西表リベンジ紀行

(3)リベンジ敢行
さて,外は陽射しが出てきて暑いことだし,少しの間車内でクーラーをかけて涼んでいると,ポンポン船みたいなのがトコトコとやってくる。あれが,今日のツアーで乗る「ちむどんどん号」だな。意味は「ドキがムネムネ」…じゃなくて「胸がドキドキ」。もちろん,動悸じゃないぞ……すでに,5歳ぐらいと2歳ぐらいの小さい女の子2人を連れた家族が港で待っているようだったが,彼らと一緒に船に乗り込むことにする。いわば今日急に参加することになったので,チケットの類いは一切持っていない。家族連れはクーポンのようなものを見せていたが,とりあえず経緯を説明すると,「いいですよ,後でうかがいますのでどうぞ。石垣からのお客さんが合流するまでお待ちください」と言われて,無事乗船と相成る。
座席は背もたれのないプラスティックの3人がけベンチシート。上には緑のテントっぽいフラットな屋根がついている。黄色とオレンジのシートという“原色丸出し”は,いかにも観光用って感じだ。このペンチシートが8列×左右2列ある。なぜか,赤い球のおもりっぽいものがあるそばに座った。中年の男性係員が家族連れに話しかける。彼らは横須賀から来ているようだ。
そして,私のところにもやってくる。「どちらからいらっしゃったんですか?」「東京です〜」「こちらは初めてですか?」―こう来られると,まるで堰を打ったかのように,過去3回のチャレンジ状況と今回ツアーに参加した経緯が口をついて出てくる(前回参照)。実は聞かれたときのために密かに話し方の練習していたりして……って,それはちょっとあったりするのだが(笑),向こうもテキトーに相槌を打って笑ってくれた。「今日はかなり“飛び込み”があったんですかね〜?」「あ〜…でも,昨日の時点でたしか十数人だったかな? 今日はかなり来ていますよ」。なぬ〜,だったら昨日の時点で間に合ったんじゃん。もっとも,お互いに連絡の取り様がなかったからしょーがないのか。
ちなみに,彼の胸につけたネームプレートを見ると,「舟浮観光」の名前。この海の向こうが舟浮観光の言ってみれば“領域”なのだろう。ツアー会社は平田観光だが,ということは,石垣から白浜までの往復交通費・8000円が平田観光の取り分。残り9500円が舟浮観光……かどうかは分からないが,結構1人来ればそこそこ儲かるじゃん。
時間は9時40分になったが,ツアー一行が現われる気配はない。路線バスとかタクシーなどで,1人また1人と現われてはいるが,予定時刻で集まったのは8人。ま,こーゆーのは沖縄だったらあり得ることなので,もうしばらく待つことにする。海の上でかつ屋根の下にいるからだろうか,吹き抜ける風が天然のクーラーとなって心地いい。
――結局,ツアーが出たのは9時55分。船に乗ったのは10人。上記家族連れ,20代半ばぐらいの女性3人組,あとは1人旅が私も含めて3人。係員の様子を見ていると,何だか見切り発車っぽい感があったが,どうやらこれで全員がそろっていたらしい。こまめに点呼していては,平田観光らしい相手と連絡を取り合っていたようだが,あるいは寸前でドタキャンでも出たのだろうか。

@孤島の生き地獄
船はテコテコと,ゆっくりしたスピードで離岸する。さっきの中年の男性係員は田中さんという。自己紹介が始まって,このツアーガイドを務めるようだ。後方では船をコントロールする若い男性が1人。まず行くのは「内離島(うちぱなりじま)」という無人島。ジャングル島だ。目の前に横たわっていて,3分ほどで着いてしまう近い距離にある。距離にして1km程度。うまくすれば泳いで行けるかもしれない。道中の波はほとんどなくて穏やかだ。ちなみに「内」があるからには「外」もあるわけで,右隣すなわち北側に小さく「外離島(そとぱなりじま)」が横たわる。
