西表リベンジ紀行

B祖納言うても
路地を入って北側に向かう。民家は結構あるが,外に人はなくて静かだ。数分歩くと,どんづまりに白砂の海岸。道は砂の道となる。「ニシドンの浜」と呼ばれる浜辺である。海岸整備のための工事をしていて,工事の音が聞こえてきた。土曜日の夕方だというのに仕事とは,現場はつくづくご苦労である。これからどんな浜辺になるのだろうか。
ここから西へテクテク歩いていくと,また舗装された道となって少し上り坂となる。そのとば口にゴミ捨て場がある。その低い仕切りのブロック塀の上に,オバアが1人腰を下ろして夕涼みしている。ブツブツと何か独り言を言っている感じだが,何もこんなところで…って感じである。妄想好きの私には,その光景がどうしても「姥捨山」に見えてきてしまう。いや「姥捨浜」か。多分,彼女に間違いなく帰る家はあるのだろうが,考えるだに不気味な光景だ。足早に通り過ぎてしまおう。
周囲は緑一色,森の中に入る格好だ。この森は15世紀後半に慶来慶田城用緒(けらいけだぐすく・ようしょ,生没不明。以下「用緒」とする)という人物が城を設けた場所。用緒はかつて西表島一帯を支配していた按司(あじ=「豪族」の意)である。その碑を探そうと思っていたのだが,道端にそれらしきものが見当たらない。あんまり奥に入ると面倒なのだが,おそらくもう少し奥まったところにあったのかもしれない。道はそのまま行けば集落のビーチに辿りつくようだが,あんまり集落から遠ざかるのも暑いし,とっとと集落のほうに戻ることにした。この祖納は,言ってみれば西表島の中心部だったのである。ちなみに,西表島はそのころ「所乃(そね)」と呼ばれていて,これが転じて「祖納(そない)」になったとも言われている。
さて,用緒は石垣島の北端・平久保付近を統治していた平久保加那(ひらくぼかな)を討つと,その足で石垣村(いまの石垣市中心部)を統治していた長田大主(なーだふーず,1456-1517)を訪れて,同盟を結ぶことになった。“長田大主”で分かった方は鋭い限りだが,そう,おりしも時期は第2尚氏による琉球王国統一が着々と行われていたころだ。そして,事態はあの“オヤケアカハチの乱”へと発展していく(「宮古島の旅アゲイン」後編「沖縄はじっこ旅U」第5回第9回参照)。
――その前に。何度か説明しているが,あらためてここにも書くことにすれば,宮古・八重山諸島はすでに14世紀半ばごろに琉球王国への服属がなされていた。この服属にいち早く従う立場を取ったのが,宮古島の目黒盛豊見親(めぐろもりとぅゆみや,生没不明)という人物。そして彼の玄孫に当たる仲宗根豊見親が本格的に周辺離島も含めて平定し,完全に宮古諸島で統一政権を樹立する(「宮古島の旅アゲイン」後編参照)。そしてインフラの整備をするとともに,やがては八重山との「友好関係→進出」という構図を着実に練っていたのだ。
一方,八重山諸島はというと,いまだ一つに統一されておらず,上記の用緒や長田大主に代表されるように,まだ各島・各村レベルでの按司による支配にとどまっていた。よって,服属といっても,厳密には「宮古島+一部の石垣島の按司」がしていたということになる。無論,いい悪いは別にして,この服属の裏には自身の地位拡大の後ろ盾を求めた意味があったことは想像に難くない。
いや,彼らはみな,後ろ盾をもらいながらも王国から独立した治世を考えていただろう。そんな状況下で,親王派の豊見親率いる宮古との親交・交易権を手中にすることは,八重山の支配のためには当然不可欠なことだ。用緒の平久保討伐や長田との同盟も,この文脈で考えればまずは交易権・交易路の確立のためであったとすることができる。そして,琉球王国が中国の冊封体制下に置かれながらも独立国家を保って,周辺各国と貿易でつながり発展していったように,彼らもまたそんな“青地図”を描いていたのではあるまいか。
