サニーサイド・ダークサイド(全4回予定)

@適当にアメリカン
チビチリガマを後にして,次にシムクガマに向かう。雨の中,とりあえずはかねひでのある分岐点までは戻る。で,次はどう行こうか。ガマが象のオリの下にあるという話は聞いているので,とりあえず象のオリには向かいたい。そして,そのまま読谷補助飛行場跡を通って,国道58号線に出たいのだ。なので,上り坂はどっちみち上がることになる。
あるいはもう1回,さっきの雑貨屋(前回参照)に戻っておばちゃんに聞き直そうか。でも,おばちゃんに怪訝な顔をされて「あんな遠くまで行って,また象のオリに行くなんて……」と思われるのも何かイヤだ。間違いなく自意識過剰なだけだろうが,これでも人にモノを尋ねるのは,結構勇気が要るタイプである。ここは,自力でシムクガマを探すことにしよう。
分岐点からは同じ道を戻るのもつまらないと思って,路地に入る。初めは家が多く立っていたが,上に行くに従って,さとうきび畑と亀甲墓・破風墓,残りは草地のみって感じになる。特に,墓は傾斜を利用してかなり規模も数も大きく,中には家の建替工事さながら,大工さんが来てネットを張ったり針金を張り巡らせたりしているところもある。本土の墓は長細い墓石のみだが,こちらでは墓をどうにかするのも一大事だろう。
何度も書いているが,沖縄の人にとって墓は“もう一つの家”である。この間,面白いがしかし「なるほど」と思うことを本で見たのだが,墓が草の生え放題でボウボウなのをよく見るが,それは不幸が久しい間なくて平穏な証拠なのだという。逆に墓がキレイだと,不幸が最近あったか,はたまた不幸が連続している証拠に見られるという。事あるごとに墓に出入りすることになって,その度にキレイにしなくてはならないからだ。ただし,さすがに壊れて放ったらかしでは先祖に罰が当たるというもの。いくら金がかかるのかは知らないが,本土で墓石を補修するよりは確実にかかるであろう。
やがて象のオリに着く。オリの西側から見るのは初めてだ。正面から見たときは,妙にそこだけが広いコンクリート道を前にしたせいか,かなり無骨な印象を持った。対して,こちらは思いっきりジャリ道で,周囲は草地のみ。だからかやや無骨さが和らいで見え,田舎にある電力会社の変電所っぽい感じすらする。ちなみに道は近道なのか,ジャリ道のくせして農耕車以外ではない普通の車の行き来がある。
このまままっすぐ行けばよかったのだが,ひょっとしてシムクガマは斜面に沿ってあるんじゃないかとか思って,せっかく上った坂を下り,しまいには県道まで出てしまったのだが,一向に何もなかった。こんなものなのだ。仕方なく,信号のある交差点まで行ってから,不毛にまた上り坂を上ることに。すると,ギリギリ車がすれ違える程度の狭い通りなのに,車が20台ほど連なっている。上のほうに何があるのかと思ったら,何かセレモニーホールっぽいところから大量に車が出ていた。何をやっていたのかは分からなかったが。
やっとこさ数百mある坂を上って,再び象のオリに。今度は正面からのショットだ。この1月以来2度目(「沖縄“任務完了”への道」第4回参照)。しかし,今回は何と門が堂々と開いているではないか。しかも,警備員らしき人間は1人もいない。あるいは1歩だけでも中に踏み入ってしまおうかと思ったが,フェンスの上にある,どう見てもライトにしかみえないヤツが何か特殊な仕掛けでもあるんじゃないかと妄想して,結局引き下がる。小心者。
ちなみに,外側のオリから数十m歩くと,さらに内側にオリがある。多分,重要なものはその内側のオリの中にあるのだろうから,このオリから1歩でも入ってしまったところでテキトーに「知らなかったんです」とごまかせば,何もなかったかもしれない。そもそも,誰もいないのがいけないのだ。あるいは,そんな私の心理でも確かめているのだろうか。『ホテル・ハイビスカス』の主人公みたいに無邪気なガキだったら,基地のフェンスの破れたところから入っていって,中で無邪気に遊んでいたりしても,米軍のお兄さんに「キヲツケテネ」と片言の日本語で返されてメデタシメデタシとなりそうだが,さすがにいまの私では,射殺されたうえに治外法権を多いに利用されてしまうこと,間違いなかろう。

