サニーサイド・ダークサイド(全4回予定)

(1)プロローグ
7時半,宿泊ホテル「ゆがふいんおきなわ」をチェックアウトする。外はからっとした青空。気温はそれなりにあるが,昨日のようなベトつき感はまったくない。とりあえず,目の前を走る国道448号線をはさんで向こうにある名護市営球場と21世紀の森ビーチに向かう。
今日はこれから,本島の北西にある伊江島に行くことになる。そのフェリーが出る本部町方面行きのバスは8時発。近くにあるバスターミナルへは5分ほどで行けるが,朝食で昨日の予想通りバイキングが出て,これまた予定通りというか,スクランブルエッグだのベーコンだの納豆だの生野菜だの,そしてバイキングでは必ずと言っていいくらい食べるコーンフレークwithミルクなど,あいも変わらず多めにカロリーを摂取してしまった。なので,バスの発車までの時間つぶし兼腹ごなしをしたい。
さて,この市営球場は毎年日本ハムがキャンプを張ることで全国的に有名である。グラウンドは外側が芝生,内野が土という形。座席はバックネット裏がイスである以外はすべて芝生席。バックスクリーンもデジタル表示とかじゃなくて,普通のプレート式。広さも「最低限はクリアしてます」程度しかなく,いかにも地方球場って感じで,何の変哲もない。だが,この市営球場が特に今年はものすごい賑わいを見せた。札幌に移転するのに加えて,メジャー帰りの新庄剛志選手が入団することもあり,いつもの年の数倍の観客が集まったことは記憶に新しいだろう。
ちなみに,彼らがそのキャンプで宿泊するのが,今回私が泊まった「ゆがふいんおきなわ」だ。なので,2月いっぱいは一般客は泊まれない。彼らも私と同じくオーシャンビューの部屋に泊まって,夜は××テレビを観て,朝はバイキングを食べたのだろうか。テレビはAFN(在日米軍基地関係者のための24時間放送。もちろんオール英語だ)も映るし,××テレビの片方はやはりオール英語なのだが,ヒルマン監督や外国人選手はそれらを観て少し母国を懐かしがった……って観ないか。
グラウンドでは,新たに女子高生っぽい姿が10人ほどと,アンパイアっぽい格好の人が何やら打ち合わせをしているようだ。ひとまずはそこを通り過ぎ,ビーチに出る。サンゴと白砂が混じった遠浅のビーチ。両端は数百mはあるが,波は,地形が湾になっていることもあってか,まったくなくて穏やかである。日曜日の朝に散歩するにはバッチリなシチュエーションだ。
時間が10分前になったので,バスターミナルへ向かうことに。途中,女子高生の姿が見えた球場では,彼女らがプラカードを持って,アンパイアっぽい格好の人と位置の確認みたいなことをしだした。やがて,バックネット裏では,いつの間に集まっていたのか,白いユニフォームを着た大量の男子が続々とグラウンドに入っていった。高校野球の入場式のリハーサルでもやるのだろうか。はたまたこれから予選でも始まるのだろうか。

本部町方面に向かう65系統のバスは,予定通り8時にターミナルを出発。中は私1人のみ。敷地の周りをぐるっと1周して,一度国道58号線に入り,やがて先ほど渡った国道448号線に入るべく右車線に……入らない。それどころか,信号が青に変わると左折してしまった。ひたすらバスは南下していって,格子状のベランダとシーサーの飾りで有名な名護市役所も通り過ぎ,昨日寄ったA&W(前回参照)まであと数百mのところまで来て,ようやく左折した。ちなみに,名護バスターミナルからA&Wのある世富慶地区までは3kmほどの距離がある。歩いていくとちょっとキツい。昨日はA&Wに寄った後,さすがに東江(あがりえ)バス停からバスに乗ってホテルに向かったくらいだ。
バスは狭い県道を入って再び左折すると,目の前に巨大なガジュマルが広がる。街のシンボルとも言える「ヒンプンガジュマル」だ。ヒンプンとは,何度か説明しているが,門を入ってすぐにある家屋を隠すように立つ壁である。その枝が広がる様は,道路の向こう側を隠すような感じである。そして,そのたもとにあるスペースでは,朝8時にもかかわらず人がたくさんいて,シートを敷いたり荷物をほどいたりしている。どうやら,バザーでもやるようだ。
