奄美の旅ファイナル

喜界空港には,10時40分到着。機内は20〜25人くらいで,後方は完全に埋まっていた。平屋立てで地方の駅舎みたいなターミナルに徒歩で行くと,中は人でごった返す。時刻表を見れば,11時台に同機種で鹿児島に飛んでいくようなので,それ待ちってことだろうか。あるいは今しがたやってきた人の送迎もあろう。24〜25人程度座れる座椅子は完全に埋まっている。
その中から,トヨタレンタカーの札を持った女性を見かける。今日はここで1日レンタカーを予約しているのだ。顔が沖縄テレビのアナウンサー・仲地恵氏にそっくりな小柄の女性。声をかけると,外に置いてあるワゴンで待つようにとのこと。ちょっとしたロータリーみたいなところに,白いワゴンが1台。後から母と息子みたいな男女が乗り込んで,3人で出発する。
空港前の通りは,まるでどこか南の異国に行ったかのように明るく開放的だ。高い建物がほとんどないのと,のっぽのやしの木と,車両がそこそこあるわりにスピードが何とも緩い感じが,それを演出していると思われる。てっきり空港のそばに事務所があるかと思ったが,5分ほど走る。大手の会社だから“一等地”にあると思い込んでいたが,その“一等地”に数軒あったいずれもが,地元のレンタカー会社。古仁屋で買った『奄美まるごと大百科』に書いてあって「ああ,やっぱり」と思ったが,情報と時間が足りないときは哀しいかな,ブランド名に頼ってしまうものだ(「参考文献一覧」参照)。
事務所は集落の端っこ,路地を少し入ったあたりの小屋にあった。ジャリの駐車場には白い車が数台ある。そそくさと手続を済ませると,今回あてがわれたのはスターレットであった。カーオーディオはカセット。これは確認済みである。なお,島のガソリンスタンドは本日休業とのこと。よって,ガソリン代は走行距離に応じて計算されるということだ。
沖縄でスターレットというと,どういうわけか手動でボロいというイメージがあった(「宮古島の旅」前編参照)が,一応,ドアロックも窓もボタン式だった。出発前に女性が少し汚れたフロントガラスを拭いてくれる。にわか雨があったようだ。そういや,奄美空港に帰る途中,1回雨がパラっと来ていた。今日は少し不安定な天候になるのだろうか。

(1)プロローグ
@加計呂麻人情バスに乗る
時刻は10時45分。とりあえず,南北に長い島の南部から反時計周りで車を走らせることにしたい。道沿いにはいくつか食堂があるが,どうやら11時過ぎないと開かないようだ。この一帯は湾(わん)という集落だ。役場もあり,島で一番大きな集落である。あるいは,この集落から離れるとメシを食べる機会を逸しそうなので,どこかテキトーな場所で1回引き返すことにしようか。
空港の前で路地を入り,間もなく島を1周する県道に入る。ところどころ狭くなったりするが,ほぼ片道1車線。舗装の古ぼけ加減が,昭和時代に整備してそのままという感じだが,台風とかでよほどのダメージを受けない限りは,そんなに補修なんて必要ないのかもしれないと勝手に想像する。
最初に通過する荒木(あらき)という集落は,ごく普通に田舎のパラパラと家が立つ集落。昨日,マツダレンタカーでもらった地図には,奄美大島と喜界島両方のガイドマップがあるのだが,これには「荒木ガジュマル」「黒糖工場」と書かれている。でも,それらしき姿は見られなかった。あるいは看板があれば有り難いが,それほどアピールするものでもないのだろう。多分,集落の路地をテキトーに入っていくのだろう。この荒木の海岸では夕陽が美しいそうだが,今じゃ時間が早い。次の手久津久(てくづく)集落は,いくつかサンゴの石垣がある民家が見られたが,それ以外は特段に見るところがないまま,淡々と通過していく。
次の上嘉鉄(かみかてつ)では,さとうきび畑の中に立つノッポの煙突を見る。煙突には「大和製糖喜界島工場」と書かれていたが,はてその下には工場らしき建物などない。あるいは昔ここに工場があったのがつぶれて,煙突だけはむやみと壊せない――周囲のさとうきび畑に被害が及ぶからだ――から,そのまま残したのだろうか。見た感じ,別に今にも倒れそうなくらいオンポロとかではなくて,しっかりそびえ立っているものだから,ある種の不気味さを感じる。白黒写真で撮って,これを数年経過させてセピア色にさせたら,つげ義春的ワールドにピッタリだ。
