神奈川県横浜の翻訳会社 D&Hセンター ドバイのホットニュース 2004年
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ドバイのHotNews(2004年1月〜10月)

2004年10月号
(特別編)

 

【 シェイク・ザイード大統領死去 】

 11月2日、とうとうアラブ首長国連邦のシェイク・ザイード大統領死去のニュースがアナウンスされました。
 シェイクについては後述しますが、まずは、このニュースによって引き起こされた町の騒ぎの様子から。(前回のドバイニュースでふれましたように、シェイクが亡くなると、国中が喪に服して、お店をはじめ、すべての公共機関がしばらくお休みになる、というウワサがドバイ中をかけめぐっていました。)

 私が第一報を知ったのは、2日の午後9時半頃。友人から電話で、「今、ラジオでシェイク死去のニュース流れたよ。これからスーパーに買出しに走る」。
あわてて私も、隣のスーパーマーケットに走りました。
 そこは、小さなスーパーマーケットで、たまに外国人駐在員が、他で買い忘れたものを買いに行くか、メイドが買い物するくらいの場所なのですが、私が行った時、駐車場はいっぱい。いやーな予感がして、とりあえず、表のATMマシーンで現金をおろそうと思ったら、もう人がたくさん並んでいます。「ええい、これは後回しにしよう。」と、とりあえず中に入ると、すでにパンの棚はからっぽ。
 面倒くさがりの私は、ここしばらくのシェイクのウワサを知っていながら、買い置きをしていませんでした(地震が起きたら、まっさきに路頭に迷うタイプですね)。しかも、間の悪いことに、今週は忙しくて買い物ができなかった!ので、水やロングライフミルク(賞味期間の長い牛乳)や野菜、保存のきくパスタやシリアル、トイレットペーパーなど、とりあえず、棚に残っているものを手当たり次第かごに放り込み、結果、あの店でかつてこんなに買ったことはない、というくらい大量に買い物してしまいました。
(お肉売り場では、私の前の女の人が、あるもの全部持っていきそうな勢いで注文してたので、あせりました。他のお客もみんなそうだったので、昨日、あのスーパーマーケットは、開店以来一番の売上を記録したはず。)
ちなみに、何日くらいお店が閉まるのか、店員に聞いたら、誰もわからない、とのこと。2日間くらいじゃないか、という人もいれば、一週間くらい、という人もいて、まちまちです。

 

 

 大荷物を抱えて店を出て、さっきのATMでお金をおろそうとしたら、もう機械に現金が残っていませんでした。ああ、遅かった。みんな、考えることおなじなのね。でも、お店が閉まってしまうなら、現金を使うこともないでしょう、と気をとりなおします。
 それから、もうすぐ主人が出張から帰ってくることを思い出し、万が一空港からタクシーが使えないときのために、ガソリンを入れに・・・。案の定ガソリンスタンドも大混雑。
 その間も、「喪に服すので、しばらく学校はお休み。いつ再開するかはまだわからない。」との連絡が携帯電話に入り、他の友だちからも「ニュース、聞いた?」などと電話があったりして、しばし混乱。
 巷の予想では、学校はラマダン明けの連休であるイード・ホリデーとつながって、なんと17連休になるらしい。ただでさえ、ラマダン・タイミングで、遅く登校して早く帰る、というパターンが続いているのに・・・。今から頭が痛いです。


 家に帰り着いたのは夜中近く。テレビをつけると、ほとんどのチャンネルがアラビア語の静止画像で、コーラン(お祈り?)のようなものを延々と流していました。
(唯一、CNNだけは、シェイク死去のテロップも流さずに、延々と大統領選挙の開票の様子を流していましたが。)

 この日は、アメリカ大統領選挙投票日。はっきり言って、朝からCNNにかぶりつきでニュースを見ていたので、シェイクのことを聞いたときは驚きました。よりによってまさか、この日に公表されるとは思わなかったからです。わざわざブッシュ大統領の選挙にぶつけるなんて、何か意味があるんだろうか・・・と、ちょっと深読みしてしまったりして。

 一夜明けて、今朝の新聞の第一面は、一面全部シェイク・ザイードの写真が印刷されています。2面以降は各国からの弔辞、嘆き悲しむ国民たちの写真などが続いており、他にも、シェイクの偉大な業績や言語録などを特集した特別付録がついてきました。
 さて、これから数日、ドバイはどうなってしまうのでしょう。買い物はしたけれども、子供がずっと家にいるのは困るなあ・・・と不謹慎なことを考えてしまう私です。
(不謹慎だとお怒りの方は、下記の、シェイクについての真面目な記事を、ご一読ください。)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ☆  ☆  ☆ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 シェイク・ザイードについて少し詳しく触れますと、シェイク・ザイードの正確な名前は、シェイク・ザイード・ビン・スルタン・アル・ナハヤーン。
 アブダビ首長兼U.A.E.大統領として、U.A.E.が現在の形の国家になってから、実に30年以上にわたって、この国を統治してきました。アラブ世界でもっとも任期の長い統治者の1人になるそうです。
 彼が、1971年に大統領に就任した時、この国はイギリスから独立したばかりで、主な産業は漁業や真珠取り、砂漠以外には何もない、という貧しい国でした。けれども、たった33年(!)で、石油産業を基盤として目覚しい発展をとげ、いまや中東一の繁栄を誇る一大ビジネス&リゾート地となったのは、ひとえに彼のと政治力と先見の明によるものです。
同時に、自分の国ばかりでなく、周辺アラブ諸国にも莫大な寄付をし、それら国の発展を助けたそうで、U.A.E.だけでなく、他の国々でも、シェイクに深い感謝と尊敬の念を抱く人々は多いとのこと。エジプトには、シェイク・ザイードの作った町まであるそうです。
 先日、ローカルと結婚した日本人女性から話をうかがう機会がありましたが、彼女は、ご主人と周辺諸国を旅行した際、「シェイク・ザイードの国から来た」というと、どこでも大変手厚いもてなしをうけたそうです。
 また、国民の生活向上のため、教育や福祉などにも力をいれてきており、現在の中東情勢にかかわらず、U.A.E.にテロがまったく起きないのは、「国民全員がシェイク・ザイードの政治に満足しており、現状にまったく不満がないから」だそうです。
 現在の日本と照らし合わせても、国民がみんな国の政治に満足して、幸福に暮らしている、というのはすごいことだと思います。
 
 町で見かける巨大なシェイクの肖像画を見ても、正直言って、私達外国人にとっては(少なくとも私にとっては)「アラブの王様」という漠然とした遠い存在で、彼が人々に愛されているのは、単に彼が王様(正確には大統領ですが)だから、だと思っていました。 
けれども、皮肉なことに、今回の彼の死で、この国の発展に貢献した彼の業績を詳しく知ることとなり、その死を悼む気持ちに共感を覚えています。今、私にとって、ローカルの世界が、今までより少しだけ、身近に感じられます。

次期大統領はシェイクの長男が有力視されていますが、指導者が変われば、国の方針もまた変化します。ますます開放発展路線にいくのか、それとも原点に戻って宗教色を濃くしていくのか。優秀な指導者を失ってひとつの時代が終わり、この国も転換期を迎えようとしているのかもしれません。


 

 

2004年10月号

 

【 シェイクの容態 】


フリーウェイ沿いにそびえたつ巨大なシェイク・ザイードの肖像画

 

ホテル以外で、ラマダン中も営業している唯一のレストランの入り口。
                                 (裏口から入る ように、とのサインが書いてある。中は営業中だが、表からみると、閉まっているよ うにしか見えない。)

 ラマダン前から、ドバイはある噂で持ちきりです。それは、「シェイク・ザイード(首長)が死んだらしい」というもの。七つの首長国からなるアラブ首長国連邦は、それぞれの首長国にシェイク(首長)がいますが、アラブ首長国連邦全体の首長はアブダビ首長国の首長シェイク・ザイードです。
もともとかなりの高齢で、いつ何があってもおかしくないような状態が長く続いていたのですが、どうやらお亡くなりになったらしい、という噂が出たのがラマダンの始まる前の週。なんでも、イスラム教では聖なるラマダンの月に死ぬことは大変名誉なことで、ラマダン中に死んだムスリムは天国へ行けるのだそうです。ですから、シェイクもなんとかラマダン中に死んだことにしたい政府が、ラマダンがはじまるまでは、その事実を隠しているとか。


