2007年11月号
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【
時とともに・・・
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先日、ドバイの友人がおもしろい写真を送ってくれました。
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このバージュ・ドバイが建てられている場所は、私も頻繁にドライブしていたところですが、今では大開発されてすっかり変わってしまったそうです。さすが、世界のクレーンの40パーセントがこの国に集まっているといわれているだけあって、相変わらず開発に邁進しているようです。
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ドバイのアーティスト・グループの仲間、ビンディからのメールは、悲しい知らせでした。私たちグループにアトリエを提供してくれていたイギリス人のラニーのご主人がなくなったそうです。私が帰国した少し後に、ご主人が仕事を引退して2人でイギリスへ戻ったのですが、忙しかったご主人も時間ができて、これから2人でゆっくり引退生活を楽しもうとしていたところでした。
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そういう私も、小学生の娘たちの車での送り迎えに四苦八苦していたあの頃とちがって、今は中学生、高校生になった彼女たちは電車に乗って1人でどこへでも行ってしまいます。遊びに行った日は、帰宅が遅い!と家でひとり、やきもきしていたりします。「ねえ、聞いて聞いて!」と先を争っておしゃべりしてきた子供たちも、年頃でめっきり口数も少なくなり、自分たちの世界を持ち始めています。 町はどんどん発展していき、子供たちは成長し、大人は老いていく。自分だけはいつまでも変わらないつもりでも、世の中のすべては確実に変化しており、同じままでいるものはない。日常の忙しさにまぎれて、そんな当たり前のことを実感することは案外ないものです。そんな生活の中で、こうしてふと飛び込んでくる写真やメールで、自分も確実にこの世界の一部であることに思いを馳せ、時の移ろいを感じてしまった、ある冬の日なのでした。
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2007年10月号
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【
クリニック余話
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前回、ドバイのクリニックについて書いたついでに、医療事情をもう少し・・・。 ドバイの病院でやっておいてよかったこと・・・それは「胃カメラ」です。
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麻酔と言えば、アメリカで歯を抜いたときも、なんと全身麻酔でした。あの時は、「たかが歯一本抜くのに全身麻酔なんて、なんておおげさな」とか「アメリカ人の大きな身体と同じ量の麻酔を打たれてしまったら、もしかして意識が戻らないかも・・・!」と非常にビクビクしていたのを思い出します。あちらでは出産も全身麻酔が主流でした(西海岸の場合)し、麻酔をあまり使わないのは日本だけなんでしょうかね。
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それから、これは子供にとって良かったことですが、歯医者の設備。
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そんなことを思い出していたら、昨日の新聞記事で似たような商品の紹介を発見!めがねではなかったけれど、たしか天井か頭の上に小さなスクリーンをセットして、子供が歯の治療中にアニメのビデオを見られる、というようなものでした。
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2007年9月号
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【
医療事情
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ドバイの医療水準は、地域的水準からするとかなり高いように思います。アメリカン・ホスピタルやウェルケア・ホスピタルといった大きな総合病院がありますし、個人の経営するクリニックも市内のあちらこちらで見かけます。 特に、アメリカン・ホスピタルは定評があり、私も含め、多くの友人が利用していました。ここで出産する外国人も多いです(ただし、アメリカと違って、ドバイで出産しても市民権はとれませんが)。最新医療機器も揃っていて、入院棟もありますし、外来もいろいろな科に分かれており、検査室やら薬局やら、とにかく広くて迷ってしまいそうなほどです。
