神奈川県横浜の翻訳会社 D&Hセンター ドバイのホットニュース 2006年
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ドバイのHotNews(2006年1月〜12月)

2006年12月号

 

【 ドバイのクリスマス

 

 イスラムの国にクリスマスはあるか?
答えはノーです。
でも、「ドバイにクリスマスはあるか?」と聞かれれば、話は別です。
いくらイスラム圏といっても、インターナショナルな都会のドバイでは、クリスマスともなればショッピングモールはさまざまなデコレーションで覆われ、エントランスには大きなクリスマス・ツリーが飾られます。
けれども、肝心のクリスマス当日は、そのお祝いをする外国人駐在員(主に欧米人)はほとんどドバイにいません。みなホリデーで自分たちの国に帰ってしまうのです。
(欧米のクリスマスは日本のお正月と同じですから、年に一回、親戚中が集まる大事な祝日なのです)。
けれども、彼ら以外にドバイに残ってこの日を祝うのを楽しみにしている人たちがいます。
その1人がシシリン。週に一度、私たちの家の床掃除に来てくれるメイドさんです。

 

 ドバイに来て最初のクリスマスの日、いつもこの曜日に来るはずのシシリンが来なかったので電話してみると、「マダム!!今日はクリスマスですよ!お祝いしなくちゃ。これからみんなでミサに行くところです。メリー・クリスマス!!」とはずんだ声が返ってきて、その時初めて彼女がクリスチャンだということがわかったのです。

 スリランカ人のシシリンだけでなく、フィリピン人など、出稼ぎに来ているメイドさんには敬虔なクリスチャンがたくさんいます。
めったに帰省しない彼女たちの大半は、ドバイでクリスマスを迎えます。そして、クリスマスの日は仕事も休み、いつもよりおめかしをして朝から仲間たちと教会へ行ってクリスマスのミサに出席するのです。そして、いつもは節約している彼女たちも、このときばかりは遠くのダウンタウンまで繰り出してささやかなプレゼントを買い、お世話になっている人たちにカードと一緒に配るのです。

 

 シシリンは、毎年クリスマスの日、私たちが家でクリスマス・ディナーを食べていると、きまって娘たちにプレゼントを持って訪ねてきてくれました。
他の家にフルタイムの住み込みで働いていて、ちゃんと自分のビザのスポンサーもしてくれるマダムがいるシシリンにとって、我が家での仕事など微々たるものです。それでも律儀に、日ごろの感謝をこめてクリスマスの挨拶をしにきてくれるのです。
最後の年は、娘のスダルマとその恋人の男性を連れてきて、もうすぐ結婚式をあげるのだとうれしそうに紹介してくれました。

 プレゼントは、ある年は、私と主人には箱入りチョコレート、娘たちには、娘の背丈ほどもある大きな布製のお人形をひとつずつくれました。またある年は、美しいスノードームだったり、おもちゃだったり。彼女たちのお給料を考えると「こんなにいいものをもらっていいのかしら」と思うほど豪勢なものばかりで、それだけ彼女たちにとってクリスマスがいかに特別な日なのかが伝わってきました。

 

 

 表立って大きく十字架を掲げることは控えているようですが、ドバイにもキリスト教の教会がいくつか存在し、毎週日曜日ならぬ金曜日(ドバイの週末は木曜日と金曜日)に礼拝に行く外国人はかなりの数にのぼります。教会にも、スウェーデン人たちの教会やオランダ人が多い教会、などそれぞれ特徴があるようでしたが、メイドさんたちにも、メイドさんたちの通う行きつけの(?)教会があるようでした。
クリスマスの朝、欧米人は故国に帰省しているし、メイドたちはミサに行って家にいません。ですから、白人駐在員とフィリピン人またはスリランカ人のメイド、という組み合わせの家庭の多かったうちのコンパウンド(集合住宅)は、クリスマスの朝はいつもとはうってかわって静寂な雰囲気に包まれており、無宗教の私も何か厳かな気持ちにさせられたものです。

 日本で迎えるクリスマスは、ドバイと同じくらい飾りつけも華やかで、特に町や住宅の美しいイルミネーションは息をのむほどです。そんな中で帰国して最初に迎えたクリスマス、娘たちは、「もうシシリンはプレゼント持ってこないんだねえ」としみじみと言い合っていました。
2年目の今年も、ツリーを飾って、アドベント・カレンダーを毎日ひとつずつ開けながら、娘たちがふと外をながめて物思いに沈んでいるようなときがあります。今でも心のどこかで、満面の笑みを浮かべてプレゼントを持ってくるドバイのサンタを待っているように見えるのは、私の気のせいでしょうか。

 

 

2006年11月号

 

【 恥ずかしい帰国当時の話 その2

 

 先月号に引き続き、帰国当時の浦島太郎親子生活をご紹介します。
久々の日本で、親の私も様々な失敗や勘違いを経験しましたが、子供たちも負けてはいません。

 私たち一家は、帰国当初、学校や家が決まっていなかったことから、しばらくの間、横浜市のウィークリー・マンションに暮らしていました。
子供たちが最初に不満を訴えたのは、家の狭さや経験したことのない雨ばかりの生活(梅雨の季節だった)でもありませんでした。
「電車に乗ると、みんながじっと見る!」
 
ドバイでは電車やバスという公共の乗り物がなかったため(バスはあったけど、出稼ぎ労働者しか乗らない)、電車に乗ってもあたりかまわず大声でしゃべりまくります。しかも英語。(親の努力もむなしく、通算9年の外国生活で子供たちの言語はすっかり英語になっていました)。
顔はあきらかに純ジャパニーズなのに、大声で英語でしゃべる娘たちに車内の視線が集まるのも無理はありません。ラッシュの車内でも、いきなり英語で「I am squished!(つぶれちゃうよー!)」「Ouch!(痛い)」などと突然叫ぶものだから、周りの人たちが驚いていっせいに振り向きます。
「私がしゃべるとみんながいっせいに見るんだよ。しかも、その後もずーっと見てるんだよ。そういうのって、失礼だよねえ??」
と、憤懣やるかたない様子。それ、あたりまえなんですけど・・・。
いくら「日本ではみんな日本語しか話さないんだよ」と口をすっぱくして言っても世界中の国の言葉が飛び交っていた環境で育ってきた彼女たちには、しばらくぴんと来なかったようです。
 
それだけならばいいのですが、今思えば私たちの服装も、どことなく「日本人の正しいカジュアル」からは逸れていました。確かに、小学生と中学生の長女と次女は、おへその見えそうなタンクトップにブレスレットやイヤリングをジャラジャラつけて(アメリカンスクールでは普通だった)、私もあの時はドバイから持ってきた着心地の良いサリーのようなオレンジの長いワンピースに「ジーザスサンダル(前号参照)」といったいでたちで、その後ろを麦藁帽子と虫取り網を持たせたらさぞかし似合いそうな、まだあどけない三女がピョンピョンはねるようについていく・・・そんな格好で、繁華街のインターネットカフェに出没したりしていたのですから(ドバイの友人とチャットするため)、さぞかし不思議な、いえ、「不審な」親子だったことでしょう。

 

 そのせいか、なんと、帰国早々、気味の悪いストーカーにつきまとわれるはめになってしまいました!
たまたま滞在していたウェイークリーマンションのまわりの環境があまり良くなかったせいもあり、この件ですっかり神経過敏になった主人は「俺が会社に行っている間は、絶対に外に出るな。カーテンも閉めきって、外も見るな。女子供が4人もいることがわかるとまずいから、洗濯物も外に干しちゃだめ!」ときつーいお達し。
最後に、「だいたいお前たち、浮きまくってるぞ。異国の匂いがプンプンしてる。少しは考えろよ」。
だって、そんなこといわれても当の本人たちにはこれが普通なんですけど・・・・。
 それからしばらくは、外出もできず、カーテンを閉め切った部屋からそーっと外をうかがってその日の天気を知る毎日。次女いわく、「まるでアンネ・フランクの生活みたいだね」。
そう、待望の日本生活の始まりは、アンネ・フランクの世界だったのです。

 まあ、そんなこともありましたが、ウィークリー・マンションを引き払って自由に外出できるようになると、娘たちは日本のかわいいメモ帳や雑貨にたちまち夢中に。お菓子やジュースもいろいろなフレーバーがあって、片っ端から欲しがります。
「すごーい!ファンタってグレープ味もあるんだね。マクドナルドって、こんなにたくさんバーガーの種類があるんだ!食べてみてもいい?」とどこへ行っても興奮しまくり、私は周りからの「かわいそうに。この子達、普段何にも買ってもらってないのね」みたいな同情の視線が痛かった・・・。

 

 笑えたのは、駅のアナウンス。
ご存知の通り、今の日本の駅のアナウンスはたいてい機械音声になっています。どこへ行っても同じ声が「電車がまいります・・・ドアが閉まります・・」とやっているものだから、次女はすっかり、何百人ものアナウンサーの中からたった一人がオーディションで選ばれて日本中の駅のアナウンスを担当しているんだ!と思い込んでいたのです。
「私も、大きくなったらこのオーディションにパスして、自分の声が日本中の駅に流れるようにするんだ!」と、彼女の頭の中では駅のアナウンスはすっかり日本のアナウンサーの「登竜門」に・・・。あまりに真剣なので、しばらくは本当のことが言えませんでした。今思い出してもおかしい!

