神奈川県横浜の翻訳会社 D&Hセンター ドバイのホットニュース 2005年

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ドバイのHotNews(2005年1月〜12月)

 
2005年12月号

 

ドバイの思い出1 【 懐かしい人々 】

 

 早いもので、ドバイを離れて二つの季節が過ぎました。4年ぶりの日本の冬は寒さが身にしみて、「気分はもう南極越冬隊」の今日この頃です。

 そんな中、ドバイの友人たちから次々とクリスマスカードが届き始めました。海を越えて送られてくる色とりどりのカードは、だんだんと遠いものとなっていくドバイの生活を懐かしく思い出させてくれます。と同時に、国籍もさまざまな彼女たちの人生もカードから浮かび上がってきて、あらためて世界の広さに思いをはせることになりました。
 今回は、ドバイの思い出として、あちらで知り合った友人たちについて語ってみたいと思います。

 まずはラトビア人のマルタ。彼女は、長女の友達のお母さんですが、お互いに気が合ってすぐに仲良くなりました。カナダ人のご主人を持ち、子供をアメリカンスクールに通わせるごく普通のお母さんですが、若い頃は、常にKGBのスパイの影におびえながら暮らしていたといいます。当時は、ラトビアがまだソビエト連邦に属していたためです。
 以前、ラトビアの劇団で働いていた頃は、ささいな表現ひとつひとつに政府からチェックがはいり、政府の思想に反する箇所は削るように圧力がかかるので、表現の自由がまったくなかったこと。また、隣近所や友人、同じ劇団員の中など、いたるところに必ずKGBのスパイがおり、行動や思想を厳しく監視されていたので、国民はよけいなことはいっさいいわないように暮らすのがあたりまえだったこと、カナダ国籍のご主人と結婚してカナダへ行くときも、国民が海外へ行くことを快く思わない政府がなかなかパスポートを発行してくれなかったことなど、苦労話をよく話してくれました。

 密告を恐れて、公の場では個人的な話などせずに暮らすのがあたりまえだったラトビアと、自由で開放的なカナダは、あまりにギャップが大きく、外国暮らしをはじめた当初はカルチャーショックで精神的におかしくなりかけたそうです。外国に激しくあこがれながらも、幼いときから刷り込まれてきた共産主義教育の呪縛から逃れられなかったためで、美容院で、美容師が家族や出身地についてたずねるなにげない会話すら、「どうして、この人は会ったばかりの私の家族について聞いてくるんだろう」と、疑心暗鬼になったそうです。
 他にも、街へ出れば、みんながにこにこして「ハーイ」と挨拶してきたり、そういったことひとつひとつに、驚き、パニックする毎日だったとのこと。人の好意を素直に受け入れることができるようになるまで時間がかかったそうです。
 いまでは、そんな過去をまったく感じさせない彼女ですが、いまだに共産主義には懐疑的で、「ラトビアがソビエト連邦に属していたときは・・」と何気なくいおうものなら、「ラトビアはソ連に好きで属していたんじゃない。ソ連にそうするよう強制されたから、そうならざるを得なかったのよ。」といったこと。また、現在のロシアの大統領について意見を求めたとき、「ロシアのリーダーで信頼できる人は誰もいない」と言い切っていたのが印象的でした。
 現在はラトビアも独立し、国内の様子もずいぶん変わってきたようです。海外にも自由に行き来することができるようになり、去年の夏に里帰りしたときは、名産の琥珀のネックレスをお土産に買ってきてくれました。
 カードには、懐かしい字で、ラトビアに家を買ったこと、いつかはそこへ帰って暮らしたいと、書いてありました。

 

 