しかし,この服属に反抗する人物も当然いた。それが長田大主がいた石垣村の隣にある大浜村で居城していたオヤケアカハチである。彼の勢いは目覚ましく,生まれ故郷をともに波照間島とする長田大主と,やがては八重山で覇権争いの中心に出ることになる。アカハチの反抗の大元は,琉球王朝の八重山に対する扱いの冷たさだった。島や村独特の風習・祭事を「民力・財力を無益に費やす」との理由で廃止させ,“王国が望む生き方”を強要していった。さらには納税を年々厳しくしたことから,八重山民衆の反感を買うことになったのだ。このことにアカハチは敏感に反応したのである。
そして,アカハチの勢いは「琉球王国からの独立」「宮古・八重山で一つの統一政権」という機運へと高まっていく。アカハチは周辺の按司に自身の考えへの同調を働きかける。しかし,もともとアカハチに一度戦いに敗れていることもあったのだろうか,「アカハチが“アンチ琉球王国”ならば……」ということだろうか,長田大主はアカハチには従わなかった。そして,石垣島周辺の按司もまた,アカハチに賛同することはなかった。すなわち,みな琉球王国側についたのである。この王国側には,当然ながら長田大主と同盟を結んだ西表島の用緒も含まれていた。
他の八重山の按司にとっても,アカハチ側と琉球王国側のいずれかに就くことは,当然自分の“今後の立場”にも関係してくることは百も承知のこと。「立場が変われば考え方も変わる」ものゆえ,琉球王国側とアカハチ側のどちらが正しい・悪いと言うことはあえてしないが,結果的にはアカハチは討伐されることになり,王国側に就いた按司の立場は安泰となった。これすなわち「勝てば官軍・負ければ賎軍」そのものである。無論,この乱がきっかけで八重山諸島と宮古諸島は,完全に琉球王国の体制下に組み込まれていくことになったのである。
さて,用緒のその後としては,乱から2年経った1502年に「西表首里大屋子(いりおもてしゅりおおやこ)」という地位を獲得し,西表島西部地区の支配者となった。そして,同島東部地区を支配することになったのが同盟を結んだ長田大主。先ほど通ってきた古見(前回参照)に拠点を置き,「古見大首里大屋子(こみおおしゅりおおやこ)」に就任し,しかもこれが西表島の頭職となったのだ。
ってことは,同盟を結んだ相手のほうが出世し,しかも島の支配権を部分的に“明け渡した”ことになる。相手の出世はともかくとして,島の支配権を明け渡すことになったのは,用緒にとって「いい結果」だったのだろうか。ちなみに,用緒から数えて3代目の慶来慶田城祖納当(けいけだぐすく・そないとう,生没不明)という人物が,1510年に与那国島を統治する「与那国与人(よなぐにゆんちゅ)」という地位に任命されたが,ひょっとして,これは西表島統治の部分的な明け渡しとの“バーター”だったりするのだろうか。


道は集落から前泊の浜に向かう。あとは「新盛(しんもり)家住宅」というのがあるようなので,ここも押さえておきたい。路地を見ていると,昔ながらの集落であることがよく分かる。さらには,ガジュマルの根が岩を貫いている光景なんかが観られるのもいい……それにしても,道が複雑に入り組んでいるから,方向感覚が鈍ってしまって,なかなか新盛家が見当たらない。そうこうしているうちに,再び前泊の浜に出てしまった。親子連れなど十数人がビーチで遊んでいた。夕方になって涼しくなったから出てきたのだろう。水上バイクでまるまぼんさんの方向に颯爽と駆け抜ける姿を見届ける。
とりあえず,再び集落のほうに戻ろうとテクテク上り坂を歩いていると,テーブルサンゴが幾重にも積み重なった石垣と,ネットがかかった茅葺き屋根の建物が目に入った。もちろん木造だ。他は屋根が平たかったり赤瓦だったりするだけに,ここだけ異様な雰囲気を醸し出している。よほど長く野ざらしになっているのか,サンゴの隙間から胞子植物がニョロニョロとグロテスクに出ている。