那覇方面から来るバスは,このまま真っ直ぐ走ってバスターミナルに突き当たるルートを取るが,このバスは途中で再び左折して,名護市役所の裏を走ることになる。名護の中心部を東西に縦断する道は3本あるのだが,その中の真ん中の道になる。そのまま行くと宮里(みやざと)バス停。そのそばにいまも建っている「ホテル21世紀」――ここは10年前に沖縄に来たときに泊まっている。予約後に向こうから日時確認の電話がかかってきた。おりしもその当時は,ホテルに連れ込まれて詐欺に遭うとかいう事件が多発していた。で,事情を知らずに電話を取った母親は,怪しい者からの電話と勘違い。その場で向こうと結構揉めたらしいのだ。結局,それを電話を切った後で知り,私は改めて現地で謝ることになったのだが,いまもそのホテルがあるというのは,何だかミョーに感慨深い。いまだにフロントでそのことが語り継がれたりしているのだろうか。
そして,国道にめでたくイン。ここまで所要時間15分。宮里バス停の次は北農前(ほくのうまえ)というバス停になるが,“ゆがふいん”からは200〜300mほどしか離れていない。一方,運賃表は2回更新した。まったく,帰りはご丁寧に最後まで乗らずに,ここか宮里バス停で降りたほうがおトクそうだ。これが分かっただけでもバスターミナルから乗った価値はあったということか。
さあ,ここからはひたすら海沿いである。見所は特段なさげだが,気づいたことをつらつら。まず,屋部(やぶ)集落で道が内陸に入っていくのだが,海沿いには大きな道を建設中である。おそらくバイパスを作るのだろうが,そんなに交通量はないと思う。はたして必要なものだろうか。この道はたしか2年前の12月に一度通っているが(「沖縄標準旅」第3回参照),このときはもう少し名護の中心部に近いあたりで少し車がつながった。それでもすぐに解消しているから,はて,バイパスの重要性は少し微妙だ。もっと他のところに注ぎこんだほうがいいのではと思ってしまう。
もし,バイパスができれば,普通の車は当然バイパスに流れるだろう。そして,バスはというと,それでも“旧道”扱いとなるだろう現在の道を引き続き通ることになるだろう。観光客は集落なんかに寄ってくれなくていい,集落は用がある人間のみでいい,という“棲みわけ”だろうか。「沖縄は必要以上に観光地化してくれるな」と常々思ってはいるのだが,矛盾を承知で言えば,少し“閉鎖性”を感じてしまう。よほど「集落を見る」ということに興味がない限りは,人が寄る機会はひたすら減っていき,よって集落に金が落ちる確率も確実に減るだろう。
その先の安和(あわ)という集落では,まさにそんな現象を示すかのように,バイパスは左に海岸沿いを走り,バスは旧道らしき狭い内陸の道へ入っていく。交通量なんてバス以外は走っていない。少し内陸を走ったところで,また突然左折してバイパスに戻り,何事もなかったかのように海岸沿いに走っていく。何とも奇妙なルートである。
でも,まあこれが地方のバスに乗る醍醐味ではあると思う。得てしてこういう集落を走ったところで,見るべきものはなかったりするものだが,乗用車でバイパスを突っ切ってしまい,結果何も知らないままで終わるよりは,少しでも何かトクした気分にはなれるだろう。ちなみに,この集落にはビロウの生い茂った県指定の御嶽があるらしい。残念ながら今回それは見られなかったが,それをずっと知らないままなのと,それを知ることがあるいは見ることができるというのとでは……ま,別にどーでもいいか。私以外の人間にとっちゃ。

バスは本部町に入ると,間もなく左に巨大な船体が見えてきた。あの辺りが本部港か。それから数分してそれが目の前に現れると同時に,国道から1本海岸沿いに道を外れ,護岸スペースなどで道が広い中を進む。やれやれ,バスターミナルから逆方向に行ったときは何分かかって着くのかと思ったが,所要時間40分のところ35分で着いた。目の前は,伊江島行きターミナルの建物。バスは私を下ろした後もしばらく停まっている。あるいは伊江島から来た客を待っているのだろうか。
さて,私は早速反対車線のバス停を探す。帰りのバスの時間は,16時半と調べていたのだが,バスは伊江島から来る船の客を待っているという。だからといって,ダラダラしていいわけではなくて,少し急ぎ足で行けという。ダッシュするのは問題はないが,あさっての方向にダッシュしてしまっては,今日中に東京に帰れなくなってしまうのだ。
本来は,伊江港から本部港を経由して那覇の泊港に向かう高速船がある。那覇空港に向かうには,当然これが一番近道であるのだが,よりによって今日までドックに入っていて運休だという。あるいは,鹿児島から奄美諸島を経由し本部港を経由し那覇に向かうフェリーもあるというが,はるばる鹿児島から来るだけに時間が保証できない。だから,結局は同じルートをひたすら戻るという遠回りを余儀なくされるわけだが,この16時半のバスに乗り遅れては,後の名護バスターミナルからの接続がままならないのだ。