船着場といっても,大きなマットレスのようなものが浮かんでいるだけ。踏めば当然揺れるのが分かる。砂浜ともあるようだが,そこは「ちょっとそこだけ低くなっているから,そこをとりあえず船着場にしちゃお」って感じの場所だ。何ともアバウト…というか,「こんなんでいいや」って感じだったのだろう。このすぐ近くには水中に隠れているが石積みが残っている。そこが昔は港だったそうだ。
道はすぐに山道になる。入口には「おーりとーり,内はなりしまかい」という木の看板。「“ようこそ”という意味です。本島では“めんそーれ”と言いますが,八重山では“おーりとーり”と言います」という田中さんのガイドが入る。歩道は白いものが撒かれてあって,そこそこ道は分かりやすいし,思いのほか歩きやすい。小さい子どもたちも,スピードは遅いながらエッチラオッチラと上ってくる。小さいほうは途中で両親に抱かれていたが,グズることもなくなかなかできた子どもたちだ。ちなみに,後で白いものが何かを確認したら,サンゴの欠片とのこと。そうでないと,どうにも軟くて滑ってしまうからだろう。
まず,最初は天井が開いたカゴの前。後ろにはすぐ崖が迫っている。体長にして30〜40cmほど,小さめの犬ぐらいの大きさで,黒豚みたいな動物が4頭動き回っている。名前は「琉球イノシシ」。大きくなっても,60cm・60kg程度だという。本土のイノシシに比べれば小振りらしい。色は灰色と黒。現在いるのだと18歳ぐらいで,「高校3年生」と田中さんは言っていた。たしか高級食材。身が引き締まっていて,脂身も少なくクセも少ないので食べやすいそうだ。でも,ここのイノシシは食べられることなく,無事一生を終えることが……できるといいのだが。
道中でも田中さんの説明がすかさずある。口も滑らかだ。地面は白いものが撒かれているが,土の中にはあちこちに黒い小さい塊が混じっている。これ,すなわち石炭なのだ――その昔,成屋(なりや)村という内離島の対岸にある西表島側の集落で,ある少年が竹ぼうきで落ち葉を集めて石垣のそばで火を放ち,その火で身体を暖めていると,異様な匂いが鼻をついた。見れば,石垣の下に積まれた黒石に火が燃えて移っていた。父親があわてて飛んできて消火したので事無きを得たが,そのエピソード以来,黒い石は「燃える石」として村中に伝わっていった。
この石が「石炭」と呼ばれるようになったのは,ずーっと後になってからのことだという。時代は定かではないが,琉球王朝がその存在を知っていたということで,少なくとも,1879年の琉球併合よりは前ということにはなるのか。後で改めて触れていこうと思うが,この些細な出来事から,内離島が「炭坑の島」として一つの時代を経験することになるとは,その少年は知る由もなかった……と,話を〆るのはいささか強引な気もするけども,ま,いいや。そうそう,この石炭の塊は至るところに今でも落ちているので,まだすべてを採掘しきっていないということにもなるのだ。
少し上がってきて,階段の踊り場のようなスペース。ここに西表島の動植物に関するボードがある。ノコギリガザミ・ヤシガニ・シレナシジミ・コメツキガニ・リュウキュウアカショウビン・セマルハコガメ……などなど,一通りの紹介を写真つきで受ける。ここで田中さんの話題は,前二つのカニの話題になった。「ノコギリガザミは,ズワイガニなんかよりも美味い」なんてのから始まって,どれかを食べたことがある人がいるかという話に。すると,小さい子どもの家族連れがヤシガニを食べたという。「美味かったでしょ?」「ハイ,美味かったです」「ミソが濃いでしょ?」「そうですねぇ」。すると,どこかから「食べたいな〜」なんて声が聞こえた。多分,女性の声だった気がしたが。