ちょうど目に入ったのが十字路の角だったこともあって,とりあえずすぐそばにあった出入口から入った。ウワフール(豚小屋兼トイレ)らしき一角を見て,草が少しボウボウになった狭い庭を抜けると,もう1箇所の出入口そばに「新盛家住宅」の看板があった。なーんだ,ここだったのか。どうやら,裏口から正面玄関に出たようらしい。うーん,あまり整備がされていないのだろうか。
新盛家住宅は,沖縄県内に現存するもっとも古い木造茅葺き民家。今から150年前に建てられたとされている。建物は釘や金具を使用せず楔(くさび)で締めてあり、柱や梁(はり)には堅くてシロアリに強いと言われるイヌマキを使用。内装にも西表島産の木材が用いられている。部屋はタタミの8畳部屋が二つ,奥には4畳程度の板敷きのスペースと台所があった。壷らしきものもあり,シンクらしきものが見えたので,あるいは比較的最近まで主が暮らしていたのかもしれない。そして,海側には大きなフクギ。無論,防風林として植えられたものである。
正面から外に出ると,海に向かっての下り坂の景色が何とも素敵であった。「That's スタンダードな沖縄 feat.古民家」といったところだろう。ちなみに,石垣については道路を作るときに壊すよう持ちかけられたそうだが,地元民の中で「これは残さなくちゃ」という意識が強く,そのままにしたらしい。西表島ではこの付近でしか見られなくなっている光景だという……そうそう,後で振り返ってみて,ふと「どっかで観たことあるなー」と思ったのだ。なるほど,三好和義氏の『ニライカナイ神の住む楽園』(「参考文献一覧」参照)に,まさにこの構図で1枚写真が収められてあったのだ。
これにてホテルに戻ることにしよう。時間は17時ちょっと過ぎになった……そういえば,車はあのままの位置で大丈夫だろうか。気になって見に行くと,まだ“邪魔者”にはなっていない。どうやら2台あった奥には十分なスペースがある。練習…というか実績というか,数を重ねるためにも,ここはバックで車庫入れをすることにする。所々邪魔になっていた植木鉢だのを適宜どかしながら,無事に車庫入れ成功。もっとも,一発でサクッとは行かず,何度となく切り返しての入庫であったが,これで心おきなく宿に入れるものである…って,つくづく私は人が好すぎるのだろうか。
玄関に入ると,数名の団体客が入っていくところに遭遇した。彼らは1階のフロントそばにある部屋に分かれて入っていった。部屋のドアがふすまなので,どうやら和室のようだ。そして,2階に上がっていくと,別の団体が私の近くの部屋に入っていくところだった。なになに,結構な人間が泊まっているではないか。ま,さっき遭遇した団体客も,髪の毛が濡れている感じだったし,時期的にもダイビングとかシュノーケリングで来る観光客が多いのだろう。「あんまり高いリゾートじゃ緊張しすぎて泊まりづらいし,金はかかる。かといって,あんまりみすぼらしい感じの民宿に泊まらなくちゃならないほどビンボーでもないし」っていう感じで,いわゆる“中流階層”の人間が仲間内で泊まるには,格好の場所なのかもしれない。
部屋に戻ってくつろいでいると,1枚の紙に目が入る。内容は“節電”を呼びかけるものだったが,西表島には発電所がなく,石垣島より海底ケーブルで電気を送っているとのこと。よって,出かけるときはクーラーとテレビは切って,消灯してくれというものだ。また,ユニットバスのドアには水源が圧力不足のために,「湯も水も蛇口は全開ではなくて半開」「シャワーは6〜10時と14〜24時の利用で」というものだった。水はその代わりというのか「ミネラルウォーターに近い軟水」だそうな。冷蔵庫にサービスで小さいポットに水が入っていてごちそうになったが,なるほど美味かった。
