サニーサイド・ダークサイド(全4回予定)

(1)プロローグ
@適当にアメリカン
バスは北谷町に入ると,左側に郊外型の店舗,右側にはキャンプ瑞慶覧とキャンプ桑江の二つの米軍基地が広がる。基地は町の面積の半分以上を占めるのではないだろうか。町域とどっちがメインなのか分からないくらいである。それを象徴するかのごとく,基地の中に町役場があったりもする――当初の目的通り,まずはこの町で途中下車することにしようか。
13時5分,桑江バス停にて下車。北谷で見てみたい場所は3ヶ所。うち,ここから海岸線に歩いたところにあるサンセット・ビーチと,その周辺にある“アメリカン・ヴィレッジ”が,まずは目的地となる。大きな店舗の駐車場を通り抜け,1本路地を入る。地図を見るとバス通りのようであるが,車両の数はぐっと減って国道の喧騒はまったくない。そして,道をはさんで向こうに大きなショッピング・モールが広がっている。元々は米軍の射撃場であったところが20年ほど前に返還され,そこを埋めたてたりして,現在のような街並みまでになったようである。
さて,目的地は桑江バス停よりも南に位置する。なので,南に向かって歩いていくと,左にある駐車場の中に萱葺き屋根の小屋が現れる。ホントに“小屋”と呼ぶにふさわしい大きさだ。ソフトクリームやソフトドリンクを売っているようで,その中から「ココヤシミルク」の文字が目に入る。牧志公設市場で胃にスペースを残しておいた(前回参照)のは,こういうものにめぐり合うためなのだ。
早速店に入ると,40代くらいのおばちゃんと二十歳前後と思われる男性の2人で切り盛り……というか,どうも男性は入りたてのようで,私がココヤシミルクを注文すると,ドリンクの入れ方のレクチャーを受けている。「このボックス(と,目の前の銀色のボックスを指す)に氷を入れてください」なんて会話が聞き取れた。そして,何をどうしたのかよく分からないが,1分ほどでプラスチックのMサイズほどのカップにベージュ色の液体が入って出てきた。300円。他にもタコライスなどの軽食(というか,本格的かも)があったり,ちょうどカウンターには,焼いた餅らしき物体がパックに入って置かれている。
ココヤシミルクを飲みながら,しばし歩く。味はインドのミルクティーの“チャイ”っぽい感じもするが,ココナツのほどよくまったりとした甘さが実に美味い。口に含むと“つぶつぶ感”があるが,ココナツを粉砕でもして,その繊維か何かだろうか。それがまたいい。美味さであっという間に中身は空となった。コップにラベルが貼ってあったので見てみたら,「うおうお茶屋」と書かれていた。多分,後でヤフーで検索しても出てこなかったから,個人経営の店なのだろう。
那覇で降っていた雨は上がっていた。しかし,どんよりした雲はなかなか取れず,今にもまた降り出しそうな感じである。カバンを肩から下げているとはいえ,手に折り畳み傘を持つのはいささかうっとうしい。歩くときにはできるだけ身軽でいたいので,開いた傘を再び折り畳むことにする。

いよいよアメリカンビレッジだ。観覧車があり,シネマコンプレックスがあり,ボーリング場があり,アメリカンカジュアルな店が多い。そして,もちろんレストランとファッションには事欠かないようにできている。さらには,いっちょまえにウッドデッキがあり,パラソルがあり,ベンチや丸テーブルがある。全貌を見ると,それはお台場にも,福岡ホークスタウンにも似ている。
その中から入ってみたのは「AMERICAN DEPOT(アメリカン・デポ)」という店。茶色い建物に,入口が手書きみたいに微妙に震えた直線を描いている。いわゆる“アメリカ・カジュアルファッション”の店である。ここで明日の下着類とTシャツを調達しようという魂胆だ。あるいは,100円ショップという選択もあるのだが,この後でそういう店に寄っていられる時間がある保証はない。また,100円ショップのものって,例えばTシャツなんかはピチピチの,いかにも下着っぽいものばかりに出会うことが多くて,たまにはちょっとお金を出して,それなりに肌触りとゆとりがあるTシャツが欲しくなったのだ。そもそも古いヤツばかりとはいえ,下着をやたら旅先で捨てることが多かった。大分ストックが少なくなってきたので,そろそろ補充をしておく必要もある。