  やはり子供を通して知り合ったモロッコ出身のセレナは、超大金持ちです。3階建ての家にはエレベーターがあり、子供部屋だけで三つあり、公園のような庭にはガレージが5台分。2人の乳母と料理専門のメイドとガードマンを雇っていて、年老いたほうの乳母は、なんと彼女自身が小さい頃からずっと彼女に仕えているのだそうです。
 何不自由なく暮らしているように見える彼女ですが、実はイスラム教徒の夫は近所に住む女性を愛人にしてしまったため、そちらの家に入りびたりでめったに家に帰ってきません。離婚したいのですが、イスラムの掟で、女性から離婚する場合は、子供は置いて出て行かなくてはなりません。そんな彼女にパリに住む恋人ができたのですが、恋人と再婚してパリで暮らす決心がつきません。子供を連れて海外で暮らすことになれば、子供を溺愛している夫が許すはずがないからです。結局、子供と離れることのできない彼女は、かごの鳥のようにこの広い屋敷に暮らし続けているのです。
 それでも夫の母親がドバイを訪ねてくるときは、あちらこちらを案内してあげたりスポーツクラブに連れて行ったり、と一生懸命もてなしているのを見ると、「何もそこまで・・・」と思うこともありますが、これも一夫多妻制の文化の違いなのでしょうか。
 知り合ったばかりの頃、これだけお金持ちなのに、ホリデーはいつも家におり、家族で旅行にも出かけたことがないという彼女を不思議に思って、「どうして家族でどこにも行かないの?」と不用意に聞いてしまった一言が今も悔やまれます。
 カードによると、今度の休暇はパリに行って久々に恋人と会ってくるそうです。彼女がいつか子供と一緒にパリへ行ける日は来るのでしょうか。

 

 

  そのほか、故郷のイラクが政情不安定で里帰りできないファミリー・ドクターのアラク氏は、家族と離れ離れのまま新年を迎えます。
 何事も「インシャーラ(神様の思し召しのままに)」で、物事が迅速に運ばないドバイの生活が性に合わないイギリス人レイラは、今年ご主人の仕事の契約が切れるのでイギリスに帰れることを楽しみに待っていたのですが、本国での子供の教育費があまりに高すぎることが判明したため、やむをえず子供が学校を卒業するまで、契約を更新してドバイにとどまる決心をしました。かと思えば、太陽がさんさんと照るドバイの気候をいたく気に入ったフランス人の友人は、リタイア後の生活をドバイで送るため、コンドミニアムを購入しました。アトリエを共有していたオーストラリア人のアーティストのベルは、年老いた両親の介護のため、一年のうち半年ずつドバイとオーストラリアを行ったりきたりしています。ドバイを訪ねるときはいつでも部屋を提供するから、待ってるわよ!とかいてくれました。

 

 

  遠い中東の国ドバイでも、みんなさまざまな過去をもち、それぞれの事情をかかえて暮らしています。そんな彼女たちのたくましさをみると、日本の小さな家で、「寒い寒い」といいながらも家族5人で平和に暮らしている私の日常のささいな悩みなど、取るに足らないことのように思えてきます。
 現在の生活に満足している人にも、悩んでいる人にも、等しく聖夜は訪れます。どうかすべての人が、よいクリスマスを過ごせますように・・・!


 Have a Merry Christmas and a Happy New Year!!

 

2005年8月号

 

【 さよなら、ドバイ 】

 

 4年間の滞在を終え、いよいよ帰国の日がやってきました。
長いようで短かった中東での4年間、思いかえせば本当にいろいろなことがありました。
あまりの暑さに、飛行機のタラップを降りた瞬間、親子そろって鼻血を出した赴任当日。他の車のあまりのスピードの速さに、汗びっしょりになりながらハンドルを握ったフリーウェイ・デビューの日。制服が大きすぎて、だぶだぶだった娘たちの初登校日・・・。
4年後の今、40℃の暑さにも慣れ、暴走運転のハイウェイ・ドライバーたちとのけんかも上手くなり、いつしか長女の身長は私と同じくらいになりました。

 

 