ま,でもそれだけ「この宿はボロい」と言っているようなものだろう――いやいや,海底ケーブルは分かるが,水源の圧力不足は解消しようと思えば解消できるものではないのかと思ってしまう。ちなみに,水は蛇口をひねれば十分に出てきてくれた。なので,文句はいっさいなかった。伊平屋島の「ホテルにしえ」みたいに,蛇口をひねって5分経ってようやくお湯が出てくるなんてことはさすがになかった(「沖縄はじっこ旅V」第3回参照)。ま,あっちは極端な例か。

――18時半からの夕食では,次から次へと泊まり客が入ってきた。すべてのイスに座ったらば40〜50人程度は入れる食堂だが,本土の人間はさぞかし“精一杯動き回る性質”があるから,相当腹が減っているものと想像できる。ほとんどが家族連れか仲間内での宿泊。私のように1人旅というのは,見たところ皆無だったような気がする。
そして,これまた明らかに地元民ではなくて,「この島が好きで住みつきました」的若い女性3人と男性1人が,Tシャツにエプロン姿であちこちのテーブルにフル稼働で給仕をしている。ちなみに,私は最初に入ったのだが,初めから席が決まっていて,一番奥の柱の陰に「202」のプレートがあった。左が大きなガラス戸で庭になっているのが,せめてもの救いかもしれない。時間帯からか,カーテンが下がっている。あるいは,2カ月前に予約したからこの窓側の席……って,まさか。
さて,肝心のメシは@マグロのブツA天ぷら(肉団子・ナス・エビ),Bあんかけふろふき大根Cしょうがつきもずく酢D鍋物Eミニ八重山そばFごはんG茶碗蒸しHデザート(パイナップル)というラインナップ。なかなか豪勢…というよりは,単におかずが多いってだけかもしれないが……Cはそれにしても,沖縄でないしは都内の沖縄料理店で出てくる食事には95%くらいの高率でついてくる。そのたびに太くてボリュームのあることにちょっと圧倒される。
その他を見ると……@は短く切った大根と昆布の上に乗っている。Aはエビでもせいぜい10cm程度の大きさ。全体的に小振りなのは,オヤツとしても成立する沖縄ならではかもしれない。独特の衣厚めでモッチリした食感もいい。何となく「お子ちゃま天ぷら」と名づけたくなる。そのときは天つゆ…と思ってしまったが,今から振り返れば沖縄では天ぷらをソースで食べる習慣があるから,“しょうゆ党”の私は近くにあったしょうゆで食べて正解だったと思う。
Bのあんかけは,昆布・ニンジン・たけのこ・スパム・しいたけを細切りにしたヤツにアーサーが入り,全体としては少し濃い目で和風な味つけとなっている。「沖縄ならでは」というよりは「西表アイランドホテルならでは」と言うべきか。多分,この具材の組み合わせのあんかけを,今後取るであろうすべての食事で見かける確率は相当低いと思われる。二つ飛ばしてEは,よくある味噌汁のお椀でフタがされていたのですっかり味噌汁と思っていたら,三枚肉の細切りとかまぼこが入った“八重山風”のそばだった。ちょっとラッキー。一つ飛ばして,Gはごくどこにでもある茶碗蒸しだった。
そしてD。旅館なら必ずあるかもしれない,「凵」型の鉄の器に固形燃料。私が座ると同時におネエちゃんが来て火をつけてくれた。その上に土鍋のフタを裏返したような器があって,中にはヘチマ・厚揚げ・カニカマ・昆布・ピーマン。そして,豚肉にしては少し固めな肉。ひょっとしてイノシシ?――そう思って食べていたら,別のテーブルからオジさん「これ,何の肉?」。おネエちゃん「豚トロです」……なるほど,豚トロってこんなに固いのか……って,1回しか食べたことないから分からんわ。