そして,その近くには“路傍の石”というに相応しい,1.3mほどの石柱が立っている。「フナンデー石」とこの石の由来は,むかし中国人が宝物を入れた袋を持ち,杖をつきながらこの場で立ち止まり,それが石になったところから来ている。1972年に道路整備がなされた際,一度行方不明になったそうだが,それから20年後の1992年,集落の安泰祈願のために建立されたそうだ。ということは,要するに復元ってことなのだ。でも,そーゆーのって復元したところで,効果があるのだろうか。
さて,ここで時間は11時を過ぎた。いくらも走っていないが,このまま北上を続ければ多分メシは食い損ねるだろう。まだ,内陸を通れば湾に行ける。なので,湾方面の方向板が出ているところで路地に入ると,これが狭い路地。たまたま外に出ていたおじさんの怪訝そうな顔が印象に残る。あるいは,地図に載っている県道ではなかったかと思ったが,間もなく広い幅になった坂道に入り,いざ湾へ…とはいえ,看板がまったく出ていないから,感覚でこっちに行っているとか推測するしかない。北側に向かっているので,ひとまず湾方面には向かっているとは推測できるが。
すると,今度は「→中西公園」「→百之台公園」というプレートに出くわす。見れば,再び狭い山道のようだ。いくら11時過ぎたといっても,1人だから食堂に入れないということもなかろう。もう少し見てから食事だっていい。なので,右折して一路山道に入る。樹木が垂れ下がったりして暗がりの中に紛れ込んだり,途中で道が二股に分かれたりするが,看板があったのは入口のみで,「あとは道なりに行ってちょうだい」とばかりに何もない。「不親切だ」と批判すべきか,はたまた「観光ズレしていない」と肯定的に捉えるべきか。
それでも,走り続けると地形がフラットになる。右手はるか下には海が見える。左手は草地と電信柱のみ。そして道が左に直角に曲がる突き当たりに,だだっ広い公園が見えた。石碑に「中西公園」とあるので間違いない。道幅をただ広くしただけのようだが,「実は道路と垂直に線がいくつか描かれて駐車場なんだよ」って主張するスペースに,いま車を停めようとしているのは私1人だけ。昼時のベストな時間なはずなのに,実に閑散としている。これも台風の影響からか。
そして降り立つと,案の定ものすごい風だ。空はあいかわらずはっきりしない。地面は芝生で,周囲にはソテツとデイゴが何本も植えられ,さらに芝生の中にもポツポツと木々が植えられている。右の端っこに2人分のブランコがあり,左には結構大きい東屋とトイレがある。奥にはこんなところにもあったのかって感じで,「世界人類が幸せでありますように」と書かれている白い棒。すべてひっくるめて,公園の広さは50m四方くらいあるだろうか。
その突端には「アタデノハナ展望所」という展望台。意味は「周辺の漁場への行き帰りの方向を定める目当て」。見ると,5m四方ほど敷地から張り出すように岩場がある。ここから景色が見られればベストだが,地質調査で危険性があると判断され,立入禁止の柵がされている。ここは標高が130mとのことで,見下ろすと目に入る花良治(けらじ)集落がかなり遠くに感じる。その集落の海岸線に向かって荒れ狂う白波は,一瞬ここが南国の島であることを忘れさせる。ここからのカットを,例えば「津軽海峡冬景色」と題したとしても,多分誰も違和感がないだろう。

来た道を戻っても,あまり道を覚えていないから意味がないだろうと思い,とりあえずは直角を素直に曲がっていく。何もない草原の中を進むと十字路。右へ行くと百之台公園。2km以上ここからあるようだ。そして,左が「川嶺(かわみね),城久(ぐすく)」とある。湾に近いのは左方向だ。これからメシを食いたいのだ。ここは左折をすると,今度は三つ又だ。斜め右上が川嶺,斜め右が城久。まったく,地名で書かないで,名所の名前にならないものだろうか。
とりあえず,より湾に近い川嶺方面を選択すると,道は狭くなり路地っぽくなる。やや下り坂で,車1台すれ違うのが難しくなる。やがて小さい十字路の角,左手下に石造の湧水池があった。物珍しいので池の脇にある売店の前に車を停める。店はシャッターが下りているからちょうどいいだろう。集落名は羽里(はさと)。数回切り返しをして,湧水池に向かって舗装が出っ張っているギリギリまで下がる。
ちょうど角のところの下には高さ2m×幅1mほどのアーチ状の石の囲い。そのたもとに3m×1.5mほどの池。今は鯉だの小魚だのがたくさん泳いでいるが,湧水池に向かってちゃんと石の階段がついているから,水道がなかったころは,ここで食べ物や衣類を洗ったりしたのだろうかと想像する。その上には「乙上の碑」という小さな石があったが,これは「ウツ嬢の碑」とも言うらしい。「ウツ嬢」というのは女性。この島で旧暦8月(今だと9月)に行われる祭りである「8月踊り」の唄の一つを作詞したと伝えられている。