この踊り場の脇には,小さい小川が流れている。理科の実験で「川がどうやってできるか?」というのをやった方は分かると思うが,あの原理そのまんまって感じで流れている。さらに,そばには池もあったが,埋めたてられたような跡がある。しかし「前にここで大ウナギを飼っていたんですが,6月15日の集中豪雨ですっかり埋まってしまいました」。もちろん,今年の話である。そして,川の流れもその豪雨によって変わってしまったという。川の流れが変わるなんて,どこか昔の河川氾濫の話っぽく聞こえてしまう。そういや,昨日工事だか何かで,道路のすぐそばにマングローブと湿地が見えたが,それもこの豪雨の影響だったのだろうか(第3回参照)。
ちなみに,大ウナギはというと「多分,どこかに逃げたでしょう」。ホンマか!? 一体,どうやって逃げたのだろうか。案外この下を掘ったらば出てくるのではないか。そして,すぐ近くには新たに池を作ってあり,近々ここに再びウナギを飼おうと思っているらしい。さしずめ「去る者は追わず」ってところか。でも,ちょっと冷たいかも。動物愛護協会の人がいなかったのは救いだろう(って,いたところでどうなるってこともないのだが)。
さらに進む。この通路にはもともと石炭を運び出すためのレールが敷かれていた。まだまだ先はあるから,縦横無尽に敷かれていたのだろう。私が見た限りでは,レールらしきものはなかったと思うが,それだけ今は跡形もなく泡沫に消えてしまったということだ。それらを覆い隠すように,オオタニワタリやヒカゲヘゴ,ギランイヌビワなど様々な植物が生い茂る。
それらの植物についても,田中さんによる説明がつく。長細い木を持って,それを軽くしならせながら歩く。これはハブ避けという。そして,たまに軽いジョークを飛ばす。とある大きなトタンの箱の中。「ヤシガニのいえ」と書かれていて,彼のガイドが始まる。興味を持って数人がのぞくと,それを見透かしたように「残念ながらいないんですねぇ」。ここと同様に黒島で観光客用に囲って飼っていたところ,すべて死んでしまったそうだ。何と16匹。そのことがあって野に放ったそうだ。

そんな中,ガラクタのようになった大きな石や,角張って掘られた穴の跡などを見る。近くには飲料タンクだという石もあった。これらいずれも,この島が炭坑であったことの証である。角張っている穴は,坑口の跡。大きな石は,共同浴場の浴槽だという。すっかり野ざらしになって,三角形の角しか残っていない格好になっているが,元々はちゃんと四角い風呂だったという。湯ではなく,水風呂で身体を洗ったそうだ。ま,夏場はそれでいいだろうが,冬場はいくら沖縄でも寒いときはそれなりに寒い。シャワーで済ますどころか,水というのはさぞかし辛かったであろう。
ここ内離島を中心として,西表島一帯で石炭事業が始まったのは1886年のこと。当時の三井物産会社によって採掘が始まった。その採掘には,沖縄県内の囚人が多く駆り出された。人数や規模は正確には分からないが,開始当初は130人の炭坑夫に140〜150人の囚人がいたという。その賃金は,他府県からの労働者が1日30銭なのに対し,沖縄出身者は3分の1の10銭という“理不尽な差”がついた。それでも,右肩上がりに採掘は続き,中国や香港への輸出がさかんに行われていた。上記の石積みの港から小船にて大船の停泊しているところまで運ぶ。それを何度も繰り返す。北大東島の燐鉱石採掘と同様の手法で島の外へ運び出していたのだ(「沖縄はじっこ旅W」第6回参照)。
しかし,この事業は「マラリア」という4文字…もとい病気によって,10年ももたずにはかなくも終焉を迎える。当時で150人いた炭坑夫のうち144人がマラリアに感染し,トータルでは死者が14人。囚人に至っては1カ月に5〜6人が亡くなるという有り様。この差も露骨な差ではあるが,いずれにせよ肝心の現場が機能しなくなっては,撤退以外の道はなかったのであろう…というか,面倒くさくなったのかもしれない,勝手な邪推だけど。