と,右前方に黄色いポールが見えた。近づくとバス停で間違いない。ちょうどその左を見ると,フェリーの出入口がパックリ開いている。なるほど,あそこからまっすぐ走ってくればいいわけだ。時刻を確認すると,16時28分と微妙に繰り上がっているが,多分きちっと待っていてくれるのだろう。そんな私を見ていたのか,そばにある待合ベンチらしき古ぼけたコンクリートのボックスから「兄ちゃん,バス?」という声。70前後のオジイが3人だ。「帰りの時間を確認してただけですー」と言うと,「あっそ」みたいな感じだった。ちなみに,その隣ではタクシーが数台待機している。「バスに乗り遅れた可哀想なあなたは,こっちに乗りなさいねー」と実に分かりやすい。ただし,いくら取られるかは保証できまい。
たかだか一離島に行くにはカッコよすぎる,コンクリート打ちっぱなしデザインの待合室は,おそらく100人は楽に収容できる広さだ。その一角にあるチケット売場で,乗船券を往復運賃で購入する。1110円(片道は580円)。そのまま建物を突っ切って,先ほどパックリ開いていた出入口からフェリーに乗り込む。
船室は2階と3階があるようで,私は3階に上がる。かなり広くて,いっちょまえにシャンデリアやソファもある作りだ。当然,売店もトイレもある。もちろん,外のデッキにもイス席があるが,少し暑くなってきたので,冷房が思いっきり効いている船室に入ることにした。早速,テレビのある先頭に陣取り,出発までしばし映っている「サンデーモーニング」を観て過ごす。思いのほか混んではいない。前方に来る人はまばらだ。
フェリーは9時に予定通り出航。船はまず左に大きな島,右に本部半島を見ながら進んでいく。左の島は,瀬底(せそこ)島。2002年12月に訪れている島だ(「沖縄標準旅」第3回参照)。この島へは現在,半島から白いアーチ橋がかかっているが,その橋の下を間もなくくぐると,いよいよ陸地は遠くなっていく。右に影は絶えず見えてはいるが,その色もだんだん薄くなって限りなくボンヤリしていく。
15分ほどして,先頭の前にあるデッキに人が数人出てきた。私もちょっくら立ち上がってみると,目の前に横長の島影が見えてきた。伊江島だ。右のほうがとんがっているが,あれが島のシンボル・城山(ぐすくやま。または「タッチュウ」とも呼ばれる)だろう。テレビも電波の加減でときどき映りが悪くなるし,そもそも「週刊ご意見番」を観終われば私には用がない。今週も適度に“喝”と“あっぱれ”が入ったところで,外に出ることにする。
外に出ると,風が当たって気持ちいい。で,右側につがい,左側もつがい…もといカップルだ。その間に虚しく私1人。で,ふと左側のカップルに目をやると,シャツを着た男性の顔に見覚えが。つぶらな瞳からこぼれる満面の笑顔と,縦にデカい顔が実に特徴的。一度見ればすぐに「あ!」と分かるその顔。何と,俳優の布施博氏ではないか!(うーん,文字からは誰も想像がつくまい)……というか,ホンモノかどうかはもちろん分からないし,まさか聞くわけにもいくまい。隣で麦わら帽子らしきものをかぶっているのは女性のようだが,奥さんの古村比呂氏か。はたまた別の女性……って,そもそもホンモノかどうかも分からないのに,ミョーなドキドキ感と想像力だけがふくらんでいく。

(1)プロローグ
@適当にアメリカン
9時35分,伊江港到着。ターミナルは2棟あって,向かって右側は赤瓦で白壁の新しい建物。こちらには売店やチケット売場がある。それと連絡デッキでつながって左側には,古ぼけたコンクリートの建物がある。多分,こちらは旧ターミナルだったのだろう。白くはげた「伊江島ターミナル」の文字が時間を感じさせてくれる。
さて,早速サイクリングの事務所を見つけなくてはならない。ちなみに,予約なんてものは今回もしていない。台風が直前に通過したため,それ次第では島に渡ること自体がオジャンになることを考えていたのもある。あるいは天候があまりにひどかったらレンタカーという手もある。で,島には「TAMAレンタサイクル(以下「TAMA」)」「三葉レンタサイクル(以下「三葉」)」という二つの事務所があって,両方とも200台ほど自転車を所有していることは事前に調べていた――でも,まあ事前にいろいろ思案しておくに越したことはないにせよ,修学旅行生でも来ない限りは,私1人分くらいどうにでもなるだろう。私もそのくらいまでは「なんくるないさ」の気持ちになれるようになっているのだ。