さて,既述のとおりシムクガマが象のオリの下だというから,この周辺でウロウロしようかと思ったが,時間は16時台も半ばとなっている。別に今日泊まる「ゆがふいんおきなわ」に何時までにチェックインすると言っているわけではない。むしろここまでで私のほうがそれなりに歩き疲れている。そして,もうあと1〜2kmは歩かなくてはならないのだ。ここは素直に読谷村役場方面に向かいたい。
周囲はさとうきび畑のみ。何も遮るものがないほどひらけている。それでも,たまにちょっとした茂みがあったりすると,懲りずにのぞき込んでみるのだが,結局ガマらしきものはないままであった。後で家に帰ってからいろいろと確認してみたら,象のオリの東側にあったようだ。しかも,かなり大きいらしく,周囲にもいくつか点在しているらしい。ただ,細い路地を入って突き当たりから,さらに畑の中を歩いていったその奥という,やや分かりづらい位置にあるようだ。
まったく,これでまた読谷で来なくてはならない場所が増えてしまったが,それがいつになるかは分からない。なので,前にも書いた(「沖縄・8の字旅行」後編参照)ことを承知でどういうガマかを書いておくと,中にいた1000人もが全員助かったという幸運な出来事のあったガマである。状況はチビチリガマと同じく,米軍兵に投降を呼びかけられたところから始まる。
では,なぜ幸運だったかというと,この1000人の中にハワイ帰りの人間が2人いたからだ。その2人が「米軍兵は民間人を殺さない」と説いたため,中にいた人間はいきなりパニックにならずに済んだ。そして,その2人が米軍兵にかけあい,めでたく全員無事に脱出と相成ったのだ――なんてことを,6月23日の「News23」でもやっていたので,それと重複してしまうのがちと悔しい限りだが,たしかその番組で筑紫氏は,チビチリガマの悲劇の結論は「皇民化教育の悲劇」と説明していたと思う。すなわち,前回も書いた「鬼畜米英思想」の顛末である。
ただ,私はこれに関しては「?」である。もちろん,シムクガマの中にハワイ帰りの人間がいなかったらどうなっていたかは分からないが,130人でも1000人でも,数は違えど人間は複数いたわけだ。人間1人だと“限界”はあるのだが,複数人いれば選択肢はいろいろと増えるはずである。となると,結局はその場にいた人間の判断力であり,その判断力の拠り所になる環境の差であったと思う。もちろん,時代の差はあるにせよ。現在の日本人が客観的にこの状況を見ていたら,やっぱり前回も書いたように「んな,バカな」と思うところがあるのではないか。
そして,こう書くと厳しい言い方なのかもしれないが,誰か1人でも勇気を持って「投降しようじゃないか」と言っていたならば,必要以上に人は死なずに済んだとは言えないか。ただし,これまた繰り返すが,これだけ口ではいろいろ言えても,いざホントにその場になったら私が冷静になれるかは分からない。同じ目に遭って「やっぱり歴史は繰り返すものだ。それ見たことか」と,次世代から酷評されるだけかもしれない。
それでも言うならば,ときどき事あるごとに出てくる「日本の危機管理能力」は,元を辿れば1人1人の危機状況での判断力の積み重ねであることは間違いあるまい。この二つガマで起こったあまりに対照的なエピソードから学ぶべきは,「『悲劇を繰り返すな』とひたすら声高に叫ぶ」ことではなく,「悲劇を繰り返さないために普段から何を身につけるか」なのである。
――話が思いっきりズレた。役場へ向かう道路を歩いていると,のどかな畑の前で,しばしば白い立て札に何か書かれているのを見る。内容は,その立て札が立っている辺りの土地は,日米合同委員会で“返還”予定のため,来年3月までに耕作者は土地を“返還”せよ,さらには建物類もすべて撤去せよというものだ。那覇防衛施設局・在沖米海兵隊・読谷村の連名である。ただでさえテキストでは感情が表れにくいと言われるが,その数行のテキストは,なおさら冷たい印象を受ける。これについては後述したいが,まさしく沖縄と米軍との複雑な歴史の象徴である。ホントに来年3月になったらどうなっているのか,興味深いところではある。