その後,経営は白浜にある駐在所,すなわち警察に移って,それから八重山炭坑会社,西表炭坑,琉球炭坑,沖縄炭坑など,いろーんな会社が入り込んでやっていて,時にはイザコザが起こったりもしたようだが,経営がどこであろうと,現場が置かれた状況は1ミリとも変わりはなかった。ま,昔の日本の炭坑に,悲惨な歴史がないところはないのであろうが……。
話を戻して,西表島の場合は囚人はともかくとして,中には罪もない人間が言葉巧みにだまされて連れてこられることも多々あった。台湾や韓国からも労働者が連れてこられた。その連れてこられるときには,当然だが交通費がかかる。これらはすべて本人負担となった。衣類費も,はたまた仲介人に対する手数料も何もかも本人負担……ということで,すでに炭坑に入るどころか,西表島に入る時点で借金まみれになった。
実際の仕事も,きわめて厳しいものだった。一応は3交替制だったが,割り当てられた分量を掘り出すためには,必要以上に働くことを余儀なくされた。はたまた炭層が薄いために横になって採炭しなくてはいけなかったり,計画的な採掘ではなくて,1人1人が勝手に掘っていく“タヌキ掘り”の形であったために,落盤事故もたびたび起こった。
こうして炭坑で必死に働き始めたにもかかわらず,その借金は減るどころかますますかさんでいった。飲食費・用具代・薬代……片っ端からバンバン差し引かれて,手元にはほとんど残らない。賃金もいわゆる“現ナマ”ではなく,会社が発行する切符だった。当時はいくつもの会社が経営をしていたが,会社が発行するからには,当然とも言うべきか会社の売店の中でしか有効とならない。切符をどんなに多く持っていたとしても,会社の外では単なる紙切れでしかなかったのだ。
一方では,炭坑夫には「納屋制度」と呼ばれる事実上の“監視下生活”もあった。作業割当から身上保証が「納屋頭」と呼ばれる親方に委ねられ,納屋頭はそれなりに裕福であったが,炭坑夫は独身ともなれば,1人畳1畳程度のところに雑魚寝。家族帯同であっても,家は茅葺きで窓のないもの。いまはすっかりジャングルと化している私の周囲に,そんな家々が点在していたそうだが,きわめてストレスのたまる生活であることは,想像に難くない。
一部の炭坑では娯楽施設があったり,病院・上下水道などのインフラが整っていたそうだが,ここ内離島には一切そういった類いのものはない。年に3回のお祭りだけがせめてもの慰めであったとされるが,それらを待たずに過酷な生活に耐えきれず病死する者,はたまた発狂して自殺する者も出た。その遺体も埋められればいいほうで,見えない場所で野ざらしのまま放置されたままということもあったという。もちろん「娯楽施設がある」といっても,それは外見をよく見せるためのアピールであって,実際の炭坑生活はどこでも共通に過酷なものであったことに変わりはない。
だからといって,簡単に来た道を戻れるわけでもない。脱走してもつかまれば,リンチに遭う。棍棒でなぐられて木に縛られ,そこでマラリア蚊の襲撃に――そこで,田中さんの話でも出てくるのだが,わざと犯罪を起こすこともあった。窃盗・傷害・殺人……すなわち,警察があった石垣島に連れて行かれることになるからだが,冗談ではなくて「ブタ箱のほうがまだマシ」だったそうだ。さすがに,出所した人間を炭坑に戻すことは会社としてもできなかったのであろう。
第2次世界大戦後は,一切の炭坑施設が米軍に接収された。細々と事業は行われ,一方では新しい開発構想も打ちたてられたが,結果的には衰退の一途をたどって,1960年代には姿を消すことになった。戦時中は需要が高かった石炭も,エネルギー需要の変化という波には勝てなかったとも言える。まあ,言ってみれば「孤島の生き地獄」。その労働条件の悪さに,最終的にはいろんなところから査察が入ったりしたそうだが,こういう過酷な事業はいつかは朽ち果てるものなのかもしれない。