と,ターミナルの裏手にプレハブの小屋が二つ見えた。何のことはなく,それらが上記二つの事務所だ。向かって左が三葉,右がTAMA。しかし,三葉はどういうわけか入口のドアに“準備中”の札がかかっている。一方のTAMAは“営業中”の看板がかかっており,中で人が動いている。外から目が合ったこともあり,とっつきやすさの差でTAMAのほうを選ぶことにする。
中に入ると,40代くらいの女性が応対してくれた。念のため「1人ですけど大丈夫ですか?」と聞くと,「大丈夫ですよ」という。早速,向こうが出してきた帳簿に必要事項を書き込むと,「精算は帰ってきてからで結構です」とのこと。TAMAオリジナルのB5サイズのサイクリングマップをもらうと,早速外に置かれている中からテキトーにママチャリを選んで出発する。私が出ていくのと入れ違いで,今しがた上陸したであろう若い女性数人組がこちらにやってくる。
ふと隣を見ると,軽自動車が置かれている。事務所関係者のものだろうと何気に見てみたら,しっかり「わ」ナンバー。なんだ,レンタカーもあったのか。陽に焼けなくて済み,かつ時間もかからず楽チンなのはレンタカーのほうだろうが,間違いなく金はかかるし,今日は多分島内のガソリンスタンドはやっていないと見た。となれば,さらにガソリン代がかさみそうだ――ま,ホンネはレンタカーにしたくなかったというわけでもないが,再び陽に焼けるのも悪くない。湿気も少ないことだし,風に当たるのは気持ちがいい。小回りも効いて,いろいろと“発見”もしやすいだろう。

さて,伊江島は落花生のような形をしている。これから回るコースとしては,その落花生を反時計回りで進んでいくことにしよう。何気に一番見所があるのは,ここからすぐ近い中心部なのだが,遠くにもポツポツと見所が点在している。なので,外側からつぶしていく形で中心部に近づくことにしたい。帰りの船は……13時発もあることはあるが,ま,16時発に合わせていこうか。
まずは,地図に書かれている阿良(あら)御嶽を目指す。道は,島内を1周ぐるっと回る伊江島環状線(以下「環状線」とする)よりも1本海岸沿いを走る。少し高いところから漁港っぽく整備されている辺りを見下ろしていると,海のコバルトブルーがはっきり分かる。
でも,これからちょくちょく水分を欲することになるだろうから,その前にまず飲み物を調達したい。こういう日は,絶対アイスのさんぴん茶(早い話が「ジャスミン茶」)だ。缶だと持ち運びが不便なので,ペットボトルにしたいのだが,港沿いの集落にはなかなか都合のいい自販機が見当たらない。1本外れた通りだからハナっからコンビニの存在は期待していないが,せっかく見つけた自販機も1000円札がダメ――小銭を持ち合わせていなかったのだ――とか,自販機そのものが動いていなかったりする。
そんな中,JAの脇でまた自販機を見つけた。しかし,ペットボトルではなく缶。ま,探し続けてもキリがないので,ここで買うことにする。少々中身が入っていても,テキトーにバッグとカゴの隙間で押さえとけば何とかなるだろう。そして,再びこぎ出すと,いくらもしないうちに阿良御嶽に到着する。
高さ5mほどの白い鳥居をくぐって数段階段を上ると,祭壇に向かって横10m×縦3mほどの横長のスペースがある。祭壇には石でできた粗末な香炉が三つ。両隣は柱の代わりに,だ円の平たい石灰岩が何枚も積み重なり,その上にテーブルのような形をした細長い石が乗っかっている。この御嶽は「タツガナシ」と「サラメキガナシ」をいう2神を祀っていて,昔から旅の往復の無事を祈願する拝所となっているようだ。ちなみに,前者は立って拝む神,後者は船をサラサラと走らす神とのこと。
ここからは環状線に入って一路東進する。道は片道1車線のごく普通の道だが,車らしき姿はあまり見かけない。その代わり,私より少し上の世代の方々のサイクリング集団と出会う。7〜8人いるだろうか。多分,彼らは私が阿良御嶽を見ている間に,サイクリングマップに点線で描かれている通り,正統派に環状線を走ってきたのだろう。ちなみに,阿良御嶽はその点線からは外れている。なまじ彼らのペースに巻き込まれるのもイヤなので,とっとと集団を抜き去る。