やがて,そののどかな畑の中をひたすら歩き続けると,読谷村役場が見えてきた。レンガ色の屋根に白壁と格子状の造りが特徴的で,「ふれあい交流館」なる建物など大きないくつか連なっている。ま,得てしてどんな村でも「せめてお役所だけは…」って思うのか,建物自体は2〜3階建てにはなっているのだが,よく見ればやっぱり予算がないことを表すかのごとく地味な建物が多いものだ。道路を挟んで反対側は緑に覆われていて,公園になっている。テニスコートがあって,そこから出てくる人たちとすれ違ったりもした。
前回も書いたが,だてに人口4万人近く抱える「村」だけはある。県の条例では,8000人を超えると「町」に昇格できる資格があり,実は50年前からそれをクリアしているそうだが,前村長の山内徳信(やまうちとくしん)氏――上記「News23」にも登場していた――は,住民と最も密接な関係にある「村」の単位こそが地方自治の原点だと言い切り,村の中に昇格の気配はないようだ……と,森口豁氏『沖縄 近い昔の旅』のちょっと受け売りになってしまったが,どうやら昨今では,市町村合併の流れが出てきつつあるようだ。一昨年,読谷村と嘉手納町・北谷町で合同の消防本部「ニライ消防本部」が発足されたそうだが,これがどうやら合併を見越してのものらしい。もっとも,消防本部をどこの自治体に置くかでもめたりしたそうなので,いわんや合併をや,というシビアな意見もあるらしいのだが。
その建物を挟むように,不自然なアスファルトの2本の帯が南北に長く走る。西側は片道1車線の道路になっていて,真ん中に当たり前のように車線を分けるオレンジのラインが敷かれている。そして,もう1本の東側はその数倍はある広さを持つが,車線は敷かれておらず,道は1.5車線程度だ。これらは読谷補助飛行場である。現在は米軍がパラシュート降下などで使用していて,訓練日以外は人々の出入りが許されているらしい。車が両方の道を普通に往来しているのを見ると,今日は訓練日以外……というか,土日だからさすがに米軍もきちっと休みを取っているということか。
元々,この一体は普通の農耕地だったようだが,当時の日本軍が用地買収命令を出し,敷地内にいた一般人は強制立ち退きを余儀なくされたようだ。今まで歩いてきた付近はすべてこの飛行場の土地になったようだが,どおりで今でも何もなく平坦になっているわけである。で,飛行場建設を続けていた日本軍であるが,あっさりと米軍の攻撃で壊滅的な状況に陥ってしまったという。
さて,なぜここに訪れたかったかと言えば,ここが“特攻”の行われた場所だからである。その特攻で黒焦げになった遺体の写真が,豊見城市にある海軍司令部壕跡の資料館に飾られていて(「久米島の旅」第4回参照),その場所を見たいと思ったからだ。上記の西側の帯のほうがその場所になっていて碑もあるようだが,残念ながらそれは見なかった。正式名は「義烈空挺隊玉砕之地(ぎれつくうていたいぎょくさいのち)」。上記写真のキャプションにも書かれているが,米軍に接取されてしまった飛行場に飛び込むことで,米軍の攻撃能力を削いで時間稼ぎをするために行われたようだ。
さて,先ほど読谷補助飛行場は米軍がパラシュート降下などで使用していると書いた。ということは,軍の施設の中に村役場があることになる。しかも,ご丁寧に現在も使われている場所の中に入るのである。ここでまた山内氏が登場してくるのであるが,彼はいわば故意にこの場所にいろんな施設を建てたようだ。1974年に村長に就任した彼は,この飛行場の土地返還を考えた。もちろん,理想はあくまで返還であるが,そう簡単には返してくれない。なので,今度は日米地位協定の“隙間”を利用した。それは「軍民共用」である。
何でも日米地位協定には,米軍が施設を利用していないときは日本国(民)が臨時に使用することができる条項があるという。しかも,幸運なことに建物を建ててはならない旨の規定がなかった。そこに着目して,まず1988年に造られたのが平和の森野球場(役場の隣にある)。そして,いま建っている村役場の庁舎を1998年に建てたというわけだ。どおりでキレイな庁舎だったわけだが,こうして次第に軍用地を減らしていこうという魂胆である。すでに17時過ぎ,夕暮れ時になった大きな滑走路の上で車が普通に行き来していたのも,東側の滑走路との交差点脇で,たこ焼き屋のワゴンが停まってのどかに営業していたのも,いわば山内氏の努力の賜物なのである。