(「嘘ついてまで天国行きたいか?嘘ついたら地獄に落ちるんちゃうの?」とは私の友人の弁ですが、ほんと、結果よければなんでもあり、の感があるアラブならこういう工作も十分ありえます。)
 ラマダン前から、ドバイはある噂で持ちきりです。それは、「シェイク・ザイード(首長)が死んだらしい」というもの。七つの首長国からなるアラブ首長国連邦は、それぞれの首長国にシェイク(首長)がいますが、アラブ首長国連邦全体の首長はアブダビ首長国の首長シェイク・ザイードです。


 もともとかなりの高齢で、いつ何があってもおかしくないような状態が長く続いていたのですが、どうやらお亡くなりになったらしい、という噂が出たのがラマダンの始まる前の週。なんでも、イスラム教では聖なるラマダンの月に死ぬことは大変名誉なことで、ラマダン中に死んだムスリムは天国へ行けるのだそうです。ですから、シェイクもなんとかラマダン中に死んだことにしたい政府が、ラマダンがはじまるまでは、その事実を隠しているとか。
(「嘘ついてまで天国行きたいか?嘘ついたら地獄に落ちるんちゃうの?」とは私の友人の弁ですが、ほんと、結果よければなんでもあり、の感があるアラブならこういう工作も十分ありえます。)


 で、どうしてこれがそんなに大問題かというと、一国の王様が亡くなるのですから、もちろん何十年に一度の大事件ですが、シェイクが死ぬと、国中の公共機関が1週間(2週間、10日というウワサもあり)、ストップしてしまうのです。喪に服すということで、スーパーマーケットも銀行もバスもお役所もガソリンスタンドも、みんな機能しなくなる。噂では空港すらクローズしてしまうとか。ということで、みなが食料品の買占めに走っています。


 普通、ラマダン中は、イフタール(夕方の断食明けのごちそう)の食材を買いに、スーパーはアラブ人たちでいっぱいになるのですが、それに加えて、今年は白人達もみんな買い物に殺到して、店の中はさながらオイルショック時の日本みたいです(って、見てないんですけど)。昨日も、スーパーに行ったら、駐車場を探すのに一苦労。やっと中に入ったと思ったら買い物カートがひとつもない。中を見ると黒山の人だかりで、入る前から疲れてしまった。痛みやすい生鮮食料品より、シリアルや冷凍食品、トイレットペーパーなどが飛ぶように売れているようです。


 
 おまけに、今年からいきなり、インターナショナルスクールやアメリカンスクールを含めたドバイ中の学校がラマダン・タイミングにするように、と政府から通達が来ました(それもラマダンの2日前)。(ラマダン中は、アラブ系の学校はすべて、「ラマダン・タイミング」といって、いつもより遅く始まり、早く終るのです。だいたい、8時半〜9時ごろ始まって、1時半から2時ごろ終る)。おかげで放課後の部活動はすべてラマダン後まで延期となり、授業時間が大幅に減るので、その分宿題はドッとふえるし、しかも、この御触れのせいで、ドバイ中の会社や学校がいっせいに2時に終るので、2時以降は、どこもかしこも大渋滞で、すごいことになっています。(この学校の時間短縮もシェイクの喪に服するための伏線なのかも・・・という声あり。)


 ラマダン初日、早起きして新聞をとりにいったのですが、予想に反してシェイクの記事はなし。みんな、なんだか肩透かしを食った感じです(人の死にかかわることなのに不謹慎ですが)。「きっと、ラマダン一日目にいきなり発表するといかにもわざとらしいから、も少したってからにするんだよ。きっとラマダン半ばの11月はじめ頃だね。」「いや、今のドバイで一週間も国の機能が麻痺すると大変なことになるから、イード・ホリデイ(ラマダン明けの連休)にあてようとしてるに違いない」「後継者が決まってないから、しばらく発表できないんだってさ」「世界中に散らばっているシェイクの親戚がすべてドバイに結集するまで待っているに違いない」とか、毎日、よるとさわると、「シェイクのXデー」の話でもちきりです。


 今日も、友だちの家にお茶にいったら、「アフメッドは保守的だから、マホメッドが後継者になってくれた方がいいな。顔がだんぜんカッコいいもん」なんて、気の早い王室ウォッチャーもいたりして、女ばかりで集まると、なかなかにぎやかです。(あ、すみません。またまた不謹慎ですね。シェイクの身内といっても、一夫多妻制だからたくさんいるし、しかもそのほとんどが、アフメッドとかマホメッドという名前なので、後継者の話題は、正直、私にはさっぱりわかりません)。

 なんでも、シェイクの死亡日をずらしたり、しばらく発表を控えたりするのはよくあることだそうで、以前は、なんと3年も(!)シェイクの死を隠していたことがあったそうです。シェイクが亡くなると、テレビやラジオは一日中ひたすらお経のようなものを流しつづけるのだそうですが、いったいどうなってしまうやら。やはり食料品などが買えなくなるのは困るなあ。でも、この中に入っていくの勇気いるし・・・。ラマダン・マッドネスと化したスーパーマーケットを横目に考えあぐねています。
さて、シェイクの容態やいかに?


以下、次号。

※ ラマダン豆知識
ラマダン中、お金持ちの人は、家の裏や横にテントを作って、そこで貧しい人達に食事をただで食べさせてあげます。ドバイに来て間もない私の友だちは、みんながお金持ちのアラブ人の家に突入して、いくらでも食べていいものだと思っていたらしい。「みんなで是非行こうよ!一歩入った途端撃たれたりしてね」などと言ってはりきっていましたが、良い子はまねしないように。撃たれはしないと思いますが、アラブ人のおばちゃんに、バッシンバッシン打たれます。(ウソです)  

ラマダン中、貧しい人に食事をふるまう特設テント

 

2004年9月号

 

【 ドバイ市内観光

以前掲載しましたドバイ観光案内「砂漠編」に続き、今月は「市内編」をお届けいたします。
 ドバイは、市内中心部を流れるクリーク(運河)を境に、バール・ドバイ地区とデイラ地区に分かれます。郊外には、ドバイニュース第一号でも紹介したバージュ・アル・アラブ・ホテルなどの近代的なリゾートホテルやショッピングセンターが並びますが、クリークを中心とする地域には、人々の昔からの生活に根ざした「古き良きドバイ」が残っています。
 代表的なのが、スパイス・スーク。以前紹介しましたゴールド・スークのすぐ近くにあるスーク(市場)ですが、ここでは香辛料のほか、乳香(香水の一種)、没薬、水タバコなど生活に使うさまざまなものたくさん売られています。料理に使うサフランや唐辛子、真っ黒なドライライム(干したライム。煮込み料理に入れる)をはじめとして、花びらを干したもの(お茶にする)や、腹痛を治すという木の皮(?)のようなものまで、見慣れない品々が店先にびっしり並べられており、見ているだけで楽しくなります。中でも異色なのが、「デオドラント・クリスタル」という白い半透明のごつごつした石。ぬらして髭剃り後の顔にこすりつけるとかみそり負けしない、というもの。さっそく主人に使ってもらいましたが、若干効果が認められるような(?)感じ、だそうです。