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おもしろいなあ、と思ったのは、婦人科の検査を受けに行ったときです。産婦人科と同じところなのですが、待合室には妊婦らしきアバヤ(女性の民族衣装)を着た女性がいっぱい!そして、全員にディシュタシュ(男性の民族衣装)を着た旦那様がずらーっと付き添っていて、壮観でした。もちろん、産婦人科医は女性です。やはり、宗教上、妻が男性の医者(ましてや産婦人科)にかかるのは論外、ということなのだろうなあ・・・と思ったものです。ここの女医さんは白人でしたが、イスラム国では男性の産婦人科医は存在しないのだろうか・・・と、ふと思いました。(やはり、いないのでしょうねえ・・・)。 こうした総合病院をはじめ、町のクリニックなどの医療機関では、全体的に白人の医者や、アメリカやイギリスで学位をとったと思われるインド系の医師が多かったようにと思われます。ちなみに、我が家のファミリー・ドクターはブルガリア人女性、歯医者はインド人、矯正歯科医はオーストラリア人(後にアラブ人に引継ぎ)、婦人科医はアメリカ人、獣医はイギリス人、皮膚科医はイラク人とイラン人でした。ずいぶんインターナショナルですね・・・。
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こうしてみると、専門技術職は外国人の割合が圧倒的に多く、ドバイが外国人なくしては成り立たないのがよくわかります。石油マネーと観光政策で得た潤沢な資金で、立派な病院などインフラを整備し、そこに外国人を雇用する。両者が非常にうまく共存しており、理想的なシステムのように思います。 病院にかかるときは、まず予約の電話をします。日本のように先着順ではないので、待ち時間が節約できて、これは大変都合が良かったです。ただし、人気のある医師の場合、予約がなかなかとれないことも・・・・。診察で薬の処方箋を出してもらったら、薬局に行って処方してもらいます。これは日本と同じですね。 個人のクリニックは、アメリカ人の医師のいるところや英国人の医師のところなどさまざまで、やはりアメリカ人はアメリカ人医師のいるクリニックに、英国人は英国人医師のクリニックに行くみたいです。名称も「アメリカン・デンタル・クリニック」とか「ブリティッシュ・クリニック」「カナディアン・カイロプラクティック」など、識別しやすいところが多かったかな。
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まだ日本にいて子供が小さかったころは、古い施設の病院で長時間待たされたり、横柄な医師や産婦人科の診察時間の短さ、下手な歯医者に憤慨した思い出があり、医療面に関しては帰国後はギャップが激しいだろうと思っていましたが、いざ帰国すると、日本の医療技術の進歩(特に歯医者)や町の個人病院がとってもきれいになっていることにびっくりしました。また、少子化が進んでいるせいか、病院の競争も激しいらしく、以前よりサービスも向上しているように感じます。ほんの十数年でずいぶん変わったものだと思いました。(住んでいるところにもよると思いますが)。
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2007年8月号
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【
住宅の工夫
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ビルの林立するダウンタウンは別として、ドバイ郊外の住宅のほとんどはヴィラと呼ばれる一軒家です。夏の気温が50℃近くなるこの国では、住宅にも日本とはまた違った特徴が見られます。 一口にヴィラといっても、塀で囲まれて完全に周りから独立した一戸建て(これはかなり大きなお屋敷になるので、アラブ人が住んでいることが多い)から、タウンハウスのように2階建ての家がつながっているもの、警備員のいるゲートの中に庭付き一戸建て住宅が集まっているコンパウンドまで、いくつかのタイプに分かれていますが、どれにも共通するのは、真っ白な外壁にブーゲンビリアの花が咲き、反射ガラスが使われていることです。
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室内の床も、玄関やリビングルームなど外から近いところは、じゅうたんや木ではなく、石かタイルがお約束。これもまた気温を下げるのに一役買っています。また、外から砂が入ってくることが多いので、石のほうが掃除が楽なのです。 ところで、ほぼ一年中つけっぱなしのこの冷房は、人体のみならずピアノなどの楽器にも、木が反ってしまったりしてよくないようです。ピアノを購入しようと思ったら、先生から「冷房で調律がガタガタになってしまい、ピアノがダメになる。電子ピアノを買ったほうがいい」と言われたほど。