ちなみに,2002年3月現在で,読谷補助飛行場の返還土地面積は195.5ha。山内氏の努力が徐々に実を結んでいるとはいえ,いまだ190.7haが軍用地ではあるが,いよいよ来年5月にはすべてが返還される方向のようだ。まったく,勉強不足で恥ずかしい限りだった。そもそも象のオリが1999年に正式に返還合意と移転が決まっていて,それに伴って飛行場の土地も返還されるというのだ――そうだったのか。この1月に象のオリに来ているのだが,その時点で返還を知らなかったのは何とも情けない……と,勝手にブルーになってみたりする。
その象のオリの土地使用期限が切れるのが来年5月なので,それまでに象のオリの移転と飛行場の返還が実現できれば,というのが真相らしい。読谷村にとっては当然めでたいのだが,その一方で,象のオリの移転先に近い恩納村喜瀬武原(きせんばる)区(隣接する金武(きん)町との境あたり)の住民が反発しているなど,前途は必ずしも明るいばかりではないようだ。完全に消滅するわけではなく,「あっちが立てばこっちが立たず」ということで,どこかが助かる代わりにどこかで犠牲を強いられるのが,この米軍基地問題の根深さでもある。もちろん,その来年5月にホントに実現するのかってのも,今までの経緯からするとちょっと疑ってしまう。
で,ちょっと話が前に戻ってしまうのだが,のどかな畑の前に立っていた返還云々の立て札は,この補助飛行場の返還のことを指していたのだ。すなわち,あの畑はすべて読谷補助飛行場,すなわち米軍基地の土地であり,そこで耕作している人たちは,いままで耕作を“黙認されていた”のである。この土地を「黙認耕作地」というそうだが,表向きは「立ち退け」と言っていても,黙認している以上は旧地主への返還の意図が少なからずあるからこその黙認だったのである。
ただし,ここで少し複雑な問題が生じる。その返還予定地では270人が耕作しているそうだが,何とその半分が飛行場の地主関係者“以外”なのである。自分の所有する土地で耕作している者については,問題ナシであろう。しかし,そうでない者,すなわち元々誰かの私有地だが,那覇防衛施設局(≒国)に言葉は悪いが“巻き上げられて”米軍へ“借用された”結果“微妙な位置付け”となっている土地に,勝手に入り込んで耕作をしている者は「返還までに出ていくように」という扱いになり,それまでの黙認はなくなってしまうということなのだ。土地の返還後は,読谷村が国から一括して土地を買い上げ,旧地主と調整しながら農業振興事業を進めていく予定だという。
これに対して「黙認耕作者の会」(というのがあるようだ。以下「会」とする)は,これまで農地の払い下げや補償について国や県に要請。村は地権者である国と補償金の支払いなどについて調整を進めたが,法的根拠がなく,国が「補償せず」との立場を崩さず,村も補償をしないことを決めたという。黙認耕作者に対する説明会は行わずに,立て看板にてその旨を通告することに決まったのだ。
あのテキストの正体は,こういうことだったのである。「3月まで」というのは,撤去後の整備期間を含めているのか,あるいは返還まで2カ月の猶予期間があるということか――ちなみに,現村長は「返還された土地は地権者に返すのが筋」としている。この一方的な通告に対して,会は「話し合いもなく立て看板を立てるのは順序が違う。国有地を一生懸命耕して農業をしてきたのに納得がいかない。農業を続けるためにも国から払い下げてもらいたい」と話している。
でも,地権者ってそもそも誰なのだろうか? 言わずもがな,国ではなくて旧地主であるはずだ。旧地主ではない“第三者”が弾かれてしまうのは,ある意味勝手に入り込んだわけだから仕方がないとするのは分かる。「その土地の“旧地主”に許可を得て耕作している」にしても,一度は防衛施設局の手に渡っている以上は,法的にはその許可は効力がないと言えるだろう。会の言い分をあえてうがった言い方をしてしまうと「たとえ形は“不法侵入”でも,その後それを償って余りあるだけの働きをしているのだから,何とかしろよ」ということに映るからだ。