 

 

 赤面ものだったのが学校訪問。すっかり外国人になってしまった子供たちに、いきなり日本の公立学校は厳しいかもしれないと思い、いくつかの「帰国子女受け入れ」をうたった私立校に見学に行きました。母親の私は、さすがにこのときばかりはジーザス・サンダルからパンプスに履き替え、デパートでスーツも購入してばっちり日本人母を気取って出かけたのですが、肝心の子供たちがすっかりウェスタンなのを忘れていました。
 日本に帰る前も後も、あれほど「日本の学校には日本の学校のルールがあって、ドバイとはちがうんだよ」口をすっぱくして言ってきたのに、先生の前で足を組む。敬語が使えずに(今まで使う相手がいなかった)、先生のいうことに「うん、うん。」と、無邪気にタメ口をたたく。しかも一通り校内を案内してもらった後、校長先生がみずから「日本にきたばかりで聞きたいこともたくさんあるでしょう。何か質問はありますか?」と聞いてくださったものだから、さあ大変。


 
娘たちはここぞとばかりに
「どうして日本では学校にアクセサリーをしていっちゃいけないんですか?」
「どうして髪の毛は結ばなくちゃいけないの?」
「どうして小学校にカフェテリアがないの?」
「どうして学校にサンダルでいっちゃいけないの?」
「どうして・・・」
としゃべりだしたものだからたまりません。こんなこともあろうかと事前に一通り説明しておいたのに、どうしてよりによって校長先生に聞くんだー!!
穴があったら入りたいとはまさにこのこと。でも、自らも海外で教えていたことがあるというやさしそうな校長先生は、
「日本ではピアスやアクセサリーをしてると不良だと思われて、そういう人たちが仲間だと思って寄ってきたりするからね。危ないでしょう?」などとひとつひとつていねいに英語で答えてくださいました。
それなのに、
「でも、どうしてピアスすると不良なの?ドバイでは赤ちゃんもみんなしてたよ。それに、みかけで人を判断しちゃいけないって、前の学校のプリンシパルが言ってたもの!」
などとまだ納得のいかない様子。横にいる私はもう倒れそう。
とうとう最後に、三女が、
「じゃあ、これも学校にしてきちゃいけないの・・・?」
と、肌身離さず身につけているオランダ人のベストフレンドから貰った手作りビーズのブレスレットを見せて泣きそうな顔で聞いたとき、さすがの先生も
「うーん、ごめんね・・・」となんとも申し訳なさそうな困ったような様子でした。
 
最後に事務の方に笑いながら「学校訪問で校長に議論をふっかけた子は初めてですよ」と言われた日にはもう、「ご、ごめんなさーい」という感じで逃げるように帰ってきました。

 他にも、ゴミの分別のしかたがわからなくてパニックしたり、いろいろなことがおきつつ今に至っています。幸い今はだいぶ慣れて、かなり「正しい日本人」になったつもりでいますが、もしかしたらやっぱり本人たちだけがそう思っているのかも・・・?

 

 

2006年10月号

 

【 恥ずかしい帰国当時の話

 

 海外生活通算9年の我が家でも、新しい国に赴任するたびに、その国に慣れるには親子共にさまざまな苦労がありました。
しかし、本当に苦労したのは、母国日本に帰国した時です。
子供たちは今までの人生のほとんどを異国で暮らし、特に一番下の子はアメリカで生まれ、日本の教育を3ヶ月間しか受けたことがありません。しかも、ドバイでは同じ年の日本人の友達が周りに1人もいなかったこともあり、帰国が決まった時は本当に不安でいっぱいでした。
けれども、親の私は、なんといっても自分の生まれ育った国に帰るのですから、そんなに心配していなかったのですね。日本に帰れば、また元の日本人に戻ればいいだけだ・・・そう思っていたように思います。
でも、帰国後、それが一番の間違いだと思い知るのに、そう時間はかかりませんでした。

 まず、人ごみがうまく歩けない!!子供たちを連れて初めて横浜駅のラッシュアワーを体験した時は、「ロープがいる!」と思いました。朝のすごい人ごみを横切って、駅構内の向こう側へ渡るだけでもう大変。必死で人ごみをかいくぐって後ろを振り向くと、子供たちが向こう側で途方にくれている!彼女たちにとって、物心ついてからこんなたくさんの人の流れを経験したことがなかったのです(海外ではどこへ行くにも車でしたし、一時帰国のときは、移動の楽な昼の時間帯に出歩くことが多かったので)。仕方がないので一人ずつ救出(?)してはまた戻り・・・の繰り返し。やっと人ごみを渡り終えても、今度は人の流れに沿って、はぐれないように3人を連れて歩くだけで汗だくです。気がつくと、誰か1人が流れに押されてとんでもない方向にさらわれていたりします。アメリカの幼稚園で園児たちを遠足に連れて行くときのように、ロープを一本用意して、各自それにつかまらせて歩かせたらどんなにラクだろう・・・という考えが何度も頭に浮かびました。

 

 

 しかも、久々の日本で、「横浜駅はとっても広い!」ということをすっかり忘れていました。京浜東北線に乗り換えようとホームを探しても、どこにも「京浜東北線」という表示がない。なんと私は、京浜東北線が「JR」だということもすっかり忘れていたんですねえ。ラッシュの中、広―い構内を西口から東口へと何度か往復するうちに時間はどんどん過ぎていく・・・。
「このままでは永遠に横浜駅から出られない!」とあせった私は、とうとう駅員さんに救出してもらうことにしました。しかし、場所を教えてもらい、ようやく行き着いたホームにはぜんぜん違う表示が・・・?なんと、京浜東北と京浜急行を間違えて聞いてしまったらしいのです。
 しかも、「切符だけは絶対になくさないように!」と口をすっぱくして子供たちに言い聞かせていたにもかかわらず、自分がなくしてしまった・・・。
「今回はお金はいいですから。今度から気をつけてくださいよ、お母さん」と改札で駅員さんに言われ、ふと見ると子供たちの冷たい視線が・・・。
それ以後、「母親はあてにならない」という意識がしっかり子供たちの中にインプットされたようです。
 考えてみれば、数年前一時帰国したときに、スイカの使い方がわからず、自動改札の「ここに触れてください」(ここにスイカを触れてください、の意味)のところに、一生懸命手をかざしていた私です。だって、「触れてください」ってことは・・・そういうことですよねえ。
後ろの男の人が、申し訳なさそうに、「あのー、それ、スイカを触れるんですけど・・」。
「あ、そうそう、そうですよね!す、すみません・・!」
という会話を今も覚えています。は、恥ずかしい!
(あれからしばらくして、「ここに『スイカを』触れてください」という表示に代わりましたが、「あれは私のような人が他にもたくさんいたからに違いない!」と今でも私はむなしく主張しています)

 そんな私ですから、帰国当初は本当に「浦島太郎」状態でした。
品川駅で、乗り換えと間違えてうっかり出口改札を通ってしまい、やはり朝のラッシュの人ごみを止めて大混乱に陥れてしまったこともあります。切符が出てこないことに気づいて駅員さんを呼んだはいいけれど、十いくつならぶ自動改札機のどこを通ったか覚えておらず、結局駅員さんが端からひとつひとつ自動改札をあけて私の切符を探すはめに・・・。次の自動改札を開けに移るたびに、絶え間ない人の流れを身体を張って汗だくになって止め続けてくれた駅員さん、本当にごめんなさい。ありがとうございました。

 

 

 また、帰国時はちょうど梅雨だったのですが、常夏の国に長い間いたせいで、「日本では一日のうちに気温や天気が変わりやすい」ということもすっかり忘れていました。
帰国直後は梅雨時で、防寒着というものをまだ購入していなかったので少し厚手のレインコートを着用していたのですが、あるとき急に少し先の駅まで行かなければならなくなりました。あわてて、「どうせ見えないから」と部屋着のようなジャージのような、まあどうでもいい格好にレインコートを羽織って出たはいいけれど、出たときは雨で肌寒かったのに、急に暑くなってきました。そして、帰りの電車の中の蒸し暑いこと。汗がだらだら出てくるのですが、このレインコートを脱いだら、ちょっと電車の中では恥ずかしい格好かも・・・と思うと脱ぐこともできず、みなが上着を脱いで薄着の電車内でひとり、暑苦しいコートを着て汗はだらだら。真っ赤な顔でまるでガマン大会に参加してるような私をみて、子供たちは
「ママ、コート脱いだら?」
「脱げないの!」
「すっごい汗。見てるだけで暑いよ」
「うるさい!」
とケンカになり、ますます体温が上昇したのでした・・・。
 日本では、電車に乗る時はみんな比較的こぎれいな格好(?)をしている、ということを再インプットした出来事でもありました(ドバイでは、車社会なので、ちょっとそこまで行くくらいの時はわりとラフな格好で出かけてしまえる。それに貧富の差が激しいので、小汚い格好をしていてもみんな見慣れているのです)。

 

 