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外壁と同じように、室内も、欧米のように壁にペンキで色を塗ったり壁紙を使ったりする習慣はないようで、たいていどの家の中も、壁は真っ白でした。壁紙は冷房で乾燥するとめくれやすいので敬遠されるのかな、と思いましたが、ペンキで色を塗らないのは意外でした。考えるに、これも、少しでも涼しく見せるためと、民族衣装の白と黒に代表されるように、アラブでは照り付ける太陽と砂漠を背景に、白と黒が非常によく似合います。ピンクや紫、黄色といった人工的な色を広範囲にわたって大胆に使うのはあまり伝統的ではないのかな・・・というのが私の個人的見解です。
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冷房のない昔、アラブ人はどのように室内で過ごしていたんだろう・・?と思いますが、昔は屋根の上で寝たり、ウィンド・タワーという大きな煙突のような独特の屋根(中が木で四角く区切られており、風がその中を通って家に入るようになっているしくみ)をつかって、室内に風を送っていたようです。ドバイ博物館へ行くと、昔と同じ住居モデルがあって、ウィンド・タワーの下にベッドが置かれていました。(夜、涼しく寝られるように、との昔の人の知恵です)。 忘れてはいけないのは、どの家も庭の片隅に小さな小屋があること。これはメイドさん用です。家の中にメイド部屋があることもありますが、プライバシーや安全上の問題で外にあることのほうが多いです(たとえば、メイドの友達が訪ねてきたり、メイドの夫が一緒に住んだりすることがあります)。 また、アラブ人の大きな屋敷だと、キッチンのみ別棟で外に設置されていることがあります。これも、アラブ人家庭ではメイドが料理をするためで、家の中にキッチンをおく必要がないからだそうです。
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駐在当初は、白い家もブーゲンビリアも単に見栄えを重視してのものだと思っていましたが、住んでいるうちに、どれもその土地の気候や生活条件に合わせて考えられているものなのだとわかりました。家の構造にもその国の生活事情が表れていて、比較するとなかなか興味深いものがあります。 |
2007年7月号
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【ビーチの人々
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エメラルド色の海に白い砂、パラソルの下でくつろぐ人々、遠くに見えるのは高層ビル群と豪華リゾートホテル・・・・。砂漠の国をイメージしてドバイを訪れた人々は、そのビーチの美しさに目をみはるでしょう。 |
私たちが好んで訪れたのは、ドバイの一番はずれにある、家の近くのジュベラリ・ビーチでした。ドバイ到着2日目に同じコンパウンドのカナダ人ファニーが教えてくれたとっておきのこの場所は、すぐに我が家のお気に入りになりました。ここは場所が辺鄙なためか、訪れる人も少なくとても静か。涼しい冬場の週末は、テントを張ってキャンプをする人たちの姿が見られますが、たいていは白い砂浜が延々と遠くまで続いているだけののんびりとした場所です。建物は、近くに、あまり人に知られていない隠れ家的ホテル「ジェベラリ・ホテル」がひっそりと建っているだけで、時折そこの宿泊客らしき人たちが、ホテルのプライベート・ビーチから足をのばして散歩しているのを見かけました。
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そんな穏やかなビーチのひとときが轟音に邪魔されることがありました。
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せっかくのお気に入りのジェベラリ・ビーチでしたが、帰国するころはドバイ・バブルが押し寄せていて、最後に訪れたときは目の前に巨大なコンクリートの人口島が建設中で、景観が台無しになってしまっていました。ヤシの木の形をした海に浮かぶ人口島「パーム・アイランド」です。もうひとつのジュメイラ・ビーチにも同じものが建設中で、海水が汚れ、ビーチの波が荒くなってしまった、とコミュニティ紙では不満の声が寄せられていました。 いつかそのアイランドを見にもう一度あのビーチを訪れたい!それが今の我が家の夢なのです。
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2007年6月号 |
【不思議なレストランの巻
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ドバイにいたころの我が家が週末になると必ず訪れた場所、それが「スプリング・バンブー」という名の中華料理レストランです。家から店まで高速道路を通ってダウンタウン方向へ1時間くらい、と遠いのですが、ドバイ名物の渋滞もなんのその、我が家の第2のキッチンとして大いに活用させてもらいました。