こんなエピソードもある――第2次世界大戦中のこと。大阪に住む16歳の少年が,当初は東南アジアで日本軍飛行場の労働者として駆り出されたはずが,アメリカの潜水艦に行く手を阻まれて沖縄に引き返した。そこで炭坑行きの話を持ち掛けられ,素直についていくことになった。ところが,上記のような過酷な労働生活。16歳の育ち盛りに出される食事は,何と朝晩のお粥1杯ずつだけ。見る見るうちにやせ細り,栄養失調寸前になった。このままではどうにも死んでしまう……。
そこで,少年は炭坑に野菜売りにやってくるサバニの漕ぎ手に救いを求めた。そのやせ細った姿を見るに見かねて,何とサバニにあった南京袋に身体を押し込んでの脱走と相成った。荷物にみせかけたわけだが,その脱走に手を貸したのは意外にも先輩の炭坑夫だったという。自分が生きるだけで精一杯だったであろう炭坑での過酷な生活。まして相手が少年となれば,先輩にとって“格好の餌食”となることは間違いないはずだが,どこの暗黒なる世界でも必ず“救いの神”はいたのだろう。
そして,いざ出航。炭坑の監視官が怪しいものがないかと検査するために,業者の袋は片っ端からつついていったという。少年は生きた心地がしなかった。そりゃ,そうだろう。バレたら最後。生命の保証はないからだ。しかし,ここでもどういうわけか,その少年が入った袋だけがつつかれることはなく,素通りとなった。やがて,船がある程度陸から離れたところで少年は袋から出ることができて,無事石垣島に脱出。大阪に戻ることができたのは終戦直後だったという。

A水辺をただよう
10時半過ぎ,内離島を脱出…もとい出発。次に行くのは「水落(みずおち)の滝」。大きく深く入り組んだ舟浮湾を奥まで進むことになる。風が少し強くなってきたが,実に心地いい。間もなく,岩と岩の間から奥に入る川に出会う。「仲良川(なからがわ)」という川だ。たしか島で3番目に長い川だったと記憶する。ここを入っていくシーカヤックツアーもある。
間もなく,大きな池のような場所に入っていく。目の前に迫っていた陸地は遠くに離れた。波はほとんどなく,揺れもさして感じない。この好条件を生かして,舟浮湾はまた「国際避難港」としての顔を持っている。台風などの悪天候時など,多いときには50隻あまりの船が停泊することもあるそうだ。定間隔に赤い浮きが浮かんでいて,そこに船をひっかけることになる。第2次大戦時には軍港としても重用され,道中に人工的に掘られた穴を見た。ここに特攻艇を待機させたそうだが,出航することなく終戦。ちなみに,その穴は当時陸上に出ていたが,いまはその穴をすっぽり水が覆っていた。ロープで区画されており,それが目印になっていると田中さんから説明があった。
道中で田中さんからクイズが。「舟浮湾は最深何m?」――1人1人から答えを聞き出していく,どっかで経験したことのある方式。私はとりあえず「5m」と答えておいた。観光客側の回答は「5〜30m」だったが,正解は「80m」とのこと。「残念でした〜。正解者がもしいらっしゃったらば,これから行く舟浮でイリオモテヤマネコをつかまえておいて見せられるようにしてあったんですが,いらっしゃらなかったので逃すことにしました」だって。なんのこっちゃ。
さらに田中さんの解説では,ちむどんどん号は「水を切って進んでいく」のではなくて「水に浮かんでいるだけ」のだそうだ。よって,横風なんかの影響は受けやすいそうだが,水を切ることによってマングローブに傷をつけるなどの負担はかからない。「環境にやさしい船なんですね。あとは,操縦する人にがんばってもらうしかないですね」。ちなみに今回は,若いメガネをかけた柔和な顔の男性が,ハンドルを巧みに操っている。