 感傷に浸っている暇もなく、帰国の準備は多忙を極めました。友達はすべて外国人ばかりで、日本人が周りに一人もいない、という環境で4年間過ごした娘たちは、すっかり外国人になってしまいました。彼女たちの帰国後の生活も考えなければなりません。けれども、当面の問題は、膨大な引越し荷物の山。もって帰る荷物には制限があり、家財道具のほとんどを処分しなくてはなりません。けれども、そこは貧富の差の激しいドバイのこと。どんなにぼろぼろのものも、壊れたものも、庭先にだしておくと、あっという間に誰かが持ち去り、5分後にはきれいさっぱりなくなっています。
 少し状態のいいものは、思い切ってガレージセールを行うことにしました。が、これがまた大変。始まる前から、門の外には近所のメイドやうわさを聞きつけて遠くからやってきた出稼ぎ労働者たちが鈴なりになっており、門を開けたとたん文字通りダッシュで品物に突進。家の庭は、まるでデパートの婦人服売り場のバーゲン会場さながら。殺気すら感じます。アメリカにいたときのように、ビールを飲みながらのんびりお客さんとの値切り交渉を楽しむ・・・なんてことはここではありえず、ほんの30分ほどで、出してあった品物はほとんどすべてなくなりました。あまりの人の多 さに、コンパウンドのガードマンまで「大丈夫?」と心配して様子を見に来たほどです。
灼熱の日差しに、有無を言わせない強気の値切り交渉、中には洋服の下に品物を隠して持っていってしまったり、家の中に入って売り物でないものまで持っていってしまう人もいるので、目が離せません。その合間にも、親しかった友人たちが、次々に別れの挨拶に訪れてくれたりして、短い間とはいえ大忙し。「ガレージセールするの?勇気あるねー。」と言ったイギリス人の友達の言葉の意味がようやくわかったのでした・・・。
けれども、たとえ足が一本ない椅子や、壊れたスピーカーでも、必ず引き取り手がいるのには驚きました。どんなものも捨てられることはなく、この国には無駄なものがひとつもないのです。粗大ごみを捨てるにも、お金を払って引き取ってもらわなければいけない日本は、本当に豊かなんだなあ、としみじみと思いました。
 次は愛車パジェロの売却。4年間、世界一死亡率の高いフリーウェイを走り続けた相棒です。その走行距離14万5000キロ!われながら、よく走ったと思います。それだけでなく、この相棒は、交通ルールをまるで無視のドバイの無法者ドライバーたち相手に、ときに並んで走りながら窓をあけてそのマナーのなさをののしり、ときにはぶつけられてけんかをし・・・と共に戦い続けてきた、いわば戦友のようなものです。売却する日の朝、みんなでパジェロの前に立って、記念写真をとりました。交渉が成立して中古車屋に置いてくるとき、ちょっとだけ涙が出ました。


 

 いよいよ帰国の日。ドバイの飛行機発着は夜中の2時です。私の友達3人が、朝からホテルに来てくれて、車に乗る瞬間まで最後のひと時をすごしました。涙もろい三女のオランダ人の親友も、「空港でさよならをいうと泣いてしまうから」と、ホテルまでお別れを言いにきてくれました。空港に着くと、夜中にもかかわらず、長女の仲良しグループの友人たちと次女のエジプト人の友達がゲートで待っていてくれました。みんなでハグをして、記念写真をとり、最後は涙を流しながらみんなの大好きな歌手の歌を大声で歌って大騒ぎし、周りからじろじろ見られるのもなんのその、そのままゲートに入るまで歌い続けてくれました。「このまま私をここに捨てていってもいいから、ドバイに置いていって。」と最後まで言い続けていた娘の顔は、涙でくちゃくちゃでした。

 

 

 私は、離陸する飛行機の窓から、遠ざかるドバイの夜景を見て、4年前、初めてドバイに着いた日を思い出していました。あの時も、着いたのは夜中の2時ごろ。こうやって、黒々とした闇に沿って明かりが点々と続いているのを見て、ずいぶん大きな川が流れているんだな、と思ったのです。今の私は、それがただの川ではなく、ドバイを二分する大きなクリークだと知っています。そして、その中ほどには人の立ち入ることのできない自然保護区があり、ひっそりと人知れず、フラミンゴが羽を休めていることも知っています。それだけでなく、この灼熱の砂漠の小さな国に、どれだけたくさんの人が世界中からやってきて、その人たちがそれぞれどんな暮らしをし、どんな言葉が話されているかも知っています。それらの言葉を話す人々のふるさとの文化についても、ある程度は知っています。これらは、本で読んだ知識でなく、すべて私や娘たちが、この4年間の経験を通して知ったことです。
 今、その「経験」は、「思い出」という形で、私や娘たちの気持ちを激しく揺さぶっているけれども、この先、いろいろな形に姿を変えて、きっと私たちを支えてくれる。そういう確かな思いを感じています。あるときは「自信」、あるときは「財産」として・・・。たとえこの先、どこで暮らすことになっても、この目に見えない宝物を忘れないでいよう。そう思います。

 

  気づけば、クリークの灯ももう見えなくなりました。さようなら、ドバイ。そして、ありがとう!

