サニーサイド・ダークサイド(全4回予定)

(1)プロローグ
@適当にアメリカン
クマヤーガマからは歩いて国道58号線を目指す。途中“ヌールガー”という名前の御嶽を見る。何かの木の下に鬱蒼とした場所。金網で囲われていて中には入れないが,井戸らしき丸い穴みたいなものがあって,その上にも金網がされている感じだ。ちなみに,ここは北谷町役場のホームページには載っていない。「載せるほどのものではない」ということだろうか。
路地を適当に東に向かって歩くと,国道58号線に出ることができた。位置的には砂辺バス停を期待したのだが,地図で確認したら,それよりも数百m南側に出た。なので,そこから近い1個南側の「航空隊入口」というバス停へ向かった。南に向かって左側は嘉手納飛行場の敷地で,金網がはりめぐらされている。
バスは10分ほど待って,28系統の楚辺経由読谷行きが来た。今度こそは,このバスに乗る意味がある。ちゃんと読谷の中心部に行かなくてはならないからだ。目指すのは,前回にもちらっと出てきた「チビチリガマ」と,もう一つ「シムクガマ」である。いろんな本やホームページを見ていると,位置的には楚辺ということで書かれているから,まさしくこのバスでないと行けない場所なわけである。ちなみに,楚辺と言えば「象のオリ」にはこの1月に行ったが(「沖縄“任務遂行”への道」第4回参照),これらのガマは見なかった――というか,正確には後からそのことに気づいたのだが,やっぱり見ないまま“放置”しておくわけにはいかないだろう。
バスは嘉手納町に入ると,左に海岸線を見ながら走る。ただし,金網と有刺鉄線と芝地の向こうに見える形での走行だ。ちなみに,その芝地は言うまでもないが,嘉手納飛行場のものである。「隣の芝生が青く見える」とはよく言ったもので,ホントに鮮やかな青に刈り込まれている。あるいは米軍が接収していなければ,草がボウボウで海も何も見えない状況だったということだろうか。
大きな嘉手納ロータリーを時計回りにぐるっと回る感覚を味わい,川を渡ればあっという間に読谷村である。ある程度は国道がそうなっているから仕方ないのかもしれないが,地図で改めて見ると,北谷町以上に町域は狭い。ホント「猫の額くらいの広さ」である。「基地の中に町域がある」と完全に言えてしまうくらいの小ささだ。でも,基地の輪郭に沿うように国道は作られているようなので,考えようによっては基地がもう少し小さければ,少々大げさな言い方になるが「嘉手納町をさらに長く味わう」ことができるのかもしれない。
読谷村に入って間もなく,バスは国道から外れて県道に入る。一応,村のメインストリートになるだけあって,それなりに町を形成している。沖縄の「村の中心」というと,本土の「○○町大字△△」レベルの中心部程度,ホントに申し訳程度に必要最低限しか施設がないようなケースが多いが,読谷のそれはしっかりした施設も多い。だてに4万人近い人口を抱えていないのだ。そんな中,左に突然白い鳥居が出てきて「何だろう?」と思ったら,その名も「トリイ通信施設」への入口である。地元に溶けこむための名称か,はたまた日本の神社の鳥居がよほど奇異に映ったのだろうか。

さて,そろそろバスを降りなくてはならない。実はチビチリガマもシムクガマ,正確な場所をホームページなどから手に入れていなかった。手がかりは「楚辺」「象のオリの近く」「チビチリガマとシムクガマは数百mと離れていない」ということのみ。持参した地図によれば,バスが停まりそうなのは「診療所」「大当」の2箇所である。
とはいえ,やっぱりきちんと聞いておくことに越したことはない。30代くらいで,サッカー解説者の永島昭浩氏に似た運ちゃんに確認する。と,と「あれはどこがいいのかな?……“フドウ”ですかねぇ」と言ってきた。ん,フドウ?……地図を見返してみると,なるほど「大当」と書いて「うふどう」と読むのだ。やはり目星自体は間違っていなかった。運ちゃんの声が小さくて“う”が聞き取れなかったのだ。