ここではまた,予約にはなるのだが「ノコギリガザミ」とか「ヤシガニ」も食べられるそうだ。ただし,ちらっと見えた値段では「4000」という数字が見えた。希少価値ゆえか,はたまた下ごしらえが億劫だからか……ちなみに,飲み物はコーヒー・ウーロン茶・サンピン茶・オレンジジュースが350円,泡盛が,銘柄にもよるが500〜1000円となっていた。数人いるテーブルでは「乾杯〜!」ってな感じで泡盛だのビールだのが並んでいたが,私は結局タダで飲み放題の給水器の水を1杯だけ飲んで,メシが終わるとそそくさと食堂を出た。もちろん,出たのも一番だったことは言うまでもない。

Cリベンジの朝
翌朝,6時前に起床。予定通り,6時を過ぎてからシャワーを浴び,しばしこの駄文を打つ。外はあいかわらず“スミアミ10%”の天気だ。この時間でまだ暗いのは,それだけ西に来ているってことだろう。今日は平田観光へ電話をする8時半前後の数分が勝負ってところだろう。結局,昨日のうちにキャンセルする道は捨てたのだ。はて,どうなるのか。胸が否応なく高鳴ってくる。
7時ごろになると,ようやく空が明るくなってくるとともに,陽射しが入り込んできた。天気がよさそうでホッとする。そんな中,外から何か読経のような音楽が流れてきた。何の気なしにつけていたテレビがたまたま某宗教の番組をやっていたものだから,すっかり外から流れているのも宗教的な儀式なのかと思ってしまったが,どうやら三線に乗せた民謡のようだ。まったく,紛らわしいぜ。
そして,7時半。すべての身支度を整えて食堂へ。またも一番乗りであるが,後ろが続いていたので,やっぱり考えることは皆同じなのか。昨日と同じく柱の陰に案内される。汁物などが運ばれる前に,給水器から水をゲットしておく。こーゆーテキパキした手順を踏むたびに,心のどこかで「何かワサワサしてしょーがねーな」って思う自分がいたりする。
並んだものは@グルクンの塩焼きAじゃこの甘辛佃煮Bクーブイリチー(昆布・豚肉・こんにゃく入り),C納豆D温泉玉子E味付けのりF漬け物(市販のパックに入った漬物と梅干),G味噌汁(小さいドーナツ型の麩とあさつきがパラパラ…),Hごはんというラインナップ。@はテーブルに座った後で出てくる(Hも)。白い塊が魚のそばにあったので,タルタルソースがついているのかと思ったら身が丸まっていただけだった。Cは大里村のゴールデン食品「ゴールデン納豆」。沖縄の宿で納豆といったら,赤地に金色のシーサーがプリントされたこのパッケージだ。どっかで見たところではついているしょうゆには黒砂糖,カラシにはウコンが使われているそうだ。
メシを食べると速攻で部屋に向かい,歯みがきをしてチェックアウト。昨日部屋に入る前に車を移動させておいたが,その空いたスペースには軽自動車のレンタカーが2台停まっていた。私の移動は正しかったのだ。別に軽自動車の人たちに恩を着せるつもりはないが……って,私がそこにいたらどっちみちどかすように言われていただろうから,結局「当たり前のことをしただけ」ってことか。ガクッ。
昨日通った同じ道(前回参照)を通る。朝の光を浴びた穏やかな海岸は,昨日とはまた趣が違う。すれ違う車もない。これから“勝負時”なのに,こういう景色を観るとどこかニュートラルな心持ちになれる。間もなく通り過ぎる旧道は,あいかわらず通行止の看板があった。再び西表トンネルをくぐって,10分ほどで白浜港に到着する。10人程度の人が港にいるが,これから来る舟浮行きの船を待っているのか。はたまた別に船をチャーターしてダイビングでもするのか。
とりあえず,防風林にしちゃちょっと背の低い木々のある方向に向かって車が10台ほど停まっている。でも,こちらはケツから入れることにする。ま,港はそれなりに広いので,頭から突っ込んでも切り返しは余裕でできるから問題はないのだが,こーゆー場所でバックで入れて何となく自尊心を満たしておきたいのだ,オレってヤツは。ケッ。