 

2005年5月号

 

【 テイラー 】

ドバイの女性が必ず一度は行くところ、それがテイラーです。 
 「テイラー」とはそのものズバリ、「仕立て屋さん」のことで、ここで注文すると、自分の体のサイズに合った洋服を作ってもらえるのです。
 「オーダーメイドでドレスを作るなんて!」という声が聞こえてきそうですが、そんな高尚なものではなく、こちらでは生地や仕立て代が安いので、みんな普段着を買うような感覚で作ってもらっています。
 手順はいたってシンプル。テイラーも生地屋も、たいてい手芸用品を扱っている地域にかたまっているので、まず生地屋で気に入った布を買い、そのまま近所のテイラーに持っていって、約一週間でできあがり。
 仕立て代は、店にもよりますが、安いところだとシンプルなワンピースやパンツで50dh(約1500円)。高いところだとその倍くらいしますが、それだって、3000円と思えば、物価の高いドバイでは、生地代を入れてもお店で買うより安くあがります。おまけに、自分の体のサイズにぴったりあったものができるのですから、使わない手はありません。なんといっても、世界中から人が集まっているドバイでは、自分にぴったりの既成服を探すのは至難の業なのです。特に、日本人はやせていて小柄なので、ヨーロッパからの輸入品の多いデパートでは、合うものがあまりありません。

 ただ、縫製は下請けの人がすることがほとんどなので、仕上がりにムラがあるのがたまにキズ。
 最初は、一回でピッタリのものが仕上がったので、気をよくして続けて頼むと、今度はぜんぜん身体にあわなかったり、縫製がよくなかったり・・・というのはよくあることで、そのたびに「お直し」に出します。「お直し」はたいてい翌日にはできあがるので、翌日取りに行くと、まだ仕上がっていなかったり、出来ていても、またまたサイズがおかしかったりで、何度も通わなければならないこともあります。テイラーのある地域は、住宅地からは遠いので、ちょっと面倒なのですが、安さにはかないません。
 一番確かなのは、既に持っている気に入った既製服を持ち込んで、色違いなどのコピーを作ってもらうこと。これは、パターンをまねするだけなので、間違いがあまりありません。自分のデザインしたオリジナルの服を作ろうとすると、うまくできる場合もあるのですが、写真や実物がないとうまくイメージが伝わらず、テイラーのセンスで作られてしまうので、妙に古臭いものができてきて、がっかりすることもあります。
 私達のように普段着をつくってもらうひともいれば、結婚式などパーティー用のドレスを頼む女性もいますし、スーツを頼む人、子供の服を頼む人、学芸会の服を注文する学校の先生など、様々な人が来店します。インド人女性は、サリーを作ってもらいによく通っています。ですから、お店の中には、さまざまな色、種類の服が所狭しとかかっており、さながら洋服の博覧会のようです。
 この仕立て屋さん、あちらこちらで見かけますが、私がよく行くところは、サトワと呼ばれる、ジュメイラに近い地域にあります。ドバイニュースに載せるといったら、ポーズをとってくれました(写真参照)。


 お店は、たいていどこも似たようなつくりで、1階がお店で、カウンターに試着室がひとつ。はじっこに急な階段があって、2階はお針子さん(といっても男性ですが)たちの仕事場になっており、いつもミシンの音が聞こえてきます。どのお店もこじんまりとしています。
 店の表は、美容院と同じで、イスラム教徒の女性が姿を見られないように、真っ白に塗られているか、ブラインドを下ろして中がまったく見られないようになっています。(イスラム教徒の女性が試着したドレスを鏡でチェックしたり、服の上からサイズをはかってもらうのにアバヤを脱ぐからだと思います。)
 たいてい5日〜1週間くらいの短期間で仕上がりますが、クリスマスシーズンは、白人女性がクリスマスパーティーのためのドレスをいっせいにオーダーするので大変混みあいます。また、学期末も、プロム(卒業ダンスパーティー)のドレスをあつらえるハイスクールの女の子達が殺到しますし、夏休み前も、帰省するメイドたちが、自国の家族へのお土産に洋服をつくりにきたりするので、これらの時期は、出来上がるまでに1ヶ月から3ヶ月かかることも珍しくありません。ですから、ハイシーズンは、随分前から注文をしておくのがかしこい利用法です。
 このように、何かと便利なテイラーですが、唯一の難点は、冬服を作れないこと。冬用の生地を売っていないのです(たまにツイードやコーデュロイの生地が入るとすぐ売切れてしまいます)。こればかりは、常夏の国ですから仕方ありません(笑)。
 

 

2005年4月号

 

【 イブン・バットゥタ・モールOPEN 】

  イブン・バットゥタ・モールOPEN 開発ラッシュに沸くドバイに、続々と新しいショッピングモールがオープンしています。 今回紹介する「イブン・バットゥタ・モール」もそのひとつで、4月13日に、ジェベラ リ地区にオープンしました。
有名なアラビア人探検家の名前を冠したこのモールは、広大な敷地と人目を引く外観、 そして美しい内装が大変印象的です。
モールは、エジプト館、チュニジア館、ペルシア館、インド館、中国館、アンダルシア 館と、6つの建物からなっており、それぞれの建物はその地域の建築様式を用いて設計さ れています。
中には、260以上の店舗の他、「ジオン」というフランスの巨大スーパーマーケットと I-MAXシアターを含む複合映画館が入っています。