しかも,村が国から土地を買い上げてしまったら,何より一番浮かばれないのが旧地主なのではないか。「自分の土地で自分の好きなように耕作する」という,当たり前のことができないかもしれないのだ。村は旧地主の意向は汲み上げるとしているが,彼らが「やっぱり今までどおり耕作をやっていきたい」と言ってきたら,それを素直に受け入れられるのだろうか。この辺りが村が主張する“調整”という言葉の難しさだろう。そして,彼らが地主関係者“以外”の者に土地を提供していたとして,その者から「実は土地の賃借代をいくらかもらっていて,それが収入源にもなっているので,彼らにも耕作させてほしい」なんてことになったら,ますますややこしいことになりはしないだろうか……などと勝手に想像してみる。

(1)プロローグ
さあ,後は国道58号線に向かうのみだ。北東に進路を取れば,喜名(きな)バス停に辿りつくはずである。補助飛行場の東側の滑走路にて道は突き当たるが,そこから先も歩道はあるようだ。なので,そこを突っ切って,畑の中の道を入っていく。左側すなわち北側を見ていると,一定した車の流れが見える。おそらくあれは大通りだろう。厳密にどこを歩いているかなんて,地元民じゃない限りは分からない。なので,とりあえずその流れを目指して歩く。
20分ほど路地をさまよって,東西に走る片道1車線の大通りにぶつかった。ん? 国道っぽくないな……右側にバス停があったので確認すると「座喜味(ざきみ)入口」とある。早速地図で確認すると,どうやら単純に北上してしまったようだ。地図では,先にある二股に分かれる道で左折すると,喜名よりも一つ北側の親志(おやし)入口バス停に行けるようである。
さらに歩いて数分,二股というよりは左に細い道が出てきて「←読谷やちむんの里」という看板が出てきた。その細い道を入った先に“やちむんの里”もあるので,ここを入っていく。道は細い上り坂で,住宅地の中に入っていくようだ。ちなみに“やちむんの里”とは,焼物(やちむん)を造る陶芸家の工房が集まったところ。そういえば,会社の先輩が見に行きたいと言っていた気がする。その里へは,住宅地の中の道をさらに左折して,急坂を上がっていくようだ。もう1回「←読谷やちむんの里」という看板が出てきて,その坂に何か色が塗られていたと記憶する。集落の奥の奥に創作場所を構えているあたりが,いかにも陶芸家というか芸術家らしい。
ようやく親志入口バス停に着いたのは,17時半ちょっと前。そして,名護行きの20系統のバスが着たのは10分ほどしてから。やれやれ,これで後は終点の名護バスターミナルまで向かうのみである。今日は,バスを必要以上に待たずに済んだのは幸運であった。気まぐれに降ったり止んだりしていた雨も,完全に上がったようである。

バスは恩納村に入ってしばらくすると,ひたすら海岸線となる。名護まで約25kmほどこれが続く。バスの中,座っているのは当然,この景色を見越して左側すなわち海側である。そして,左車線だからさらに海に近いところを走っている。
目の前に予定通り広がるのは,紛れもない夕暮れの海岸線である。天気は北上するにつれて回復してきて,すっかり青空になった。時間帯の割に陽が高くて空は明るく,加えて認知度も高いゆえ,プライベートビーチ的雰囲気も少し薄れているが,それでもこの美しさは本土の比ではない。ひたすら歩き続け雨に悩まされた疲労感と,シムクガマが見つからなかった落胆も,これで吹っ飛ぶというものである。これを見てしまうと,本土の海岸は,湘南であれ伊豆であれ行けなくなってしまう。ホントに沖縄に来る機会が増えてから,本土の海岸には足を運ばなくなってしまったくらいだ。
でもって(いきなり登場だが),耳に流れてくるのは杉山清貴とオメガトライブ『RIVER'S ISLAND』,カルロス・トシキ&オメガトライブ『へミングウェイに会いたくて』。時代はいずれも十数年前になるが,この海岸線で聴くには古臭さは微塵もなく,そのポップで爽やかなメロディは,火照った身体には清涼剤となる。「おあつらえむき」という言葉はこのためにある,って感じだ。その間に入った,これまた古いが松田聖子の『ハートのイアリング』の飾り気がないシンプルでミディアムな楽曲,こっちは最新だが,平原綾香『歌う風』のちょっと癒しが入ったミディアムテンポも,それぞれよかった(「ORIGINAL MD 139」参照)。