 スパイススークの横には、クリーク(運河)が流れ、向こう岸までの渡し舟、「アブラ」の船着場があります。
アブラは、別名「中東のゴンドラ」と呼ばれる木造の渡し舟で、昔からクリークをつなぐ庶民の足として使われています。船といっても、真ん中に大きな台のようなものがあり、そこにみんなが座る、という簡単なつくりで、乗り降りの時も、渡し板のようなものもないので、注意しないと落っこちてしまう人も・・・。
一艘に定員15名で、30ディラハム(1ディラハム=約30円)で、貸切りにすることもできます。
船からは、伝統的な建物が並ぶバール・ドバイ地区と近代的なビルが立ち並ぶデイラ地区の建物を両岸に見渡すことができ、なかなかの景色。船着場で売っている、ココナツを割ってストローをさしただけのココナツ・ジュースを飲みながらクリークを眺めると、気分はもうアラビア。(ただし、夏場は暑いので、外でのんびりジュース、はやめたほうがいいです)。
 ちなみに、このクリークは、貿易の中継地点にもなっており、インドやアジア諸国などから集まってきた船が、ここでいったん積荷を下ろしてから、再びイランやソマリアなどのアフリカ諸国へと向かいます。船員達は、2,3ヶ月ほどクリークで船上生活をするそうです。クリーク沿いには、これらの積荷を運ぶダウ船という中型の船が、いつもたくさん停泊しています。

 

 クリークから少し内側に入ると、生鮮食材市場があります。ドバイ国内の野菜や果物はもとより、近隣諸国から輸入された豊富な種類の青果が、スーパーマーケットよりも安い値段で手に入ります。おまけに、どの野菜も、とっても新鮮できれい。
なかでも、ひときわ眼を引くのがドライフルーツ売り場。ドバイを代表するデイツ(干したナツメヤシの実)。店頭に山盛りに積まれているのを量り売りで買ったり、レンガのように四角く固めたものをブロックで購入することもできます。
(ビタミンをはじめ、豊富なミネラルを含むデイツは、ドバイ中どこへ行っても売られています。昔のベドウィン(砂漠の遊牧民)たちは、一日にデイツを3粒とやぎのミルクだけで生活していたそうです。)
 お隣は、フィッシュマーケット。ペルシャ湾で採れる様々な魚が、氷の上に並べられて売られています。しかし!いくら氷の上とはいえ、市場は屋外。夏場は、さすがに昼間は閉店するそうですが、朝夕でも35度くらいあります。わるくなったりはしないんだろうか、と若干の不安が・・・。でも、日本人の中には、ここで買った魚を自分でさばいて刺身にして食べている人もいるそうなので、まあ大丈夫なのでしょう。
でも、想像できると思いますが、この市場、すごーく臭いです。

 他にも、クリーク付近には、シェイクザイードハウス(現在の首長の祖父が住んでいた家。昔ながらのドバイの建物の典型で、今は博物館になっている。)や、ドバイの文化や歴史がすべてわかるドバイ博物館(昔の砦を改築した建物を使っています)があります。

 最近、ドバイ政府が力を入れている、郊外の大型ホテルやショッピングモールの大開発で、町の中心はどんどん郊外へと移ってきています。その陰で、古くからあるこの地区が置き去りにされている観は否めません。オールドスークやクリークのアブラなど、昔ながらの「古き良きドバイ」がどんどんさびれていってしまうのは、なんだかさびしい気がします。
 美しく近代的なビーチ・リゾートや豪華な施設も素敵ですが、砂漠の遊牧民(ベドウィン)たちの時代から育まれてきた、昔ながらの生活もまた、ドバイの捨てがたい魅力のひとつです。穏やかな風に吹かれて、アブラの行き交うクリークを眺めていると、ここでは時間がいかにゆったりと過ぎていくかを痛感します。この景色がいつまでも失われませんように、とせつに願います。

 

 

2004年8月号

 

【 あ・つ・い 】

 今年の日本は、史上まれにみる暑さだそうですが、いかがお過ごしでしょうか。


 日本の友人や親戚が、ひたすら「とにかく暑い!!」を連発するので、世界中で温暖化がすすんでいる今日このごろ、もしかして、日本ももうドバイと同じくらい暑いのかしら・・・と思ったりします。
出張で日本へ行ってきた主人いわく、「僕もそう思って、どんなに暑いかと覚悟していったけど、全然暑くなかった。」といって、どうやら体がもうドバイに慣れてしまったらしい、と苦笑していました。ただ、湿気は相当あったとのこと。


確かに気温はドバイの方が上ですが、エアコンの効いた車で、建物から建物へと移動するドバイに比べて、歩いたり、ホームで電車を待ったりと、外にいる時間の長い日本のほうが、暑さを実感することが多いと思います。


 私の感覚でいうと、日本の「暑さ」は、ぎらぎらした太陽に、汗が玉になって流れ落ちる、という感じですが、ドバイの「暑さ」は、外に出た瞬間、体中の毛穴から汗が霧吹きでふいたようにいっせいに滲み出てくる、そんな感じです。買い物に行って駐車場に車をとめて、建物へ入るまでの数十メートルは、まさに全身に、1000ワットのドライヤーを至近距離からあてられている感じです。(直射日光が暑い、とかいうより、もう体中が熱風で包まれてる、という感じですね)。この間読んだドバイの月刊誌に、「外へ出た瞬間、濡れた毛布で体中をなでられたようになる」と書いてありましたが、まさにその通りです。

 

 さて、こうまで暑いと、おもしろい現象が起こります。まず、水道の蛇口をひねると、水がでてこない。お湯になってしまっているのです。しかも、熱湯に近い。


普通、蛇口は、ひねる方向によって、「お湯」と「水」が出ますよね。今の季節、シャワーを浴びる時は「水」で十分。「水」の温度が、シャワーにちょうど良いお湯になっているのです。


本当は、お風呂に入るとき、ウォーターヒーター(「湯沸し器」のようなものでしょうか。お湯を沸かしておくボタンがお風呂などにあります)をONにしておくのですが、うちの場合、ウォーターヒーターをつけてお風呂にはいると、水がよけいに熱くなって熱湯になってしまい、とてもじゃないけれど、入れません。そこで、夏の間は、ウォーターヒーターは消しておきます。


そうすると、今度は、水道の「お湯」のほうが「水」より冷たい(というか、ぬるい)、というおもしろい現象がおこります。(よくわからないのですが、「水」の水道管は外に出ているから熱くなるけど、「お湯」はちがうところから来ているようです。)ですから、歯を磨いたりコンタクトレンズを洗う時など、熱くない水が必要な時はは、「お湯」をひねって「水」を使います(この意味、わかります?)。

                   

 来た当初、一番困ったのは、ざるそばを食べたくなった時、ゆでてから冷水で麺を冷ませないことでした。友人は、そばをゆでる日は、前もってペットボトルに水道水を入れて冷蔵庫で冷やしておいてそれを使うそうですが、とつぜん「今日のお昼はおそばにしよう」となったとき、とっても困る。(ふだんから冷水を冷蔵庫に入れておけばいいのだけど、それって、冷蔵庫の中で結構場所をとるので)。キッチンの水道は、料理に必要なので、いつもウォーターヒーターはONにしてあります。つまり、「水」も「お湯」も熱い。


そういうときに限って、氷を切らしていたりして、水道から出る熱湯でそばがのびきってしまったり・・・。で、荒療治でゆでたそばをしばらく冷凍庫に入れておいたりと、そばひとつ食べるにもいろいろ苦労したものです。

註:今は、ミネラルウォーターを使ってしまうのでこの問題は解決しました。(こちらは、どの家庭にも、キッチンに大きな飲み水用のミネラルウォーターの給水器が常備してあり、そこから冷水とお湯が出せるのです。それに値段も安い。)でも、来た当初は「麺を冷ますくらいで飲用のミネラルウォーターを使うのはもったいない」という日本の感覚を引きずっていたので、どうにか水道水でしのごうと四苦八苦していました。

こんな調子なので、最初は、外で働いている工事現場の労働者やガーデナー(庭師)は、こんな暑さで大丈夫なのだろうか、と不思議でたまりませんでした。しかも、肌をまもるために長袖、長ズボンを身につけている!!私なんか、ガーデナーと立ち話でもしようものなら、あまりの暑さに1分ともたずに、家の中に逃げ込んでしまいたくなるのに、彼らは全然平気そうなのです。やはりイランやパキスタンなど、暑い国から来ているので、暑さには慣れているようですが、私にとってはこれって本当にすごいことです。


でも、あるひときわ暑い日、ガーデナーが家のドアをたたいて、私が開けるなり、「み、水・・・!」と息も絶え絶えになって訴えてきた時は、「あ、やっぱり彼らも暑いんだな」となんだか妙にホッとしたものです。もちろん、冷たいお水をたっぷりあげたのは言うまでもありません。


さて、今日の車の温度計はなんと57℃!!日本で暑さに参っているかた、ドバイを思えば、少しは涼しくなれるでしょうか?