ここで少し時間をつぶす。港そばのバス停では,西表島交通の路線バスが停まっていた。うん,間違いなく紺色のシートや左右に開くドアの感じが都バスである。料金箱が円筒形の旧式なヤツだ。それにしても,こんなデカいバスが満タンになるなんて,まずないだろう。1日6便。次にここを出るのは9時半のようだ。そして,次のバス停は「祖納」。そこまでノンストップのようだが,たしか民家もまったくなかったような感じだから,ちょうどいいだろう。
……いかんいかん,やっぱり素直に公衆電話探しをしよう。私のオンボロケータイは,この島に入ってからずっと「圏外」の文字しか出ていないのだ。充電をたっぷりしてきたというのに,これじゃ単なる時計代わりだ。足早に通り過ぎると,たしか商店があるはず。駆け足で行くと……あった,しかも緑の公衆電話だ。商店は「屋良商店」。ドアが開け放たれているから,営業中だ。日曜日の朝早くからご苦労様って感じだ。そういや,ここでもたしか,舟浮観光の乗船券が買えるそうだ。
時間はまだ8時ちょい過ぎ。ホントはもっと後でかけたほうがいいのだろうが,あんまりギリギリでかけると,舟浮行きの第1便の出発がたしか8時35分だから,チケットをどっかで買ったりする時間も考えると,ちょっと危険だ。とりあえずここで1回電話して,何か言われたらまた改めてかけようか。持っているコインは,100円玉が1枚と10円玉が1枚。全部財布から出して,電話の上に置く。そして数回コールすると,電話に女性が出た。
「すいませーん,今日の舟浮ツアーは出るんでしょ
うか?」
「……少々お待ちください」
どこかで聞いたことがある“待ちのメロディ”が流れると,ふと“チムワサワサー”になる。そう,コインはまず100円玉を入れたが,石垣港までは数十km離れているわけで,はたしてどのくらいもつのか。ましてや,10円玉ならばいくらももたないだろう。途中で切れてしまったらこれにて一巻の終わりである。でも,20秒ほどして,
「お待たせしました……はい,行きますよ」
「おお,これで4度目の正直だ! あきらめなくてよかったぜ」という気持ちと「なーんだ,行けるときはこんなものか」という気持ちが入り混じる。
「あのー,昨日電話するって言った者ですー。じゃ,
白浜から合流ってことで」
「あ,はいー」
「何時ごろに到着来ますかー?」
「えーと,9時40分ですねー」
結局100円玉で事足りたようで,10円玉は2枚とも戻ってきた。ということで,無事舟浮ツアーに参加決定である。でも,早く電話してよかったぜ。当日飛び込みってのが結構多いんだなー。いい意味では「融通が効く」,悪く言えば「いい加減」ってところだが,これがまた「沖縄旅」の魅力だったりもするのだ。上述のように,私にとっては4度目の参加表明でようやく参加が実現したのだ。その過去の“戦績”を改めて書けばこんな状況である。
1回目…昨年9月。このときは2人の参加者が出たものの,台風明けで舟浮地区の波が高くなり,ツアー当日になって断念(「沖縄はじっこ旅U」第7回参照)。
2回目…今年正月。このときは12/30に那覇上陸。その日のうちに沖縄最北端の伊平屋島に車を乗せてフェリーで渡り,翌日大晦日には伊平屋島からそのまま那覇まで戻って,飛行機で一気に石垣まで飛び石垣泊。そして元旦にツアー参加……のはずが,伊平屋島に渡ったその日の夜に大しけとなり,1/2まで島から出られず断念(「沖縄はじっこ旅V」第5回)。
3回目…今年3月。このときも参加者は2人いたが,父親が病気になって手術を要する緊急入院。断念(「管理人のひとりごと」Part37参照)