 

  モール内の天井には空が描かれており、アラブ風の町並みが屋内に再現されています。 通路は道路のようになっており、パーム・ツリーや標識が配置されていて、なんだか、テ ーマ・パークのアトラクションの中にいるような雰囲気です。窓がひとつもないという設 計も、この雰囲気作りに一役かっているようです。
  個人的には、もっとも印象的だったのは、美しい内装です。アラビア風のランプや飾り 天井、ペルシャ風のタイルなど、ところどころにエキゾチックな雰囲気をかもし出す演出 がなされており、ライトアップされたそれらの美しさに、思わず何枚も写真を撮ってしま いました。

  お店も、「ナイン・ウェスト」や「M.A.C.」、「Sketchers」など、主だったもの がそろっており、ネイルサロンやヘアーサロンもあります。ドバイ中心部にある他のモー ルのように高級ブランド品の店はないのですが、その分私のような一般庶民にとって使い 勝手の良い品揃えがありがたいです。
  娘たちは、今までお隣のシャルジャ首長国まで行かないとなかった、アメリカのプリ・テ ィーン用の洋服専門店「Limited Too」があることに大興奮。私は、良心的な値段の巨大ス ーパーマーケット「ジオン」のおかげで、もうフリーウェイで50分かかるダウンタウン の「カルフール」まで通わなくてもよくなって、大満足。

  そう、実は、このモール、私の住むコンパウンドからは車でたったの2分。
今まで私の住むジェベラリ地区は、ドバイの一番端っこにあり、うちからお隣のアブダ ビ首長国まで住宅はひとつもない、という「陸の孤島」だったのです。住所を聞かれるた びに、「えー!あんなところにコンパウンド(集合住宅)があったの?」とよく言われたも のですが、当然、今までは訪れる人も少なく、静かなひっそりとした地域でした。それが、 住んで4年目にしてやっと陽の目を見た、というか、スポットライトを浴びるようになっ て、孤島の住人だった私は感慨ひとしお・・・。

 

  考えてみれば、町の中心から遠いこの地域では、何処へ行くにもフリーウェイで30分、 1時間、はあたりまえ。世界一死亡率の高い道路を連日長時間運転するストレスは相当の ものでした。
「カルフール」に行かなくてよくなったのはもとより、これからは週末ごとにフリーウ ェイで往復一時間かけてジェメイラの「メルカート・ショッピング・モール」(以前紹介済 み)まで子供を映画に連れて行かなくてよくなったし、最近は、ドバイよりのお隣のイン ターチェンジにも巨大コンパウンドが建設され(以前ここで紹介した「レイクス」です)、 友だちも随分引っ越して来たので、子供の友だちや私の友人を訪れるのも楽になりました。 ヘアーサロンも、このモール内のお店に変えれば、時間の節約になります。運転する機会 が減れば、無法者ドライバーとのけんかに神経をすり減らすこともなくなるでしょう。ド バイの僻地に住んで4年目、これでやっと、私の生活も文化的になりそうで、もう本当に、 素直にうれしい!!です。
と、いうわけで、今回のモールのオープンは、ドバイの開発ラッシュを一番身近に感じ ることのできた出来事でした。

 

 

 

2005年3月号

 

【 ラクダレース 】

 

  3月11日金曜日の早朝、念願のラクダレースに見に行くことになりました。
 ラクダレースは、気候の涼しい冬の間のみ開催される、ドバイではとても人気のある伝統スポーツです。
 ドバイの中心を貫くシェイク・ザイード・ロードから車で10分ほど走ると、左手に広大なラクダレースのトラックが見えてきます。これが、レースの行われるネッド・アル・シバ競技場です。このあたりから、たくさんのラクダが道路を横切るようになり、車は
ラクダたちが渡り終えるまで、しばし止まらなければなりません。砂漠の中の何十頭ものラクダの隊列にベドウィン風の衣装の男性達。その壮観な景色は、まるでスターウォーズの映画の撮影を見ているようで、しばし感動。
 

 

 