中はというと,まあホントにアメリカンって感じだ。天井が高くて薄暗く,店内は私には誰が歌っていても同じに聞こえるようなヒップホップがかかっている。何も沖縄は北谷に来てまで入るような店でないことは重々分かっているし,“目的”がなければ間違いなく見向きもしない類いの店かもしれない。いわば“アメリカンビレッジ訪問記念”みたいなものである。
結局,中を20分くらいウロウロして,濃いグリーンのTシャツ(950円),ボディワイルドの下着(1050円),黒靴下(367円)の3点お買い上げ。Tシャツなんかは「アメリカものだから,Mサイズが実は日本人のLになるのか?」と一瞬思ったが,いまさら店員に聞くのはヤボに思えたので,ひとまずMサイズとして「大は小を兼ねるでもOKとしよう」となった(後で着たら,ちゃんと日本人サイズのMだった)。まったく繰り返しになるが,どれもこれもホントに東京で手に入れられるものばかり。ちなみに,後で確認したら中古の店だと書かれていたが,私が買ったものは間違いなく新品のはずだ。
さらに海側の建物に進む。いろいろと目移りするが,前回書いた“入ってみたかったレストラン”のある「シーサイドスクエア」という建物に入る。クリーム色の2階建て,その建物と同じくらいの高さの椰子の木が立っている辺り,いかにも南国風である。そして,その壁に大きく四角い看板で「南国食堂」と書かれているそここそ,私が行ってみたかった場所である。
オープンエアーのエスカレーターを上がると,3軒のレストランが連なるが,その一番右にモザイク柄のアーチ門,赤いネオンライトで「south island diner」と書かれている。中をくぐれば藁葺き屋根となっていて,アーチ門とレストランの玄関で,それぞれ赤いインコがお出迎え。中は写真で見る限りカフェ風の作り。まさに名前の通りの店だ。時間は13時半過ぎだが,客は結構いる。オムレツ,ピザ,煮物,チャーハンなどの定番から,沖縄そば,もずくなどの沖縄フードも多く,食べ放題で1000円。しかし,隣にある赤を基調にした「太陽市場」が,メニューこそ洋食っぽくなるが820円。もちろんバイキング。あるいは,安さに引かれてこちらに流れたりしちゃうのではないだろうか。
さて,なぜこの「南国食堂」に行きたかったかといえば,理由はめっちゃ不純。ここのオーナーが,かつての“誠意大将軍”こと,タレントの羽賀研二氏だからである。初めはやはり名前で入る人が多かったようだが,最近は味でお客を獲得しているという。桜庭あつこ嬢との騒動,梅宮アンナ嬢との破局以来,すっかり落ちぶれてしまい,最近ではトンと姿を見なくなったが,破局のきっかけの一つにもなった数億円と言われる借金を返すべく,こういう店を経営するなどして地道な努力しつづけているということだろうか。あるいはその姿を見るかと思ったが,別のスタッフこそ見たが,残念ながら彼を見ることはなかった。
もはや,彼には芸能界の華やかさも,プレイボーイの称号も必要でないだろう。借金もかなり返済していると聞くが,それがゼロになって,「故郷の沖縄で恩に報いられれば,それで十分」という“心域”(と書いて「こころいき」と勝手に読むことにする)に達してこそ,ホントの意味での“誠意大将軍”になれるのではないだろうか。