――どーでもいいことなのだが(だったら書くなって感じだが),この後も数回バスに乗ることになったのだが,沖縄のバスの運ちゃんは総じてかなりシャイというか大人しい印象を持った。那覇の市場や商店でのハキハキした元気な女性を見てしまったし,バスの運ちゃんってどこでも総じて無口な人が多いのもあって,余計にそのギャップを感じた次第である。
でも,ホントに言葉をまったく発しないのだ。たまに乗ってくる女子高生が必ず「お願いしまーす」「ありがとうございましたー」と(形だけかもしれないが)言葉を発するのが対照的なほど。でも,例えば2車線ルートで脇から割り込まれてもクラクションなんて鳴らさないし,上述の場所を尋ねたときもイヤイヤ答えるのではなく,むしろ物腰は柔かいくらいだった。もちろん,人にもよるのは言うまでもないことだが,明らかに愛想が悪いというよりは,大人しい印象を持ったのだ。
話がそれたが,その大当で下車する。中心から少し外れていて周囲は何もないところだ。バスの進行方向に向かって右に上り傾斜になっていて,なるほどその上のほうに,表現がヘンだが,象のオリが“君臨”しているのをはっきり見ることができる。ノドが渇いたので,バス停前にある雑貨屋さん(名前分からず)で飲み物を買った後,とりあえず進行方向へテキトーにうろついてみる。あるいは雑貨屋さんで店番している女性に聞こうかと思ったが,私も結構シャイな人間なので,聞かないままうろついていた。あるいは象のオリの方向にでもあるのだろうか。
しかし,それらしき看板はどこにもない。このままでは川の砂から砂金を探すよりも,拉致があかなくなりそうである。なので,やっぱりというか先ほどの雑貨屋さんの女性に聞くことにする。中は薄暗いので外からは女性の顔がよく分からなかったが,見ると歌手の松原のぶえ氏に似ていた。50代くらいか。イスに足を伸ばしてリラックスしている感じだったが,声をかけるとあわてて取り繕う。店内にはサータアンダギーや煮物などのパック詰めの惣菜が置かれていた。
「すいませーん,チビチリガマってどの辺になります
かね?」
すると,彼女はおもむろにヨッコラショと腰を上げ,外に出る。何をするのかと思ったら,先ほどの進行方向に向かいながら,
「この道をまっすぐ行くと,“カネヒデ”のところで二股
に分かれます。それを左に入ってまっすぐ行くと,右
に赤い屋根の建物がありますから,それが目印です。
そうですね……ここから700〜800m歩くと思います」
と,わさわざ道を丁寧に説明してくれたのだ。よかった,思いっきり道を逆方向に考えてもいたから助かった。ついでにシムクガマのことも聞けばよかったと思ったが,空は再び曇天になって,雨が降りだしそうだし,時間も15時半を過ぎた。取り急ぎチビチリガマに向かうことにしよう。

300mほど歩くと,早速分岐点。左には目印となる“カネヒデ”の店舗。正確には「タウンプラザかねひで」というスーパーマーケットだ。大元は金秀商事という会社で,レストランや家電販売など多角経営をする会社である。本社は,那覇市の東にある西原(にしはら)町というところにあるが,これはホンの一角で,実は「金秀グループ」という一大企業グループなのだ。プラント事業やリゾート開発など,沖縄を拠点に大規模な事業展開をしている。本土でいえば「クボタ」あたりに似ているだろう。
そのグループの創始者は,呉屋秀信(くれやひでのぶ)氏(1928〜)という人。1947年5月,郷里の西原町で鍛冶屋を始めたのがそもそものスタートである。このとき年齢にしてわずか19歳。荒廃した地元の復興には農耕の再開が不可欠と判断。もちろん,鍬や鎌がすぐ手元になんかあるわけがなかったのだろう。「それならば鍬や鎌を自分で作ろう」と思ったのだという。