 ところが、競技場に入ってショックなことを発見。曜日を間違えたのか、この日はあいにくトレーニングの日で、残念ながらレースは行われないとのこと。道路で渋滞を引き起こしていたラクダたちは、レースではなくトレーニングに向かうところだったのです。道理で周りはアラブ人ばかり。ただ一組、外国人の私達は浮きまくっていました。けれども、せっかくここまできたので、トレーニングの様子を見学していくことに・・・・。
 
 レース場のトラックは、トレーニングの順番を待つラクダたちでいっぱいです。こぶには色とりどりの毛布をかけられていますが、これは、朝つゆで大事なラクダが風邪をひかないように、との配慮です。

 

 「砂漠の船」にたとえられるラクダは、大変高価な動物で、家畜用だと1頭約15万円〜、レース用の血統の良いラクダだと、3000〜6000万円もするそうです。ですから、アラブ人にとっては、ペットとして立派なラクダをもつことはひとつのステイタスでもあります。
 イスラム教では、コーランで賭け事が禁止されているので、レースではお金が賭けられることはありません。けれども、優勝したラクダのオーナーには、シェイク(首長)から、賞金や、車などの豪華賞品が贈られます。
 トラックはかなり広く、一周20kmくらいはありそうです。その広―いトラックを、短い棒のようなムチを振りかざしながらラクダを操るアラブ人たちを見ていると、大昔のベドウィンたちはこうやって砂漠でラクダを駆っていたんだなあ、と感慨深くなります。それほどまでに、その姿は背景の砂漠にマッチして、美しく、勇壮でした。

 その中で、驚いたのは、ヘルメットとベストを着用してラクダを操る小さな子供たちがとても多いこと。そう、ラクダレースのジョッキーは、5,6歳の小さな子供達なのです。けれども、この子供たち、パキスタンなどの周辺諸国から誘拐されてきて、違法ではたらかされているの子がほとんどだそうで、その悲惨な待遇がアラブ諸国で長い間問題になっています。私も、2,3年前、新聞でこの問題に関する記事を読んだことがあります。
 そのせいか、今回ラクダや大人たちの写真はOKでしたが、子供たちの写真を撮ろうとすると、親方らしき人に「ノーピクチャー!」と、強い口調で軒並み断られてしまいました。後でアラブ人の知り合いに聞くと、やはり「この年齢の子供をジョッキーとして働かせているのは違法なので、写真を撮られて外国に流されるとまずいのだろう」といっていました。
 けれども、当の子供たちはとても無邪気で、片言の英語で「I love you!」などといっせいに話しかけてきます(それでも、オーナーから厳しく言われているせいか、カメラを見るだけで、「ノー!ノー!」と大声で叫ぶのには参りましたが)。

 

  なぜ子供のジョッキーが重宝されるかというと、競馬と同じで体重が軽ければ軽いほど早く走れるからです。
遊びで乗る場合と違い、競技では、騎手がラクダのこぶの上ではなくこぶの後ろに乗るので、その不安定な姿勢で、体重の重い大人が騎乗するのは無理なのだそうです。そこで、自然と体重の軽い子供たち、特に5〜6才の子供たちがジョッキーとして活用されるのですが、このラクダレース、1レースに45分〜1時間くらいかかる上に、落馬した場合は、95%が死亡するという非常に危険な競技です。低年齢の子供を働かせているというだけでも違法なのに、その仕事がこのような危険を伴う、というのは、やはり大きな問題です。

 

 政府も長年のこの懸案事項にようやく腰をあげたらしく、偶然にも、私達が見に行った3日後、新聞にこのような記事が載りました。
「4月16日以降、16才以下及び45キロ以下のラクダレースのジョッキーは法律で禁止とする。政府は、T6才以下のジョッキーを働かせているラクダのオーナーに、ただちに彼らを故国に帰すように言い渡した。」
 今後は、子供ジョッキーの姿を見ることもなくなるのでしょう。

 さて、このラクダレース、本番では、幌つきの観客席で、アラブ人、外国人に分かれて観戦します。席が分かれているのは、別に深い意味はなく、観客にあまりにアラブ人が多いので、外国人が違和感を感じないように、との配慮だそうです。もちろん外国人はアラブ人席に座ることもできますが、アラブ人が外国人席に座ることはできないそうです。
私達も、次は是非、観客席に座って本物のレースを見てみたいと楽しみにしています。

 

 

2005年2月号

 