外に出ると再び雨が降ってきた。数分前に折り畳んだ傘を,不本意ながらまた開く。そして,歩いて向かう先はサンセット・ビーチだ。陸上のトラックみたいな入江となった人工ビーチで,両端は数百mはあろうか。天気のせいか,砂浜で水着姿の人はほとんどいない。海の向こうにはぼんやりと煙突や建物が見えるが,まさか蜃気楼ではあるまい。ちゃんとした,地名でいうと浦添あたりの工場の煙突であり建物であろう。海岸線がそれだけカーブを描いているということで間違いない。
近くにあるテントでは,3組の団体がバーベキューをしているようだ。おそらく好天することを期待して出てきたのかもしれない。ジュージューという音がかすかに聞こえ,一瞬だが食欲をそそる。まったくもって,彼らにとっても無情の雨であるに違いない。これが,時間も天気もホントのサンセットビーチだったら,肉も野菜も魚も酒も,また格別に美味いのだろう。
周囲は,海に向かって右に「サンセット美浜」という保養所が見える。そこの敷地にあると思われるプールにはウォータースライダーがあるようで,子どもの声がする。湿気で蒸し暑さがあるとはいえ,陽射しのない中では少し寒いだろう。目の前の海でも,わずかだが泳ぐ人が数人いるが,彼らもまた好天を期待していたのだろうか。はたまた,カンカン照りでは泳ぎにくいから,こういう曇天のときこそ“泳ぎ時”……ということは,まさかあるまいか。
そして,左後ろにはノッポなビルディング。初めは高層高級マンションかと思ったが,どうやら「ザ・ビーチタワー沖縄」というホテルのようだ。来月7月15日の開業で,地上24階建てという。でもって,ホテルそばにこのアメリカンビレッジがあり,遊びたいときショッピングがしたいときは,好きに出向けばよい。また,ビレッジの中心にはジャスコがある。長期滞在がしたければ,そのジャスコで食い物でも衣類でも,好きに仕入れればよいという作りになっているのだ。
まさしく,この場所では“おしゃれなリゾートライフ”が実現と相成るわけで,近日中に那覇空港からリムジンバスも通るという。まだまだスペースはありそうだし,そのうちホントに高層高級マンションでも建って,ゆいレールが延伸したり……は,さすがに行き過ぎか。でも,昔は北谷の北に位置する嘉手納町まで鉄道が走っていたというし,まったくあり得ない話ではないかもしれない。

@適当にアメリカン
ひととおりアメリカンビレッジを見終わって,次の三つ目の目的地を目指す。町の北端・砂辺(すなべ)地区にある「クマヤーガマ」である。ちなみに“ガマ”とは,自然洞窟のこと。で“クマヤー”の意味……はよく分からないが,第2次大戦時に一般ピープルがこのガマに避難して連合軍の攻撃から身を守ったという場所である。北谷町役場のホームページを見ていたら,このガマが掲載されていたので,見てみたいと思ったのだ。このガマというやつは,戦時中のいろいろな人間模様が描かれた場所であるが,それがまた訪れたいきっかけとなっている。詳しくは後述したい。
さて,そのクマヤーガマへは,初め桑江バス停まで戻ってバスで北上し,最寄りバス停の砂辺バス停で下車して徒歩…と思っていたのだが,いかんせん雨が鬱陶しいし,桑江バス停までは数百m歩かなくてはならない。さらには,クマヤーガマの場所は正確な地図では載っていなかったので,町役場のエリアマップから推測して自分の持参した地図にマーキングした。しかし,その場所だって正確と言える保証はない――ということで,近くにあるタクシー乗り場からタクることにした。中は50代くらいの,少し髪がボサボサな男性運ちゃんである。
「すいません。クマヤーガマまでお願いします」
「……はて……どこですか?」
え,知らないの?って感じで,こちらが思わず拍子抜けしてしまう。一瞬,何とも言えない沈黙が走ったが,「分からないです。聞いたことないです」という。仕方なく,気を取り直して持ってきた地図を取り出し,「この辺りです」とマーキングの場所を指差す。まさか,私の地図がここで登場するとは思わなかった。彼は30秒ほどその場所をじっと眺めていたが,「なるほど,分かりました」と言ってようやく発車と相成った。