何はともあれ,これは「終わりよければすべてよし」ってことなのだろう。「4回目の正直」だけに,これでどこか「旅の区切り」って感覚もふと覚えた。だいたい行きたいところは行ってきたので,あとはチビチビと行っていないところを“攻めていく”のか。そうなってくると,いつになったら私の旅は終わってくれるのだろうか。

さあ,予約が無事取れたとなれば,次はツアーが来るまでの時間つぶしである。昨日,ザッと白浜集落は見ているが(前回参照),あらためて徒歩で散策してみようか。車までは100mほど戻ることになるので,また往復するのはナンセンスだ。とりあえずどんづまりの方向に向かって歩くことにする。ま,多分1時間もあれば回りきれてしまうだろう。
周囲は実に静かである。入江ゆえの海の静かさが,集落全体にまで浸透しているようだ。そんな中,朝もはよから若い男性にレクチャーされているカップル。オールを持っているので,シーカヤックにでも行くのか。その近くにはだだっ広い護岸されたスペース。50m四方はある広さだが,ど真ん中に丸い円が描かれていたので,あるいは救急用のヘリが降りるのだろうか。
さらに行くと,三角形のモニュメント。これもまた「子午線モニュメント」である。祖納にあるヤツ(前回参照)と“対”というか,もう1個のヤツである。「宝くじ普及事業」の一環で建てられたそうだが,早い話が宝くじを買った人間の金を使っているということだろう。ここに向かってレーザー光線が投げかけられたところで,ホントに届いたりするわけがない。道中に高い山があるというのに。
この前には金城旅館という2階建ての旅館がある。戸も窓も開け放たれていて,ちょうど,朝ご飯後の“マッタリタイム”の様子が見える。前回ちらっと説明した,祖納と白浜の間を走る“旧道”のガイドをするのが,生まれも育ちも白浜だというこの旅館の女将さんだ。その縁があるのか知らないが,この旅館の前がまさしく西表島を縦断する道路の終点である。「県道215起点」という青い看板がある。脇からニョロッと奥に伸びていく細い道が森の中に消えていくが,これが旧道である。ちなみに,こちらの入口には「通行止」の看板はなく,1台車が入っていったような気がする。
間もなく白浜小・中学校。最初は門扉の右の「白浜中学校」しか目に入らず,「こんな辺鄙な場所なのに,小学校がないのか?」と思っていたら,左に「白浜小学校」とあった。通りで校舎に「進んで読書する子伸びる子」なんて評語があったわけだ……と“行数稼ぎ”に書いておくとして,学校の敷地に沿って護岸がなされている。護岸のそばには1本のヒルギ。この1本が“すべての始まり”……となるには周囲に何もないから心細いか。その脇から車1台程度が通れる道が続いている。こーゆー道は車で行くと“自滅”しそうな気がするので,徒歩でテクテク行くのが一番だ。
その入口には,多分護岸される前からあったと思われる天然の船着場があった。水が大いに澱んでいる。使われているのかビミョーだ。道はここを左にカーブしていって,緑深い山をバックに間もなく二股に分かれる。とりあえず,右のほうに折れてみると「白浜墓地公園」と手書きで書かれた,どう考えても“墓地以上でも墓地以下でもない”公園。後ろで水の流れる音がすると思ったら,そこそこ立派な流れの滝があった。ひょっとして,この滝が“公園たらしめている”のか。はたまた破風墓の上に直方体の墓石が乗っているから…って,んなわけないか。
さらに奥に入っていくと,「白浜リサイクル施設」なる掘建て小屋。だだっ広い荒れ地が広がっていて,多分端から端まで100mくらいはあるだろうが,カラスが何羽も不気味に旋回している。どっかの映画に使えそうなシーンっぽいが,「これ以上進むな」って言われているような感じがしたので,ここで引き下がる。すると,すれ違いで軽自動車が1台そちらのほうに入っていった。中には若い男女が1人ずつ。単なるゴミ捨て場だったのだろうか……一応,来た道を戻って今度は二股の片方へ行くと,こちらは家が1軒あって,洗濯物が乾されてあった。ということは,人が住んでいるってことだ。さらに進んで集落のほうに出ようと思ったら,校舎の裏手で行き止まりとなる。