そのまま下り坂を下る。実はゼンリツの地図を見て思い出しながら道を辿っているのだが,もはやどこをどう通ったか覚えていない。最後に軒の低い建物が多い中で,喜界徳洲会病院の建物が目に入ったのは覚えている。とりあえず,それを目指して路地を進むと,公民館っぽい建物の前を通り過ぎて湾側の1周道路に出た。ついでに,この近辺に僧・俊寛の墓を探そうかと思ったが,残念ながら見つからず。ま,車を返すまでに見つかればいいか。
さあ,いい加減にメシ屋を見つけなければいけない。すぐ空港へ通じる道に入り,そのまま空港方向に向かう。すると,回転寿司屋と飲み屋が一緒の建物を見つける。だが,駐車場が狭そうだし,ここまで来て回転寿司も惨めな気がしてパスする。すると,今度は左に定食屋。ここはドライブに出る前に目星をつけといた店だが,ここも3台は停められる駐車場に,大雑把に2台停まってスペースがない。おいおい,せっかく戻ってきてこれかよ。となれば,コンビニしかないのか。駐車場も空いているようだし,まあ“地元の店”ってことでいいか。
ということで,入ったのは「アイショップ・喜界島店」というコンビニ。軒続きでホワイト急便があったり,写真屋もある。写真屋の看板は,いまや見なくなったKODAKの看板だ。アイショップは「イケダパン」というパンの店が経営する,九州地方を中心に展開するコンビニだ。よって,入ってすぐのところに焼きたてパン屋のスペースがある。あるいはそこで買おうかと思ったが,すぐ隣に弁当類が置いてあった。時間が12時なので,人の姿が多い。特にガキや女子中学生の姿が目立つ。心なしか彼らの視線を感じてしまうのは,彼らにとっては普通の日曜日であって,私にとっては非日常な日曜日だから……いや,単なる自意識過剰だな。
中は「コンビニ以上スーパー未満」……いや「都会のコンビニと同レベル」だろうか。とりあえず,ありきたりな「からあげ弁当」を買う。504円。温めてもらうようお願いすると,普通1分もレンジに入れないはずだが,業務用じゃないのか,2分くらい入れていた。そのせいか,メシを食おうと車内に戻ってフタを開け,中に入っていたしょうゆの袋を開けようとしたとき,異常に熱かった。中身はからあげが四つ,鶏肉・ごぼう・しいたけ・さといも・にんじん・こんにゃくの煮物,ニラ入りと魚のさつまあげに,温かくなった芝漬けとたくわんである。味はまずまずだったが,しばらくニラの臭いが車内から消えなかった。
さて,メシを食べていると雨が急に降ってきた。ワイパーを絶えず動かさないとダメなほどだ。店の入口でタベっていた女子中学生が,この雨でどこかに消えていった。急な雨だが,このまま動かないのはもったいなくて再び出発すると,向かいのレンタカー屋の裏に「←戦争指揮所跡」という看板。一度通り過ぎたが,気になって戻ってしまう。入口に路駐して折り畳み傘を開く。
平屋の普通の民家の裏,一瞬入る場所を間違ったかと思ったが,その先のガジュマルの木が生い茂った中に指揮所跡はあった。木の土台に漆喰かコンクリートかで固められた高さ5mくらいの覆い。その上には,放ったらかしにされているからであろう,ガジュマルが覆い被さる。そして,囲いの下は階段で下りていくことになる。数段ある階段を下ると,左に10m×5m程度の何もない部屋…いや,何かがあったのだろうが,今は何もなく落ち葉が落ちたりして汚れている。第2次世界大戦時,喜界空港が海軍基地になり,米軍が沖縄へ上陸した後は特攻機の整備基地にもなったという。空港から位置的には近いし,昔からあったのかは分からないが,樹木に隠れて分かりづらい場所にあるから,指令基地にはもってこいの場所だったのかもしれない。
来た道を再び戻り,1周道路へ。湾の集落兼喜界町のメインストリートに入る。2階建ての築ウン十年の町役場,鹿児島銀行,特産品を売っている店や飲食店など,そこそこの街を形成している。どこにでもある田舎のメインストリートって感じだが,本土と違うのは郊外に大きなショッピングモールがないこと。そもそも“郊外”なんて言葉も実態も,この島には存在しないのだが。

@加計呂麻人情バスに乗る