車はそれらしき方向にスムーズに進んでいく。何となくだが,そのスムーズさが「なんくるないさ」の気持ちにさせてくれるから,この島の空気は不思議だ。これが東京だったら「ざけんなよ,それでよくタクシー乗ってられるよな」と,下手したら文句の一つも出そうなものだ。さしずめ,例えは古いが植木等氏の「銭のないやつぁ,オレんとこへ来い,オレもないけど何とかなるさ」みたいなものか。そんな中,「そこは何があるんですか?」と運ちゃんが話しかけてきた。
一瞬,素直に答えたほうがいいのかどうか迷った。ホームページの文面そのままにでも,素直に第2次世界大戦でこのガマが使われたことを話せばよかったのだろうが,“そんな場所”にどう見ても地元民とは思えないヤローが何しに行くのか――そんな文句の一つも言われやしないかと,ミョーに自意識過剰になってしまった。
「……いやね。“ガマ”って,沖縄の方言で洞窟って
ことなんですけどね」
どうやら,そこまで気にする必要はなかったようだ。なので,素直に第2次世界大戦で使われたこと,それが町役場のホームページに載っていたことを話すと,感心したような感じだった。そして,
「いやー,この辺ではガマっていうとですね,“チビチ
リガマ”ってのが有名なんですよねー」
と言ってきた。なるほど,チビチリガマはもう少し北の読谷にあるガマであるが,やっぱりこの辺りでも有名なのか。私もその存在を知っている。そして「集団自決があった場所ですね」と向こうもその存在を分かっている。さらに,
「北谷では“○○(名称は忘れた)の碑”というのは有
名なんですけど,他にはこれと言って何もないとこで
すから……その,クマヤーガマっていうのは初めて聞
きました」
と付け加えてきた。彼が地元の人間かどうか詳細は聞かなかったが,案外,こういうガマの存在自体を知っているのは,外部すなわち本土からの学術研究者や観光客のほうが多いかもしれない。それこそ,戦時中か戦前に生まれてガマに入った(厳密には「入ることを余儀なくされた」)人には分かるだろうが,それだって「たまたま,そこのガマがあったから」という理由かもしれない。
戦時は非常時だ。地元民だけでなく,いろんな場所の人間が混ざり合って,攻撃から逃れるためにやっとのことでガマを見つけたことだろう。名前なんてそのときいちいち確認するでもなく,戦後になってそこから出られて,何かの折に当時を振り返る段になって「ああ,あそこはそういう名前なのか」というケースだってあるだろう――いや,これが案外一番多かったりして。ましてや,この運ちゃんが仮に戦後生まれだとしたら,親から聞くくらいでしかガマの存在なんて分からないとなっても,ごく当然なのかもしれない。あるいはガマに入らずにどこかに疎開していたとなれば,なおさらのことだろうなどと勝手に想像する。

さて,車は住宅街の間の狭い路地を通り抜けて,どこかの角を曲がると公園の前でストップした。
「ここが……たしか地図の場所で間違いないと思うん
ですけどねー」
しかし,周囲にそれらしきものはない。左にはテニスコートらしきものが見え,前方にはこんもりした茂み,右には空地と金網っぽいのが見える。まさかこんもりしたところが……いや,写真で見る限りは,赤瓦の屋根があるのと,周囲が住宅に囲まれていると思った。どう考えてもここではなさそうということは,我々2人の暗黙のうちの理解であった。
すると,運ちゃんが「ちょっと待ってくださいねー」と言って,近くをたまたま通った40代半ばくらいの男性に声をかける。ポロシャツにチノパンっぽい格好。公園からの帰りだろうか。でも,失礼だが運ちゃんよりは何だか頼りになりそうな雰囲気を醸し出している。
「すいませーん,地元のここいら辺の方ですかー?」