【 マディナ・シティ 】

 開発ラッシュに沸くドバイに新しい名所が誕生しました。
このドバイ・ホット・ニュース第一号でもお伝えしました世界唯一の七つ星ホテル、バージュ・アル・アラブに隣接したマディナ・シティです。
 このマディナ・シティは、去年オープン済みのミナ・サラーム・ホテルと、新しく完成したアル・カサール・ホテル、ダレル・マシヤ・ホテル、そしてこの三つのホテルをつなぐ200余りの店を有するスーク(市場)からなる一大複合施設です。
 これだけでも話題性は抜群ですが、必見はこの中を流れる人口運河。本物の海水を引いているこの運河の水には海がめが泳ぎ、その上を中東のゴンドラと呼ばれる渡し舟アブラが優雅に行き交っています。ホテルもスークも、昔ながらのアラブ風外観となっており、ゴンドラの浮かぶ運河とあいまって、その景色はまるで映画のワンシーンを見ているかのようです。初めて訪れる人は、まずこの美しい光景に驚かされます。

 

 巨大スークは、デイラ地区にある昔ながらのスークをもっとおしゃれで高級にした感じ。内装は昔ながらの飾り天井をつかうなど、アラビアン・ムード満点。品揃えもパシュミナ、ペルシャ絨毯、ランプ等アラブ特有のものに加えて、ネクタイや子供服、高級チョコレート、紅茶などを扱う店があるのが特徴です。なによりも、屋内スークなので、猛暑の夏も冷房の効いた涼しいところで買物できる、というのが大きな魅力です。全体的に値段は高めですが、これらの利点を考えると、それを補って余りあるものがあります。

  それにしても、200もあるお店をすべて回るのはかなり大変。スーク内は、なるべく昔のままの雰囲気をかもしだすよう、曲がりくねった通路に小さなお店がこちゃこちゃと入り組んで並んでおり、最初に行った時は何度か道に迷い、歩きすぎて足が疲れました。そんなお客のために、一休みできるスターバックスなどのカフェがいくつかあり、お腹がすいた人には、おいしいシーフード料理を出すレストランやステーキの店まで、ちゃんと用意してあります。
 カフェの近くにあるコンピューターやカメラのお店は、いつでもデジカメ用の電池を買い足したりできるので、観光客には便利です。ちなみに、ホテルの宿泊客は、アブラでホテル内の施設やスークへ移動することができます。

 スークでつながっている三つのホテルはどれも五つ星の高級ホテル。お隣のバージュ・アル・アラブ・ホテルに負けず豪勢です。特に、できたばかりのダレル・マシヤは、ホテルというより、プライベート・コテージのようなつくりの滞在型ホテルということで、話題を呼んでいます。運河に面したアラビアン・デラックス・タイプの部屋は、3つのコテージごとに、ひとつプールがついているので、ハイ・シーズンでも込み合うことなく、プールサイドでゆったりと過ごすことができます。各部屋に執事がついているので、用事があるときもコンシェルジェにわざわざいく必要もありません。室内は65平方メートルで、広々しているし、入り口から部屋まで誰にも見られることなく出入りできるようになっており、宿泊客にとっては、ホテルというより、自分の家にいる感覚なのでしょう。
 アブラに乗ると、バルコニーでのんびりお茶を飲んでくつろいでいるコテージ宿泊客の姿が見られます。(見られると落ち着かないのでは・・・?と思ったりするのですが、お金持ちはそんなことは気にしない?鷹揚にこちらに手を振ってくれちゃったりします。)
ホテルの向こうには、あの有名なバージュ・アル・アラブ・ホテルのヨットの帆型の優雅な姿が見え、リッチな気分を倍増させてくれます。

 この他にも、シェイク・ザイード・ロードを挟んでこのマディナ・シティの向かいには、人口スキー場、中東最大のカルフール、屋外劇場を含む大施設、「モール・オブ・エミレーツ」が現在建設中。以前紹介しましたドバイ・マリーナ・シティもすでにオープンし、ヨットハーバーを見ながら食事の楽しめるニュースポットとなっています。去年から続いている工事も少しずつ全体像が見えてきて、変わりゆくドバイからますます目が離せません
 

 

 

2005年1月号

 