……と,完全にこの(私にとっては)最高なシチュエーションにひたすら浸っていられればよかったのだが,どうにも落ちつかない。これではせっかくの景色も魅力半減となってしまう。この景色を楽しみたいどころか,とっとと着くべきところに着いてほしいとすら思えてしまう。適当に身体を右へ左へ向きを変えつつ,何とかやり過ごしてみる。
そう,恥ずかしながらトイレに行きたくなってきたのだ。那覇空港に着いてすぐトイレに行った記憶はあるが,それ以降は行っていない。水気のあるものを飲んだのは3度。牧志公設市場の「道頓堀」でお茶を少し(第1回参照),北谷の出店でココナツミルク(第2回参照),そして読谷の大当にある雑貨屋で飲み物を買った(前回参照)。今から考えれば,チビチリガマの赤瓦のトイレ(前回参照)に入っておけばよかったが,そんなこといまさら言ってもしょうがない。
しかも,厄介なことに足まで痺れてきた。身体がどこか硬くなってしまっているのだ。別にバスはこの後も20分ほど待てば来るはずだから,恩納村のテキトーなバス停で降りて,トイレに駆け込んだとしても,特に今後に支障が出るわけではない。あるいは,途中に出くわした「御菓子御殿」という首里城っぽい赤い建物の巨大なお菓子専門店で,ウィンドウショッピング兼…みたいな感じにしてもよかったのだが,なぜか降りてしまうと,この先どうにもならなくなってしまうとか思って,ひたすらじれったい思いをするだけである。
それでも,何とかやり過ごして名護市内に入った。バスも幸運なことに渋滞にはまったく巻き込まれずに済んだ。地図を見ると,この先の世富慶(よふけ)バス停付近に「A&W」がある。看板がオレンジと茶色のリングになっていて,沖縄ではよく名前を聞くこの店だが,私は未経験である。夕飯をホテルのレストランで食べるのも何か不毛である。あと数分かかるバスターミナルまで我慢せず,A&Wで“すべての用事”を済ませるべく,ここにて下車する。
時間は18時半。それでも空は,東京の17時くらいの明るさだ。やはりそれだけ西に来ているということか。何とか痺れた足をひきずって,歩くことわずか数mほど。かねひで(前回参照)とローソンが見えた。あとA&W まで100mはあるが,もはやそこまで持つか分からなくなってきた。ここはとり急ぎローソンに入って用を足す。

この辺りは,途中にあるトヨタレンタカーで一昨年の冬に車を借りている(「沖縄標準旅」第3回参照)ので,1回立ち寄った記憶のある場所だ。郊外型の巨大店舗がいくつか連なっていて,交通量が激しいが,その反面中心部の商店街はいまいち寂れてしまっている。その中心部で泊まらない限りは,おそらく通過されてしまうだけだからだろうか。
A&Wは,その商店街に入っていくバス通りとの分岐点に立っている。本社はBig Dipと同様,これまた浦添市の牧港。1963年に第1号店が開店したそうで,実は東京・銀座にマックの第1号店ができたのが1971年だから,それよりも8年早く沖縄はアメリカンファーストフードに触れていることになる。本土からとかく「遅れを取っている」と言われる沖縄だが,その本土がいち早くキャッチしたいであろうアメリカ風土には一足も二足も早く触れているというのだから,面白い話である。
中はいわゆるファミレスっぽい造りで,100人は楽に入れる広さがある。しかし,座席は意外と空いている。実は外の駐車場にメニュー板みたいなの(「キャノピー」というそうだ)があって,どうやらそこに車を横付けしてインターホン越しに注文すると,店員がそこまで持ってくるシステムになっているようだ。精算もその場で可能で,1台ごとにあるから後ろに続いている車を気にしなくてもいい。これはドライブスルーとは違う“ドライブイン”というシステムらしい。でもって,買ったらとっとと立ち去れというものではなく,その場でずっと居座ってもいい(要するに,その場で食べていてもOK)ということだ。こうであれば,わざわざ店内に入ることはないわけだ。
ちなみに,エイアンドダブリュではなく“エンダー”と地元民は呼んでいるそうだ。この響きからして,全野郎 in 沖縄のうちの数%は必ず“エンダーーーーーイヤーーー”と,smapの中居正広みたいなことをやらかしているに違いない。しかも,中居正広みたいな高い声じゃなくて,思いっきり野太く地味な声でも……私も多分やってしまう口だろうが(嗚呼…),大元のホイットニー・ヒューストンが聴いたら,さぞガッカリすることだろう。ホントは感動的なサビのはずだから。