 

 

2004年7月号

 

【 別れの季節 】
 6月で子供の学校も終わり、ドバイでは、一足早く夏休みが始まっています。

 学校の夏休みが3ヶ月もあるドバイでは、夏と同時にほとんどの外国人はバケーションに出かけてしまい、街から一挙に人がいなくなります。

 子供と私の友人のほとんどは、学校終了と同時にドバイを出国し、僅かに残っていた友人も1人、また1人とバケーションに出かけていき、「夏が終ったらまた会おうね。良い夏休みを!」と、しばしのお別れを言い合います。

 

 たった3ヶ月でも、友達と会えないのは少し寂しい気分になりますが、バケーションに出かけた友達とは、夏が終ればまた会えます。悲しいのは、夏が終っても、戻ってこない友人たちとの別れです。

 毎年夏は、ドバイに住む外国人駐在員がいっせいに転勤を迎える季節。学校の年度末にあたる6月頃には、”Are you staying next year?”(「来年もドバイにいる?」)という会話があちらこちらで聞かれます。

 人口の80%が外国人で占められるこの国では、ほとんどの外国人駐在員の任期は2〜3年。中にはたった1年という人もいて、ついこの間来たと思ったら、もうお別れ、ということが日常茶飯事です。常に誰かが去り、また新しい人がやってくる。毎日がその繰り返しです。

 子供にしても、仲の良い友だちが滞在2年をすぎるころになると、いつ転勤していってしまうかとハラハラしたり、また、自分が滞在3年目ともなってくると、逆にいつまでこの国にいられるのか、不安なようです。

 毎年、学校最後の日の朝礼で、夏でドバイから引っ越してしまう生徒たちがステージにあがりますが、その数の多いこと!こちらに来て一年目の夏、娘のクラスの実に3分の1がドバイを去っていきました。

 この地では、子供も大人も、知り合うとすぐに「何年目ですか」と尋ね、その答えを聞いて、「あと何年は一緒だな」と、無意識のうちに計算するくせがついています。

 せっかく仲良くなっても、すぐにお別れを言わなければならないのは、つらいことです。ましてや、それが何度も繰り返されるとなると、なおさらのこと。ドバイが長いある友だちは、「うちの子の友だちは毎年変わる。去年仲良くなった子は、今年はもういないから、新学期になるとまた新しい友達を探さなくちゃならなくなる。ドバイにあと8年位いる予定なんだけど、毎年、これが続くと思うとため息が出るわ。」といっていました。

 母親の中には、自分の子が、もうすぐドバイを去ってしまうと分かっている友だちよりも、来たばかりでこれから長くいられそうな子と仲良くなって欲しい、と願う人もいるようです。その気持ちも、わからなくもありません。人間関係が、滞在年数に影響される、というところも、この国の特徴でしょうか。

 アメリカにいた頃にも別れは常時ありました。けれども、それは日本人駐在員の間に限ってのことで、アメリカ人の友だちが引っ越すことはまれでした。けれども、ここでは、ずっとここにいる人のほうが、きわめて稀なのです。

 こういう生活をしていると、最初こそ、いちいち落ち込んだりしますが、だんだんと別れに対してドライになってきます。あまり感傷的にならず、ここにいる間をせいいっぱい一緒に楽しく過ごそう、と割り切るようになります。いちいち感傷的になっていては、身が持たない、というのが実情でしょうか。

 私達日本人は、日本からドバイに来て、いずれまた日本へ帰っていく、というパターンがほとんどですが、欧米人は、ドバイの前はサウジアラビア、その前はパキスタン、ドバイの後は多分カタールへ・・・などと、海外を延々とまわりつづける人が多く、そういう人達は、慣れもあってか、繰り返される別れを、自分たちなりに気持ちを整理して受け止めているようです。

 日本人の友だちは、いつか日本に帰ればまた会えます。けれども、外国人の友だちは、自分の国に帰った後は、簡単には再会できません。ましてや、これからもずっとあちらの国、こちらの国、とまわりつづける友人達は、いくら気持ちが通じていても、よほど根気よく連絡をとりつづけない限り、もう一度どこかで会える可能性は非常に少ないでしょう。

 つまり、これが今生の別れ(ちょっと大げさですが)になります。いくら慣れたとはいえ、悲しい気持ちには変わりありません。縁があれば、きっといつかどこかで、また会える。そう思って、ハグをして、手を振ります。

 出会いはみんな一期一会。人の出入りが激しい分、子供も私も、よりたくさんの人との素晴らしい出会いを経験しています。これらの経験が、私達にとって、素晴らしい財産になりますように。そして、去ってゆく友人たちにも、新しい地で、また素敵な出会いがありますように。毎年、この時期になると、そう願わずにはいられません。

 
2004年6月号
【ゴールド・スーク】

 ドバイで、観光客が必ず立ち寄るところが、ゴールド・スークです。ずーっと、ドバイニュースに書こうと思っていたのですが、あいにくこういうものに縁が薄い生活をしているので(悲)、ついつい先延ばしになってきました。

 スークとは、アラビア語で「市場」の意味で、ゴールド・スークは、その名の通り、「金市場」です。ドバイの金は、安いことで有名で、ドバイ在住者から観光客まで、たくさんの人が、金を買いにここに集まってきます。

 で、先日、とうとう行ってきました。新聞で、本日の相場を調べてから(今日は、1グラム=48ディラハム。約1440円)、友だちと一緒に、いざ出陣。

 クリークを渡ったデイラ地区にあるこのスークは、かなり大きく、一歩足を踏み入れると、見渡す限りズラーッと金を飾ったショーウィンドーが続きます。夜になると、これがライトアップされて、ピカピカ光る金のまぶしいこと!!これを見ただけで、もうアドレナリンが、ドーッとふきだしてくる。女性にとっては、まさにデンジャラス・ゾーン。(だんな様達にとっても、ですね)。

 

 

 どれも同じような店構えで、扱っている品も似たようなものが多いので、最初は、どの店に入ったものか迷ってしまいます。

 とりあえず入った一軒目は、入るなり店員がスーッと寄ってきて、どんなものを探しているのか聞いてきます。指輪を見せてもらって、値段を聞くと、結構高い。

 ゴールド・スークでは、昔ながらの方法で、金アクセサリーを小さなはかりに乗せて重さをはかり、値段を決めます。商品の重さ×本日の金相場で値段を出し、それに加工賃を加えたものが最終価格になります。ただ、この最終価格というのがくせもので、高い!というと、いきなり半分に値下げしたりして、結構あやしい。半分とまではいかなくとも、最終的には、最初の値段からだいたい2,3割は引いてくれます。中には、まったく値切らずに買ってしまう人もいるそうですが、それは絶対にボラれているはず。この値引き過程が結構楽しいのです。

 高いから、もう帰る、というそぶりを見せると、たいてい「じゃあ、このくらいで・・・」と計算機をたたいてそれより低い額を提示してきます。あまり、「どうしても欲しい」という態度を見せないのがコツでしょうか。

 ただ、本当に気に入ったものがなくて帰ろうとしても、飲み物をもってきたり、他の品物を次から次へと出してきてひき止めようとするので、買わずに店を出るのは至難の業です。

 

 全体的に、デザインは、アラブ的な、派手なものが多いです。

 おもしろいのは、有名なブランド品のコピーが平気で店頭に並べてあること。これって、大丈夫なのかしら・・・と、こちらのほうが心配になってしまいます。でも、このコピー品、本物と見分けがつかないくらいそっくりで、しかも本物よりずっと安いので、毎月ひとつずつ買っている友人もいるくらいです。