順調に進んでいって,やがて一つの川の中に入っていく。水落川である。広いところでは200mほどあった両端は,今は20mもないと思う。マングローブがすぐ目の前に迫ってくる。仲間川と浦内川(「沖縄標準旅」第9回参照)でマングローブの中を進んだときは,片方の側にしか近づくことができなかった。だだっ広い川の中をスピードを上げて進んで,どっちかの側に着いたときだけスピードを落とす感じだった。結果として,マングローブはあくまで「おまけ」っていう印象を持った。
でも,この「ちむどんどん号」はただでさえ遅いスピードに加え,川に入るとおもむろにエンジンを切る。何ともゆったりと揺られるまま。風がなくなって一気にムッとした空気になるが,マングローブの“黒柳徹子的根っこ”を堪能できる。1本だけスックと立っているのから,まとまっているものまで,こういうマングローブの鑑賞は気に入った。見れば,水面にはあちこちにオレンジ色の葉っぱが浮かんでいる。車の「もみじマーク」みたいな感じだが,田中さんの解説によれば「マングローブは塩分を葉っぱに集める習性があって,満タンになると葉っぱを捨てるんです」とのこと。なるほど,こういうツアーでないと得られない知識というものもあるものだ。
それに,この入口辺りからシーカヤックの4人組と一緒に入っていく格好になっていたのだ。オレンジ色のライフジャケットを羽織った2人組×3。見ると,どうやら親子連れと先導役みたいだ。すれ違いざまに,彼らに手を振る乗客が数人いた。子どもは小学生ぐらいの男の子もいた。小さいのに大したヤツだ……って,いい年こいてもこーゆーのに乗れない私がアホなだけかもしれないが,どうにも私には運動神経というのがないもので,せいぜいトレッキングぐらいしかできないのだ。だって,歩くだけだったら誰だってできるではないか。
11時過ぎ,目の前に大道具のセットみたいな茶色い壁が迫って,その上から細かく4段ぐらいになって落ちてくる二つの流れ。高さも幅も10mあるかないか。これが「水落の滝」である。見様によっては,大浴場の“打たせ湯”みたいに見えなくもないが,それじゃああまりに風流がなさすぎか。でも,考えてみれば「海に落ちる滝」である。川に落ちる滝は何度となく見ているが,海に落ちるのは初めてである。ま,厳密には海水と淡水が混じっているところではあるが……。
と,ここである疑問が浮かんだ。「ってことは,水落川はどこから始まるの?」という疑問。すなわち,この滝が水落川の始まりなのか。もちろん,そんなこと誰かに聞いてまで知りたいとは思っちゃいなかったが,どこかから「でも,この滝も上にも川が続いているから…」という声。あ,そうか。ここはあくまで川の途中なのだ。でも,川は海に注ぐときが終焉なわけだから,ここがひょっとして川の終わりなのでは?――ま,いいか,そんなこと。
下は川底が透き通って見える。でもって,みんな片方の側に寄ったりするから,船体が傾いたりする。多分,マングローブの根っこがかなり露出しているから,現在の水深は1mもないだろう。ちなみに,潮の干満によって滝壷の位置が変わるという。これもまた「海に落ちる滝」ならではだろう。田中さんの話では,6月の豪雨でちょっと水量は多くなっているようだ。
帰り際,シーカヤックの6人とすれ違う。彼らは我々を先に行かせるべく,マングローブのねっこにつかまって待機している。これまた手を振る輩が数人。そして,田中さんからまたトリビア…じゃなくて説明が。この「ちむどんどん号」は,NHK大河ドラマ「北条時宗」で“蒙古襲来”のシーンのときに使われた船を安く譲り受けたという。12へぇ〜。