さて,造りはどうみてもファミレスなのだが,一応はファーストフード店である。ということは,先に注文して精算をしなくてはならない。レジに少し待つ時間があったので,このスキに壁に貼ってあるメニューを見てみると,やはりルートビアが一番ウリのようである。しかも飲み放題という。脇でルートビアをお代わりする客もいた。加えて,ハンバーガー類もそれなりにある(というか,こっちがメインか…)ので,ここは“コンボ”形式で注文しよう。
……ってことで,今回注文したのは「ビッガーDXベーコンチーズバーガーコンボ」(665円)。サイドメニューは,まずポテトはカレー味の「カーリーフライ」と,名前はスーパーだがどうみてもノーマルな「スーパーフライ」のうち,後者を選択。そして飲み物はやはりルートビアである。S・R・Lと3種類あって,私はSにしようかと思ったら,コンボではR(レギュラーサイズ)だという。このあたりは“エンダーシロート”であることをさらけだしてしまったが,まあ,今度またここに来るわけじゃないからいいや。
とりあえず,広い店内の中から小心者なので2人席に座る。ビッガーDXベーコンチーズバーガーは,レタス・たまねぎの千切り・トマト・ベーコン・チーズにハンバーグと,普通のハンバーガーだが,全体的に具材が大きいからDXということか。味は普通の塩コショウと,あとは野菜のドレッシングのみ。まずまず。あと,スーパーポテトは上述のとおり(コンボではSサイズ)である。
そして,ある意味でメインのルートビアだが,「アメリカ人のRサイズは,日本人のLサイズ」の定説よろしく,中ジョッキくらいのグラスにはなみなみと黒い炭酸水が注がれている。早速,味わってみるが……何じゃ,これ。まるで消毒液じゃん。臭いもどこか古い建物の臭いがする。“ビア”といってもノンアルコールだから,飲みすぎた後を心配する必要はないが,こんな“消毒炭酸液”を何杯もおかわりなんてできるものなのだろうか,アメリカと沖縄の人たちは,って印象を持つ。ノドの渇きと,ハンバーガーやポテトの塩気があるから,ある程度まではグイグイ行けてしまうだろうが,後はちょっぴりスリルを味わう感じだ……あ,そういや,これでカロリーってどのくらいあるんだろうか?

ちなみに,そのルートビアの原料は,ゆり科の植物であるサルサパリラ,甘い香りのバニラ,そして根っこのシロップが整腸作用や不眠解消をもたらすというマシュマロウ,咳を抑える効果があるという甘草に,何種類かのハーブが入っているという。コカコーラやペプシコーラのようにカフェインがなく,加えて保存料が入っていないというから,それを聞く限りでは健康にはいい飲み物であるようだ。うーん,あんなに消毒液っぽいのも,漢方薬を飲んでいると思えば有り難いわけで,健康のためなら致し方ないと思うべきなのか。
何でも,創設者の1人であるロイ・アレンという人物が薬局の店員だったとき,病気療養中の友人に何を持って行ったら喜ばれるかということで,自ら材料を調合したオリジナルドリンクを作って持って行ったら好評を博したのが,このルートビアの始まりだそうだ。そこから味にさらにアレンジを加えていまの味になって,ジューススタンドで売られるようになり,やがてもう1人の創設者であるフランク・ライト氏と,ファミリーネームの頭文字を取って「A&W」を創設したということだ。
まあ,こういう“典型的な感動的エピソード”で,すっかりお馴染みになったらしきルートビア。でも,いくら健康によい飲み物であっても,ハンバーガーやポテトというコレステロールの高い食べ物を置いてしまったら,あまり意味がなくなってしまいそうである。それらファーストフードをバクバク食べたあげく,ガブガブとルートビアを何杯も飲んでしまい,見事に効果が相殺されてしまうどころか,かえって不健康な肥満になってしまい,故郷の輩よろしく裁判沙汰になるんじゃないかと思ってしまうのは,私だけだろうか。(第5回につづく)

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