 それから、一番困ったのが「靴」。
砂漠の国で暮らしていたので、一年を通してずっと履物はサンダルでした。
気温40度なので、ストッキングなんて履きませんし、パンプスやハイヒールも暑いだけ。第一、そんなおしゃれなものを履いても車の運転はしにくいし、駐車場は砂地にあることが多いので、どんな靴もあっという間に砂まみれ、真っ白になってしまいます。
 というわけで、考えてみると4年間、ほとんどパンプスを履いたことがなかった。
帰国後は、子供の学校探しなどでスーツにパンプス、という格好をする機会が多かったのですが、ドバイでサンダルに慣れた私の足は肥大化してしまったようで、久々にはいたパンプスは全部とってもきつい!
 新しいものを試してもみたのですが、どうやら4年間のお気楽サンダル生活で、私の足はすっかり「何かに包まれる」ことを拒否する形に進化してしまったようです。どんなものをはいても、あちらこちらがあたって痛いのです。
あっという間に、マメができ、皮がやぶれ・・・あとはもう想像がつきますね。
バレリーナは一日中トウシューズをはいているため、だんな様にも足は見せられない、といいますが、当時の私の足はまさにプリマドンナ(ちょっと年季が入ってますが)状態。
連日家探しやら学校探しで歩き続けるうちに、マメの数は両足でなんと12こにもなりました。
そして、ある日、六本木の路上で激痛に耐えかねて靴を脱いで見たら、足が・・・血、血だらけだー!
迷わず脱ぎました、靴。
だって、とても耐え切れなくて・・・。駅までの短い裏通りとはいえ、六本木の路上を血だらけの裸足で歩く女、って怖いですよね。あきらかになにかの犯罪に巻き込まれたとしか思えない。今思うと、とっても恥ずかしい。でも、あの時は必死でした。
 それからは、恥も外聞もかなぐりすてて、移動時はドバイのスーク(市場)で買ったアラブ人御用達の健康サンダル(なぜか「ジーザス・サンダル」と私の友人の間では呼ばれている)を愛用することに。もちろん、バッグにはパンプスをしのばせておき、目的地についたらはきかえていましたが。
きちんとしたスーツに、足元を見れば健康サンダル、というものすごいいでたちで山手線に乗ってた私は、これまたかなり異様だったかも。

 このように、帰国当時は恥ずかしーい思い出でいっぱいです。すっかり「正しい日本人」の姿に戻った今考えると赤面ものですが、あの時は「こわいものなし」だったなあ、と思います。
みなさま、町中で不思議な格好をしたり、挙動不審な親子を見かけたら、それは帰国したての新しい「浦島太郎子さん」かもしれません。
どうぞ、お手柔らかに、笑って見過ごしてあげてください。

 

※ 母親がこうですから、子供たちもいろいろなことをやらかしてくれました。次回は子供編をご紹介します。

 

2006年9月号

 

【 ニセモノ天国

 

 ドバイの生活もようやく落ち着いたころ、ふと奇妙なことに気がつきました。学校にお迎えに行っても、ショッピングに行っても、歩いている女性がみーんな有名ブランドの○イ・ヴィトンのバッグをもっているのです。そういえば、学校のお母さんの家にお茶に呼ばれた時、集まったママたちの洋服やアクセサリーも、みんなブランド物でしたっけ。
 「さすがお金持ちの国。住んでる人もリッチなんだなあ」と思って、あるときふとそれをイギリス人のスーに言ったら、「えー!!マリコ、カラマにまだ行ったことないの?」とえらくびっくりされてしまいました。


 「カラマを知らないなんて、ドバイ住民とはいえないわよ!」興奮(?)したスーは、早速その翌週、私をカラマに連れて行ってくれました。団地のような同じ外見のビルが立ち並ぶその地区には、小さなお店がびっしり。それぞれのお店には有名ブランドのバッグや洋服がところ狭しと並べられています。でも、なんか様子が変。ブティックのようなきちんとした店ではないし、有名なブランド品が無造作に棚にぎゅうぎゅう詰めになっている・・・。そう、なんと全部ニセモノなのです。


 

 よく見ると、学校のお母さんたちがよく着ているブランド・ロゴ入りのTシャツもたくさんあります。バッグも、白人駐在員やアバヤを着たアラブ人女性もよく持っている物があちらこちらに・・・。ブランド大好きママのスーは、いつも帽子から靴まで全部○イ・ヴィトンか○ーバリーできめていますが、「全部ここで買ったのよ」とウィンク。
 なーんだ、みんなフェイク(にせもの)だったのね!ようやく合点がいきました。それにしても、製品の精巧なこと。少なくとも、ブランド物にうとい私には本物そっくりに見えます。スーいわく、特に○イ・ヴィトンはあまりにも本物とそっくりなので、フランスの○イ・ヴィトン本社から訴えられて裁判になっているとか。なので、その○イ・ヴィトンだけは、警察が見回りに来て売っているのがわかると罰金を払わなければならないため、店頭には並べられていないそうです。
 品物をひやかしていると、店員がスッと寄ってきて、「○イ・ヴィトン?」と聞いてきます。「イエス」といってカタログのどの品を探しているか伝えれば、店員は店の外をうかがいつつ、奥から現物を持ってくる、というシステムになっているようです。


 残念ながら、ブランド物に全然興味のない私はお客さんにはなれませんでしたが、スーはお目当ての新着の○イ・ヴィトンのバッグを買ってご満悦でした。
 帰りにスーの家によってお茶をしたとき、クローゼットの中を見せてくれたのですが、旅行用大型ボストンバッグからジャケットまで、カラマ製○イ・ヴィトンがごっそり。彼女いわく、「私、ロンドンのお店に行ってちゃんと調べたけど、取っ手の部分の色がほんの少し薄いだけで、あとは完璧に本物と同じよ」とのこと。フランス人のキャロルも、オランダ人のマリナも、みんなしょっちゅう通っているのだとか。本物と見分けがつかず、高品質、おまけに値段は本物の10分の1以下(!)とくれば、なるほど、みなが殺到するわけです。


 

   なんでも、こういった品はフェイクといえども、品質がかなりいいらしく、その辺のショッピング・モールでノー・ブランドの製品を買うよりもずっと安あがりということで、アラブ人も駐在外国人も、みんな遊び感覚で買いに来るのだとか。
 もっとも、このカラマ地区、この後あまりに有名になりすぎて、観光客まで来るようになり、お目当てのバッグを見せてもらうには、2階の秘密の小部屋にあがらなくてはいけなくなったそうです。フランス人の友人が行った時は、取り締まりも以前よりもっと厳しくなっていて、まず他の店舗(パシュミナなどを売っているふりをしているが、実際は営業していない)に連れて行かれ、その奥の壁にしかけられた忍者屋敷のような隠し扉をくぐり抜けると、屋根裏に通じる狭い階段があり、そこを上ってやっと○イ・ヴィトンのニセモノにご対面できる仕掛けになっていたそうです。


 帰国前、スーに「最近まだカラマ通いしてるの?」と聞くと、「この間、店に警察の手入れがあって、居合わせたお客のイギリス人も逮捕されたらしいの。刑務所なんか入れられたら大変だからもう行かないわ」と残念そうでした。
 日本ではまだそこまで厳しくないようですが、最近はヨーロッパなどでは、たとえ本人が知らずに買ってしまっていたとしても、ニセモノを持っているだけで逮捕されることがあります。そうです、買う方だって、立派な犯罪なのです。にもかかわらず、このスリル満点のカラマ通いをいまだに続けている人もかなりの数にのぼるそうです。そこまでしてブランド物を持ちたい!というのも女性の一般的心理なのでしょうか。カラマ地区の繁栄も当分続きそうです。
 それにしても、ブランド好きって、日本人だけじゃなかったんですね!これが、カラマで得た、私の一番興味深い発見でした。

 

 

2006年8月号

 

【 ドバイ式買い物バトル

 この間、日本に里帰りしたドバイの友人親子と久々に会いました。東京の真ん中で、ドバイの灼熱の太陽にさらされて真っ黒に日に焼けた友人親子を見たとき、そこだけ風景が違って見えました(背後に砂漠が見えたような・・・?)。逆に、自分はすっかり色も白くなってすっかり日本人に戻ったなあ・・・と、帰国後一年間がたったことをしみじみと実感しました。

 久々に会った友人いわく、私がとっても穏やかになったそうです。「ドバイの時はしょっちゅう怒ってけんかしてたじゃない」とのこと。
そうそう、確かに自分を主張しないと泣きを見ることの多い海外では、小さなけんかは日常茶飯事。特にドバイでは、買い物すらある意味バトルのようでした。

 ダウンタウンにある「シティー・センター」内のカルフールは、ドバイで一番面積が広く、値段も安いので、よく週末のまとめ買いに利用していましたが、巨大な分、買い物客の数も半端ではなく、特に週末は無法地帯と化してちょっとした戦場のようでした。
 ここでドバイ式スーパーの買い物の様子をちょっと紹介。

 

  シティー・センターは巨大なモールで、ダウンタウンの中心にあるため、休日ともなればドバイ中から人が集まってきます。渋滞の高速道路を通ってそこまで行くだけでも一苦労。やっと到着しても、駐車場を探すのがまた大変、といったありさまです。なんとか車を停めて、ディズニーランドのような混雑を通り抜けて2階にアルカルフールに到着。

 ここで、「ドバイ式買い物レース」の試合開始のゴングがなります。カートを持って向かうのは、第一の試練の野菜売り場。野菜売り場といっても、カルフールは野菜売り場だけで日本の小さなスーパーマーケットくらいあります。野菜と魚はすべて計り売りなので、一通り野菜を選んだあと、それらを計量カウンターまで持っていって、そこで量に応じた値札をつけてもらわなければなりません。これが大変。
 当然混んでいる上、みんな順番を守らないので、せっかく列に並んでいても、どんどん横入りされてしまいます。ドバイに着いた当初は、堂々と横入りしてくる人たちに目が点になったものですが、それでも最初は割り込みを諌める勇気もなく、おとなしく横はいりされるがままだったので、野菜の値段ひとつつけてもらうのに30分くらいかかりました。慣れてくると、横はいりしそうな人は雰囲気でわかるようになり、それっぽい人が近づいてくると目で威嚇(?)するなど、だんだんコツを覚えてきます。わざとカートを前の人にぐっと近づけて割り込む隙を与えないようにしたり、並ぶ時もなるべくマナーを守りそうな人の近くに行くと効果的です。それでも、無理やり割り込んできたり、やっとカウンターにたどり着いて野菜を置いているのに、その横から自分の分をどんどん置いてくる人がいたりするので油断はできません。並んでいる時は常に周りに気を配り、カウンターに野菜を置く時はすばやく、しかも広げて置くことを子供にも徹底させました(それでも上においてくる人がいるので、山盛りにするのがコツ)。計る人も、中にはローカル(アラブ人)を優先する人もいるので、それでけんかになったことも数知れず。
 このようにしてせっかく野菜売り場をクリアしたところで、「あー、たまねぎ買い忘れた!」なんてことになったときは悲惨です。またあの戦場に戻る気力もなく、そういう時は泣く泣く、あらかじめ値札のついたパックに入った値段の高い輸入野菜を買ってしまったりします。