 私達がショーケースを見ていると、一人のアラブ人女性が入ってきて、やにわにバッグからたくさんの金の装飾品を取り出すと、ジャラッとはかりの上に乗せました。店の人となにやら交渉して、最後にお金をもらって帰っていきます。そう、ここは金市場。買いに来る人ばかりでなく、売りに来る人もいるのです。この女性は、古くなって飽きてしまった金アクセサリーを売って、また新しいものを買うつもりなのでしょう。


 私は、いろいろ見て、結局ネックレスをひとつ購入しましたが、粘り強い交渉の結果、最終的に4割ほど値引きしてもらいました。ま、初回だから、こんなものでしょうか。

 友だちも、指輪をひとつ買って、ようやく引き上げました。歩き回ったせいで、足が棒のよう。特に、夏場は暑いので、体力を消耗します。

 でも、一度いくと、やみつきになりそうな、そんな魅力(魔力?)のあるこの場所。今度は、主人も連れて来て、何か買わせよう・・・と、ひそかに計画を立てている私です。


 

 

2004年5月号
【親の見本市】

外国人がほとんどをしめるドバイは、とてもインターナショナルな国です。文化もさまざまなら、人もさまざま。で、うちの場合、娘達の友だちとのお付き合いで、特にその違いを実感します。

まず、時間の感覚。これは、絶対的に違います。

 学校の終った後、娘が、イランやエジプトなど、中東出身の子の家に遊びにいった場合、相手のお母さんに「お迎えの時間は?」と聞くと、「何時でもいいわよ!全然平気!」と、たいてい鷹揚です。「でも、だいたい何時くらいがいいかしら」というと、決まって、「そうねえ、7時半か8時ごろ。」という答えが返ってきます。ひえー、8時なんて、家に帰ったらもう寝る時間じゃない!とびっくりしてしまうのですが、彼女達にとっては、それが普通のようです(この例の場合、子供の年齢は7歳)。

 夏は50℃近くまで気温の上がる中東の人々は、暑い昼間は家にいて、気温の下がる夕方から夜にかけて外出することが多いのです。来たばかりの頃、夜の10時、11時のショッピングモールを、よちよち歩きの子供がいっぱい走り回っているのをみて驚いたものですが、こちらでは、それが当たり前。

 上の娘(11歳)が、エジプト人の友だちの家に泊まりにいった時、なんと夜の11時から家族でゲームセンターに行った、と驚いてました。そして、帰ってきたのが、深夜1時。翌朝迎えに行ったときは、楽しかった、と喜んでいましたが、寝不足でフラフラ。対して、友達のほうは、元気でぴんぴんしてる。うーん、どうもこっちの子はみんな宵っ張りみたい。

 逆に、欧米人の家庭では、放課後遊んだときのお迎えは、たいてい5時半から6時。アメリカ人の友だちのお母さんは、「うちの子は7時にはベッドに入るから、絶対に6時半までには家に帰らなくちゃいけないの」と、どんなに遅くても6時にはお迎えにきます。遊びに行かせた場合も、「お迎えは5時半」と、即座に返事が返ってきます。

 一方、遅くても7時くらいまでには来てね、といっても、夜の9時まで迎えにこない、それでもって、9時に来ても、遅くなったお詫びをするでもなくニコニコしている東欧の人とか、ほんと、親もいろいろで、おもしろいです。

 

 また、お泊りに行った娘が、「夜ご飯をもらえなくて、お腹がすいて眠れなかった」といって帰ってきたときはびっくりしましたが、よく聞いてみると、その家は、食事は朝と昼だけで、夜は食べない習慣だったとか、ベジタリアンの家に行った時は、野菜嫌いの娘がほとんど何も食べられなかったとか、家庭によって、食習慣も様々です。

 お迎え時間、食事に加えて、金銭感覚もいろいろです。こちらは、もう上を見ればきりがない。

子供のお小遣いは、週ごとに決まった額をあげている親がほとんどですが、家庭によっては、欲しいだけ与えているところも少なくありません(欲しいだけ与えるお金があるっていうところがすごい!と思うんですが。)

 9歳の子供の誕生日にリムジンをチャーターしてしまったり、ホテルで5歳の子の誕生パーティーを開いたり、そんなことはよくあることで、第一、誕生パーティーのリムジンで驚いていたら、毎日リムジンで学校に通って来る生徒はどうなるんだ?(本当にいる)。

 あと、11歳で携帯を3個もっていて、一番新しいのは、最新型のコンピュータつきのもので、5万円近くする、とか。

 あるお金持ちの子は、遊びに行くたびに、うちの子供に高価なおもちゃを買ってくれるので、最初は随分戸惑いました。

 

 それと、不思議なことに、イスラム教徒の場合、子供の他の家でのお泊まりを許していない家庭が多いです。イスラム教徒のお母さん仲間に聞いたら、「文化が違うから」と、具体的にはいいませんでしたが、以前、子供の学校のアラビア語の先生が、「イスラム教徒以外の子は、コーランに触らないように。コーランにさわると、イスラム教徒になってしまうからね。逆に、イスラム教徒が聖書に触るのもいけないんだよ。クリスチャンになってしまうからね」といっていたそうですが、泊まった先の家で、豚肉を食べたり、聖書に触れてしまったりしてしまう危険があるからでしょうか。・・・謎。

 (そんなこといったら、私も、ラマダンの時、お店に積み上げられていたコーランが珍しくて、手にとってぱらぱらめくったりしましたが、もしかして、私はもうイスラム教徒??)

 親しいお母さんだと、迎えに行ったついでに家にあがって、キッチンでつい一時間も話し込んでしまった、ということもよくありますが、母親によっては、迎えにいくと、昼でも夜でも、いつも留守の人もいます。子供はメイドにまかせて、ネイルサロンやパーティー、ショッピングやジムに忙しくて、そういう場合、子供の行き来も電話で打ち合わせるので、一度も親の顔を見なくとも、付き合いが成立してしまうのです(ちなみに、うちに迎えに来る時は、ドライバーが来る)。

 かと思うと、大きい家だと、母親は家にいるのですが、まず門のところでセキュリティーガードマン、家に入ったらメイド、次に子供を世話するナニー(乳母)と、いくつもの関門をくぐり抜けなければならず、最後の母親までたどり着くのに、やたら時間がかかる場合も。

 メイドがいると、親が子供の面倒を見なくてもやっていけるせいか、両親が子供を置いて、海外旅行にいってしまう家庭もあります。そういう場合は、子供はメイドと二人でしばらく暮らすことになり、一人っ子の場合、寂しいので、よくお泊りに誘われます。この話を友達にしたら、「そんなの、全然普通よ。うちなんて、すごいことあったんだから」。聞くと、ある日突然、息子の友だちが、大きな荷物を持って訪ねてきたのだそうです。どうしたのか聞くと、「うちの親、今日から2週間、旅行に出かけたんだ。旅行中は、おばさんの家に泊めてもらいなさい、って言われたから来た」。ちなみに、友人は、そんなこと、一言も聞いてない。聞いてないどころか、その親にもほとんど会ったことがないそうで・・・・。

 いやー、信じられないけど、これ、ほんとの話。

 

 友だちと、よく、「このドバイは、まるで親の見本市だよね。実にいろんな親がいる」と、話しますが、いやはや、日本でも、いろんな人はいますが、こっちは文化が混ざってる分、ダイナミックです。

 こんなわけで、こちらで子供の遊び友達を見つけるのは難しくありませんが、「価値観の合う相手」を見つけるのは、本当に難しい。子供の友だちのお母さんも、「同じ価値観の人を見つけたら、とっても大事にするようにしてるわ。だって、ほんと、ここでは貴重だからね。」といってました。私も深く同感。

 我が家が親しくしているフランス人の一家は、大変幸運なことに、この「価値観」が非常によく似ています。どうぞ、彼女達が、うちより早く転勤になってしまわないように、とせつに願う毎日です。

 

 