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このお店、決してきれいではなく、むしろ汚い、といったほうがよいでしょう。食器はふちが欠けているし、すすぎの水がおわんの底に残っていたりするのは当たり前。
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で、なんでこんなところに毎週来てしまうかというと、こういうお店の常で、ほんとうにおいしいんです。しかも安い!!家族全員、おなかいっぱい食べても100ディラハム(3000円)かからない場所は物価の高いドバイでは希少です。和食は高いし、アラブ料理には食傷気味の毎日となれば、このようなお店はまさに心(胃袋)のオアシス。
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ところで、店の隣にはアラブ人がよく集まるグリル料理の店があるのですが、おかげでこの「スプリング・バンブー」の前の駐車場に車を停めておくと、アラブ人が平気で2重駐車をするのでかなり頭に来ます。食事を終えて出てきた私たちが車を出せずに「この2重駐車してる車は誰のだー!(高級車だから絶対アラブ人のに決まっている)」とクラクションを鳴らしても、みんなのんびり店の前でシーシャをくゆらせたり、バックギャモンらしきゲームに興じていて無反応。「バンブー」のウェイトレスたちに言っても、自分の店の客なんだからもう少し協力してくれてもいいと思うんだけど、知らんぷり(やっぱり愛想がないのよね)。毎週のように2重駐車が続き、そのたびに私たちが騒ぐので、最後のほうはアラブ人のほうが根負けして、2重駐車をした車の窓を開けておいて、ギアをニュートラルにしておくようになりました。(つまり、私たちに、勝手に車を押して移動させろ、といっている!)ほんと、アラブ式なのです。
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というわけで、時には30分待っても水も出てこなかったり、急須入りのぬるいビールを飲まされたり、気温45℃の中、2重駐車されたベンツを主人と2人で汗だくになって押させられたり、というさまざまな試練が待ち構えているにもかかわらず、つい足が向いてしまうこのお店。試練を乗り越えなければ味わえない、というマゾヒスティックなところが妙に食欲を刺激して、このお店の料理に付加価値を与えているのかもしれません。
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みなさんもドバイを訪れた際には、きらびやかな観光名所だけでなく、こういうあやしげな路地裏の中華料理店でアラブ&中国式洗礼のダブルパンチを受けてみることをお勧めします。結果は、異国情緒がたっぷり味わえて胃袋が大満足することまちがいなしですよ!
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2007年5月号 |
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インターナショナル・アート・センター
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絵を描く私が4年間の滞在を通してお世話になったのが、ドバイ・インターナショナル・アート・センターでした。 私も油絵を中心にいくつかのクラスをとりましたが、新しい友達もでき、他のアーティストたちの作品から多くの刺激を得ることができました。ビーチのすぐ横にあるこの小さな古びたセンターに通うことは、灼熱の砂漠の国で3人の子供の育児に追われ、危ない高速道路を毎日命がけで運転することにいささか疲れていた私にとって、まさに憩いの場(オアシス)でもありました。
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このアート・センターでは、年に何回かホテルやショッピング・モールなどを会場にして大きな展覧会があり、優秀な作品には賞が与えられますし、センターの中では常時さまざまなプロ会員の作品が展示されており、いろいろな作品に触れる良い機会でした。展示作品の売買も可能です。プロのアーティストが自分の技術をブラッシュアップさせるためにアトリエ代わりに普通のクラスをとっていたりして、趣味で通っている会員やプロのアーティスト会員が交流できる貴重な場所でもあるのです。 ただ、女性が普段スカーフをかぶって髪の毛や体の線を隠していることからわかるように、イスラム教のこの国では、アートにも規制があります。つまり、女性のヌードやイスラム文化にそぐわないものを描いたり、展示することは許されません。