 

 

 

 こうしてなんとか野菜を制覇すると、次は第2ラウンドの魚売り場へ。湾岸にあるドバイの魚売り場にはベイビー・シャーク(サメの赤ちゃん)から人間の大人の腕くらいあるうなぎまで、たくさんの種類の魚がならんでいます。中には熱帯魚のようにきれいなレモン色と黒のひれをもつ珍しい魚もあったりするので、もの珍しさにかられて、よく通いました。売り場の人に注文すればさばいてもくれるので、料理もラクです。ただ、カルフールのような大きな売り場では、魚をさばくのに人手をとられて、値段をつけたり注文を受けてくれる人がいつも足りません。売り場は横に広がっていて、とくに列があるわけでもないので、みんな思い思いの場所で、次に手のあきそうな魚担当のおじさんをつかまえようと目を光らせています。やっと次は私の番かな、と思ったときに偶然後ろから来た人が「あ、これお願いね」なんてうまい具合におじさんを捕まえてしまうと「えー!?そんなあ・・」とがっかりします。これも慣れて来ると「次は私だからね!忘れないでよ」と、売り場のおじさんが前の人の注文を受けている時に横から声をかけておくとか、前のお客さんに商品を渡し終えた瞬間をねらって大声で呼ぶなど、タイミングが計れるようになってきました。
 魚をさばいてもらう場合、待っていると果てしなく時間がかかるのでその間に他の買い物をすませます。他の魚と野菜以外は計ってもらう必要がないのでラクなのですが、電気製品から洋服、自転車までならぶ広大な店内を、山盛りになったカートを押しながら人ごみを押し分けて歩くのは結構大変なのです(海外のスーパーのカートは大きくて重い!)。その上、店員がよく商品を大きな機械式カートに乗せて運んでいるのですが、彼らは絶対によけません。「お客様第一」の日本だと、客を見れば店員のほうが避けるのがあたりまえですが、ドバイの店員は我が物顔で、客がよけてあたりまえと思っているふしがあります。来たばかりのころは、日本と同じつもりで従業員の操る機械式カートに向かっていって、あやうく轢かれかけました(笑)。通路いっぱいにひろがった業務用カートが来ると、こっちは重いカートを引きずってあわててもと来た道を戻らなければなりません。また、商品を選びたくても、店員がその棚の前で堂々と商品の並べ替えを続けているので、待たなくてはならないことも日常茶飯事です。
 おまけに、一般の買い物客も通路の中央で堂々とカートを横においたままで(つまり通路を完全にふさいでる)商品に見入っていたり、2台のカートを通路の真ん中に置きっぱなしにして長時間おしゃべりに興じていたりで、まっすぐに歩くだけで大変なのです。
 それから、カートをガンガンぶつけてくる人がすごく多い!アメリカでは、他人と体や持ち物が触れることは失礼なことで、ちょっとでも人やカートに触れようものなら、必ず「エクスキューズ・ミー」の世界だったのに、こちらは逆。むしろ、通して欲しい時に言葉のかわりにカートをぶつけるルールがあるのかと思ったくらい(?)平気でぶつかってきます。ガンガンぶつかってくるわ、だれも自分からは避けないわで、「日本人」の私はいつも人を避けながらジグザグに進むことになって、なんかすごい損してる気分。しかもわざわざ謝る人もいないので、最初はこれに慣れるのに時間がかかりました。

 

 

 最後の方は、もうすっかり人格がドバイ化して、遠慮も会釈もかなぐり捨てて、通路を塞ぐおばちゃんには「エクスキューズ・ミー」と大声で聞こえよがしに言ってカートをどけさせ、場所を譲らない店員をものともせずに、その前に入ってすばやく商品を手に取り、魚売り場ではおじちゃんと笑顔で接して仲良くなって、優先的に魚をまわしてもらうようにまでなりました。ただ、野菜売り場では周りにガンを飛ばしまくっていたらしく、娘たちは、「ママはカルフールに行くと目がこわい」と言って一緒に買い物に来たがりませんでしたが・・・。

 とにかく一週間分の買い物をここで済ませる人がほとんどなので、お客の買い物の量も半端ではありません。カート2台分山盛りの商品、なんていうのもザラなので、当然のことながらレジは長―い列。買い物だけでなんだか三日分くらいの体力を消耗したような気になります。そんな思いをしてやっと買い物が終わってから、「あ!魚売り場でさばいてもらった魚を受け取ってくるの忘れた!」なんていうことも何度かありました。でも、あのすごい店内に戻る気力もなく、「いいや、今週は魚はあきらめよう・・・」ととぼとぼ帰ることになるのです(あれらの魚はいったいどうなったのでしょう?)。
 病み上がりのとき、カルフールの入り口であまりにすごい人ごみの店内を見て、なにもかもいやになって回れ右をして帰ってきたこともありました。

このように、ドバイで買い物をスムーズに済ませるには、一に根性、二にタイミング、三、四がなくて五に体力、が必要です。

それに比べて、日本のスーパー・マーケットはなんて楽なのでしょう!店員さんは丁寧だし(丁寧すぎるきらいもありますが)、順番はきちんと守られる、店員のカートに轢かれる心配もない。もう天国のようです。
 「戦う」ことがなくなった私の表情が穏やかになったのも当然のことかもしれません。

 

 

 

2006年7月号

 

【 映画「ナシリヤ」を見て―中東の出稼ぎ労働者たち−

 先日、「ナシリヤ」という映画をDVDで見ました。
ジョージ・クルーニーやマッド・デイモンらが出演するこの映画のロケは、ドバイで行われました。撮影当時、このロケはドバイでもちょっとした評判になりました。イギリス人の友人が、「エミレーツ・ゴルフ・クラブにジョージ・クルーニーがいた!!」と大騒ぎしていましたっけ。

 結論から言うと、非常に良い映画でした。ジョージ・クルーニーは、この作品でアカデミー賞助演男優賞をとっています。
まだ観ていない方のために詳しい内容には触れませんが、映画の最初の場面に出てくる、工事現場にかりだされる出稼ぎ労働者たちの群れ。あれは、まさにドバイの風景の一部でした。
そのほか、彼らがサッカーに興じる砂地、その向こうに遠くかすむ高層ビル群・・・砂漠をはしる高速道路・・・どの場面もなつかしく、「ああ、ここはドバイだ・・・あ、ここも・・!」と子供たちと夢中で画面を追いました。その中で、労働者たちの宿舎がほんの一部分写ったのですが、思わず息を呑みました。「こんなところに住んでいたんだ・・・」と。

 ドバイにいたころ、開発ラッシュもあって、街中は建設工事に従事する出稼ぎ労働者たちであふれかえっていました。インド、パキスタン、バングラディシュなどからやってくる者がほとんどです。夕方になると、仕事を終えた彼らをすし詰めにして運ぶバスを、毎日のように見ていました。夏の暑い日も、冷房がないため窓を全開にして走っているバスから、ジーッといっせいにこちらを見て来る視線になかなか慣れることができませんでした。笑いかけてくるでもなく、たぶん疲れているからなのでしょう、とにかくまったく表情のない視線でただじっと見つめてくるのです。

 

 あるとき、どうしても彼らを描いてみたい衝動に駆られました(実は、私は絵を描くのです)。「ファンタジーランド」「おとぎの国」と呼ばれるドバイでの「非現実的な生活」にわけもなくいらだちを感じる時があり、何か「現実」を感じさせるものをむしょうに求めていたのだと思います。
けれども、普段の生活で彼らとの接点はまったくありません。ほとんどの労働者たちは英語を話しませんし、第一、遠くから見かけはしても会う機会もないのです。
そこで、あるとき、建設現場で写真を撮ってみようと思いついたのです。写真をもとにすれば、あとからキャンバスに描くことができます。ただ、彼らの多くはイスラム教徒ですし、偶像崇拝を否定する人たちにいきなりカメラを向けることはできず、かといって女性と男性の同席が厳しく禁じられている世界で、いきなり話しかけることもためらわれました。そこで私がとった行動とは、「盗撮」でした。今思い出しても非常に恥ずかしいことですが、彼らの後ろにある美しいホテル群を写している振りをして、望遠レンズでこっそりスコップをふるう姿をカメラにおさめたのです。
けれども、そのうち、一人の労働者がそれに気づきました。そのとき、彼が私を見た顔を忘れることができません。「こんな生活をしているけれど、自分たちはモノじゃない。見世物じゃないんだぞ!」という強い抗議とも怒りともとれる表情でした。または、自分の人生に対する怒りだったのかもしれません。「なんて失礼なことをしてしまったんだろう」という気持ちと共に、「自分はなんて思い上がっていたんだろう」と、つくづく自分がいやになりました。今でも思い出すたびに自己嫌悪になります。