【 スマトラ沖地震によせて 】

 年末に発生したスマトラ沖地震は、スリランカ、インドネシア、インドから働きにきている人が非常に多いドバイでも、大変身近で衝撃的なニュースでした。
 ちょうどその翌日、大掃除を手伝いに来てくれる予定だった近所のメイドが、「今日は悲しくて、とても働く気分になれません。」と言いに来ました。彼女の出身はスリランカです。実は、地震のニュースを聞いてから、まっさきに思い浮かんだのが、いつも陽気で明るい彼女のことでした。幸いなことに、彼女の家族は高地に住んでおり、被害をまぬがれたそうですが、海側に住んでいた友人一家が行方不明だそうです。また、何人かのメイド仲間の家族が津波にまきこまれて亡くなり、その仲間達はすでにその日の飛行機でスリランカに向けて発ったと言っていました。
 実は、私達家族も、地震の4日後に被災地のひとつを旅行で訪れる予定でした。私達が泊まる予定だったホテルも津波の被害にあい、まさにほんの数日の差で難を逃れました。その上、当初の予定では、ちょうど地震のあった26日の朝、当地に着くということだったのです。もし予定を変更していなかったら・・・と思うと恐ろしくなります。
 ドバイに住む外国人は、このクリスマス・シーズンは自分たちの国へ帰ったり、他国へバケーションに行く人がたくさんいます。特に、この季節、暖かい海のリゾートは人気の的です。私や子供の友人、学校の先生たちの中にも、被災地に帰省中の人、またはそちらの方面へ旅行に出かけた人がおり、彼女達の安否を気遣って何とも落ち着かないホリデーとなりました。

 

 そして、今日、ようやく学校が始まりました。
 長女のスウェーデン人の友だちは、叔父さんと叔母さんを津波で亡くしました。
 スリランカへ帰省していた次女の友人は、津波の被害をうけておらず、大丈夫でしたが、親しくしていた隣人の妹親子がビーチに行っており、亡くなりました。
 三女のカナダ人の友人は、タイに旅行に行っており、津波が来た時、お父さんがその子を助けようとして両足を骨折、その子のお姉さんもあばら骨を骨折し、お母さんもあちらこちら擦り傷ができたそうです。
 体育の先生のMr.Bは、ちょうど津波が来た時にスリランカで山登りをしていて、山の上から津波が見えたといっていました。
 休み中もずっとドバイにいたインドネシア人の友人Tは、当地の親戚たちはみな被災地から遠くにおり、大丈夫だったそうです。
 冬休み中、グロサリーストアで偶然会った音楽の先生のMiss Pは、「これからインドへ行く」といっていたので心配していましたが、北部の方だったので被害には遭わなかったそうです。
逆に、私達も、私達が旅行へ行くことを知っていた人達に、ずいぶん心配をかけていたようで、Miss Pは、「インドであなた達のことをずいぶん心配したのよ。」と言っていました。また、フランスに帰っていた友人も、心配してフランスから電話をかけてきてくれました。
 ともかく、今日、皆が無事に学校に戻ってきて、お互いの無事を確かめ合いました。

 災害が発生してからずっと、こちらでは、毎日のように家に救援基金の募金箱が回ってきます。昨日は、近所のインターナショナルスクールの生徒が、寄付を募りにやってきました。学校ぐるみで募金活動をしているそうです。
 スーパーマーケットでは、スリランカを応援するためか、スリランカ産野菜のコーナーを特別に設けてあります。
 今日の時点のCNNニュースでは、死亡者の合計が140,000人以上と発表されていました。今回の災害は、クリスマス・シーズンのリゾート地という条件も重なり、日本人も含め、本当にたくさんの人が亡くなりました。助かった人達の間でも、感染症などの二次災害や弱い者を狙った犯罪が発生しているといわれています。
 自然の力の前には、人間はこんなにも無力ですが、それでも各国からボランティアも集まって、生き残った人達はみんなで力を合わせてこれからの道を懸命に探ろうとしています。
その一方で、大義名分や宗教的理念のために、罪のない民間人を誤って殺傷したり、自らの命を捨ててまで他人の命を奪い続ける戦いがつづいている国もあります。

 どうか、被災地の方々が、一日も早く、元の生活に戻れる日が来ますように。そして、どうぞ、今年一年、世界が平和でありますように。
 そう願いながら、募金箱にお金を入れる娘たちの小さな手をそっと握り締めました。

 

*娘の学校から来たベーク・セール(家でお菓子などを焼いてきて売ること)のお知らせ
各家庭でお菓子を作って学校で売り、売上を津波の被災地の学校送ります。
「価値のあることをしている」という自覚をもたせるため、できれば子供だけの力で作るようすすめています。

*上の娘の学年では、新品の洋服を家庭から持っていって、それを寄付します。
洋服を持っていった子は、その日だけ制服でなく、学校に私服を着ていってもいいことになっています。

 

 



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神奈川県横浜の翻訳会社 D&Hセンター ドバイのホットニュース 2005年