ドバイのHotNews(2006年1月〜12月)
2006年12月号
|
![]() |
イスラムの国にクリスマスはあるか? |
ドバイに来て最初のクリスマスの日、いつもこの曜日に来るはずのシシリンが来なかったので電話してみると、「マダム!!今日はクリスマスですよ!お祝いしなくちゃ。これからみんなでミサに行くところです。メリー・クリスマス!!」とはずんだ声が返ってきて、その時初めて彼女がクリスチャンだということがわかったのです。 スリランカ人のシシリンだけでなく、フィリピン人など、出稼ぎに来ているメイドさんには敬虔なクリスチャンがたくさんいます。 |
シシリンは、毎年クリスマスの日、私たちが家でクリスマス・ディナーを食べていると、きまって娘たちにプレゼントを持って訪ねてきてくれました。 プレゼントは、ある年は、私と主人には箱入りチョコレート、娘たちには、娘の背丈ほどもある大きな布製のお人形をひとつずつくれました。またある年は、美しいスノードームだったり、おもちゃだったり。彼女たちのお給料を考えると「こんなにいいものをもらっていいのかしら」と思うほど豪勢なものばかりで、それだけ彼女たちにとってクリスマスがいかに特別な日なのかが伝わってきました。
|
表立って大きく十字架を掲げることは控えているようですが、ドバイにもキリスト教の教会がいくつか存在し、毎週日曜日ならぬ金曜日(ドバイの週末は木曜日と金曜日)に礼拝に行く外国人はかなりの数にのぼります。教会にも、スウェーデン人たちの教会やオランダ人が多い教会、などそれぞれ特徴があるようでしたが、メイドさんたちにも、メイドさんたちの通う行きつけの(?)教会があるようでした。 日本で迎えるクリスマスは、ドバイと同じくらい飾りつけも華やかで、特に町や住宅の美しいイルミネーションは息をのむほどです。そんな中で帰国して最初に迎えたクリスマス、娘たちは、「もうシシリンはプレゼント持ってこないんだねえ」としみじみと言い合っていました。
|
2006年11月号
|
【
恥ずかしい帰国当時の話 その2
】
|
先月号に引き続き、帰国当時の浦島太郎親子生活をご紹介します。 私たち一家は、帰国当初、学校や家が決まっていなかったことから、しばらくの間、横浜市のウィークリー・マンションに暮らしていました。
|
そのせいか、なんと、帰国早々、気味の悪いストーカーにつきまとわれるはめになってしまいました! まあ、そんなこともありましたが、ウィークリー・マンションを引き払って自由に外出できるようになると、娘たちは日本のかわいいメモ帳や雑貨にたちまち夢中に。お菓子やジュースもいろいろなフレーバーがあって、片っ端から欲しがります。
|
笑えたのは、駅のアナウンス。
|
赤面ものだったのが学校訪問。すっかり外国人になってしまった子供たちに、いきなり日本の公立学校は厳しいかもしれないと思い、いくつかの「帰国子女受け入れ」をうたった私立校に見学に行きました。母親の私は、さすがにこのときばかりはジーザス・サンダルからパンプスに履き替え、デパートでスーツも購入してばっちり日本人母を気取って出かけたのですが、肝心の子供たちがすっかりウェスタンなのを忘れていました。
他にも、ゴミの分別のしかたがわからなくてパニックしたり、いろいろなことがおきつつ今に至っています。幸い今はだいぶ慣れて、かなり「正しい日本人」になったつもりでいますが、もしかしたらやっぱり本人たちだけがそう思っているのかも・・・?