道の左右には,さとうきび畑と,キャベツみたいな葉っぱの植物の畑が広がる。そのキャベツの葉っぱみたいな畑は,一面がうすい緑の入った黄色に覆われていて,それが陽の光に照らされて鮮やかだ。その向こうに高くとんがってそびえるのは城山である。たしか城山は標高が200mもないはずだが,周囲がホントに真っ平らなので,ことさら高く見えてくる。どこかで城山をバックに菜の花畑が広がる写真を見た記憶があるが,この光景もそれに匹敵する鮮やかさである。ちなみに,黄色に光るその畑,初めはそのままキャベツかと思ったが,どこにも実らしきものがなっている様子がない。後で確認したら,どうやらタバコのようである。

数分走ると「→戦争記念館」の看板。右に折れると,カーブのある下り坂が続いていく。そしてB&G海洋センターなる建物と,老人ホームの間をくぐりぬけ,道がジャリ道になったところで,大量の自転車を発見。ここがどうやら突き当たりである。右側にある建物の脇には背丈の小さい集団が。どうやら小学生が社会科見学に来ているようだ。
自転車群の脇には軽トラックが停まっていて,地元の伊江小学校のようである。荷台には大量のリュックサックが乗っかっているが,やれやれ過保護というのか,リュックくらい前カゴに入れさせて自分で管理させればいいのにと思ってしまう。私はといえば,そこにフタが開いたままのさんぴん茶の缶まで入れて,しかもブレーキをかけた拍子に中身が少しこぼれ落ちてしまったというのに。
さて,肝心の戦争記念館はその右側の建物のさらに奥にあるようだ。中に入りたかったが,どうやら小学生がそのまま中に入っていくようだ。ちなみに,さっき抜き去ったはずの8人も,いつのまにかやってきていた。こんな集団と一緒になるのも何だか気恥ずかしいので,見学はあきらめる。
建物は白壁の平屋建てだが,壁一面にびっしりスミで太い文字が書かれている。いささか鳥肌実の世界であるが,入口には木の板がかかっていて「ヌチドゥタカラの家」とある。意味は「命こそ宝」。米軍の実弾射撃の薬きょう,原爆の模擬爆弾,鉄兜を改造した鍋,住民の衣服や生活道具などが展示されているらしい。阿波根昌鴻(あはごんしょうこう。1901-2002)という地元男性が,1984年に作った民間の資料館だという。ちなみに,彼は第2次世界大戦で1人息子を亡くしている。
その文字の中には「陳情規定」なるものがある。1954年10月と,今からちょうど50年前のものだ。内容は,@米軍と話をするときは大勢の中にいて,手にモノは持ってはいけない,A短気を起こしたり,悪口を言わない,B嘘・いつわりを言わない,C挑発に乗らない……などといったもの。実に素朴で分かりやすい内容だが,それだけにものすごいリアリティがある。
資料館を後にして,少し北上する。畑の中をウロウロしながら走ること数分,大きな公園らしきものが右に見えた。「伊江島青少年旅行村」である。さっきの資料館からも見えたのだが,海はすぐそこである。せっかくなので砂浜も見ておきたいが,入口の小屋に女性…ではなく男性がいる。何もなさそうなところだが,いっちょまえに入場料100円なぞを取る。なので,とっとと後にする――ところで,いまおもむろに女性と書いたが,それは,何度かテレビの「移住特集」で,福岡からここ伊江島に移住してきた一家が取り上げられたのを観ていたからだ。で,その一家のお母さんが,たしかここで働いているのである。旦那さんは元広告代理店勤務で,現在は伊江村役場勤務。苗字も知っているが,それはさすがにここで書くのは遠慮しよう。
でも,ここまで来たから海はやはり見たい。なので,1本ずれた何の変哲もない路地を入り,長さはいくらもないけれど,帰りは確実に押して上がらなくてはならない勾配の坂を下ると,目の前には青い海が広がった。波はまったくなく穏やかだ。軽自動車と原チャリが停まっているが,限りなく地元の人しか知らないプライベートビーチであろう。近くにちょっとした小屋も見えたが,どう考えても使われていない感じだった。
でも,いま足元にあるのはどちらかというと砂よりも岩場である。左を見ると,その岩場の先のほうで男性が桶を持ってかがんでいる。多分,岩についた海苔でも採っているのだろう。そして右の旅行村のほうを見れば,限りなく白に近い砂浜がずーっと広がっている。もちろん少し歩けばその白い砂浜に辿りつけるのだろうが,この先のこともあるのであきらめる。まったく,白い砂浜にめぐり合うのにもタダでは行かないということか。(第6回につづく)

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