実は戦時中の1944年,地元の製糖工場の工員養成所を卒業して製糖工場に勤め始めたのもつかの間,戦局が悪化していき,彼も鉄道レールを利用した軍刀づくりや兵器の修理に駆り出されるという経験をしている。この辺りで身につけた技術が,後の人生で役だったことになるわけだ。当時で15〜16歳。これが戦地に駆り出されるなり,空襲に遭ったりして亡くなっていたら,いまのグループはなかったと言える。「捨てる神あれば,拾う神あり」とは,まさしく彼の人生を言うのだろう。
しかも,何気に会社について調べていたら意外な発見があった。“金”の上に“┓”がついたロゴマークが特徴的なのだが,実は先月行った与那国島で10年前に出会った会社員(「沖縄はじっこ旅」第4回参照)の名刺を後日確認したら,「金秀鋼材」という会社であることが分かった。で,このマークが出てきたので,ピンと来て早速その会社の概要を見たところ,彼がめでたく(だろうな)取締役になっていたのだ。上記旅行記では課長か何かと書いたが,実はそのときで次長さんになっていたし,失礼にも「もしかしてリストラ」なんて書いたが,きちっと出世をなさっていたのだ。でも,もう1人の人は残念ながら名前も忘れてしまったが,彼はどうしているだろうか。
……話を戻す。そのかねひでの角で道は二股に分かれ,左に行くことになるのだが,そこには真左に向かって細い道があり,先にそちらへ入ってみる。なぜかというと,その入口から遠くに海と大きな船が見えたのだ。曇りがちなので,ボンヤリとしか見えないのだが,その茫洋感がよかったからだ。何気ない偶然の景色であろうが,こういう景色ほど得てして印象に残るものだ。右から左,すなわち南に向かっているようだが,どこから来た船だろうか。客船だろうか,はたまた貨物船だろうか。ムダな想像がふくらむ。その先,海に向かって何がしかの景色があると期待してしまったが,畑しかなかった。そんなものなのだろう。再び戻ることにする。
さて,予定の道はバス通りではなくなるのだが,狭いギリギリ片道1車線程度の道ながら,交通量は意外と多い。二股の入口にもあったが,こちらは突端の残波岬(「沖縄はじっこ旅」第4回参照)へ行く近道であり,またリゾートホテルで有名なホテル日航アリビラや,たしか大河ドラマのセットで使われて,いまは文化体験施設として有名な「むら咲むら」がある。なのでそちらに行く,あるいはそちらから来る車で往来がそれなりにあるのだ。
しかし,それらは進行方向でいくと,ある一定のところで大抵は左に曲がってしまう。そこからさらに,ホテル日航アリビラへの看板などが出ていて,その矢印が左に向いているからである。まだ,雑貨屋の女性が行っていた赤い屋根の建物は出てこない。多分,私みたいにこのまま直進して,これからチビチリガマを見に行こうだなんていう客はいないのだろう。とりあえず,どこのガイドブックにも載っている程度の施設ないしはホテル,そして海くらい見とけば十分といったところだろうか。

@適当にアメリカン
赤い屋根の建物は道路沿いだが,周囲が畑の中にあった。ちなみに屋根は赤瓦だ。車が2台くらい停められるスペースとなっていて,建物は公衆トイレになっているのだが,景観はまったく観光地化されていない。その下が自然洞窟になっているので,その保存のためにも観光バスは停めてくれるなという看板があって,それでチビチリガマであることが分かる。その赤い建物が目印であることを知らなければ,黙って見逃してしまうこと必至であろう。
中に入っていくと,左には鬱蒼とした茂みがあり,ザーザーと音がする。そして,備えつけられた手すり付きの階段があり,そこから下に降りられるようだ。早速,降りていくと下は20〜30m四方はある広場。地面は落葉だらけで,雨露に濡れている。そしてザーザーと音を立てていたのは,その広場に沿うように幅5mくらいの小川が流れているのだ。地図には載っておらず,おそらく名前も地元の人しか分からないかもしれない。雨で増水しているのか,流れは早くて少し水も濁っている。そして,それはさらに暗い方向に向かって流れている。