2004年4月号
【 外国暮らしに疲れる時

早いもので、ドバイに来て3年。我が家の海外暮らしも、以前の赴任地もいれると、通算9年目に入ろうとしています。

 海外生活というと、たいてい、憧れをもって語られますが、実際に住んでみると、もちろんいいことばかりではありません。長くいればいるほど、違う面も見えてきます。現地に溶け込むと、海外生活も充実した有意義なものになりますが、反面、溶け込めば溶け込むほど、知りたくない面や「?」と思うことも出てきてストレスがたまり、日本が恋しくなることがあります。
 ドバイは魅力あふれる素晴らしい町ですが、今回はちょっと趣向をかえてそういう視点から書いてみようと思います。

 海外生活のストレスというと、「和食が食べられない」「英語でうまく言いたいことを伝えられない」「日本にいる家族や友だちが恋しくなる」「日本のテレビドラマが見たい!」など様々ですが、ここでは、「仕事の進行や、役所の対応がいいかげん」「不当な扱いを受ける」といったことがよく話題に上ります。
 まず、この国では、ローカル(アラブ人)がずいぶん優遇されており(彼らの国ですから、もちろんなのですが)、それがかなり露骨。
 アラブ人と揉め事を起こしても、私達外国人には、まず勝ち目はありません。同じ駐車違反でも、ローカルの車(黒い窓ガラスなのですぐわかる)はチケットをきられずに、外国人だけ罰金を払わされたとか、車をぶつけられたのに、相手がローカルだったばかりに、こちらが悪いことにされてしまったとか、そんな話をよく聞きます。こういった場合、警察に文句をいっても、警察官もローカルなので、こちらの言い分はとおりません。
 「へたに抗議して、刑務所に入れられてしまった!」なんて話も聞くくらいですから、ドバイ在住の外国人の間では、「ローカルには逆らわない方がいい」という暗黙の了解がなりたっています。  ささいなことですが、私も以前、郵便局のカウンターで、同じローカルの男性を横はいりさせた局員に抗議したら、いやがらせに、通常料金の2倍、切手代を請求されたことがありました。
 お店でも、他のお客には横柄なのに、ローカルのお客には急に腰が低くなる店員も見られます。そのせいか、えらそーな態度のローカルが多いのも事実です。

 ただ、日本人同士なら「非常識ね!」と責めればすむことも、海外では文化の違いに根ざしていることが多いので、一概に相手ばかりを非難できず、そこが難しいところです。彼らの育ってきた環境を考えると、それもいたしかたない、と思われることも確かにあるので。
 小さな時から、東洋人のメイドにかしずかれて育ったなら、東洋人に対して偏見を持つことも自然でしょうし、いつもメイドになんでもしてもらって自分で何もしたことがなければ、お店で自分が落とした品物を拾わずに「そんなこと店員にやらせればいいでしょ」とその品物を足で蹴っとばしても、彼らにとってはそれが普通なのでしょう。学校の文化祭で、みんなにコーヒーをいれる係になったアラブ人女性が、わざわざそのために自分のメイドをつれてきてやらせた、というのも、彼女達にしてみれば、普通のことなのかもしれません。混雑したショッピングモールで、自分からは絶対に相手をよけないのも、「いつも王様のように堂々と」という彼らのポリシーからくるのかもしれません(ああ、私って、すごく皮肉言ってます?)。お店のレジで、「私はローカルなんだからね!」といわんばかりの態度で平気で列に割り込んでくるのも、外国から出稼ぎに来ている店員が、強制送還を恐れてとがめだてしないからでしょう。

 

 なんでも自分の文化を基準に考えて、不愉快だ、失礼だと騒いでも、必ずしも自分だけが正しいわけではなく、かえってストレスを溜めることになります。
 相手との違いをわかろうと努力すれば、そんなに腹も立たなくなるはず(それでも、やっぱりちょっとは立つけど。こちらに長くいる友人は、頭に来ると、ゆっくり目を閉じて、相手をボコボコにする自分を想像してから目を開ける、という方法で怒りをコントロールしているそうです。)。というわけで、最近やっと、「まあ、しょうがないな」と流せるようになってきました。
 ただ、不当な目にあった時は、「相手に納得してもらおう」という姿勢ではなく(そうするとどこまでいっても平行線なので)、少なくとも「こちらが不快に思っている、ということを相手に示す」ことは大事だと常々思っています。言いつづけることで、相手も少しずつ変わっていくと思うので。言わない限り、絶対に伝わらないし、いつまでたっても何も変わりません。

 声をあげることは大事、ということですが、私は、この「声」が少しばかり大きくなってしまうことがあるようで、この間、ショッピングモールで、初めてローカルの女性にケンカを売ってしまいました(ああ、これだけはするまいと思っていたのに・・・)。思わずブチッと切れてしまったその理由は、「これはちょっとあんまりでは・・・」という扱いを子供が受けたからなのですが、同時に「白人の子供にはこういうことはしないだろうな」と思わせるものがあったからなのです。そう考えてしまう自分がとてもいやで、そうやって相手に詰め寄る自分もみにくいなー、と思うのですが、思いながらも、「でも、こういうことは黙ってちゃいけない」、という意識でやらざるを得ない。こういうことがつみ重なると、ほんとに疲れます。

 このように、ローカルに対して外国人は弱い、という事実がありますが、それに輪をかけて、こちらでは、「東洋人の地位が低い」という現実があります。以前にも書きましたが、こちらでは、メイドやお店の店員などはみな東洋人(フィリピン、スリランカ、中国、インドネシア、等からの出稼ぎ組)です。中には、少数ですが売春婦もおり、こちらでは東洋人の地位はお世辞にも高いとはいえません。白人のお母さん仲間が、ジーンズにティーシャツといったラフな格好でいても、それはそれでさまになりますが、東洋人がやると、悲しいかな、ほぼ100%、メイドと間違えられてしまいます。そして、見下すような態度をとられたり、ぞんざいに扱われてしまうんですねー(泣)。インドネシア人の友人も、こちらに来た当初、免許がなかったので、毎日ポロシャツにジーンズで自転車で子供の送り迎えをしていたら、どのお母さん達からも、挨拶しても返事をしてもらえなかったそうです。(ちなみに、こちらでは、自転車は労働者たちの乗りもので、駐在員は車と決まっています)。ローカルと結婚した日本人の友人は、子供の学校に送り迎えに行っても、メイドだと思われて(または東洋人だから)、他のローカルのお母さん達からはいっさい無視されるとこぼしていました。


 「ラフな格好をしていればメイドに間違われ、きれいに着飾ると値段を訊かれる。」
 これは、ある日本人の友人のぼやきです。値段を聞かれる、というのは、売春婦と間違われる、ということです。まあ、これは極端な意見ですが、これがこちらでの東洋人の見られ方を端的に表していると思います。そこまではいかなくても、修理を頼んでも、白人だとすぐに来るけど、東洋人だとわざと遅く来る、とか、その程度のことはよく聞きます。
 ほとんどの日本人は一定の地区に固まって住んでいるため、まわりのお店などにとっては日本人はお得意様として優遇されていますし、日本人にたいする理解もあります。あまり不愉快な思いをすることはないようです。けれども、日本人がほとんどいない場所に住んでいる私とその他少数の友人達は、そういったフィルターを通さずに、ダイレクトな反応にさらされます。
 慣れるまでは、不愉快な目にあうたびに、「これは、私が何か悪いことをしたからなんだろうか。それとも、私が東洋人だからなんだろうか」と、自分で自分にクエスチョンしつづけることにうんざりしたものです。

 (誤解のないように言っておきますが、すべてのローカルが不愉快な態度をとっているわけではありません。私が日本語を教えていたアラブ人女性は、子供を愛してやまない教師で、本当に気持ちのいい、尊敬できる素晴らしい女性でしたし、子供服売り場の試着室で「今の子供は、物が豊富で、ちょっと贅沢よねー。私達の子供のころとは全然違うわよねえ」なんて世間話をして意気投合したアラブ人女性も、私とそんなに違っているとは思えませんでした。
 こういう経験があるからこそ、「〇〇人は、××だから嫌いだ」という偏見の落とし穴にはまらずにやってこれたのだと思います。)