 ただ、その目線があまりにも強烈だったため、逆に「ぜひとも絵にかいてみたい」という気持ちがますます強くなりました。アーティスト仲間に打ち明けたところ、
「労働者の絵なんて、ここじゃ売れないわよ。ここで絵を描くのなら、美しいものを描きなさい。モスクや砂漠、鷹狩りやビーチ、美しいものはいっぱいあるでしょう。みんなが欲しがるのはそういう絵なのよ。」
といわれました。確かにそのとおりです。美しいもののあふれている世界で、誰が厳しい、暗い眼をした日雇い労働者の絵をほしがるでしょう。
でも、それもまた、確かにこの美しい世界の一部なのです。
みんなが美しいものばかり見て、そうでないものには気づかないふりをしている。確かにその世界に存在しているけれども、存在しないもの。または、あまりに慣れきってしまった空気のような存在。もしかすると、本当に目に映っていないのかもしれません。

「ナシリヤ」に登場する青年も、まさにその1人でした。

 

 建設現場で働く出稼ぎ労働者で、会社の都合で解雇され、新しい職も見つからない失意の青年が救いを求めたのは宗教でした。そして彼が最後にしたことは・・・・(結末は、これからご覧になる方のためにここではあえてふれません。そのため、今回の文章はわかりにくい内容になってしまったかもしれません。もしよろしかったら、是非映画を見てください)。見終わった後、重い余韻が残りました。
テロの土壌は、政治的イデオロギーや宗派、文化だけでなく、貧富の差にもひそんでいます。
貧しさや希望のない毎日、将来への不安でいっぱいの頭に、そっと、しかし巧みに宗教的大義名分が注入された時・・・人はいったいどうなるのでしょうか。
今、国際社会で起こっていることを論じる時、紛争地や武装組織だけに眼が行きがちですが、暴力やテロの根っこは、案外近いところにあるのかもしれません。
誰も目を向けないけれど。

 今年の3月、ドバイの建設現場で、待遇改善をもとめて外国人労働者たちが大規模デモを起こしました。夏は50℃近くになる気温の下、一日中屋外で働いても、彼らが手にするお金は一日にたった4ドル(約480円)。
映画「ナシリヤ」に出てくるようなタコ部屋に入れられて、マネージャーには虐待される。ついに怒りが爆発して、ストライキ。工事車両や建設機械に火をつけて、損害額は100万ドル(約1億2000万円)にのぼったそうです。
4月の終わりにも、私が住んでいた家のすぐ近くにある「ドバイ・マリーナ」の建設現場で、2,000人以上の労働者たちが4時間にわたってデモを行い、逮捕者が出ています。

 ドバイ政府自身も、こういった外国人労働者の扱いにはジレンマを抱えているようです。住民の80パーセントが外国人を占めるいびつな人口比率から、政府は流入する他宗教・文化から自国の伝統、イスラムの慣習を守ることに神経を使っています。しかし、一方で、石油がなくなった後を考えれば、外国人のビジネス誘致を制限するわけにもいきません。
同じように、出稼ぎ労働者の長期滞在を望まない一方で、安い賃金の彼らがいなくてはこの国の発展が成り立たないのは確かです。

 

 これだけ急ピッチで進む開発を陰で支えているのは労働者たちです。けれども、その労働者の人権は、政府の外国人誘致政策に組み込まれているようにはみえません。
しかし、これだけ近代化した都市が、その発展に見合った人権の尊重をおろそかにしていれば、どこかでかならずひずみが出てくるのではないでしょうか。少なくとも、国際社会で真の先進国の一員にはなれないでしょう。
今のところ、ドバイにテロは起きていません。これは、中東にあって、しかもこれだけ欧米人が集中する都市であることを考えると奇跡的なことです。
それだけ故シェイク・ザイードと現首長の政治力が優れているということなのでしょう。
けれども、新しいビルや施設、ハイテク、近代化など目先の新しいことにとらわれてばかりいずに、もっと身近なところ、足元に注意を向けてみることが、長い目で見れば、この奇跡をより長続きさせるのに一番必要なことかもしれません。

 さて、さっき述べた絵のことですが、ずっと「描きたい!」という気持ちを強く持ちながら、まだ描けていません。友人に「美しいものしか描くな」と忠告されたからではなく、その労働者の「眼」の訴えるものが私をためらわせています。このコラムで偉そうなことをいいながら、自分は、それを描くに値する人間なんだろうか。その権利があるんだろうか。描くことでいったい自分は何ができるんだろうか。
今のままでは、単に自己満足なのではないか、と。
いつか、胸をはって、その絵を完成させる日がくるのでしょうか。まだ、自分にはわかりません。

 

2006年6月号

 

【 ワールド・カップ

 日本中がワールド・カップに沸いている今日この頃、選手たちの活躍を見ていると、ドバイで経験した前回のワールド・カップを懐かしく思い出します。
といっても、当時の私は、サッカーにそれほど関心があったわけではなく、あまり詳しい報告はできないのですが、思い出すままに少し書いてみます。

 ところで、ドバイでは、サッカーは、サッカーといわずにフットボールといいます。日本ではフットボールというとすぐアメリカン・フットボールを連想してしまいますが、辞書で"soccer"をひくと、「アメリカン・フットボールやラグビーとの混同を避けるために使用される」と書いてあるので、外国では、フットボールという呼び方が一般的なのでしょうか。
 
 ドバイでは、ワールド・カップのゲームは普通のチャンネルでは中継されず、特別なケーブル・テレビと契約していなくてはなりませんでした。つまり、我が家のテレビでは写らない!
 そこで、友人から、コンパウンド(集合住宅)のクラブハウスで放送しているとの情報を得て、さっそく行って見ました。すると、いるいる、たくさんのサポーターたちがビール片手に盛り上がっています。ドバイにはさまざまな国から人が集まっているので、いつもは閑散としているクラブハウスは、それぞれの出身国を応援する人たちで超満員。私たちが住んでいたコンパウンドには、特にイギリスやデンマーク、スウェーデンといったヨーロッパや北欧からの駐在員が多かったのですが、あるデンマーク人は、一家総出で顔にデンマーク国旗をペイントして、大きなバイキングの帽子をかぶり、国旗を激しく振りながらゴールが決まると大歓声。自分の国が出場していなくても、サッカー好きの血が騒ぐ人たちが、それぞれひいきのチームが得点したり失敗するたびに大騒ぎです。
 その様子は、ちょうど今、日本で中継されているドイツの会場のミニチュア版さながらです。
 いつもは簡素なクラブハウスも、この期間はさまざまな国旗を天井から吊るして、おそらく住民が持ち込んだのでしょう、"Go Brazil!"などといった垂れ幕や大きな国旗が張ってありました。

 

 海外に暮らして感じたのですが、異国にいると妙に愛国心が強くなるようです。普段はサッカーに興味の無い私も、日本の試合のときは勇んでクラブハウスへ応援に出かけました。
 しかし・・・このコンパウンドに住んでいる日本人は私たちひと家族のみ。夫はあいにく出張中で、しかたなく娘とたまたま遊びに来ていた娘のノルウェー人の友人を引き連れた私たち日本のサポーターは、特に目を引く応援グッズもなく、なんとも寂しい風情でした。
 そこで、娘のノルウェー人の友達が一念発起。「私が代わりに日本を応援してあげる!」といって、"Go!Go!Japan!"とにぎやかに大声を張り上げ始めたのです。娘もそれに同調。すると、クラブハウスのウェイターたちが、「僕たちはフィリピン人だけど、ご近所だから日本を応援してるんだ!」といいにきてくれて、制服の胸に張った小さな日本の国旗のシールを誇らしげに見せてくれました。
 それに勇気づけられて、私と子供、ノルウェー人の友達は声をあわせて大声援!試合は残念ながら負けてしまいましたが、あのクラブハウスの熱気はなかなかすごいものがありました。

 そういえば、娘たちの通うインターナショナル・スクールでも、校長先生がフットボール・ファンで、その日の試合結果が学校の掲示板に張り出されていたりして、サッカーがあまりポピュラーではない中東でも、みなそれなりに気にしているようでした。

 

 余談ですが、日本のユースのチームがドバイのチームと親善試合をしに来た時は、競技場まで家族で応援にいきました。日本人会のみなさんが、ダイソー(当時ドバイでオープンしたばかりの日本の百円ショップ。以前このコラムでも紹介済み)で購入した日の丸のついた扇子や小さな国旗を手に、「ニッポン!チャチャチャ!」とやっていましたっけ。
ただ、猛暑の時期だったので、試合は夜行われたのですが、それでも気温はかなり高く、湿度はほぼ100パーセントだったのではないでしょうか。まるでサウナの中にいるようで、気分の悪くなる人もいました。そんな中でプレーしている選手たちは本当に大変だろうなあ、と思ったものです。

 サッカー好きの日本人駐在員たちは、オマーンで日本の試合があったときは、バスを一台チャーターして団体で応援にかけつけていて、友人の1人は、なんと飛行機で日帰りで応援に行ったといっていました。外国にいても、国内と同じく日本のサポーターたちは熱い!

 今回のワールドカップは、日本はクロアチア戦は惜しくも引き分け。ブラジル戦で奇跡が起こってくれるといいですねえ・・・ドバイの日本人もきっと応援してるぞ!
がんばれ、ニッポン!!