その暗い方向のどんづまりにあるのが,チビチリガマである。川はおそらく,そのガマがある岩肌の中に流れ込んでいる感じだろう。肝心のガマは一段下がったところに大きく口を開けていて,上からは何の木か分からない蔓やら枝やらが,自然なるままに垂れ下がっている。なるほど,ここならば隠れるには十分そうな雰囲気だ。そしてガマの入口には遺族会からのメッセージで,中には自分たちの親族の骨がたくさんあって,そこに入られて荒らされるのがイヤだから,この入口で拝んでほしい旨の看板が立てられている。だから,中には入れない。看板の下には花束が置かれていて,時間が経ったのか枯れたままで放置されている。
もちろん,入れたとしても懐中電灯なしには進めないくらいの暗さだろう。ちょうど,この広場でウロウロしていると再び雨が落ちてきて,まさに本降りになりつつあるのだが,曇天も手伝ってホントに薄暗いのだ。昼間のピーカンなときだって,多分明るさは知れている。ましてや,ガマの中の暗さのほどは想像に難くない。元々はその中に入れたようなのだが,遺族会の意志で入れなくしたようだ。
ホームページをいろいろ見ると,中の写真が載っているのだが,味噌壷や一升瓶,やかんや鎌に混じって,生々しく遺骨がまだ散乱している。この外にいる限りでも,湿気も手伝ってか少しかび臭いのだが,ましてや中の臭いはスゴイのではなかろうか。後述しようと思っている集団自決から60年経ってもこうなのだ。ましてその自決が起こったころの凄まじき臭い,オドロオドロしさは想像を絶するものがあり,その惨状を発見した人間でないことを幸運に思う状況ですらあったに違いない。無論,何でもなかったころだって,衛生状態なんかお世辞にもよくなかったことも想像に難くない。中で亡くなる人も不運にもいただろうし,上述の川の水が幸運にも流れ込んだとしても,それが“いろいろな条件”から汚染されていたかもしれない。
ちなみに入口脇には,沖縄出身の彫刻家・金城実(きんじょうみのる)氏による「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」という作品がある。横幅3m×高さ6〜7mくらいの幅で,祭壇みたいな感じだ。土台は石灰岩で作られていて格子状になっている。その中には苦痛にゆがむガイコツ。当時の惨状を表現したものだろう。この像は一度1987年,沖縄海邦国体のソフトボール大会で日の丸が焼き捨てられたことの報復として右翼によって破壊されたが,1995年に再建されている過去を持つ。そして,入口脇には横長の慰霊碑があり,犠牲者の名前が刻まれているが,これらの建立・再建は,ガマへの進入禁止と時期を同じくしており,遺族会の“当たり前の思い”が,事件から50年経ってようやく完全なものになったことになる。

このガマで起こったことは,すでにこの旅行記でも何度か書いていて,また「沖縄“任務遂行”への道」第4回「沖縄・8の字旅行」後編にも書いているので,しつこく繰り返すことになってしまって恐縮だが,1945年4月に起こった集団自決である。2人の米軍兵がこのガマにやって来た。彼らは中にいる住民に投降を呼びかける。もちろん米兵が罪のない住民を殺す意思はほとんどなく,無抵抗で出てくれば確実に助けられたという。しかし,当時は「鬼畜米英思想」全開の時代である。住民はかねてから「米兵はそう言っておいて,その実は自分らを辱めに辱めたあげくに惨殺する」と教えられてきた……というか“刷り込まれていた”と言うほうが正しいだろうか。
さて,この呼びかけに対して,中から男女3人が竹やりを持って出て行く。すると,男性2人がその米兵に銃殺されてしまう。すると,いよいよガマの中はパニック状況に陥る。とある18歳の女性が母親に「自分を殺してほしい」と懇願すると,母親は娘の首を包丁で掻き切って殺害する。ここからが修羅場の始まりで,元看護婦であったある女性は,自分の手で家族に毒物注射をして殺害し,ある家族はお互いを鎌で殴殺し,ある家族はガマの中に火をつけて……こうして,中にいた139人のうち82人が亡くなった。うち,12歳以下の子どもが47人。これが集団自決の経緯である。