 警察やお役所が時々すごくいいかげん、というのもストレスの原因になります。これはこの国だけではないと思いますが、役所に行くと、とにかく仕事が遅い。しかも前回足りないと言われた書類を持って出直すと、それではなくて違う書類だった、といわれてまた出なおして、今度こそと思って行くと、結局そんな書類なんてもとからいらなかったり・・・なんてことは序の口です。(でも、このお役所、閉館10分前に行くと対応がやたら早いことがわかり、いらいらすることがなくなりました。なぜかというと、閉館前は、みんな早く帰りたくて、昼間の怠けぶりがウソのように、ものすごいスピードで仕事をしだすから。やればできるんじゃん!だったら、昼間からちゃんとやれー!と思わず怒鳴りたくなります)。


 警察はといえば、以前「駐車場」とかいてあるところに車を止めたにも関わらず、駐車違反のチケットをもらって激怒したことがありますが、いくらこちらが正しくても、ここの警察が、一度きったチケットを、間違いだったからといって訂正するなんて面倒くさいことをするはずがありません。ましてや東洋人の女性が一人乗り込んでいったところで聞く耳をもつはずもなく、泣く泣くあきらめたことがあります。
 以前住んでいたアメリカでは、警察の処置に不服があった場合は、スモールクレームコート(簡易裁判所)に訴えれば、少なくともこちらの言い分を言うチャンスが与えられましたし、それが正当と認められれば、一度きられた違反チケットも無効にしてもらうことができました。
 私がアメリカで習ったことは、「絶対にあきらめないこと」。しかし、ここにきてまず最初に学んだことが、「あきらめること」。このギャップ、まさに「文化の違い」なんでしょうか。

 

 

 他にも、信頼していたメイドやガーデナーにだまされたり、何かを頼むにもチップが少なかったばかりにわざといいかげんな仕事をされたりとか、そういう経験は誰もがしています。  いろんなことが次から次へと起こるので、そのたびに怒ったり文句をいったり、いちいち言い立てなくてはならない(いわないと、甘く見られて、次からまた同じことが繰り返される)というのも、かなりストレスたまります。
 「海外に長くいると、自分がいやな性格になっていくよね」と、海外生活が長い友人たちとよく話しますが、本当にその通り。やたら自己主張が強くなったり(強く主張しないと負けてしまう)、すぐに相手のことを信じずに、まず疑う癖がついてしまったり。文句を言ってから、「あれ?私ってもっといい人だったはずなんだけど・・・?」と思うことがよくあります。


 こんな時、「ああ、日本に帰ったら、みんな時間をしっかり守るし、仕事はきちんとやるし、礼儀正しいし、周りは日本人だけだから差別されることもないし、常識もある程度同じだし、だまされているんじゃないかと頭から疑ってかかる必要もないし・・・ああ、どんなにホッとするだろう・・・。日本人って素晴らしい!」とつくづく思います。(でも、結局、日本にいたらいたで、また何か違った悩みが出てくるのでしょうが。とりあえず、隣の芝生は青い、の心境です)。
 今回はちょっとネガティブなことを並べてしまいましたが、これはあくまでも日常のほんのささいなことです。こういったこともすべてひっくるめて、私はドバイという国を、そしてこの国の文化に大きな魅力を感じています。また、相手をわかろうと努力することを教えてくれたこの国に感謝もしています。
 ドバイは、日本で育った私にとっては、何もかもが新鮮で異質、それでいて、同じアジアということで、どこか共通するものも感じる、不思議な国です。うんざりすることも多いけれども、それがまた、「みんな違うからおもしろい」という海外生活の醍醐味を感じさせてくれています。


 これから、この町がどれだけの新しい体験をさせてくれるかわかりませんが、たとえそれがわくわくさせてくれるものであれ、うんざりさせられるものであれ、違いを認めようと努力する気持ちがあれば、それはきっと素晴らしい思い出になると信じています。

 

 

 

2004年3月号
100円ショップドバイ上陸

 

 今、ドバイの日本人の間では「〇イソー」の話でもちきりです。日本でも有名なあの100円ショップ「〇イソー」が、今月ドバイのショッピングモールにオープンしたのです。
 我が家では、以前からお茶碗が欠けていたのですが、このドバイで茶碗なぞ買えるはずもなく、ずっとがまんして使っていました。そこでさっそく、新しいのを買いがてら店をのぞいてみることに・・・。
 一歩店内に足を踏み入れると、フィリピン人やインド人店員が「うぃらっしゃいませー!!!」といっせいに日本語で挨拶するのにびっくり。広い店内には、所狭しとなつかしい日本の品々が・・・・。
 まず、お茶碗などの和食器の多さに驚かされます。種類が多くて、迷ってしまって選べない!他にも、おはし、お弁当箱、ガラスのコップ、おたまなどの台所用品・・・どれも種類が豊富で、品揃えは日本と全く同じ、いやそれ以上かもしれません。
 さらに奥に進むと、洗濯ネット(なつかしい!)やおなじみの100円かご、文房具に化粧品・・・・一挙にアドレナリンが分泌されるのがわかります。  最後に、日本食のコーナーで、日本のなつかしいスナック菓子やおせんべい、こんにゃくなどの食材までそろっているのを見つけたひには、もう感動の涙、涙!

 

 値段は、すべて5Dh(1Dh=約30円なので約150円)均一(一部日本食のみ6Dh)。 今まで、グロサリーストアーで涙をのんで高い日本食を買ってきた身としては、もう信じられないくらいうれしい!お店を見ているだけで、幸せな気分です。
ある日本人の奥さんが、興奮してつい500Dh(1万5000円)も買ってしまったそうですが、よおくわかります、その気持ち。実際、私の友だちも、それに近い額買ってましたもん。
 「まるで、そこだけ日本にいるみたいな気分」「生きてて良かった」などという感想が続々と友だちから出てくるのを見ると、いかに普段ドバイで(日本の品物に関して)不自由な生活を送っているかよくわかるというもの。 「〇イソー、行った?」「行った!でも主人がまだ行ってないから、今週末は家族で行くの」「なんか、100円ショップが週末のイベントって寂しいよねー」なんて言いながらもみんなニコニコ。

 

 こんな調子なので、2度目に行った時は、もう日本のお菓子、食品はすべて売り切れ。現在、みんな首を長くして次の棚卸を待っています。
おまけに、口コミで伝わったのか、店内は、アラブ人や白人、インド人などのお客さんもいっぱい。品物の表示は日本語のままなので、私が日本人とわかると、化粧品や小間物、文房具などは、「これはどう使うの?」なんて聞いてきて、みんなの興味の程がうかがえます。店長さんによると、こちらの人はガラス製品が大好きだそうで、ガラスのフォトフレームは真っ先に売り切れてしまったそうです。また、和食器は和食レストランのシェフが大量に買い占めに来たとか。
 あまりの大好評につき、お隣のシャルジャ首長国にも一昨日支店がオープンしました。このお店、いまや日本のみならず海外にも150店舗以上進出しているそうですが、中東ではドバイがはじめての出店なのだそうです

 

豊富な品揃えにこの安さ。いやー、海外生活者にとってこんなにありがたいお店はありません。そそっかしくてしょっちゅう食器を欠いてしまう私としては、とりあえず、ここで茶碗が買えることがわかって、とっても幸せ。「これで、茶碗も欠き放題だー!」と喜んでいる今、横で主人がすごくいやあな顔をしています。

 


2004年2月号

【 フード・フェスティバル

 

 今月は、子供の通うインターナショナルスクールで「フード・フェスティバル」なるものが開催予定で、現在その準備に追われています。これは、お母さん達が自分の国の料理を作って、生徒や来校者に振舞うというイベントです。会場では、さまざまな国の料理が国ごとにテーブルに並べられ、みんながバッフェ形式でとって食べます。料理を通して各国の文化を知り、交流をはかろうというのが目的ですが、食いしん坊の私はこの行事が毎年とても楽しみ。なんといっても、格安の入場料(20ディラハム=約600円)で世界中の料理が食べ放題なのですから。しかも、レストランなどで出されるものではなく、生徒たちが家庭で食べている普段の食事をお母さん達が作って出すので、これぞまさしく「家庭の味」です。