|
2006年10月号
|
【
恥ずかしい帰国当時の話
】
|
海外生活通算9年の我が家でも、新しい国に赴任するたびに、その国に慣れるには親子共にさまざまな苦労がありました。 まず、人ごみがうまく歩けない!!子供たちを連れて初めて横浜駅のラッシュアワーを体験した時は、「ロープがいる!」と思いました。朝のすごい人ごみを横切って、駅構内の向こう側へ渡るだけでもう大変。必死で人ごみをかいくぐって後ろを振り向くと、子供たちが向こう側で途方にくれている!彼女たちにとって、物心ついてからこんなたくさんの人の流れを経験したことがなかったのです(海外ではどこへ行くにも車でしたし、一時帰国のときは、移動の楽な昼の時間帯に出歩くことが多かったので)。仕方がないので一人ずつ救出(?)してはまた戻り・・・の繰り返し。やっと人ごみを渡り終えても、今度は人の流れに沿って、はぐれないように3人を連れて歩くだけで汗だくです。気がつくと、誰か1人が流れに押されてとんでもない方向にさらわれていたりします。アメリカの幼稚園で園児たちを遠足に連れて行くときのように、ロープを一本用意して、各自それにつかまらせて歩かせたらどんなにラクだろう・・・という考えが何度も頭に浮かびました。
|
しかも、久々の日本で、「横浜駅はとっても広い!」ということをすっかり忘れていました。京浜東北線に乗り換えようとホームを探しても、どこにも「京浜東北線」という表示がない。なんと私は、京浜東北線が「JR」だということもすっかり忘れていたんですねえ。ラッシュの中、広―い構内を西口から東口へと何度か往復するうちに時間はどんどん過ぎていく・・・。 そんな私ですから、帰国当初は本当に「浦島太郎」状態でした。
|
また、帰国時はちょうど梅雨だったのですが、常夏の国に長い間いたせいで、「日本では一日のうちに気温や天気が変わりやすい」ということもすっかり忘れていました。
|
それから、一番困ったのが「靴」。 このように、帰国当時は恥ずかしーい思い出でいっぱいです。すっかり「正しい日本人」の姿に戻った今考えると赤面ものですが、あの時は「こわいものなし」だったなあ、と思います。
|
※ 母親がこうですから、子供たちもいろいろなことをやらかしてくれました。次回は子供編をご紹介します。
|
2006年9月号
|
【
ニセモノ天国
】
|
ドバイの生活もようやく落ち着いたころ、ふと奇妙なことに気がつきました。学校にお迎えに行っても、ショッピングに行っても、歩いている女性がみーんな有名ブランドの○イ・ヴィトンのバッグをもっているのです。そういえば、学校のお母さんの家にお茶に呼ばれた時、集まったママたちの洋服やアクセサリーも、みんなブランド物でしたっけ。
|
よく見ると、学校のお母さんたちがよく着ているブランド・ロゴ入りのTシャツもたくさんあります。バッグも、白人駐在員やアバヤを着たアラブ人女性もよく持っている物があちらこちらに・・・。ブランド大好きママのスーは、いつも帽子から靴まで全部○イ・ヴィトンか○ーバリーできめていますが、「全部ここで買ったのよ」とウィンク。
|
なんでも、こういった品はフェイクといえども、品質がかなりいいらしく、その辺のショッピング・モールでノー・ブランドの製品を買うよりもずっと安あがりということで、アラブ人も駐在外国人も、みんな遊び感覚で買いに来るのだとか。
|
2006年8月号
|
【
ドバイ式買い物バトル
】
|
この間、日本に里帰りしたドバイの友人親子と久々に会いました。東京の真ん中で、ドバイの灼熱の太陽にさらされて真っ黒に日に焼けた友人親子を見たとき、そこだけ風景が違って見えました(背後に砂漠が見えたような・・・?)。逆に、自分はすっかり色も白くなってすっかり日本人に戻ったなあ・・・と、帰国後一年間がたったことをしみじみと実感しました。 久々に会った友人いわく、私がとっても穏やかになったそうです。「ドバイの時はしょっちゅう怒ってけんかしてたじゃない」とのこと。 ダウンタウンにある「シティー・センター」内のカルフールは、ドバイで一番面積が広く、値段も安いので、よく週末のまとめ買いに利用していましたが、巨大な分、買い物客の数も半端ではなく、特に週末は無法地帯と化してちょっとした戦場のようでした。