 

2006年5月号

 

【 シャルジャ首長国

 アラブ首長国連邦は、小さな国土に七つの首長国が入っている国です。今回は、ドバイのお隣のシャルジャ首長国のお話。

 ドバイから車で30分くらい走れば、そこはもうシャルジャ。首長国といっても、狭い国土の中のことですから、「隣町」という感覚です。
ただ、隣町といっても大きく違うところが二つあります。それは、物価と宗教色。

 シャルジャは、大都会のドバイと違って、ベッドタウン的な要素の濃いところです。ドバイのような大きな娯楽施設やショッピングモールが少ないかわりに、家賃も物価も安いので、わざわざシャルジャに住んでドバイまで通勤する人も多くいます。というか、ほとんどの住民がドバイまで通勤しているといっても過言ではないでしょう。ですから、シャルジャ−ドバイ間の交通渋滞は、もはや名物といってよいくらいで、シャルジャに住んでいる私の知り合いも、30分で行ける道が、通勤時間は2時間かかる、とよくぼやいていました。
家賃に限らず、同じスーパーマーケットのチェーン店でも、ドバイよりシャルジャのほうが品物の値段が安いし、ドバイでは30ディラハムの映画料金が、シャルジャでは25ディラハムです。5人家族の我が家は、家計がピンチになると節約のため、わざわざシャルジャまで映画を見に行ったりしていました。レストランなども全体に少し安めです。
渋滞さえ我慢すれば、シャルジャは主婦の強い味方です。

 


 ただ、物価が安いから住みやすいかというと、外国人にとってはそうも言えません。「隣町」感覚とはいえ、違う首長国であれば、指導者も違い、政策も違います。自由なドバイと違って、宗教色が濃いのです。
 ランニングで短パンの女性が闊歩しているドバイからシャルジャに入ると、女性達の服装が違うことに気づきます。アバヤ(民族衣装)をつけている女性も多くなり、私服の女性の服も地味なります。シャルジャでは女性の肌の露出は制限されているのです。たとえば、シャルジャでは、ノースリーブの服で出かけることはできません。ビーチでも、ビキニの白人女性が日光浴しているドバイと違い、露出度の高い水着を着ることは控えるように、とのレターが領事館から来たこともありました。
 シャルジャには結構アラブ系の男性と結婚した女性たちも多く住んでおり、そのご主人の多くが、仕事の関係で日本に単身赴任をしています。奥様たちは子供とシャルジャに残っているので、「なぜ一緒に日本で暮らさないのだろう?」と最初は疑問だったのですが、あえて母子でシャルジャに残っているのは、お子様たちにきちんとしたイスラムの教育を受けさせるためだそうです。このように、シャルジャでは、イスラムの伝統をきちんと守っていこうとする姿勢が、より強く感じられます。

 

 これ以外にも、シャルジャのほうが大都会化されていない分、広々としていて緑も濃く、動物園や科学館などといった施設も整っているため、家族連れに親しまれています。あまりに暑いので、入園者が冷房の効いた館内からガラス張りの檻に入った動物たちを見ることが出来る、通称「ガラスの動物園」は、子供のお気に入りでよく行きました。

 ただ、最近は、バブル真っ最中のドバイの煽りをうけて、シャルジャの人口も急増中。あちらこちらに高層アパートが建ち始めました。また、それにつれて物価も上がりつつあるようです。インターナショナル化したドバイも魅力的ですが、イスラムの伝統を守りつつ落ち着いたたたずまいを見せるシャルジャの魅力もまた、いつまでも保たれてほしいものです。

 

2006年4月号

 

【 交通事故にあった時

 以前にもたびたび触れていますが、ドバイの高速道路は世界一死亡率が高いといわれている危険な道路です。 
原因は、まず、スピードが速いこと。一応、時速120キロと表示がありますが、4車線あるうちの一番左側は、「そんなことは知ったこっちゃない」といわんばかりのスピード狂レーサーであふれかえっています。
 次に、運転が荒い。ウィンカーはまずつけません。急に車線を変えた車が目の前に飛び出してくるのは日常茶飯事。割り込みも多いので、「絶対に入れてやるものか」と意地になった車が、カラダを張って割り込みを阻止した結果、自分も事故に巻き込まれた・・・と思われる事故は数多し。
 また、走っている車が古いのも原因のひとつです。ピカピカのベンツが多い一方、「車検って言葉、知ってる?」と聞きたくなるようなオンボロ車もかなり走っています。そういった車は、擦り減っていて、もう溝がなくなっているようなタイヤを使っているので、スリップしやすいし、何よりも、夏場は暑いので、タイヤの中の空気が膨張して、突然破裂したりするのです。ですから、特に夏場は、そういったタイヤの破片があちこちに落ちているので、油断できません。

 

 

  さて、こんな状況ですので、交通事故に巻き込まれたらどうするか、を知っておくのは、ドバイの道路をサバイバルするための必要事項です。
 かくいう私も、ドバイ到着後まもなく、こわれて運転席から引きちぎられたトラックの荷台がいきなり目の前に飛び出してきて、ドバイの交通事故デビューを派手に飾ってくれました。
 まず、携帯で「666」を押して警察を呼び(「110」ではありません)、ひたすら待ちます。これが、なかなか来ないのです。炎天下、1時間待つこともざら(ですから、車内には常に水を常備しておきます)。その間に、相手の運転手と、車の登録証や保険の番号を交換します。忘れてはいけないのが、運転免許証ナンバーと電話番号を控えておくこと。逃げられては元もこもありません。
 警官が到着したら、ここから戦い(?)が始まります。まず、どちらが被害者かを、できるだけ大声ではっきり、何度も伝えなくてはなりません。ここで相手が豹変して、いきなりこちらに非があるように言い立てられることもありうるからです。
 そして、警官がどちらが被害者かを決定して、書類をくれます。
ここで大事なポイントは、自分が被害者の場合、絶対にピンクの紙をもらってはいけない、ということです。意外に知られていないのですが、被害者はグリーンの書類、加害者はピンクの書類をもらわなければいけないのです。事実、何も知らずにうっかりピンクの書類をもらってしまった友人の夫は、後からどんなに申し立てても、加害者の立場が覆ることはありませんでした。

 

 実は、警官にもいろいろいて、相手によって、わざとピンクの紙を渡したりする不届きな輩がいるのです。私の場合も、最初の事故のとき、警官がにやにやしながらピンクの紙を渡そうとするので、「私は被害者だから、グリーンでしょ!!」と猛抗議したら、「いやー、冗談冗談」などといって、あわててグリーンの紙を持ってきましたが、何もいわなければ、加害者にされていたでしょう。
 理由はよくわかりませんが、事故の相手がアラブ人や、アラブ語を話せる人種である場合、警官と相手がアラブ語でなにやら交渉して、いつのまにかこちらが加害者になってしまったりすることもあるのです。また、女性だから甘く見られる、ということもあるようです。
 とにかく、事故の後は、遠くはなれたダウンタウンにある保険会社まで車を持っていき、ダメージを査定してもらい、次にまたまた遠く離れた修理工場まで車を持っていき、レンタカーの手配をし・・・そのたびに夫や友達についてきてもらわなければならない(帰りの足がなくなる)し、事故の後は一連の手続きでどっと疲れます。
 しかも、修理屋ものんびりしたもので、「あさってできる」といって、あさっていくと、「明日にはできる」。で、明日いくと「あと一週間くらいかかる」・・・といった具合でらちがあきません。ここでまた喧嘩になって、無駄なエネルギーを使うはめに・・・。しかも、その間、いっさい車は使えないわけですから、大変です。日本と違って、電車があるわけでもなく、車がなくてはどこへも行けないドバイでは、車が使えない、ということは致命的なのです。子供の学校の送り迎えもできません。
 また、相手が保険に入っていない場合も多く、泣き寝入りになることもしばしば。
 ひとつひとつの手続きが、日本のようにスムーズに運ばないので、そのたびに主張して、時には喧嘩になるので、それだけでとてもエネルギーを消耗することになります。

 

 かくいう私も、4年間の間に、5回ほど事故りましたが、いずれも軽いもので、怪我がなかっただけラッキーといえるでしょう。イギリス人の友人の夫は、猛スピードで車をぶつけられて、なんと空中で一回転したそうで、それ以来、怖くてしばらく運転できなくなってしまったそうです。道路わきで、デーンとひっくり返っていたり、黒い煙をモウモウとだして燃えている車を、あちこちで見かけますから、これはもう、命があっただけめっけもの、という感じです。

 日本は、道路も狭くて混み合っているのに、事故を見かけることはあまりありません。それだけ、運転マナーもよく、車もしっかり手入れされているのでしょう。
 でも、時々、ドバイの道路で繰り返されていた、あの大胆な事故っぷりを懐かしく思うのはなぜでしょうか。

 

 

2006年3月号

 

【ドバイの休日の過ごし方

 イスラム国家のドバイでは、一週間のうち金曜日が休みの日で、日本の(というか世界のほとんどの国の)日曜日にあたります。そして、日本の土曜日にあたるのが木曜日。つまり、ドバイの週末は、木曜日と金曜日になります。学校のお休みも、木曜日と金曜日で、土・日は普通の授業が行われます。
 ただ、ややこしいことに、ほとんどの外国企業は、本国にあわせて土曜日にオフィスがクローズします。つまり、お父さんたちのお休みは、金・土になります。
なので、ドバイのほとんどの外国人家庭では、父親と子供が一緒に過ごせる休日は金曜日のみ。木曜日は子供だけがお休みで、金曜日はお父さんも子供も休み、土曜日はお父さんたちだけがお休み、という変わったスケジュールなのです。
 ですから、たいていの外国人家庭では、木曜日は子供のおけいこやバースデー・パーティーにあてられ、金曜日は家族でお出かけする日。土曜日は子供は学校に行くので、夫婦でゆっくりして、学校のお迎えはお父さんたちが行く・・・というパターンでした。
 (ちなみに、我が家は、学校が終わる水曜日の夜から、木曜日にかけては、ほとんど毎週のように子供たちはお泊りでした)。
金曜日のポピュラーなレジャーは、夏以外の季節はビーチです。ドバイの海は本当にきれいで、あちらこちらのビーチへ行っては、泳いだり、パラソルの下でのんびり本を読んだり、お弁当を広げたりする家族の姿があちらこちらで見られます。
 けれども、50℃近くまで気温の上がる夏の間は、暑くて外に出られません(一度、それでもビーチ行きを強行したことがありますが、海水は「お湯」でした)。
そこで、夏は、ショッピング・モールへ行って買い物をして涼むか、あとはもっぱら映画館通いです。ドバイの映画料金は30ディラハム(約900円)。日本に比べれば安いのですが、5ドル(約500円)だったアメリカ時代を思うと、外国にしては高い。しかも!子供料金がないのです。ですから、子供は、日本とほぼ同じ料金ですね。ただ、他に楽しみがあまりないので、映画はドバイ市民に大人気。新作がアメリカとほぼ同時にやってくるし、映画館は指定席で並ぶ必要もないので、よく行っていました。
 それと、市内には2ヶ所スケートリンクがあり、そこで涼むこともできます。