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こうした環境は、イマジネーションを使った絵を好んで描き、特に人体画のスケッチ、つまりヌードモデルを描く(人体画を描くのはすべての絵の基本で、大変良い勉強になります)のが好きな私にとって、最初はフラストレーションがたまりました。 講師の先生方のバックグラウンドもさまざまで、あるイギリス人の先生は、だんな様がアラブ人で、クリスチャンの自分がどのようにご主人様と知り合い、この国に住むことになったのか、など興味深いお話を授業の合間にお話してくださったりしました。他にも、ある南アフリカ人の先生は、娘さんはスイス人と結婚してオーストラリアに住んでおり、親戚にもカナダ人やフィリピン人がいて一族が集まるとさまざまな国の言葉が飛び交うのだ、などという話を披露してくださり、純ジャパニーズばかりの自分の親戚と比べて「世界は広いんだなあ」とつくづく思ったりしました。あるアラブ人の先生は、いつも砂漠やビーチ、モスクなどを題材にした絵を描いていましたが、そのどれもが透明感のある大変美しい絵で、自分の国への愛情がひしひしとつたわってくるようでした。
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ビーチ沿いにあった、ひなびた風情のこのアート・センターも、私が帰国する直前には町の中心にある立派な建物に移転しました。油絵の教室が2階になってしまったこともあり(以前のセンターは平屋でした)、「重い画材道具と大きなカンバスを持って階段を上るのが大変だから」といって、多くの年配の友人たちがセンターをやめてしまいました。また、移転と同時に、私もずいぶんお世話になったセンターの「顔」的な受付のイーシャたちもセンターを辞めてしまい、新しいアート・センターの雰囲気は以前とはだいぶ違ったものになってしまいました。 結局、授業料が値上がりしたこともあって、移転後は親しい友人達と、ある元会員のアトリエを開放してもらってグループ・ペインティングのような形で絵を続けていました。そのアトリエの持ち主ナナも、昨年、だんな様が仕事を引退してイギリスに帰ることになり、グループも自然解散となってしまったそうです。
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その話を聞いて少しさびしく思っていたところ、同じグループで描いていたビンディから小包が届きました。彼女の作品が、ドバイのファンシー・ショップで売っているカレンダーやメモ帳に使われることになったので、記念にひとつ贈ってくれたのです。バージュ・アル・アラブ・ホテルといったドバイの名所を明るい色彩でポップに描くビンディの作品は、実はドバイのアーティストの作品の中で私が一番好きだったもの。自分のことのようにうれしくなりました。 |
2007年4月号 |
2007年3月号 |
【
物価高騰で住みにくくなるドバイ
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ドバイの友人が、あわてた様子でメールを送ってきました。
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このところ毎年来る家賃値上げの通知が今年はなかった、と喜んでいたやさきの出来事だそうです。 ドバイの実質経済成長率は11パーセントを維持しており堅調ですが、ホテルの建設ラッシュやリゾート開発など急成長の過程で、現在、ドバイではさまざまな社会問題が顕在化しています。増え続ける人口、それに伴う学校・住宅の不足、追いうちをかけるような家賃や授業料などの物価の高騰に、住民は頭を悩ませています。 不動産の高騰は、最近は住宅から商用地にまで広がっており、商用地の地価上昇率はなんと64パーセント。その建物の平方フィートあたりの上昇率は約2倍です。
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また、今年7月から、ドバイの幹線道路であるシェイク・ザイード・ロードも一部有料化されます。 ドバイに住んでいた別の友人は、家賃高騰に音をあげて、隣のシャルジャ首長国に引っ越しました。シャルジャはドバイに比べるとまだ物価が安いのですが、同じような理由で越してくる人たちが多く、シャルジャからドバイに通じる道路の渋滞は有名です。 最初に述べたレイクスの友人は、住みにくくなったドバイを出て、他の国で仕事を探そうと現在就職活動中です。
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「レイクス」の隣にある「グリーンズ」という賃貸アパート群も、「今購入すれば、3パーセントの割引と、登録料免除の特典あり」という購入勧誘が盛んだそうですが、あまりの高額にほとんどの住民が購入を考えていない(考えられない)そうです。 ドバイのバブルはますますヒート・アップしており、私たちが駐在していたときも、最後の2年間は家賃や学校の授業料の値上がりが始まっていましたが、今はその比ではないようです。もしまだドバイに住んでいたら、さぞかしつらい生活になっていたのでは・・・。良いときに帰ったね、と主人と話しました。 ドバイの発展はうれしいけれど、住民がおいてきぼりをくっているような現状に、なんだか複雑な気分です。 |
2007年2月号 |
【
日本食が食べたい!