|
シティー・センターは巨大なモールで、ダウンタウンの中心にあるため、休日ともなればドバイ中から人が集まってきます。渋滞の高速道路を通ってそこまで行くだけでも一苦労。やっと到着しても、駐車場を探すのがまた大変、といったありさまです。なんとか車を停めて、ディズニーランドのような混雑を通り抜けて2階にアルカルフールに到着。 ここで、「ドバイ式買い物レース」の試合開始のゴングがなります。カートを持って向かうのは、第一の試練の野菜売り場。野菜売り場といっても、カルフールは野菜売り場だけで日本の小さなスーパーマーケットくらいあります。野菜と魚はすべて計り売りなので、一通り野菜を選んだあと、それらを計量カウンターまで持っていって、そこで量に応じた値札をつけてもらわなければなりません。これが大変。
|
こうしてなんとか野菜を制覇すると、次は第2ラウンドの魚売り場へ。湾岸にあるドバイの魚売り場にはベイビー・シャーク(サメの赤ちゃん)から人間の大人の腕くらいあるうなぎまで、たくさんの種類の魚がならんでいます。中には熱帯魚のようにきれいなレモン色と黒のひれをもつ珍しい魚もあったりするので、もの珍しさにかられて、よく通いました。売り場の人に注文すればさばいてもくれるので、料理もラクです。ただ、カルフールのような大きな売り場では、魚をさばくのに人手をとられて、値段をつけたり注文を受けてくれる人がいつも足りません。売り場は横に広がっていて、とくに列があるわけでもないので、みんな思い思いの場所で、次に手のあきそうな魚担当のおじさんをつかまえようと目を光らせています。やっと次は私の番かな、と思ったときに偶然後ろから来た人が「あ、これお願いね」なんてうまい具合におじさんを捕まえてしまうと「えー!?そんなあ・・」とがっかりします。これも慣れて来ると「次は私だからね!忘れないでよ」と、売り場のおじさんが前の人の注文を受けている時に横から声をかけておくとか、前のお客さんに商品を渡し終えた瞬間をねらって大声で呼ぶなど、タイミングが計れるようになってきました。
|
最後の方は、もうすっかり人格がドバイ化して、遠慮も会釈もかなぐり捨てて、通路を塞ぐおばちゃんには「エクスキューズ・ミー」と大声で聞こえよがしに言ってカートをどけさせ、場所を譲らない店員をものともせずに、その前に入ってすばやく商品を手に取り、魚売り場ではおじちゃんと笑顔で接して仲良くなって、優先的に魚をまわしてもらうようにまでなりました。ただ、野菜売り場では周りにガンを飛ばしまくっていたらしく、娘たちは、「ママはカルフールに行くと目がこわい」と言って一緒に買い物に来たがりませんでしたが・・・。 とにかく一週間分の買い物をここで済ませる人がほとんどなので、お客の買い物の量も半端ではありません。カート2台分山盛りの商品、なんていうのもザラなので、当然のことながらレジは長―い列。買い物だけでなんだか三日分くらいの体力を消耗したような気になります。そんな思いをしてやっと買い物が終わってから、「あ!魚売り場でさばいてもらった魚を受け取ってくるの忘れた!」なんていうことも何度かありました。でも、あのすごい店内に戻る気力もなく、「いいや、今週は魚はあきらめよう・・・」ととぼとぼ帰ることになるのです(あれらの魚はいったいどうなったのでしょう?)。 このように、ドバイで買い物をスムーズに済ませるには、一に根性、二にタイミング、三、四がなくて五に体力、が必要です。 それに比べて、日本のスーパー・マーケットはなんて楽なのでしょう!店員さんは丁寧だし(丁寧すぎるきらいもありますが)、順番はきちんと守られる、店員のカートに轢かれる心配もない。もう天国のようです。