仕方なく,護岸沿いの道をテクテク戻り,日曜日だから誰もいない広い白浜小・中学校の校庭を勝手に突っ切る。当然というか,ガードマンもいない。こんなこと,東京だったら大騒ぎだろう。もちろん,ここ西表島の端っこでもやってはいけないことに決まっているが,少なくとも「校門」というものが外界とを遮断しているはずである。校門から出ると,ちょうど小型船が舟浮の方向に走っていった。時間は8時38分。乗るかもしれなかった定期便だ。
校門を出て右側にある,水色の壁が特徴の「海人の家」。平屋建ての棟が二つある。1泊朝食つきで3500円。「“沖縄体験滞在交流促進事業”という沖縄の恵まれた自然環境と独自の伝統文化等の地域資源を有効に活用する目的の中から生まれました。さらには地域外の住民が沖縄の自然や文化を体験し,沖縄の住民との交流を図ることが出来るような環境が生まれる事を期待しています」と,どっかのホームページには書いてあったが,そんな高尚な目的なぞどこ吹く風。ヘルパーと思しき若い女性が,かったるそうにウ×コ座りでタバコを吸っていた。お疲れ様。
その隣には居酒屋らしき建物。ちょっとジャリ道を入っていく感じであるが,とりあえず入って行こうとすると,“シャーッ”と1匹の猫が横切る。ひょっとして…って,まさか――この辺りから路地を入ることにする。家がちらほらあり,民宿らしき建物,フツーの民家,どっちがどっちか区別がつかないくらい,なじんでいるというのかぼやけているというのか……数分で西表トンネルの出口につく。横断道路である。そのそばには「白浜レストラン」という食堂。まだ開店していないが,明かりがついているので,仕込みでもいているのか。ここのトンカツ定食が美味いというので,定期便で行くことになったときは,帰りにここに寄ろうかと思ったが,それはまた別の機会に譲ろう。
横断道路沿いを再び港方向へ。すぐにゲートボール場。20人くらいの年寄りが早くも集まっている。朝もはよから会合ご苦労様。ま,彼らの年代は朝が早く代わりに夜も早いだろうから,彼らの9時前は我々の10時過ぎくらいの感覚だろう。この真ん前には交番。中に人はいないが,隣に家がくっついているから,そこにはいるのだろう。交番の前だから,何かあったときには安心…かどうかは知らない。

港に戻ってきたときは9時ちょっと前だった。都バス…もとい西表島交通のバスは,運ちゃんの手で洗車されていたが,9時の針を指すと同時に出て行った。行き先プレートも掲げている…というか,取り外しは不可能か……あれ? 後で改めて時刻表を見てみると,この7月1日の改正で「8:00,9:30…」という時刻になっている。どーゆーことだろうかと思ったが,なぜか数分して再び戻ってきて,港前の広くなったところで転回して港を出て行った。うーん,つくづく謎である。
そして,私はどうしても気になって頭から車を突っ込むように切り返しをする。みーんな車を木々の方向に向かって突っ込んでいるとなれば,「陽射しを避ける→車内高温化防止」という法則でもあるのかと想像してしまう。いまのところは陽射しが弱いからいいが,これから数時間経って戻ってきたときに,ボンネットが海側を向いていたばかりに車が動かないなんてことになっては,最後の最後にこの旅が台無しになってしまう。ま,単なる気休めに過ぎないかもしれないが,ここは周囲に同調しておこうか。(第5回につづく)

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