 

 困ったのは、ドバイには、宗教上、さまざまな祝日があるのですが、イスラム暦を採用しているので、「毎年5月5日は子供の日で祝日」というように、カレンダーの暦で祝日が決まっているのではなく、月の満ち欠けでその年の祝日が正式に決定されることです。イスラム教の偉い人たちで構成される「月見委員会(?)」のようなものがあって、その人たちが月の満ち欠けを観察して、「今年の○○の祝日は、今週の水曜日です」とか、発表するわけです。それがわかるのは祝日の数日前。
 つまり、祝日の予定は、直前になるまでわからない。学校の月間スケジュールにも、「○月○日は祝日、の予定。変更の可能性あり」と書かれています。
 これで一番困るのが、旅行の予定を立てられないこと。せっかくホテルや飛行機を予約していても、直前に休みの日程がずれるとキャンセルしなくてはならないからです。
 必然的に、夏休みやラマダン明けのイードのお祭りなど、前もって予想がつく長期の休み以外は、もっぱら近所で休日を過ごすはめになります。
 そこで、退屈すると、少し足を伸ばして、お隣のシャルジャ首長国や、郊外のハッタ(昔のアラブの町並みが残っている)、アブダビ首長国まで行ったりしましたが、一番思い出に残っているのが、日帰りで行ったフジャイラ首長国でした。そこには、スヌーピーに似た形の「スヌーピー・アイランド」という島があり、シュノーケリングができるのです。外から見ると、海はそれほど透明ではないのですが、もぐってみると、色とりどりの魚が見えます。友人のマルタは、海がめが見えたそうです。
 朝早くにドバイを発って、3,4時間走ると、もうフジャイラに着きます。シュノーケリングの道具はすべて現地でレンタルできるので、手ぶらでいってOK。これはなかなか良いレジャーになりました。

 

   結局、小さな町なので、休暇の過ごし方はマンネリ化していましたが、それでも塾やおけいこに忙しい今の日本の生活から振り返ると、あののんびりした雰囲気も悪くなかったなあ、と思います。むしろ、家族でゆっくり過ごすことのできた貴重な時間のように思えます。帰国当初は、土・日がお休み、という感覚になかなか慣れなくて、木曜日や金曜日に学校があるのが不思議な感じでした。今は、暇だったけど、家族でのんびり過ごせた金曜日をなつかしく思い出しています。

 砂漠の国ドバイは、「一年中暑い国」というイメージがあります。確かに、夏の間は50℃近い猛暑になりますが、冬の間は日本の春のような陽気で、比較的過ごしやすくなります。
そんな国で、休みの日は一年を通じて


 映画(暑いから)子供料金と大人料金同じ。毎週映画。新しいものすぐくる。
 スケートリンク。市内にふたつ。ロシア人の先生。日本人の住居の一階。よく練習している。
ビーチ。
 レストラン。ホテルのレストラン。一流。

 

2006年2月号

 

【ドバイのケータイ事情

 貧富の差の大きいドバイで、お金持ちから貧乏人にいたるまで誰もが必ず持っているものは、なんでしょう?・・・・・答えは携帯電話。
 アラブ人や外国人駐在員はもちろん、子供やメイド、近隣からの出稼ぎ労働者にいたるまで、ドバイのケータイの普及率はものすごく高いです。
 ドバイでは"mobile"(モバイル)と呼ばれているこの携帯電話、需要が大きいだけあって、毎月のように新しい機種が発売されます。中にはコンピューター機能のついた、UFOのような、携帯とは思えない形をしたもの(5万円くらいする)もありました。メーカーは、NOKIAのものが圧倒的に人気でしたが、ソニー・エリクソンや、韓国のサムソンも、帰国間際には結構ポピュラーになっていました。形は、今、日本で主流の、二つ折りタイプではなく、そのまま使える機種がほとんど。また、番号を押すプッシュキーの部分が、機種によっていろいろな形になっていたり、カラフルだったりと、日本よりバラエティに富んだデザインのものが多かったような気がします。ティーンエイジャーは、本体に透明なプラスチックカバーを付けて、その中に好きな雑誌の切抜きや写真を入れて、マイ・モバイルにしていたりしました。
 ドバイの携帯電話は、ほとんどがプリペイド式なので、本体の値段が結構高いです。カメラ付きですと、一番安くて3万円ちょっとくらい。それを小学生がほとんど全員持っています。車社会なので、学校やお稽古事のあと、送り迎えの母親やドライバーと連絡をとるため、必需品なのですが、お金持ちの親の中にはファッション感覚で持たせている人もいて、毎月のように、新しい機種が出るたびに子供に買い与えるケースもあります。娘の友達には、「またママが新しいモバイル買ってくれたんだよ。僕、もう5個も持ってるのに・・・。」と言っている子がいました(うらやましいゾ)。
 ちなみに、我が家は、子供に携帯電話を持たせることに否定的でしたが、アメリカで9.11のテロがおき、ドバイのアメリカ企業が、従業員の子女全員に携帯を持たせることを義務付けるようになったのを聞いて、にわかに心配になって、安全上の理由から、持たせるようになりました。

 

 

 ところで、この携帯のマナーひとつにも、お国柄がよく出ます。まず、着信音が大きい。それを、アラブの人たちは、ところかまわず平気で鳴らします。「マナーモード」という言葉を知っているのか・・?といつも不思議なのですが、映画館でも、コンサートでも、必ず誰かのモバイルが鳴る。特に映画館では、上映前に、あんなに「モバイルのスイッチは切ってください!」という警告がながれているのに、まったく守られる気配はありません。しかも、信じられないことに、上映中に電話がかかってきても、堂々とシートに座ったまま大声で会話をはじめる。それがまた長い!!
周りの外国人の非難の目つきもなんのその、たっぷりと話し終えて、「やれやれ」と思ったらまた鳴り始める・・・・これが何回か繰り返されます。
 この映画館での携帯マナーに関しては、ドバイ在住の外国人の間でしょっちゅう話題に上ります。何度これ見よがしににらんでも、時には注意しても、こればかりは直りません。しかし、あまりにも堂々と、しかも楽しそうに大声で話すので、かえって注意するほうが野暮なのではないか、という錯覚に陥り、しまいにはおかしくなってきさえます。これもこの国のおおらかさの表れなのでしょう。(あと、余談ですが、いつもすごく不思議なのですが、アラブの人は、映画が始まって30分くらいしてから入ってきます。しかも、スクリーンの前を、身をかがめるでもなく堂々と、一族郎党ひきつれて。そして、1時間くらい見ると、途中でまた帰ってしまうのです。別におもしろくないから、というわけでもないようです。なぜだ?)

 

 着信音も、アラブ特有の勇ましい感じの曲や、民族音楽っぽいもの、かと思うとピアノコンチェルトのメロディなど、ほんとにさまざまで、これにもその人の個性やお国柄が出ていておもしろかったです。
 プリペイドカードは結構すぐなくなるので、メイドさんたちなどは、節約して、携帯は通話のためではなく、仲間同士の合図のために使っていました。うちに週一回掃除にきてくれていたメイドは、同じコンパウンドのよその家で娘が働いているのですが、一緒にお昼を食べるので、仕事が終わるとmissed call(日本で言うワンキリですね)をして、知らせます。また、私に用事があってかけるときも、通話料節約のため、ワンキリにして、私に折り返しかけてもらうようにしていて、しっかりしてるなあ、と感心するやら。
 一方、ドバイの大金持ちのアラブ人家庭では、家が広すぎるので、家の中で家族と話すときも、お互いモバイルで話す、という話を聞いたことがあります。これは、十分ありえることで、あながち嘘ではないような・・・。狭い日本のわが家では、想像できないです。

 

 さて、これだけ普及してくると、海外でも、「今どうしてる?」と、「暇だから」とか、「単に世間話がしたいから」という理由で携帯にかけてくる人がとても多いです。日本と同じですね。ドバイでも、やはりアジア系の民族は、どうも友達と常にかかわっていないと不安な傾向があるのか、携帯の頻度が高いように思いました。
 インドネシア人の友達は、「インドネシア人の女の人たちは、しょっちゅうお互いの携帯に電話をかけて、相手がどこで誰と何をしてるか確認したがるの。それで、一人でショッピングしてる、なんて言おうものなら、あっという間に、『あの人には友達がいない』という噂がひろまるから、本当に面倒くさい」とこぼしていました。なんだか、日本の若い子たちと似てるなあ、とおもしろかったです。
 寝てもさめても携帯。とにかく、どこにいても追いかけてくるモバイルの音に少々辟易していた私。帰国してやっと静かな生活ができると思っていたのですが・・・・日本に帰ってきたら、ここも同じ。いや、もっとすごいかも。
電車で、前の座席に座った人たちが、全員、一列に並んでひたすらメールし続けるのを眺めながら、「ああ、日本よ、お前もか!」という心境です。

