人間が一緒になって降りてきた。ひょっとしてここで…と,一瞬あせったが,何のことはない。私のことを丁寧に見送ってくれたのだ。私の作戦は,こうしてとりあえずは成功した。うーん,ブルーだった2時間が,いまとなっては悔やまれてしまう。とはいえ,まだ油断はできぬ。後は,帰ってきて留守電に伝言が入らない,あるいは今日でなくても後日に電話がかかってこないことを祈るのみだ。
さて,八丈島といって欠かしてはならないものがある。くさやと島寿司だ。前者は売店(735円),後者はレストランにて購入(976円)する。前者は家で,後者は空港での待ち時間に食べる。
前者がどんなものなのかをいまさら語るつもりはないが,八丈島のものは臭いがソフトとガイドブックには書かれている。私は今回初めて食したのだが,やはり“新人”は強烈だった。汚い例えで恐縮だが,小便を便器に数日溜め込んだときのような感じだ。当然,臭いは味にも反映されるわけで,素のまま味わっていて少し気持ち悪い感じもした。真空パックされていたせいもあるのか,食感も固い。ガイドブックにはさらに,「最近,マヨネーズとしょうゆをつけて食べる人が多い」と書かれていた。そこで,半分ほど素のまま食べた後に,臭いを打ち消すくらいマヨネーズをたっぷりつけてやったら,ほどよくマイルドになり,無事完食することができた。
後者は,白身(メダイ)のヅケ寿司が8カンと,青海苔の寿司2カン。島寿司の最大の特徴というと,ネタが“ヅケ”であることと,わさびではなくカラシであること。白身を早速食すると,わさびのように舌に残る辛さではなく,一瞬ピリッと来る辛さを味わう。魚自体はどこにでもあるものだろうし,いちいち魚の味など分からないが,カラシと寿司がこんなにもしっくり来るものなのかということには,感心してしまった。おそらく,自宅でもできる簡単なものだろうから,試しに,家で手巻きでも何ででもやってみるといいと思う。ちなみに,青海苔の寿司は,一瞬食べて何を食っているのか分からなかったが,味わっていくうちに「あ,青海苔か」となるくらい,ボヤーッとした感じだった。
さて,いまこの文章を書いているのは,旅行から帰ってきてちょうど1週間後。その後,トヨタレンタカーからは何の電話もない。あるいはあの傷は,専門家にしてみれば,塗装で簡単に隠せる程度のものだったのかもしれない。いずれにせよ,あのセコい作戦は成功だったということだろう。何事も,やっぱりやってみるべき――ということか。(「八丈島の旅」おわり)
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