すると,その男性は初めこちらのことが理解できていなさそうだったが,少し間を置いて「はい?」と言ってきた。そして,さらに質問の意味を完全に理解したようで,
「……はい。役場の者ですけど」
しめた。役場の人ならばホームページの主であるから,知っているに違いない。それは運ちゃんも同じだろう。早速「クマヤーガマって,この辺ですか?」と聞く。しかし,
「えー……ちょっと分からないですねぇ」
おいおい,あんた自分のとこで載せているものが分からないってどーゆーことだ?…と思わず言いそうに……いや,私は“それなりのトーン”で「いや,町役場のホームページに載っているんですけど」とはっきり言ったと思う。でも,役場だってそれなりに大きな組織だろうから,セクションが違えば案外そんなものかもしれないと思い直す。
とりあえずその男性に地図を見せると,「それだと,この辺りなんですけどね」と運ちゃん。「そうですね。ここが公園ですし……拝所はそこにあるんですけどねー」と言って,目の前のこんもりした茂みを指さした。どうやら,その茂みは間違いなくただの拝所…というか,御嶽であることは間違いない。いずれにせよ,この男性と話していても拉致はあかなくなりそうだ。「とりあえず,△△(聞き取れず)のほうに言ってみますか?」「そうですねー」などと運ちゃんはその男性とテキトーに会話を済ませると,お礼を言って車を再び走らせることにする。
車はちょっと広い通りに出る。と,「そういう“戦争の場所”に行かれるのが好きなんですか?」と聞かれたので,これまた一瞬どう答えたらいいのか迷ったが,「宜野湾にある佐喜真美術館…ってありますよね?(ここで運ちゃんうなずく)……そこで『沖縄戦の図』ってのと『チビチリガマ』ってのを見て,それからですね……」などと適当に言っておく(「沖縄・8の字旅行」後編参照)。とりあえず納得したような運ちゃん。たしかにそれも理由の一つだが,少なからぬ興味本位であることも事実である。あまりその辺に触れられると,私も正直答えに窮してしまいそうだ。自意識過剰なだけだろうか。
1分ほど走ると,入口にゲートっぽいものがある空地に突然入る。車が十数台は停まれそうな空地だが,地面は少しガタガタしている。だが,奥にちっぽけなレストハウスみたいなのがあったので,あるいはそこの駐車場か。「ちょっと待っててくださいねー。聞いてきますから」と言って,運ちゃんは降りて建物に入っていった。ふと,何気にメーターをのぞけば,800円台になっている。直線距離で行けば2km程度。初乗りは450円と書かれていたから,せいぜいメーターが上がっても1〜2回程度のはずだろうが,こうして待っている間にもメーターが上がっている。まさか,沖縄では東京みたいに1分十数秒の停止状態でもワンメーター上がらない……ってことはないようだ。
20秒ほどして運ちゃんが来た。「分かりました。行きましょう」と,転回して出発する。はて,こういう場合は運ちゃんの“知らない責任”を責めてもいいのかもしれないが,あるいは別の人間でも「分からない」と言われたかもしれない。で,彼でなかったらこうして一生懸命動いてくれなかったかもしれない。そして,これは大きなお世話かもしれないが,彼にクマヤーガマの場所を“知識”として教えられなかったかもしれない。彼が次の機会にこのクマヤーガマに行ってくれるよう客に頼まれたら,私との出会いによって,スムーズに案内することができるというわけだ。忘れていなければ。
いやいや,何より結果的に“貴重な見学地”を見損ねたかもしれないのだ。役場の人が分からないと言った時点で諦めようかと思っていたくらいなのだし,メーターはさしずめ「彼との出会い+α」と考えれば,ちょうどいいのかもしれない。ただし「適当に回して,またどこかに送りましょうか」と言われたときは,さすがに「いや,テキトーに行きますので」と,やんわり断った。結局,タクシー代は910円。ただし“出会い・珍道中 Priceless”と,どこかのCMよろしく,勝手に都合よく解釈してタクシーを降りた。