   

  

2006年1月号

 

【バースデー・パーティーの思い出

 厳しい寒さの続く今日この頃ですが、早くも春服の広告がちらほらと出始めています。 ドバイの春といえば、真っ先に思い出すのが、バースデー・パーティー。わが家の3人娘たちは、そろいもそろって、春生まれ。3月、4月、5月と、3ヶ月間連続でバースデー・パーティーを開かなければならず、毎年このシーズンは、その企画で頭を痛めていたものです。
 ドバイのお母さんたちにとって、子供のバースデーは一大イベントです。アメリカのときもそうでしたが、大勢の友達を呼んで、盛大にお祝いします。  まず、一番肝心なのが、パーティーの場所。幼稚園から小学校くらいまでは、たいていクラスの子全員を招待するので、自分の家の庭や、コンパウンド(集合住宅)のプール、ピザ屋さん、ゲームセンターつきの屋内遊戯場、ボウリング、セラミック・カフェ・・・など、大人数を収容できて、小さな子を飽きさせない工夫がなされている会場が多いです。お金持ちの人は、ホテルやヨット・クラブを借り切っちゃったりします。そして、中学校から上になると、親しい友達だけをよんでのディスコ・パーティーや映画、スリープ・オーバー(お泊りパーティーなど)などの上級コース(?)に移行していきます。
 こう見ると、いろいろバラエティがあるように思えますが、ドバイは、大都会といっても面積自体は小さいですし、気候の関係もあって(なにしろ、一年中暑くて湿気がある)、季節によって場所もかなり限られてしまいます。たとえば、プール・パーティーはポピュラーですが、冬場はやはり寒いですし、かといって、一年のほとんどは暑くて、特に夏場はとてもじゃないけれど外にはいられません。必然的に、屋内のパーティーが多くなります。
 また、低学年のうちは、ほとんど毎週のように誰かのパーティーがあるので、同じ場所が続かないように親も気を使わなければなりません。セラミック・カフェ(素焼きのカップやタイルに自分で好きなように色を塗って、焼きあがったものをお土産にもってかえることができる)がブームのときは、同じクラスで、偶然3週連続でそこでのパーティーが続いてしまい、さすがに3番目の子の時には飽きられてしまって、行かない子が続出したり・・・ということもありました。
 また、招待客の人数も頭痛の種です。ブリティッシュ・スクールなどは、律儀なイギリス人のお母さんが多いので、確実に出欠の返事がきますが、インターナショナル・スクールやアメリカンスクールは、返事をしない親が多いので(いろいろな国から集まっているので、国によって、かなりおおらかだったりします)、当日まで何人来るかわからない。しかも、来ないと言っておきながら、当日突然現れたり、その上、兄弟も連れてきちゃったり、など、さまざまなハプニングがつきものです。ですから、グディー・バッグは常に多めに用意しておかなければなりません。(グディー・バッグとは、パーティーの帰りに渡すお土産の袋のこと)。

 

   日本のように前もって親が根回ししたりしないので、せっかくの招待状を子供がなくしてしまうということも日常茶飯事で、うちも、パーティー前日に子供のリュックからクシャクシャになった招待状を発見して、あわてて返事をしてプレゼントを買いに走る・・・ということが何回かありました。
 また、低学年でも、限られた子しか呼ばない場合があるので、そういうときは、招待状をおおっぴらに配ることはできず、親が先生に頼んで、こっそり呼ばれた子のファイルだけにカードを入れておいてもらったり・・・とインビテーション・カードの渡し方にも気を遣います。
 パーティーの回数は本当に多く、すごいときは、一人で一日に3つバースデー・パーティーの予定が入っていたりして、週末はいつも大忙しでした。これが、3人分ですから、推して知るべし、です。三女をパーティー会場に送り届けて、その足で次女を別のパーティー会場へ迎えにいき、その次は長女のお迎え・・・と、一日中車で行ったりきたり。まさにバースデー・パーティー狂想曲。(ドバイのお母さんたちの頭痛の種ナンバー・ワンは、なんといってもこの頻繁な車での送り迎え。ダウンタウンから郊外の住宅地まで、子供たちの住む地域もばらばらなので、遠い子の家に招待されたりすると、行くだけで1時間以上かかることもあります。「私たちは、まるで子供の専属ドライバー。送り迎えだけで一日終わっちゃうわよね」とよく愚痴をこぼしあったものです。)
 また、日本のようにあちらこちらにお店があるわけではないので、招待されるたびに高速道路を通ってプレゼントを買いに行くのはかなり大変。おおらかなお母さんは、突然二日前とか(すごいときは前日、というのもあった)にインビテーション・カードを配ったりするので、それに慣れてからは、急な招待に備えて、男の子用と女の子用のプレゼントをいくつか、常時家に買い置きしておくようになりました。もちろん、ラッピング・ペーパーやバースデー・カードもたくさん買いこんでおきます。

 

 自分の子のパーティーの時は、前日に、30〜40個のグディー・バッグを詰めて、パーティー当日は、予約していた大きなバースデー・ケーキや風船を取りに行って、大勢の子供たちに目を配りながら、お母さんたちの相手もして・・・終わったら大量のプレゼントを巨大なごみ袋につめて、くたくたになって帰る・・・・と、これまた母は大忙し。家に帰ってからも、どのプレゼントを誰からもらったかチェックして、サンキュー・カードを書かせたり・・・とまだやることは続きます。
 日本人の私は、「だいたい、たかが子供のパーティーに、こんな派手なことをしてお金を使って、こういうのはいかがなものだろう・・・?」と、毎回葛藤を感じつつ、でも、「呼ばれたら呼び返さなければならない。規模も、同じくらいにしないと失礼である」という暗黙の掟(?)にも逆らえず、毎年春はパーティー準備に駆け回る4年間でした。日本と違って、大規模なことをやっても比較的予算が少なくてすむからこそ、なんとかこなせたのかも。
 我が家は、3人×4年なので、12回バースデー・パーティーをしたことになります。ものぐさなこの私が、12回もよくやったものだと、われながらちょっと感動。
 次女の場合は、仲良しのフランス人のお友達と誕生日が近かったので、毎年二人で一緒にジョイント・パーティーをしました。相手の子のお母さんと二人で手分けしてやったので、かなり楽だったかも。場所は、スケート場やプール、自分の家などで、ケーキは、相手のお母さんが焼いてくれたものに、二人の写真をつけて出来上がり。(なにしろ、ケーキ、ドバイに限らず外国のケーキはみんなそうですが、脳天が突き抜けるくらい甘くてまずい。せっかく注文しても、他の食べ物でおなかいっぱいになったり、遊ぶのに夢中な子が多かったりで、ほとんど残ってしまうから、パーティーのたびに大きなケーキを買うのはもったいないのです)。パーティーの日の夜は、たいてい仲良しの子だけ残って、お泊りでした。
 三女は、小さかったときは、屋内遊戯場。次の年は、コンパウンドのプール。このときは、ひどい砂嵐で、プールの中は砂で真っ黒。せっかく頼んだウォーター・キャッスル(プールに浮かせて遊ぶ大きな遊具)も強風でひっくり返ってしまい、急遽場所を集会所に移動する、というハプニングがありました。室内でのゲームの用意は特にしていなかったので、上の子にも手伝ってもらって、30人(!)の子供たちを飽きさせないように、3時間汗だくで一緒に遊ぶはめになる・・・と、忘れられないバースデーになりました。

 

 

  最後の年は、仲のいい子たち数人と遊園地へ。広い園内で子供たちを見失わないように、おそろいのTシャツを着せて(スークで安いものをまとめ買い)、それをお土産にして着て帰ってもらいました。このときばかりは、私一人では大変なので、友達に協力してもらって、夕方まで二人で子供たちを引率してまわりましたっけ。思い返せば、三女のバースデーが、年齢が小さいだけあって一番手間がかかったかも。
 長女は、最初の年は、やはり仲のいい誕生日の近い子と一緒に、その子の家でパーティーをしました。カーテンを閉めきって暗くして、スーク(市場)で買ってきた小さなミラーボールをつけて、即席のディスコ・パーティー会場の出来上がり。中学にあがってからは、仲良しグループで一緒にショッピングモールへ行って映画を見たり、お泊りパーティーをしたり・・・と、本人たちで勝手に企画するようになったので、もう親は関係なし。かなり楽になりました。その分、プレゼントも、みんなむき出しの現金で本人に「はい。おめでとー!」と、手渡し・・・と、味も素っ気もないものになっていきますが。まあ、大きくなるとそういうものなのでしょう。それはそれで楽しそうでした。
 こうして見ると、子供のバースデー・パーティーの歴史は、そのまま子供の成長の記録に重なります。
 大きくなるにしたがって、パーティーに手をかけてやることもなくなってきて、子供の成長をあらためて感じたりします。
 帰国して、今度は日本で、もうすぐまたバースデーの季節がめぐってきますが、子供たちそれぞれにとって、今年はいったいどんな誕生日になるのでしょう。派手なパーティーなどしなくても、家族や一緒に居て楽しい友達と、心温まる日が過ごせればいいなあ・・・そう願っています。そして、私は・・・・4年ぶりに、パーティー狂想曲から開放されて、 「気分はもう最高!!!」 の春になりそうです。

  


 



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神奈川県横浜の翻訳会社 D&Hセンター ドバイのホットニュース 2006年