来た道を戻って,再び広い場所に出る。左手にはこれから上陸する舟浮集落が見える。その手前には「黒飴なめなめ…♪」みたいな黒い浮きがいくつも浮いている一角。黒い玉といえば黒真珠…とはいささか強引過ぎるが,ここは黒真珠の養殖場となっている。「後で養殖施設をご覧いただくことになります」とのこと。
その向こうには背の低い建物が寄り添いあうように建っている集落。バックには濃い緑。「あの見える全体が,言ってみれば舟浮の全景です。で,海側に走っている道がメインストリートです」という田中さんのコメント。「人口45人。小学生4人,中学生4人,そして教職員が15人です」というオチに,少し笑い声がもれる。それじゃあ“マンツーマン”以上である。さらにはここにも岩肌に小さい人工的に掘削された穴が。「昔,戦争の時にあそこに軍が待機して,米軍の飛行機を撃ち落としたそうです。今でも海底にはその飛行機の残骸があるとのことです」だって。
11時20分ちょっと過ぎ,いよいよ舟浮港に着岸。いかにも昔の海岸らしい,どこか磯臭くってプリミティブな感じの港。その向こうにある昔の学校の校舎みたいな茶色い平屋の建物が,舟浮観光の事務所兼施設「ふねっちゃーぬ家」だ。とりあえず,ここでトイレ休憩をするらしい。上陸するやいなや,小さい子ども連れのお姉ちゃんとその父親は,ダッシュで港そばに設置された簡易トイレに向かっていた。
そして,私も「ふねっちゃーぬ家」の中へ。中に入ると土産屋の陳列棚があって,右奥にレストランのテーブルがある。実に涼しいが,こちらもまずはトイレにかけこむことに。ふぅ〜……トイレを出ると,左に1.5m幅ぐらいの水槽。中に黒い物体が見えるが,店の人から「これは大ウナギです」と言われた。なるほど,1mぐらいあるが何よりも寸胴だ。でも,まったくと言って動かない。そういや,どっかのテレビ番組でこの大ウナギを食べているシーンを見たが,なかなか美味というコメントだったと思う。大きいから大味ということはなかったと記憶する。
田中さんから「昼食前に見学がありますので」と言われていたが,まだ出発しそうにないので,とりあえず店内をうろつく。土産屋では貝殻を使ったアクセサリーとか,黒真珠のネックレスとか,はたまた舟浮出身のシンガー・池田卓氏のCDなど,全般的に小物類が並んでいる中で,またもここで見てしまった『西表炭坑写真集』(第3回および「参考文献一覧」参照)。値段は2500円+税。うーん,ツアーに参加しないならば用はなかったものだが,これから旅行記で内離島の炭坑のことを書くわけだし(って,すでに書いているが…),後で改めて時間ができたら買うことにしよう。
ついでに,レストランのほうも見ておく。ウッディなテーブルとイスが10基ほどある。テーブルの上には名札が置かれてあったが,手前のほうでは私の名前が見当たらない。はて,もしかしたら…と心配するまでもなく,一番奥の壁際の席に私の名前が書かれた紙が置かれてあった。隣には別の男性の名前。どうやら,1人旅の男性と相席になるようだ。
――さあ,ぼちぼち外に出ることにする。トイレを済ませた子どもたちも集まってきた。再びムワッとした空気。施設の冷房設定とは,多分10℃近く違うかもしれない。田中さんも出てきて,さらには白浜からここ舟浮までは観なかった,制服を着た70歳ぐらいの小太りの男性も出てきた。これからの見学に同席するような雰囲気である。
そして,各人に赤い懐中電灯が配られる。はて,暗いところを歩いていくのだろうか。「メインストリートです」と田中さんに言われた道は,護岸沿いに伸びる狭いジャリ道だ。軽自動車が通れる程度の幅しかない。あらためて「ハイ,ここが舟浮集落のメインストリートですねー」と田中さんに言われ,我々一行はそのメインストリートを集落とは逆の方向に進んでいくことになった。(第6回につづく)

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