 

 

 私達日本人も、去年はお寿司やみたらし団子などを作り、大好評でした。 今日は、学校でその打ち合わせがありましたが、各国の代表者の出身国の多彩なこと。ベルギー、ノルウェー、パキスタン、フランス、韓国、エジプト、オランダ、ギリシャ・・・・。世界63カ国から生徒が集まっている、といううちの学校事情がよくわかります。
しかも、もっとすごいのが、ひとくちに出身国といっても、それぞれに事情があってなかなかどの国の料理チームに入るか決まらない人がとても多いこと。 私達日本人の場合、ほとんどが両親そろって日本人、おじいちゃんもおばあちゃんも、代々代日本人というのがほとんどですから、ことは簡単です。
 が、たとえば、オランダ代表のコレットは、本人はインド人なのですがご主人がオランダ人。本当はインドチームに入ってインド料理を作りたいけれども、家では子供とオランダ料理を食べることが多いので、今回はオランダチームに入りました。
 パキスタン出身ですが、アメリカに移民したので国籍はアメリカのウズマ。彼女は、どちらにするか悩んだ末にアメリカチームへ。
 スウェーデン人のご主人をもつフィンランド出身のコレットは、スウェーデンチームに入りたかったのですが、フィンランド人父兄が少ないため、PTAに請われて急遽フィンランド料理を作ることに。

 

 

 かと思うと、自分はカナダ人でご主人はエジプト人だけれども、ふたりとも20年以上イギリスに住んでいたので、イギリス料理を作ってもいいか悩むエレン。 その横では、「私は、この学校でただ1人のマダガスカル人なの。1人で大人数分の料理を作るのは無理。どうしよう。」と困り果てている女性がいます。
  他にも、イタリア人とパレスチナ人の両親の間に生れたが、それぞれの祖父母にまた別の国の血が入っているとか、マレーシア人だけれども、小さな頃から両親の仕事で世界中を転々としてきてマレーシアには一度も住んだことがない人・・・等など、なんとまあ、国際色の豊かなこと。つくづく「世界は広いなあ」と感じます。

 

 

 

 作る料理にしても、イスラムの国なので、アルコールや豚肉が含まれている物は表示しなければなりません。そこで、「学校のイベントで、子供たちも食べるのだから、どんな料理もアルコールを含むべきではない」という母親がいれば、「ケーキやタルトにラム酒をいれたり、料理にワインを入れるのはあたりまえ。それができなければ私は何もつくれないわ。」と応戦するフランス人のお母さん。「じゃあ、アルコールとかかないで、材料名にliquor(リカー)と書けば、子供にはお酒だってわからないからいいんじゃない」「そもそもイスラムの国でポークやアルコールを含んだものを出すのがまちがってるわよ。」と、会議はかなりにぎやかです。毎年不参加のイギリス人の話題が出れば、「そもそも彼らは料理できないじゃない。」といった暴言が飛び出して笑いを誘ったり(イギリス料理はまずいことで有名。イギリスの人、ごめんなさい)。

 

 

 食事といえば、我が家も、娘の友だちが泊まりに来るときは食事に気を使います。ハンバーガーを出したら、ベジタリアンだから食べられなかったり、ピザのペパロニを、いくら説明しても、「これは豚肉じゃないか」と疑ってどうしても口にできないイスラム教の子がいたり。かと思うと、わざわざ洋食を出すと、「寿司が大好きなの。作ってくれる?」とリクエストするアメリカ人。主食が同じお米なので、まったく気を使わなくていいインドネシアの子など、本当にいろいろです。常連の子は、だいたいの嗜好を把握しているのですが、初めての子が来る時は、まずどこから来た子か、まっさきに娘に確かめるようにしています。
  お母さん仲間でも、味噌汁を毎朝飲んでいるオランダ人がいたり(健康にいいからだそうです)、焼き鳥が大好きなアメリカ人がいたり、食を通してその人の意外な一面を知ることがあります。味噌汁の具にトマトを入れたり、巻き寿司にマンゴを入れたらおいしいんじゃないかと真面目な顔をしていう人がいたり、トッピングについては「????」と思うことも多々ありますが、中東でも、こんなに日本食がポピュラーであることには驚きです

 

 食は文化なりとはよく言ったもので、食べものを通して更に他国の人を理解できたり、意外な一面を発見できたりします。自分の国の料理を好きだといってくれると、それだけで親近感がわきますし、食べ物の話になると話題が盛り上がることもしばしば。
  というわけで、今月のフード・フェスティバル、食べることを通してまた新たな発見があるのではないでしょうか。楽しみにしている私です。

 

2004年1月号
【 ドバイ・ショッピング・フェスティバル
 1月13日より、いよいよドバイ・ショッピング・フェスティバルが始まりました。
毎年恒例のこのフェスティバルは、その名のとおり、ドバイ中のお店がいっせいにセールをするというもので、この期間、私達住民はもとより、外国からもどっと観光客が買い物に押し寄せ、ドバイ中がにぎやかになります。
 もともとドバイには、数多くのショッピングモールにフェラガモ、ティファニーといった有名ブランド店が一通りそろっており、税金がないことも加わって、一部の観光客には人気があります(最近は、日本人観光客の姿もよく見かけます)。それらのブランド店も、この時期いっせいに値下げをするものですから、ショッピングモールはこの時期どこも大混雑。駐車場を探すのに一苦労です。一通り買い物をすませたら、もう外に出るのはやめてひたすら家にいるのが一番無難・・・という声もきかれるくらいです。

 また、お店のセール以外にも、花火や大道芸、ミュージカルなど、さまざまな催しが街のいたるところで開催され、フェスティバルに花を添えています。
 中でも一番有名なのが、「グローバル・ビレッジ」と呼ばれるところで、特設の広い会場に各国のパビリオンが立ち並び、各国の特産物などを展示販売しており、いわば「ミニ万博」のような感じです。  私が訪れた日は、午後四時の会場時間にあわせて早めに出発したにも関わらず、会場のずっと手前からすでに大渋滞。しかも車のレーンが途中で急になくなったりと、道路整備も今ひとつ。狭い道にドバイ名物の無法者ドライバーが我先にとむりやり車をつっこんでくるので、あちらこちらでクラクションと怒声が飛び交い、私達も、となりのベンツと大声でけんかをしながらやっとたどりつきました。

 中はかなり広く、各国のパビリオンをめぐってさまざまな民芸品などを見た後は、屋台で中東名物のシャワルマ(グリルした薄切り肉をピタパンにはさんだもの)に舌鼓を打ち、子供はビレッジ内に特設された遊園地で遊んで、最後は打ち上げ花火のおまけまでつき、大いに楽しめました。

 

 遊園地では、ふだんはおとなしくしているアラブ人女性が、絶叫マシーンに乗ってアバヤ(全身を覆う真っ黒い民族衣装)をなびかせながらキャーキャー叫んでいたり、出稼ぎ労働者らしいインド人たちが、たぶん故郷の子供へのおみやげにするのでしょう、真剣に射的の屋台でぬいぐるみの景品をねらっていたりと、ふだん見かけるのとはまたひと味ちがった人々の表情をみることができたのも、新鮮でした。

 

 さて、このショッピングフェスティバル、2月の半ばまで続きますが、セール、セールと浮かれているため、つい財布の紐がゆるみがちで、結果として普段より多くのお金を使ってしまっていることに気づき、愕然としています。
 また、お店のほうも、割引をしない、または割引率が少ないと、お客が政府に通報して罰金を徴収されるそうです。街じゅう浮かれまくるこのシーズン、実は店のオーナーにとっても、お客にとっても、十分な注意が必要なようです

 

 

 



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神奈川県横浜の翻訳会社 D&Hセンター ドバイのホットニュース 2004年