メインストリートをあっという間に通り抜け,左には白波が立つ海岸,右には畑だの森だのといった緑を見ながらのドライブ。数分走ると「→ウリカー」という看板。どうやら,生い茂った林の中にあるらしく,中に入っていくと,下は落ち葉で濡れているし,ハブの1匹もいてもおかしくない。そして,気まぐれにポツポツと雨が来る。湿気はたっぷりだ。「ウリカー」とは下り井戸の意味。周囲をサンゴの石垣が囲み,上にガジュマルっぽい樹木が垂れ下がるその様は,沖縄でいう御嶽っぽい。一番底らしきところに向かってらせん状に下り通路があるようだが,さすがに奥には行きづらいので引き返す。
ついで,北上していき橋を渡ると,左にちょっとした港が見え,白い2体の像が目に入った。一瞬は通り過ぎたが,はて,これは新スポットかと思い,引き返して港の護岸されたところに車を停める。いかにも「個人で作りました」って感じだ。橋のたもとは川の河口になっていて,それで広くなったのを利用しているのが分かる。クルージングボートか釣り舟を1台繋留すれば十分だろう。数m先は無機質なコンクリートの防波堤があり,小さな出入口の向こうは白波が立つ海である。
河口付近は岩場になっていて,少し濁ってはいるが,海のマリンブルーを見ることができる。白い像は,その岩場の上に立っている。1体は柔和な…というか,完全に素人が趣味で作ったと思わせるビミョーにおかめチックな女性の顔立ち。高さは5mほどで,右手を上に挙げてその先にはなぜか花を持っている。「自由の女神」のつもりだろうか。1994年12月に作ったとある。そして,もう1体は遠くからは妊婦のように見えたが,よく見ると腹の出た小便小僧だった。こちらも顔は素人チック。チ×チンの部分は,後ろから細いパイプがつながっていた。二つとも,実際に個人の趣味で作られたものとのことだが,どこの世界にもこういう摩訶不思議なことをやる人間はいるものである。
さらに北上を続けていく。しばらくは大きな集落を見なかったが,15分ほど走るとちょっと大きな集落が見えた。ここは小野津(おのづ)集落である。1周道路はこのまま右にカーブしていき,そのカーブの先にはいくつか見所があるようだ。一方,集落の中から島の北端の海岸・トンビ崎に通り抜けられる道もある。さらにはそのトンビ崎をぐるっと回って,再び1周道路と合流するらしい。とりあえずは,見所を先に押さえておくことにしようか。
カーブする道は上り坂となっている。右側にはやがて森が見え,その下に何やら看板が立っている。ガイドマップを見ると,「雁股(かりまた)の泉」という文字がちょうどこの辺りに表記されている。普通,名所だったらば大きな目印の看板が,例えば電柱に括りつけられたり,あるいは単独で地面から立っていてもいいようなものだが,それがまったくない。「この島は観光で売る気はないのか」と言いたくなってしまうが,多分「ないですねぇ」とあっさりと,かつまったりと返されそうなので,適度に割り切っておく。ここは小野津に戻るときに寄ることにしたい。
その先,坂の頂上近くに来ると,左に大きな石碑が見えた。ガイドマップに「ムチャ加那の碑」とあるので,それに間違いあるまい。10台ほど停まれる駐車場があるから,一応ここも観光地として売り出す意欲は…あるのだろうが,繰り返すように目印となる看板はない。駐車場脇には「望郷の碑」というのがある。ここ小野津出身で,いま島を離れて活躍している人たちの労を労う石碑とのことだ。
周囲はちょっとした公園になっていて,小野津の集落やその向こうに広がる海を見下ろすことができる。風が強く,雨があいかわらずポツポツと落ちてくる。やっぱり北国に来たような錯覚を覚える。公園の入口には,名前の通り「ムチャ加那節の碑」という島唄の立派な石碑があった。ムチャ加那とは絶世の美女と言われた女性の名前。だが,それゆえに周囲の女性の反発を買い,ある日その女性たちからアオサという海草を獲りに誘われた矢先,崖から海に突き落とされて非業の死を遂げることになる。歌碑には「喜界や小野津 十柱(とばや)ムチャ加那 青さ海苔はぎに いきよムチャ加那」と書かれている。ちなみに“十柱”とは,この辺りの地名とのことだ。
が,この死にはプロローグがある。その母親であるウラトミがこれまた絶世の美女だったのだ。加計呂麻島は生間(第2回参照)の出身というウラトミ。ある時,当時奄美を支配していた薩摩藩の役人が彼女にプロポーズをしたのだが,彼女はその役人のプロポーズを拒否する。すると,役人はその腹いせからか,集落に過酷な年貢を課した。それにホトホト参ってしまったウラトミの両親が,事もあろうか彼女を海に流してしまったというのだ。