|
2006年7月号
|
【
映画「ナシリヤ」を見て―中東の出稼ぎ労働者たち−
】
|
先日、「ナシリヤ」という映画をDVDで見ました。 結論から言うと、非常に良い映画でした。ジョージ・クルーニーは、この作品でアカデミー賞助演男優賞をとっています。 ドバイにいたころ、開発ラッシュもあって、街中は建設工事に従事する出稼ぎ労働者たちであふれかえっていました。インド、パキスタン、バングラディシュなどからやってくる者がほとんどです。夕方になると、仕事を終えた彼らをすし詰めにして運ぶバスを、毎日のように見ていました。夏の暑い日も、冷房がないため窓を全開にして走っているバスから、ジーッといっせいにこちらを見て来る視線になかなか慣れることができませんでした。笑いかけてくるでもなく、たぶん疲れているからなのでしょう、とにかくまったく表情のない視線でただじっと見つめてくるのです。 |
あるとき、どうしても彼らを描いてみたい衝動に駆られました(実は、私は絵を描くのです)。「ファンタジーランド」「おとぎの国」と呼ばれるドバイでの「非現実的な生活」にわけもなくいらだちを感じる時があり、何か「現実」を感じさせるものをむしょうに求めていたのだと思います。 ただ、その目線があまりにも強烈だったため、逆に「ぜひとも絵にかいてみたい」という気持ちがますます強くなりました。アーティスト仲間に打ち明けたところ、 「ナシリヤ」に登場する青年も、まさにその1人でした。 |
建設現場で働く出稼ぎ労働者で、会社の都合で解雇され、新しい職も見つからない失意の青年が救いを求めたのは宗教でした。そして彼が最後にしたことは・・・・(結末は、これからご覧になる方のためにここではあえてふれません。そのため、今回の文章はわかりにくい内容になってしまったかもしれません。もしよろしかったら、是非映画を見てください)。見終わった後、重い余韻が残りました。 今年の3月、ドバイの建設現場で、待遇改善をもとめて外国人労働者たちが大規模デモを起こしました。夏は50℃近くになる気温の下、一日中屋外で働いても、彼らが手にするお金は一日にたった4ドル(約480円)。 ドバイ政府自身も、こういった外国人労働者の扱いにはジレンマを抱えているようです。住民の80パーセントが外国人を占めるいびつな人口比率から、政府は流入する他宗教・文化から自国の伝統、イスラムの慣習を守ることに神経を使っています。しかし、一方で、石油がなくなった後を考えれば、外国人のビジネス誘致を制限するわけにもいきません。 |
これだけ急ピッチで進む開発を陰で支えているのは労働者たちです。けれども、その労働者の人権は、政府の外国人誘致政策に組み込まれているようにはみえません。 さて、さっき述べた絵のことですが、ずっと「描きたい!」という気持ちを強く持ちながら、まだ描けていません。友人に「美しいものしか描くな」と忠告されたからではなく、その労働者の「眼」の訴えるものが私をためらわせています。このコラムで偉そうなことをいいながら、自分は、それを描くに値する人間なんだろうか。その権利があるんだろうか。描くことでいったい自分は何ができるんだろうか。 |
2006年6月号
|
【
ワールド・カップ
】
|
日本中がワールド・カップに沸いている今日この頃、選手たちの活躍を見ていると、ドバイで経験した前回のワールド・カップを懐かしく思い出します。 ところで、ドバイでは、サッカーは、サッカーといわずにフットボールといいます。日本ではフットボールというとすぐアメリカン・フットボールを連想してしまいますが、辞書で"soccer"をひくと、「アメリカン・フットボールやラグビーとの混同を避けるために使用される」と書いてあるので、外国では、フットボールという呼び方が一般的なのでしょうか。
|