】
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日本食が食べたい! と、叫んだところで前月号が終わりましたが、その続き。 いくらイタリア人から教わったおいしいパスタを食べられても、インド人が教えてくれた本場仕込のカレーに舌鼓をうとうとも、ある日突然たらこスパゲティや納豆が食べたくなるのが日本人というもの。
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そんな我が家の強い味方が、ダウンタウンのホテルの1階に入っている小さなスーパーマーケット。フリーウェイを1時間半くらい走らなければならず、遠いのですが、このホテルには日本人が多く住んでいるため、日本食の品揃えはドバイ一です。 もうひとつ、このスーパーでうれしかったのが、「肉の薄切り」をしてくれること。
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「あったらいいな」と思った野菜のベスト5は、「しめじ」と「ごぼう」「ねぎ」「しそ」「ナス」。和食メニューによくでてくるのですが、これらの野菜がないがために断念することも多々ありました。現地スーパーにあるナスは米ナスといって、日本のなすよりも巨大でへたが緑色。風味はまったくなく、やはり日本のなすはおいしいと再確認しました。ねぎは、主人が日本へ出張したときに根っこの部分を濡れナプキンにくるんで密輸(?)してきたのを庭に植えたのですが、ドバイの灼熱の太陽の下では緑色の部分のみが育つばかりで、肝心の白い根元のほうの部分はほんの5センチくらいしかできませんでした。「しそ」は友人の家で栽培していたので、ときどき分けてもらっていました。ごぼうにいたっては、たった一度だけ、現地スーパーでゴボウを見かけた人がいましたが、なんとこの幻のゴボウのお値段は一本1800円!だったそうです。 月日がたつうちに、現地の食材を工夫することを覚え、かまぼこのかわりに、モツァレラ・チーズにわさび醤油をつけて食べるとおいしい!など、試行錯誤を重ねた末に発見した「なんちゃって和食」でしのげるようになりました。そうそう、納豆については、なんと自宅のオーブンで納豆菌を発酵させて自家製納豆を作っている国際結婚の友達がいましたよ(私は彼女を「ドバイのマーサ・スチュワート」と命名)。
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日本に帰った当初は、さまざま日本食をむさぼるように食べていましたが、すっかりこちらに慣れた今は時々無性にシシカバブが食べたくなります。
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2007年1月号 |
【
ドバイの食卓は世界の食卓
】
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世界中から人が集まるドバイのスーパーには、世界各国の食材が所狭しと並んでいます。 外国人の友達と一緒にスーパーに行っては、その友人の国の食材や珍しい野菜の料理の仕方を教わったりしましたが、たいていは娘たちが友達の家に行って、「こんな料理が出ておいしかった」と教えてくれて発掘してきてくれました。
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そんなわけで、ドバイ赴任当初から、我が家の食卓にはさまざまな国の料理が並ぶことになりました。以下はその一例。 ・ アラブの名物料理シシカバブ ・ ベイビー・シャーク ・ モロッコのクスクス ・ インド・カレー ・ タイのヌードル ・ チーズ類 ・ インドネシアン・ヌードル 他にもいろいろありますが、ざっとこんな感じです。
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そういえば、北インド出身の友人に触発されて、ベジタリアン料理の本を買って、一ヶ月間野菜料理だけで過ごしてみたこともありました(インド北部はベジタリアンが多いそう。インドではベジタリアンは上流階級に多いのだとか)。
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いやはや、こうしてみると好奇心旺盛というか、単に食い意地がはってるだけ、という感じですね。 とにかく、見たことのない食材を見ると缶詰でもインスタントでも片っ端から手にとってカートにいれ、試し続ける・・・・そんな日々が続いたある日、突然、胃袋(日本人の心?)が叫びました。 「和食が食べたいー!!」 でも、ここはアラブ。 以下、次号、和食編です。
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神奈川県横浜の翻訳会社 D&Hセンター ドバイのホットニュース 2007年