それから60年経って,傲慢にもこの状況を客観的に見てみる。まず,米兵は竹やりを持って出てきた3人の男女のうち,女性は殺していないのだ。このことに誰かが気づいていれば,犠牲になった2人には気の毒だが,残りの人間が助かった確率は高かったのだ。何より武器を持っていなければ,という無念も持ってしまう。そして,よりによって毒物注射できる器具があったのは驚きである。上述の鍋や一升瓶は生活道具だから分かるが,もっと他に必要なものがあるんじゃないかと思ってしまう。あるいは,ガマで病気になって命が危なくなった人間を安楽死させるためのものか。はたまた“いざというとき”の自決のための道具なのか……おそらくは後者のためのものだったと勝手に推測する。
それと,これは私の完全な思い込みだったが,ガマにいた全員が亡くなったわけではないのだ。何気に57人も助かっているのだ。もちろん。ケガの程度が軽かったということもあろうが,中には無傷であった人もいたに違いない。この生き残った人たちは,目の前に起こっている惨事をひょっとして「あれ,違うんじゃないの?」と思い直して素直に投降したのか。そして,何より米兵が何が起こっていたのか理解できなかったのではないか。もっとも,竹やりを持って出てきたのを銃殺するのが正当防衛と言えたかは限りなく微妙なことだが。
想像すればキリがなくなってしまうが,いずれにせよ,あらためて教育と「非常時であること」の恐ろしさは少なからず感じる。それは得てして,客観的に振り返れば「何でこんなことしていたんだろう?」と思わせるようなことでも,平気でさせてしまうのだ。文明は持っていても,結局人間は弱い動物なのだ。そもそも,この非常時に注射器なんていらないじゃないか。鎌は何のために持っていたのか。まさか間違って持ってきてしまったのか。あるいは,食べ物がなくなった折に周囲に生えている草を刈って食べて餓えを凌いでいたということなら理解できるが……。
でも,今の21世紀に戦争が起こったとしよう。どこかの施設にでも防空壕にでも避難していたとき,敵兵が目の前に来たという似たような状況に出くわした。さて,我々はどう対処するのだろうか。過去のいいことも悪いことも含めた,戦争に関する“いろいろな情報”が蓄積され,それらは簡単にインターネットやテレビで無料にて引き出すことが可能である。例えば“投降”という項目で言えば,戦地で白旗を掲げて投降していく戦士をニュースで何度も見たことがあるだろう――第2次世界大戦では,日本は情報の差で負けたという説もあるが,その60年前に比べれば,世界的には分からないけれど,実に我々の情報入手方法は簡単かつ豊富になったに違いない。
そして,教育の観点から見れば,世の中にはいろーんな思想があるということを理解できる状況に置かれている。「戦争は2度と繰り返してはならない」と声高に叫ぶ人間がいて,「いや,この戦争に大義はある」と主張できる人間がいて,その両方に賛同できる人間が存在する。そして,日本人はそれらの人間のいずれをも一方的に抹殺などすることなく,すべてを生かしていられるのだ。勝手に「あの人は○○だ」などと分析したり,好き勝手にいいだ悪いだと議論することはしても,結局は「ま,いろいろな人がいるからねぇ」で話をテキトーに締めることができるのだ。
たとえそれが一面的であるにせよ,そんな“超恵まれた世の中”を,我々日本人はいま生きているのだ。それでも,いざという場面になったとき,冷静になって敵兵に投降することができるのだろうか。(第4回につづく)

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