海外に暮らして感じたのですが、異国にいると妙に愛国心が強くなるようです。普段はサッカーに興味の無い私も、日本の試合のときは勇んでクラブハウスへ応援に出かけました。 そういえば、娘たちの通うインターナショナル・スクールでも、校長先生がフットボール・ファンで、その日の試合結果が学校の掲示板に張り出されていたりして、サッカーがあまりポピュラーではない中東でも、みなそれなりに気にしているようでした。 |
余談ですが、日本のユースのチームがドバイのチームと親善試合をしに来た時は、競技場まで家族で応援にいきました。日本人会のみなさんが、ダイソー(当時ドバイでオープンしたばかりの日本の百円ショップ。以前このコラムでも紹介済み)で購入した日の丸のついた扇子や小さな国旗を手に、「ニッポン!チャチャチャ!」とやっていましたっけ。 サッカー好きの日本人駐在員たちは、オマーンで日本の試合があったときは、バスを一台チャーターして団体で応援にかけつけていて、友人の1人は、なんと飛行機で日帰りで応援に行ったといっていました。外国にいても、国内と同じく日本のサポーターたちは熱い! 今回のワールドカップは、日本はクロアチア戦は惜しくも引き分け。ブラジル戦で奇跡が起こってくれるといいですねえ・・・ドバイの日本人もきっと応援してるぞ! |
2006年5月号
|
【
シャルジャ首長国
】
|
アラブ首長国連邦は、小さな国土に七つの首長国が入っている国です。今回は、ドバイのお隣のシャルジャ首長国のお話。 ドバイから車で30分くらい走れば、そこはもうシャルジャ。首長国といっても、狭い国土の中のことですから、「隣町」という感覚です。 シャルジャは、大都会のドバイと違って、ベッドタウン的な要素の濃いところです。ドバイのような大きな娯楽施設やショッピングモールが少ないかわりに、家賃も物価も安いので、わざわざシャルジャに住んでドバイまで通勤する人も多くいます。というか、ほとんどの住民がドバイまで通勤しているといっても過言ではないでしょう。ですから、シャルジャ−ドバイ間の交通渋滞は、もはや名物といってよいくらいで、シャルジャに住んでいる私の知り合いも、30分で行ける道が、通勤時間は2時間かかる、とよくぼやいていました。
|
ただ、物価が安いから住みやすいかというと、外国人にとってはそうも言えません。「隣町」感覚とはいえ、違う首長国であれば、指導者も違い、政策も違います。自由なドバイと違って、宗教色が濃いのです。
|
これ以外にも、シャルジャのほうが大都会化されていない分、広々としていて緑も濃く、動物園や科学館などといった施設も整っているため、家族連れに親しまれています。あまりに暑いので、入園者が冷房の効いた館内からガラス張りの檻に入った動物たちを見ることが出来る、通称「ガラスの動物園」は、子供のお気に入りでよく行きました。 ただ、最近は、バブル真っ最中のドバイの煽りをうけて、シャルジャの人口も急増中。あちらこちらに高層アパートが建ち始めました。また、それにつれて物価も上がりつつあるようです。インターナショナル化したドバイも魅力的ですが、イスラムの伝統を守りつつ落ち着いたたたずまいを見せるシャルジャの魅力もまた、いつまでも保たれてほしいものです。 |
2006年4月号
|
【
交通事故にあった時
】
|
以前にもたびたび触れていますが、ドバイの高速道路は世界一死亡率が高いといわれている危険な道路です。
|
さて、こんな状況ですので、交通事故に巻き込まれたらどうするか、を知っておくのは、ドバイの道路をサバイバルするための必要事項です。 |
実は、警官にもいろいろいて、相手によって、わざとピンクの紙を渡したりする不届きな輩がいるのです。私の場合も、最初の事故のとき、警官がにやにやしながらピンクの紙を渡そうとするので、「私は被害者だから、グリーンでしょ!!」と猛抗議したら、「いやー、冗談冗談」などといって、あわててグリーンの紙を持ってきましたが、何もいわなければ、加害者にされていたでしょう。