そして,その彼女が流れついたのが,いま見下ろす小野津の海岸付近の“十柱”だったとされているわけである。何が,誰が悪いわけでもないのだが,自分だけならまだしも,実の娘まで不幸にしてしまったことにウラトミは悲観し,ムチャ加那の後を追ったという哀しい物語が「ムチャ加那節」の世界を作り出している――ただし,現地である生間や小野津の住民の話によれば,@加計呂麻から流されたのはムチャ加那本人で,ウラトミはムチャ加那の噂話を広げた遊女,A小野津に漂着したのは“ます加那”という三味線の名人で天寿を全うした,などといった言い伝えもある。元の話がいろいろな方向に脚色されたことも考えられ,真相は定かではないそうだ。
そして,先ほど通り過ぎた「雁股の泉」である。直径4mほどの池があり,そこに向かって奥の岩から清水が流れ落ちている。少し濁ったその池には,たくさんの鯉が泳ぐ。その隣には一回り小さくしたくらいの五角形の池があり,これまた奥からは清水が流れ落ちていく。奥の岩の上は鬱蒼とした森になっていて,近くには上に上がれる階段があったが,上がっていってあったのはすっかり雨に濡れきった木のベンチ2基だけであった。
さて,ここ雁股の泉のいわれはというと――1156年に起こった保元の乱で敗れて,伊豆大島に流刑に処せられた源為朝(1139〜70?)は,それから9年後の1165年,その伊豆大島を脱出して南方へ向かうことになる。やがて島が見えたので,住民の有無と敵・味方を探るために矢尻が二股に開いた“雁股の矢”を放つ。そして,安全を確認して上陸してからその矢を抜き取ると清水が湧き出た――これがいわれである。この際「そんなに奥深く刺さったのか?」と思うのはヤボなことだろう。
ちなみに,為朝はその後も南下を続けるが,嵐に遭ってしまう。荒波にもまれて「後は運を天に任せる」と覚悟を決めると,とある島の一角に何とか漂着できた。それが沖縄本島の北部・今帰仁(なきじん)村にある運天(うんてん)だとされている(「沖縄標準旅」第3回参照)。現在は北の離島に向かう重要港になっている場所である。
ただし,言わずもがなだが,これらはすべて伝説の域を出ない。さらには上陸して国中を旅して回り,いまの本島南部・大里村の豪族の娘(妹という説もある)と夫婦になって男の子を授かる。それが大きくなって,12世紀後半から13世紀前半にかけて琉球国王となった舜天王(しゅんてん)となる――どうやら,こんな話が出た背景には,1609年に薩摩藩によって幕藩体制に組み込まれたことを,琉球王国の中で自ら納得づけたかったことにあるという。一方,話を戻して奄美でも,島に上陸して子どもを授かったという話があるそうだが,その島とは,あるいはこの喜界島ってことになるのだろうか。

小野津の集落に戻って,トンビ崎を目指す。狭い路地の中で,子どもの姿をちらほら見かけたが,スターレットが通ると皆一様にこちらを見つめる。日曜日の13時過ぎだが,実に静かである。観光地化されていないと,こういう車が珍しいのかもしれない。現に,集落の入口にある売店は閉まっており,子ども以外は人の姿をまったく見なかった。
その集落も通り過ぎると,左には岩場,右には荒地が続いていく。ちょうどカーオーディオにかかっていたイースタンユース『静寂が燃える』の,コンガとドラムスから静かに始まって,やがて衝動的なギターサウンドへと展開していくサウンドが,見事にマッチしている荒涼とした光景だ。それを見事に演出するのは,紛れもなく岩場の向こうで台風の影響で荒れている白波だろう。空は再び青空がのぞきだしているが,風はあいかわらず強い。
そして,トンビ崎にて下車する。駐車場なんて体裁の整ったものはないが,1本道の周囲はどこもかしこも空地だから,テキトーに停めても大丈夫。海に抜ける小道の入口にあった看板には「朝陽と夕陽が水平線の同じところで見られる」と書いてあった。そして,小道を抜けると岩場に激しく打ち寄せる白波。岩場には所々草が生えていて,それが荒涼感を醸し出しているのもあろうか。整備なんてものはこれっぽっちもされていない。防風林らしきものが立っていたのだろうか,枝葉がボロボロになり,中には折れ曲がったりした樹木をいくつも見かける。そして,なぜかその中の1本の木にローブがくくりつけられていた。いったい,何のためのロープなのだろうか。(第6回へつづく)

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