クマヤーガマは,ちょっと広い通りから1本入った路地の中にひっそりとあった。路地の入口にある家の壁の下に「←クマヤーガマ」と書かれた小さい看板はあった。一応は観光地としての扱いだからこその看板と解釈する。ちなみに,私が地図にマーキングした位置からは200m程度南方向で,降りる予定だった砂辺バス停からは700mくらい東南になっていた。やっぱり,1人で来ていたら確実に迷っただろうことは,想像に難くない。
高さ2m程度×横1m程度の小さい赤瓦の門に観音開きの格子戸があるが,閉ざされている。その向こうは下り階段があり,陥没したようにそこだけが洞窟のように穴がぽっかり開いている。現在はコンクリートで5m×3m程度で真っ四角に縁取られているとはいえ,元から自然にできていた洞窟であることがよく分かる。深さは5〜6mあろうか。さらに奥行きであるが,これもまたかなりあるようだ。上述のとおり右も左も狭い平屋建て民家の敷地と接している。その隙間を縫うようにガマが窮屈に存在する……というか,元からガマがあってその周囲に家を建てたというほうが正しいのだろうが,奥行きはガマに向かって右の家の下方に広がっているようだ。
ということで,左隣の家の敷地からその奥のほうをのぞくことはできるようだが,ちょうど周囲をウロウロしていたとき,その左隣の家から家主らしき男性が出てきて,車でどこかにでかけていった。しかし,玄関は網戸のママ。多分,誰かまだ人がいるのだろう。ワンコもいてなまじ吠えられて警察沙汰になるのも面倒。そりゃ,事情を説明すれば「どうぞ」と言ってくれるかもしれないが,そのために声掛けするのも気が引ける。なので,自分の胸くらいの高さである左の家の壁にひっついて右下をのぞきこむしかないが,多分トータルでは畳12〜13畳程度とみた。ただし,ホントの奥のほうはきっちりガマの中に入らないと見られないだろう。
脇には小さい石碑で「拝所 クマヤーガマ」と書かれているが,やっぱり観光客用というよりは,地元の人たち用のもののようだ。奥には「納骨拝殿」と書かれた石碑もあり,同じ赤瓦の小さい収納庫みたいな建物がある。既述の町役場ホームページのキャプションでは「多くの命を救われた」と書かれてはいるが,何十人という人間が避難してくれば,少なからず衛生的なことや食料不足を含めて問題が起きて,中には不幸にして亡くなった人もいるはずだ。特に,小さい赤ちゃんやお年寄りなんかはその最たるものではなかったか。「地元の人のための拝所」と書かれた看板が,門の下に落っこちたように置かれていたが,それが何より地元の人たちにとって,いいも悪いも含めた“かけがえのない場所”であることの表れであると言える。もちろん,この地からどこかの戦地に行って,その場所で亡くなった人だって多いことだろう。
戦後,この砂辺地区は数百mの距離しか離れていない嘉手納飛行場の爆音に悩まされ,集落を出て行く人が多いそうだ。現在は米軍が使用しているわけだが,元々嘉手納飛行場は,日本軍が戦争に備えて作った飛行場。なので,結論としては同じ日本人による人災みたいなものなのだが,そういえばガマの周辺にところどころ空地があったように記憶する。国が土地を買い上げて,移転を促進している部分もあるそうだ。近くに町営住宅があって,それなりに転入もあるようだが,古い99年のデータになるが,最多時で1050人いた住民は650人まで減ったという。騒音訴訟も何度となく起こっているようだが,実際削減されていくのは騒音ではなく,地元民とその土地という厳しく不条理な現実がそこにはあるのだ。(第3回につづく)

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