|
かくいう私も、4年間の間に、5回ほど事故りましたが、いずれも軽いもので、怪我がなかっただけラッキーといえるでしょう。イギリス人の友人の夫は、猛スピードで車をぶつけられて、なんと空中で一回転したそうで、それ以来、怖くてしばらく運転できなくなってしまったそうです。道路わきで、デーンとひっくり返っていたり、黒い煙をモウモウとだして燃えている車を、あちこちで見かけますから、これはもう、命があっただけめっけもの、という感じです。 日本は、道路も狭くて混み合っているのに、事故を見かけることはあまりありません。それだけ、運転マナーもよく、車もしっかり手入れされているのでしょう。 |
2006年3月号
|
【ドバイの休日の過ごし方
】
|
イスラム国家のドバイでは、一週間のうち金曜日が休みの日で、日本の(というか世界のほとんどの国の)日曜日にあたります。そして、日本の土曜日にあたるのが木曜日。つまり、ドバイの週末は、木曜日と金曜日になります。学校のお休みも、木曜日と金曜日で、土・日は普通の授業が行われます。
|
困ったのは、ドバイには、宗教上、さまざまな祝日があるのですが、イスラム暦を採用しているので、「毎年5月5日は子供の日で祝日」というように、カレンダーの暦で祝日が決まっているのではなく、月の満ち欠けでその年の祝日が正式に決定されることです。イスラム教の偉い人たちで構成される「月見委員会(?)」のようなものがあって、その人たちが月の満ち欠けを観察して、「今年の○○の祝日は、今週の水曜日です」とか、発表するわけです。それがわかるのは祝日の数日前。
|
結局、小さな町なので、休暇の過ごし方はマンネリ化していましたが、それでも塾やおけいこに忙しい今の日本の生活から振り返ると、あののんびりした雰囲気も悪くなかったなあ、と思います。むしろ、家族でゆっくり過ごすことのできた貴重な時間のように思えます。帰国当初は、土・日がお休み、という感覚になかなか慣れなくて、木曜日や金曜日に学校があるのが不思議な感じでした。今は、暇だったけど、家族でのんびり過ごせた金曜日をなつかしく思い出しています。 砂漠の国ドバイは、「一年中暑い国」というイメージがあります。確かに、夏の間は50℃近い猛暑になりますが、冬の間は日本の春のような陽気で、比較的過ごしやすくなります。
|
2006年2月号
|
【ドバイのケータイ事情
】
|
貧富の差の大きいドバイで、お金持ちから貧乏人にいたるまで誰もが必ず持っているものは、なんでしょう?・・・・・答えは携帯電話。
|
ところで、この携帯のマナーひとつにも、お国柄がよく出ます。まず、着信音が大きい。それを、アラブの人たちは、ところかまわず平気で鳴らします。「マナーモード」という言葉を知っているのか・・?といつも不思議なのですが、映画館でも、コンサートでも、必ず誰かのモバイルが鳴る。特に映画館では、上映前に、あんなに「モバイルのスイッチは切ってください!」という警告がながれているのに、まったく守られる気配はありません。しかも、信じられないことに、上映中に電話がかかってきても、堂々とシートに座ったまま大声で会話をはじめる。それがまた長い!!
|
着信音も、アラブ特有の勇ましい感じの曲や、民族音楽っぽいもの、かと思うとピアノコンチェルトのメロディなど、ほんとにさまざまで、これにもその人の個性やお国柄が出ていておもしろかったです。
|
さて、これだけ普及してくると、海外でも、「今どうしてる?」と、「暇だから」とか、「単に世間話がしたいから」という理由で携帯にかけてくる人がとても多いです。日本と同じですね。ドバイでも、やはりアジア系の民族は、どうも友達と常にかかわっていないと不安な傾向があるのか、携帯の頻度が高いように思いました。
|
2006年1月号
|
神奈川県横浜の翻訳会社 D&Hセンター ドバイのホットニュース 2006年